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第89回 安らかにおやすみ下さい 山本健一様(その3)
2018.3.27

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初代RX-7の誕生
マツダは1970年代中半の経営危機の引き金になったREを断念せずに、燃費の大幅改善とREでしか実現出来ないスポーツカー初代RX-7の開発を決断するが、いかにして初代RX-7が生まれてきたか、まずは当時の研究開発副本部長兼設計部長(のちに会長)の渡辺守之さんの著書"車づくりの光と影"の引用から始めたい。

『1974年、オイルクライシスの打撃で会社が破滅の淵にあった時、私はそれまでの設計部長兼務のまま、開発部門の責任者に任命された。そういった苦しい時期であったが、一方では明るい仕事も目の前にひらけていった。翌年の初め頃、アメリカのスポーツカーマーケットの調査チームが帰ってきた。さっそく開発部門の主なメンバーが集まって報告会が開かれた。報告は非常にエキサイティングなもので、「アメリカのスポーツカーマーケットは前途洋々たるものがある。半数以上は女性ユーザーであるが、彼女たちは現在フィアットX1/9、トライアンフTR7、日本のスペシャルティーカーなどで我慢している。夢はポルシェである。それは彼女たちを美しく見せ、自己を演出させてくれるからである。今は値段ゆえに高嶺の花である。ポルシェを超えるクルマを安価に作れたら、需要は無限にある。」というものであった。ロータリーエンジン搭載のスポーツカーのプランは、それまでにも出ては消えていた。エンジン自体の問題と、経営上の問題がその理由であったが、幸いエンジンの改良にメドがたち、マーケット調査は、経営の前途に希望を与え、やがてこのプランにゴーサインが出た。』

住友銀行からマツダに1974年10月に派遣された花岡さん(のちに常務)は輸出本部長に就任すると何回もアメリカに飛ぶが、その結果としての「アメリカ人はロータリーエンジンの良さを生かした本格的なスポーツカーの登場を待ち望んでいる。資金は何とかするから、新型のスポーツカーを開発してほしい。」という思いもあり、ゴーサインがでた。このあたりを山本健一さんは以下のように振り返っておられる。『RX-7計画は、➀REの開発、生産の継続、➁REの車における存在証明の樹立への挑戦、➂米国から撤退せず社会的責任を果たすという3点に対する経営の意思表示であった。まさに画期的かつ戦略的な新車計画であった。そしてRX-7は以上の➀、➁、➂を実現するために、もはや失敗を許されぬ戦略的使命を帯びていた。 諸般の情勢から判断して、当時マツダ担当であった住友銀行・巽常務と、マツダに出向された花岡さんのREへの理解と協力がなかったら、RX-7の企画はあり得なかったと私は思っている。』

1970年代中半、国内では不要不急のモデルチェンジ、マイナーチェンジの自粛、スポーツカーに対する厳しい風潮、社会的妥当性を求められたようで、国内認証への対応などもあり、対米仕様は2シーター、国内向けは2+2にすることも決定された。また初代RX-7の開発にあたっては2年以内の導入と、4,000ドル以下の価格(当時の為替レートは$1=280円~300円で、フェアレディ―Zの価格も3,000ドル台だった。)を当初の目標とし、加えてスポーツカーらしい魅力的なスタイリング、快適なコックピット、高い実用性、スポーツカーらしい動力性能と操縦安定性、省資源などを目標としたプランが動き出す。原型となるレイアウトはすでに1970年ごろに検討されたものがあったが、開発陣は改めて駆動方式に対する検討を行い、フロントミッドシップエンジンのFR方式を選定、同時に50:50の前後重量配分、40%の燃費改善を目指した。

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各種のデザインプロポーザル

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REの特徴を最大限活用したフロントミッドシップレイアウト

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初代RX-7に対する山本さんの思い
開発の過程は三樹書房が出版した「Mazda RX-7 (ロータリーエンジンスポーツカーの開発物語)」をお読みいただければ幸いだが、RX-7に関して山本健一さんは回想録に以下のように記述されている。『RX-7は死んだかに見えたREに関して不死鳥として巻き返しをはかる戦略車種であった。RX-7の米国市場での成否は、米国でのマツダの評価に大きな影響をもつだけでなく、それが自動車の歴史の中の革新的技術であっただけに、取り組んだマツダの社会的存在意義さえも左右すると考えられた。さらにその失敗は、REという技術そのものを歴史から抹殺することになるから、単にマツダという一企業の問題以上のものを意味した。私は当時RE開発の責任者であったから、立場上もRX-7の成否に職を賭けねばならなかった。私はまずRX-7の導入に先んじて、1978年3月、デトロイトで開催される恒例のSAE(自動車技術会)大会で、改善されたREの技術と将来の展望について発表することにした。そしてRX-7を成功させるためには、事前にマスメディアの理解を得ることが必須であると考えた。』

『当時マツダが米国で契約していた広報会社はヒル&ノートン社である。私はトム・エディソン副社長に協力を要請した。彼はSAE大会での発表前に、その技術内容とRX-7の写真をマスメディアに紹介することを提案した。私は彼とまずロサンゼルスタイムズ紙を訪問して担当記者に会い、ついでデトロイトに移動後はホテルにUPI通信とデトロイトにあるプレス数社の記者を(個別に)招いた。こうしてSAE大会で発表予定の燃費改善の技術資料の内容と、その改善されたエンジンを搭載した新車RX-7の写真、性能、特色を細かく説明した。また技術資料だけでなく、REという革新技術に挑戦する開発責任者の情熱、使命感、哲学について熱く説いた。その後全米37紙に私の述べた内容が好意的に報道され、RX-7は発売前から予約が殺到する状態となった。私の情熱が米国プレスの「判官びいき」をゆさぶったのかも知れない。』

『当時米国はライトウェイトスポーツカーの市場だったが、販売台数のトップが、ポルシェ924であったため、RX-7の目標ライバルは当然ポルシェ924であった。RX-7とポルシェ924は大きさも性能も似たようなクラスであったが、導入時のRX-7の小売価格が6,395ドルであったのに対して(小早川注:企画当初の為替レートに比べてかなり円高が進んで$1=180~200円となっていたためこのような価格になった。)ポルシェ924は16,800ドルであったから、バリューフォーマネーの点で最初から勝負がついていたといってよい。RX-7の販売台数は、1978年は19,300台であったのが、逐次上昇して1983年には51,000台となったのに対して、ポルシェ924は78年15,000台であったのが減少し、1983年には76台、1984年には遂に米国市場から消えた。その一方では、REの特許権を持つライセンサーとして君臨したNSUは、業績不振の結果、1969年8月フォルクスワーゲンの傘下に入ってしまい、RE開発への情熱を失っていた。ポルシェ924はポルシェのアウディNSUへの委託生産契約によって、アウディNSUのネッカーズルム工場で製造されていたクルマであった。ライセンシーであったマツダが造ったRE車のために、唯一の対米輸出車を失った旧NSUのREエンジニア―の思いは複雑だった筈である。』

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広島&三次で開催したLLPの一場面

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サンフランシスコ周辺で開催したプレスイベントの一場面

初代RX-7の市場導入当時海外広報担当だった私も、積極的に広報活動を展開した。山本さんが述べられているアメリカの広報会社ヒル&ノートン社との契約にも関わるとともに、当時アメリカにマツダから広報責任者として駐在していた鈴木文三さん、トム・エディソン副社長の協力を得て、アメリカの自動車専門誌を対象としたロングリード・プレス・プリビュー(LLP:発行までに時間のかかる雑誌を対象に、発表数か月前に新型車の情報を開示し試乗会も行い、発売時に紹介記事を公表できるようにするもので、日本のメーカーでは稀有なイベントだった)を1978年3月に広島&三次で開催した。自動車専門誌は初代RX-7の導入に合わせて多岐にわたる素晴らしい紹介記事を書いてくれるとともに、導入時にはサンフランシスコ周辺で一般プレスむけの試乗イベントを開催し、多くのメディアからRX-7が称賛されたことは忘れられない。

1976年に4万台強まで急降下したアメリカにおけるマツダ車の販売台数はRX-7導入の翌年(1979年)には165,000台に急速に拡大、初代RX-7の累計生産台数も47万台(そのうちアメリカでの販売が約38万台)を記録、アメリカ市場の回復はもとよりマツダの経営再建の大きな原動力となったことを山本さんが誰よりも喜ばれたことは間違いないだろう。

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デイトナ24時間レースでGTUクラス優勝

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RX-7が全米のモータースポーツ界に急速に浸透

アメリカのモータースポーツ領域でも大活躍
今回の結びに初代RX-7がモータースポーツの領域で果たした役割にも一言触れておきたい。米国市場導入1年前の1977年にアメリカで行った市場調査に私も参画、IMSAレースを観戦するとともにレースの責任者にも会い、モータースポーツの大切さを痛感してIMSAシリーズへの参画をリコメンドした。1978年にはマツダオート東京がデイトナ24時間レースに2台のサバンナRX-3で出場するも良い結果は得られなかったが、翌年の1979年にはRX-7で出場、GTUクラス(2.5L以下のクラス)で1位、2位、総合でも5位、6位を獲得、これが引き金となってRX-7によるレース参戦は急速に拡大した。デイトナ24時間レースでは1993年までに12年間勝利を独占、1995年までにIMSAシリーズで117勝という前人未踏の記録も打ち立てREのモータースポーツ領域における不動の地位も確立した。

このように、初代RX-7はREの失地回復に大きく貢献、2代目、3代目RX-7へも引き継がれるとともに、2003年には、山本さんの薫陶を受け、あるいは志を引き継いだ技術者達の飽くなき挑戦が実を結び、RENESISという21世紀をふまえた新型REを搭載したRX-8が誕生、RE車の累計生産台数は200万台近くになった。2012年以降RE車は生産されてはいないが、将来に向けての「飽くなき挑戦」は間違いなく続いているようで、遠からず次世代RE/RE車の姿が見えてくるものと確信している。今回は以上のように初代RX-7に焦点を合わせたお話とし、次回はもう一回、ルマンでの勝利に対する山本さんの思いも交えたお話をお伝えしてこの連載を完結したい。

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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車評 軽自動車編
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