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第128回 私のクルマ人生における忘れがたき人々 ポール・フレールさん
2021.6.30

ポール・フレールさん(以下PFさん)は、私のクルマ人生の中で最も忘れがたきお一人だ。以下は第104回車評オンラインでご紹介した『伝記 ポール・フレール』の原作者セルジュ・デュボア氏の依頼をうけて書かせていただいた小生の「ポール・フレール氏をしのぶ」の原稿を一部修正、加筆したものだ。英文版『伝記 ポール・フレール』は2014年に欧州で出版されたが、PFさんとご縁のあった熊本の医師 宮野滋さんのなみなみならぬご尽力で日本語訳が完成、2019年にグランプリ出版から出版されているので、ご関心のある方は是非お求めになることをお勧めしたい。

https://www.mikipress.com/m-base-archive/2019/06/104.html

PFさんは1917年フランス生まれのベルギー人で、若くしてレースの世界に足を踏み入れるとともに、1945年にジャーナリストとしてのキャリア―も開始、1960年のル・マン優勝を機にヘルメット脱ぎ、91歳までジャーナリストの世界で活躍を続けられた。米国の「ロード&トラック」、日本の「カーグラフィック」誌などに永年貢献、21年間にわたり「欧州カーオブザイヤー」委員長、更には世界自動車ジャーナリスト連盟会長も務められたが、2008年2月91歳で他界された。心からご冥福をお祈りしたい。

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写真の説明
左上:1976年に来社いただいたときのマツダの迎賓館における松田耕平社長も交えての歓迎夕食会
右上:1983年前輪駆動の626のテストの際、ニース近郊ヴァンスのPFさんのご自宅で
中央:1989年にシシリー島のタルガ・フロリオで(後述)
左下:1989年に来社いただいた時にFD RX-7の軽量化作戦をご紹介
右下:2000年にロード&トラック誌の企画で三次試験場にこられたときに貴島さんも交えて

マツダとPFさんの出会い
PFさんが初めてマツダに来られたのは1971年、ロータリーエンジン(RE)に興味を持たれていたため山本健一さんとの面談を目的に来社されたとのこと。私がはじめてPFさんにお会いしたのは1976年、4年間のアメリカにおける技術駐在から帰国直後、後日つま恋村のガス爆発で逝去された故田窪昌司さんに海外広報への移籍を勧められ、最初の仕事として、山口京一さんのおすすめをうけてご夫妻を広島にお招きした時だ。当時のマツダは、第一次オイルショックと、北米市場における米国環境庁(EPA)によるロータリエンジン(RE)車の燃費問題などに起因した販売台数の激減により経営危機に直面、欧州市場の拡大も視野に入れた後輪駆動の初代323の開発が山場を迎えていた。PFさんからは、開発中の後輪駆動323、さらには欧州市場に対する貴重なご意見をいただくとともに、三次試験場における目も覚めるような運転技術に関係者一同が頭を下げた。ちなみに海外市場向けの初代323のフロントグリルが水平基調のものとなったのはスザンヌ夫人のご意見を反映したからだ。

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1989年にビッグマイナーチェンジした2代目FC RX-7を、1906年から開始されたシシリー島タルガフロリオレースの拠点に持ち込み、PFさん、PFさんにご紹介いただいたニノ・バカレラさん(スポーツカーチャンピオンシップ時代に1965年フェラーリ、1971年と1975年にアルファロメオで優勝したシシリー島の英雄)、そして日本から参加いただいた山口京一さんにピッコロ・マドニエサーキットで試乗いただいた。

マツダにとってかけがえのない恩人
スザンヌ夫人の体調が長距離旅行に適さないようになるまでは毎年のようにご夫妻で来日いただき、後輪駆動626、前輪駆動323、前輪駆動626、2代、3代目RX-7など開発中の多くのモデルに対する貴重なご意見をいただくことができ、一方でPFさんが開発段階における欧州現地テストの大切さを繰り返し主張されたことを受けて、マツダはいくつものテストチームを欧州に派遣、南仏の厳しい山間路はもちろん、ニュルブルクリンクサーキットにおけるテストなども含めて数多く参画いただくことができた。

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開発技術者を対象にして開催いただいたドライビングスクール

1980年代初期からはマツダとアドバイザー契約を結んでいただき、開発技術者を対象にしたドライビングスクールも開催していただいた。三次試験場のグローバルサーキットの一部はPFさんご推奨の南仏の山間路を再現したものだ。開発過程にあった各種モデルに対するPFさんのご提言はいずれも率直かつ説得力のあるもので、欧州の走行条件における動的特性の面でマツダが日本車の中で際立つものとなるとともに、その後マツダが標榜し続けている"Zoom-Zoom"(運転することの楽しさ)はPFさんからのアドバイスがその原点となっていると言っても過言ではない。また日本メーカー中ではホンダとも親密な関係を保たれてきた。

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これはPFさん来社時のスケジュールや、PFさんと小生の間で交換されたレターなどのファイルで、一番上の2007年3月7日のPFさんからのレターが最後のものとなった。

家族ぐるみのお付き合い
幸いなことにPFさんの招聘プログラムにはすべて私が関与、ご夫妻の来日の折には広島に加え各地の史跡にもご案内し、お二人そろって大変お好きだった各種日本料理も随所で味わっていただいた。ニース近郊ヴァンスにあったご自宅にも何度かお邪魔し、時には日本食をおつくりしご夫妻に喜んでいただけたのは忘れられない。私の家族もいろいろなチャンスにお会いすることができたが、2005年、ミシュランフォーラムで来日された折に横浜周辺をご案内したあと、都内で家内&娘も交えて夕食をご一緒することができたのが、PFさんとの最後の出会いとなった。娘が初めてPFご夫妻にお会いしたのは2歳の時だが、この時娘はすでに結婚していた。

突出したクルマと人に対するやさしさ
PFさんとの度重なるイベントを通じて心酔したのは、ジェントルマンシップ、人に対する思いやり、フェアーで毅然とした態度、クルマと技術に対する卓越した見識、素晴らしいドライビングスキルなどだ。過酷な条件下での信じられない速さに対比して、ステアリング、スロットル、ブレーキをあたかも女性をいたわるかのように優しく操る様子が実に印象的で、一歩でも近づきたいと願ってきたが、目標ははるかかなただ。

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PFさんとスザンヌさんの出会い
PFさんの2度目の奥様となられたスザンヌさんとの初めての出会いはミレミリアレースだったとのこと。1953年のミレミリア公道レースにクライスラーサラトガで出場したPFさんが、プラクティス中に踏切で止まったところ、そのクルマの前に同じくプラクティス中のCタイプジャガーが止まっていて、助手席に座っていた人のヘルメットの下から金髪が垂れていたのをPFさんは見逃さなかった。しかし、その時はこの女性が後日PFさんの生涯にとって大切な人になるとは思われなかったという。誰かからどこでスザンヌさんと初めてあったのかと聞かれると「踏切であったんんですよ」と答えられたという。また当時のスザンヌさんは、全くおそれをしらない、非常に優秀なドライバーでもあったとのこと、私も何回かニース近郊でスザンヌ夫人の運転する車に乗せていただいたが、そのスムーズで非常に速い走りに脱帽したことを今でも忘れられない。

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1960年に優勝されたときのゴールの瞬間と順位表

PFさんとル・マン24時間レース
1948年からはレースにも参戦、スパの生産車レースでは11回も勝利を手中に収められるとともに1953年にル・マン24時間レースへの挑戦を開始、1955年アストンマーチンで総合2位、1957年にジャガーで総合4位、1958年にポルシェで総合4位、1959年にアストンマーチンで総合2位、1960年についにフェラーリで総合優勝をかざるなど素晴らしい実績を重ねてこられ、前述のように1960年のル・マン優勝を機にヘルメット脱ぎ、91歳までジャーナリストの世界で活躍を続けられた。

ある時PFさんが「今身に着けている時計は、私とル・マンのお付き合いの50周年を記念してACO(ル・マン24時間レースのオーガナイザー)から贈られたものだ。」といって見せていただいたことがある。マツダが参戦しているときには必ずマツダのテントやパドックを訪ねてくださるととともに、みそ汁を大変喜んでくださった。1991年のレースの折には深夜にダンロップブリッジに通じるプレス専用通路をPFさんにご案内いただき、順位を上げてきたマツダ787Bを身近に確認するとともに、優勝したおりには心からの祝福をいただいた。PFさんが書かれた"My Life Full of Cars"の表紙でフェラーリのハンドルを握るPFさんが着ておられるのは1991年のマツダチームのジャケットだ。

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1992年2月にポールリカール サーキットで行われた「「おじいちゃんはまだ若くて75歳ではない」イベント、このページは「伝記 ポール・フレール」のユーグ・ド・シャーナック氏の回想のページ

ささやかな恩返し
マツダがル・マンに優勝した1991年の暮れにPFさんから「1992年1月末に75歳を迎えるが、ポールリカール サーキットで、マツダのル・マンカーの助手席に孫たちを乗せて走ることはできないだろうか?」というお電話をいただいた。787Bは2台とも日本にもち帰っていたが、ラッキーにもマツダのル・マン挑戦で大変お世話になったORECAに787が1台残っていたので、早速ORECAのHugues de Chaunac社長に電話を入れたところ、「PFさんのためなら無償で全面協力する」との即答を得ることができた。

1992年2月初めにポールリカール サーキットで「おじいちゃんはまだ若くて75歳ではない」イベントが開催され、17名のお孫さんやご親戚の方を787に装着した助手席に乗せて69ラップも周回、最後にはお一人でタイムアタックし、現役ドライバーの2~3秒落ちのラップタイムで回られたという。私は3代目RX-7の市場導入で時間がさけず残念ながら参画できなかったが、このお誕生日プレゼントを亡くなる直前まで非常に喜んでおられたということを後日奥様のスザンヌさんにお聞きした。

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2000年10月、三次試験場で優勝車(787B 55号車)のハンドルを握られた折の写真。PFさんと懇意にされてきた貴島孝雄さんにも同席いただいた。

787Bの試乗
PF氏によるマツダのル・マンカーの試乗はこれが最後ではない。Road & Track誌の企画として2000年10月に三次試験場で優勝した787B 55号車のハンドルを握られ、2001年8月にはカリフォルニアのラグナセカサーキットで行われた優勝10周年イベントで、同じく55号車のハンドルを握られたが、84歳とは全く思えない素晴らしい走りを見せていただいたのが今でも忘れられない。

スザンヌさんもPFさんの数年後に逝去されており、心よりお二人のご冥福をお祈りしたい

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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