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第88回 やすらかにおやすみください。山本健一様(その2)
2018.2.27


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夢の米国市場進出
ロータリーエンジン(RE)へのハードルは(その1)で述べたことにとどまらなかった。松田恒次社長の夢でもあったアメリカ市場への進出に際し立ちはだかったのがロサンゼルスの光化学スモッグの引き金となった排気ガスに対する規制だ。無鉛ガソリンや触媒などがまだ存在しない環境の中で、マツダは苦心の末に排気ガスの後処理技術を開発、R100(ファミリアロータリークーペ)によるRE車の念願のアメリカ輸出を開始したのは1970年、この排気ガス浄化システムは、排気ポートの後方に断熱性の高いサーマルリアクター(後処理装置)を装着し、排気ポートから排出される排気ガスに、エアーポンプからの2次エアーを吹き込むことにより未燃のHC、COを完全燃焼させるというシステムだった。

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アメリカ市場での快進撃
1970年5月にアメリカ北西海岸、9月からは東海岸でアメリカでの販売を開始したマツダだが、松田恒次社長はその後のマツダをみとどけることなく同年11月逝去された。1970年12月にはロサンゼルスに全米を統括するMazda Motors of America(MMA)が設立され、R100に続きRX-2(カペラロータリー)、RX-3(サバンナロータリー)、RX-4(ルーチェロータリー)などのRE車を主体に1971年5月から次々にアメリカ市場に導入、破竹の勢いで販売を伸ばすことになる。REを搭載したピックアップはアメリカ市場専用だ。森川初代MMA社長のもとで販売の実質的な推進役を果たしたのはクライスラーから転職したジェネラルマネージャー、ディック・ブラウン氏だが、開設当初にMMAを訪れた山本さんが社員集会でのブラウン氏の情熱にあふれたスピーチと、彼らが胸につけていた「Mazda's making HISTORY」というバッチに感動され、帰国後RE研究部の全員を集めて『太平洋の向こうで、アメリカ人がお客様のために売るRE車に誇りと情熱をもってくれている。我々は一層REの技術を磨き、市場で不具合が起きれば即刻対応して彼らの信頼と期待に応えねばならない。それが我々の使命だ』と語られている。

1970年代前半のマツダ車のアメリカ市場における販売台数の推移を振り返ってみると
1970年: 2,098台、1971年:20,470台、1972年: 57,851台、1973年:119,004台と目覚ましい上昇を続け、その大半がRE車だった。このような急成長を遂げた背景には当時のアメリカではガソリンは1ガロン当たり27~28セントと飲料水とあまり変わらないほど安価であったことも挙げられる。決して燃費が良いとは言えない大排気量のV8エンジンのアメ車が闊歩していたが、当時のRE車はコンパクトながらそれらを上回るような性能を発揮、多くのクルマファンの心を捉えたからだ。

マスキー法
そこに登場したのがマスキー法だ。(エドムンド・マスキー上院議員が提案した非常に厳しい排気ガス規制)山本さんの回想録によると、『あるときブラウン氏から国際電話がかかってきた。"山本さん、1975年目標の排気ガス規制マスキー法案にすべての大手自動車会社は技術的に対応不可能だと難色を示している。REこそこの将来の社会的課題に挑戦してその可能性を実証してほしい。" というブラウン氏の希望を聞いた私は、何としても米国の販売の人々の期待に応えたいと決意を固め、早速マスキー法対策特別チームを編成して挑戦を指示した。この特別チームの全力を投入した努力によってマスキー法の規制値をクリアーする試作車が完成、1973年2月ミシガン州アンナーバーにあるEPA(環境庁)試験所に持ち込んでテストに合格した。』

山本さんの回想は続く。『同月私とMMAのブラウン氏は上院議員マスキー氏にワシントンに呼ばれて彼のヒアリングに応じた。さらに3月には公聴会に招待されたが、この公聴会でマスキー法への対応の可能性を証言したのはマツダのRE、ホンダのCVCC、メルセデスベンツのディーゼルエンジンだけで、その他の会社の代表者はすべて技術的困難性を主張した。後から考えてみると、その公聴会におけるEPA担当官連中の各社公述人に対するREに関する質問は全く策謀的であったように思う。EPA側の質問はマツダをスケープゴートに利用して他社の怠慢さを立証するかのように思え、中でも(当時REの開発を行っていたがマスキー法に反対していた)GMへの質問は、"なぜ貴社のREはマスキー法をクリアーできないのだ? マツダのエンジンを買って調査したことがあるか? マツダに技術情報を求めたことはないのか?" などというもので、大手自動車会社の代表にとってまさに屈辱以外の何ものでもなく、これは困ったことになったものだと私は思った。』

マスキー法には"ビッグスリー"(GM、フォード、クライスラー)からの反発も激しく、実施延期、規制値修正など紆余曲折の道をたどり、実質的に当初提案された基準に達したのは1995年であった。

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第1次エネルギー危機とEPAの燃費値公表
一方でその年(1973年)の暮れ、第一次エネルギー危機が発生し、燃料価格が一気に3倍近く高騰、GMはRE車の生産延期を発表した。マツダはEPAが突然発表したユーザーの実態とは大きくかけ離れた燃費値が引き金となり販売台数の急激なダウンと、それに起因した経営危機に直面することになるが、EPAが発表した燃費値とは排ガス規制のために準備されたLA4モードというロサンゼルスの市街地走行を摸した低速モードによる燃費値で、RE車は1ガロン当たり10マイル台(4.5km/L前後)という、RX-2やRX-3などのユーザーの燃費(7~7.5km/L)と大幅にかけ離れたものであった。

これに対してブラウン氏がEPAに真正面から立ち向かおうとしていた。若造の私ではあったが彼の自宅まで行って、EPAに対してもっとうまく立ち向かえないのかという議論をした時に、彼は「アメリカには"Fight with the City Hall" という言葉がある。理不尽なことをいう公の機関に対しては真正面から戦うのがアメリカの正義だ」といったのが忘れられない。日本から出てきた新参者(マツダ)に戦いを挑まれたEPAは繰り返しメディアに対してREの燃費の悪さを訴え、"Rotary engine is a gas guzzler"(REはガソリンをがぶ飲みするエンジン)という報道が全米にまん延、マツダ車の販売は急速にダウン、在庫が山となりアメリカ市場からの撤退すらうわさされた。

ここで再び山本さんの回想録を引用しよう。『ブラウン氏とEPAの間が険悪化したため、私は急遽米国へ飛び、新しく燃費テストの試験方法を確立すべきだとEPAと交渉した結果、現在に及ぶ正式な燃費テスト方法が確立された。しかし時すでに遅く、マツダが受けた打撃は余りにも深刻であった。販売成績の低下はディック・ブラウン氏を退職に追いやり、彼は1975年1月にマツダを去った。』

経営危機への発展
ちなみに1973年に12万台近い年間販売台数を誇ったアメリカにおけるマツダ車の販売は、1974年:70,415台、1975年:69,695台、1976年:41,212台と急降下、東洋工業は1975年10月には173億円の経常損失を計上、1975年3月には大阪支社、4月には東京支社の土地社屋を売却、更には1975年1月から始まった販売店への社員の出向は1982年まで続き、その数は延べ12,000人を超えた。このころのことを山本さんは以下のように述べられている。『1974年から1976年にかけての経営環境には、REのマツダにおける存続と、RE研究部の存続を疑わしめるほどのものがあった。REがマツダの経営危機を招いたとの思惑は、当然私とRE研究部員を批判に晒し、白眼視の対象となり、社内には米国からRE車は撤退すべしとの声が高かった。』

幸いにも住友銀行からマツダに派遣された花岡常務の「アメリカ人はロータリーエンジンの良さを生かした本格的なスポーツカーの登場を待ち望んでいる。資金は何とかするから、新型のスポーツカーを開発してほしい。」という思いもあり、大幅な燃費改善と初代RX-7の開発につながってゆくが、このあたりは次回の(その3)でカバーしたい。

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デスバレーでの酷暑テスト

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カナダのウィニペグでのテスト

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IRVINEに完成した駐在員事務所(右の建物)

私とアメリカ市場の関り
今回の最後に一言私とアメリカ市場の関りについてご説明しておこう。1971年5月に社内の開発部門、製造部門、品質部門などからの5名のメンバーの一人として約1か月現地を訪問し市場調査を行うとともに、1972年早々に技術駐在員として(当初は私一人で)現地に送り込まれた。まずはMMA内に事務所を借り、市場不具合や技術課題のフォローと、カリフォルニアの環境庁(ARB)の動向の把握を行うことになったが、半年後には仁熊駐在員事務所長が着任され一緒に事務所の建設場所のロケハンを行い、ロスの南のIRVINEに決定、1974年春駐在員事務所が完成した。

当時たまたま渡米された光成実験研究部長に実研部員の駐在員制度を提言したところ即断され、以来実研駐在員や本社からのテストチームを引き連れて最高気温が摂氏50度にもなる真夏のデスバレーや40度を超えるラスベガス市街地での述べ10回を超えるテスト、日本のガソリンとは成分が異なる独特の冬用燃料と、日本ではまずない標高3000mを超える高地にも起因したキャブレターのパーコレーション問題のテストのために何度もロッキー山系まで出向き、冬季には摂氏-30度を下回るカナダのウィニペグでのウィンターテストなどは忘れることができない。このようなアメリカ市場独特の条件下での技術課題には遭遇したものの、RE車の人気はEPAの燃費値公表までは急上昇していったが、その後前述のように急速にダウン、私の日本への帰任はまさにどん底の1976年5月となった。帰国直前に訪れたロングビーチの港に信じられないほど多数のマツダ車の在庫があったことが今でも忘れられない。(以下次回に続く)

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執筆者プロフィール

1941年(昭和16年)東京生まれ。東洋工業(現マツダ)入社後、8年間ロータリーエンジンの開発に携わる。1970年代は米国に駐在し、輸出を開始したロータリー車の技術課題の解決にあたる。帰国後は海外広報、RX-7担当主査として2代目RX-7の育成と3代目の開発を担当する傍らモータースポーツ業務を兼務し、1991年のルマン優勝を達成。その後、広報、デザイン部門統括を経て、北米マツダ デザイン・商品開発担当副社長を務める。退職後はモータージャーナリストに。共著に『マツダRX-7』『車評50』『車評 軽自動車編』、編者として『マツダ/ユーノスロードスター』、『ポルシェ911 空冷ナローボディーの時代 1963-1973』(いずれも三樹書房)では翻訳と監修を担当。そのほか寄稿多数。また2008年より三樹書房ホームページ上で「車評オンライン」を執筆。

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車評 軽自動車編
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