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第112回 戦後のアストンマーティンのロードカー、DB1~DB MarkIII
2021.12.06

 今回は英国のアストンマーティンについて、戦後初期のDB1(2 Litre Sports)からDB MarkIII(DB2-4 Mark III)のカタログを紹介する。
 アストンマーティンの歴史はモータースポーツを愛する青年ライオネル・マーティン(Lionel Martin)と、その相棒リチャード・バムフォード(Richard Bamford)が、1913年に英国のサウスケンシントンに「バムフォード&マーティン社(Bamford & Martin Ltd.)」を創立したことから始まった。マーティンの一族は、コーンウォールの錫鉱山とリンカンシャーの石切り場を所有する資産家であったが、ライオネルの興味はもっぱらモータースポーツと、そのクルマ造りであった。
 アストンマーティンの名前は、ライオネルが活躍していたヒルクライムコースの地名、アストン・クリントン(Aston Clinton)と自身の名前を合わせて命名したものであった。
 バムフォード&マーティン社の財務状況は常に厳しかったが、アストンマーティンの魅力に惹かれた救世主が常に現れて持ちこたえていた。しかし、1924年に有力な救世主の事故死によって、1925年末に倒産してしまった。だが、この時も「Renwick & Bertelli Ltd.」のレンウィックとA.C.ベルテッリという救世主が現れ、1926年10月に「Aston Martin Motors Ltd.」がミドルセックス州フェルサム(Feltham Middlesex)に設立された。
 その後も救世主は変わり、第二次世界大戦終了時にはサー・アーサー・サザーランド(Sir Arthur Sutherland)とエンジニアのクロード・ヒル(Claude Hill)が経営していたが、財政的にひっ迫しており、そこに援助の手を差し伸べたのがデビッド・ブラウン(David Brown)であった。彼は、ファーガソンの特許を用いて、初めてすべて英国製のトラクターを造ったことで有名になったほか、トランスミッションなど歯車の製造会社を所有する実業家であった。

◆ 2リッター・スポーツ(DB1)(1948年9月~1950年5月)

 戦後発売された最初のアストンマーティンで、発売時のモデル名は「2リッター・スポーツ」で、「DB1」は「DB2」が登場した際にあとからつけられたモデル名であった。DB1は1939年にクロード・ヒルの設計で製作され、戦時中にもテストを継続していた「アトム(Atom)」と呼ばれていた4ドアサルーンの試作車をベースに開発された。1948年秋に開催されたロンドンモーターショーで公開された。生産台数は少なくわずか15台。

 角断面鋼管によるフレームに、フロントはトレーリングアーム+コイルスプリングによる独立懸架、リアはコイル+リジッドアクスル。エンジンは1970cc直列4気筒OHV90hp/4750rpmにデビッド・ブラウン社製4速MT(1速はシンクロ無し)を積む。トランスミッションのギア比は追加料金を払えば変更可能であった。サイズはホイールベース2743mm、全長4470mm、全幅1715mm、全高1410mm、トレッド前後とも1372mm、乾燥重量1143kg。

 アストンマーティンのレース参戦記録だが、中央の写真は、デビッド・ブラウンの要請で製作された純スポーツモデルで、1948年に戦後初の長距離レース、ベルギーで開催されたスパ24時間レースに参戦し、優勝したシーンである。

 裏表紙にはASTON MARTIN LTD.の社名とFELTHAM MIDDLESEXの住所が載っている。

◆ DB2(1950年5月~1953年4月)

 デビッド・ブラウンがアストンマーティンを買収した後、高級車メーカーのラゴンダ社(Lagonda Ltd.)が財 政難から、デビッド・ブラウンに救済を求めてきた。当時、ラゴンダ社にはベントレーの創設者で技術者のW.O.ベントレー(W.O. Bentley)がおり、彼の設計による6気筒DOHCエンジンが、資金さえあればすぐに生産できる状態にあった。デビッド・ブラウンはこのエンジンをアストンマーティンに積もうと考え、ラゴンダ社を買収した。このエンジンを積んで登場したのが「アストンマーティンDB2」。生産台数は411台で、内102台がドロップヘッドクーペであった。

 ゼッケン19を付けたDB2は1950年ル・マンで総合5位、3リッター・クラス優勝と2位を獲得。この時のチームマネージャーは1950年に契約したジョン・ワイヤー(John Wyer)であった。1950年ツーリストトロフィーでも3リッター・クラス優勝と2位、3位を獲得している。

 上の2点はDB2サルーン。これはごく初期のモデルで、途中からフロントグリルはDB2-4と同じようなデザインに変更されている。シフトレバーはフロアシフトあるいはコラムシフトが選択できた。

 上の2点はドロップヘッドクーペ。

 ボンネットとフロントフェンダーは一体で、前ヒンジで開く。フロントホイールの後方にバッテリーとパンタグラフ式ジャッキが確認できる。スペアタイヤは後部の燃料タンク上部の密閉したスペースに納まる。トランクリッドは無く、荷物の出し入れはドアを開け、シートを倒して行う。

 DB1と同様、角断面鋼管フレームにアルミパネルを張ってボディーは構成される。サスペンションはフロントがトレーリングアーム+コイルスプリングによる独立懸架で、アームの支点はオイルが満たされたクロスメンバー内にニードルローラーベアリングに支持されたアンチロール・トーションバーに固定されている。リアはパラレルラジアスアームとパナールロッドに支持されたリジッドアクスル+コイルスプリング。2580cc直列6気筒DOHC 105hp/5000rpmエンジン+デビッド・ブラウン社製4速MT(1速はシンクロ無し)を積む。オプションで「バンティッジ(The Vantage)」仕様の高圧縮比型120hp/5000rpmエンジンとクロースレシオのレーシングタイプのトランスミッションも用意されていた。ファイナルドライブのギア比も4種類設定されており、トランスミッション2種類とあわせて、8とおりの選択が可能であった。サイズはホイールベース2515mm(DB1より228mm短い)、全長4128mm(DB1より342mm短い)、全幅1651mm(DB1より64mm狭い)、全高1359mm(DB1より51mm低い)、トレッド前後とも1372mm(DB1と同じ)。乾燥重量1114kg。

 裏表紙にはASTON MARTIN LTD.の社名とFELTHAM MIDDLESEXの住所が載っている。

 初期のDB2スポーツサルーンのカラーフォルダー。

 上の2点はDB2の後期型スポーツサルーン。初期型とはグリル形状が変更され、フロントフェンダーのルーバー、サイドモールディングが無くなるなど、簡単に識別できる。

◆ DB2-4(1953年10月~1955年10月)

 純粋な2シーターではなく、短い時間でも4人が乗れる2+2の要望が強く、これに応えて登場したのが「アストンマーティンDB2-4」であった。発売当初はDB2にオプション設定されていた、2.5L「バンティッジ」仕様120hpエンジンを積んでいたが、途中から3.0Lエンジンに換装された。ここには3.0Lのカタログを紹介する。生産台数は565台で、内73台がドロップヘッドクーペであった。

 DB2-4スポーツサルーン。フロントウインドシールドが1枚ガラスになり、リアクォーターウインドーが大きくなった。最大の変化は、当時まだ珍しかったハッチバックが採用され、荷物の出し入れが容易になったことであろう。エンジンは2922cc直列6気筒DOHC140hp/5000rpm+デビッド・ブラウン社製4速MT(1速はシンクロ無し)を積む。サイズはホイールベース2515mm(DB2と同じ)、全4305mm(DB2より177mm長い)、全幅1651mm(DB2と同じ)、全高1359mm(DB2と同じ)、トレッド前後とも1372mm(DB2と同じ)。乾燥重量 1202kg。

 DB2-4ドロップヘッドクーペ。リアシートバックを前方に倒すと、トランクルームと一体のフラットなラッゲージスペースが得られる。

「勝利が証明したデビッド・ブラウンの3リッター・エンジン」のコピーを付けて1953年と1954年のアストンマーティンDB3Sの活躍したレースを紹介している。

 社名はTHE DAVID BROWN CORP.(SALES)LTD. ASTON MARTIN DIVISION、住所はFeltham,Middlesexとなっている。デビッド・ブラウンはアストンマーティンとラゴンダを買収したが、デビッド・ブラウン社のディビジョンに編入したのは1951年であった。

◆ DB2-4 MarkII(1955年10月~1957年8 月)

 DB2-4 MarkIIのエンジン、シャシーはDB2-4とほぼ同じだが、全長は51mm長い4356mmとなった。乾燥重量は1179kg。ボンネットの開閉は、DB2-4ではフロントフェンダーごと開いたが、MarkIIではフロントホイールハウス上縁からドアの前端にあるクロームモールディングから上の部分が開く方式に変更された。ボディースタイルはサルーン、ドロップヘッドクーペに加えて、ノッチバックスタイルのフィックスドヘッドクーペが戦列に加わった。
 1954年末にコーチビルダーのティックフォード社(Tickford Ltd.)の全株式をデビッド・ブラウンが取得、それまでドロップヘッドクーペのボディーのみティックフォード社で生産していたが、DB2-4 MarkIIからはすべてのボディーがティックフォード社で生産されることになった。生産台数は199台で、内ドロップヘッドクーペが24台、フィックスドヘッドクーペ34台であった。

 上の4点はDB2-4 MarkIIサルーンのカタログ。

 上の3点はアメリカ市場向けDB2-4 MarkIIのカタログ。最下段のページの左上がドロップヘッドクーペ。右下はフィックスドヘッドクーペ(このカタログにはハードトップと記されている)。

◆ DB2-4 MarkIII(DB MarkIII)(1957年3月~1959年7月)

 戦後のアストンマーティン第一世代とも言える、クロード・ヒル設計のシャシー+W.O.ベントレー設計のエンジン搭載モデルの最終型で、DB2-4 MarkIIIあるいはDB MarkIIIと呼ばれる。ただし、エンジンは1954年にオースチンからスカウトされたポーランド系エンジニア、タデック・マレック(Tadek Marek)によって大規模な改良が施されている。ここに紹介するカタログは初期のもので、最初の100台ほどがこのカタログに適応していると思われる。100台目以降のおもな変更点は、バブル型の小さなテールランプが縦長の大きなものに変更され、オプションであったフロントディスクブレーキが標準装備となった。ボディースタイルはサルーン、ドロップヘッドクーペ、フィックスドヘッドクーペの3種類で、生産台数は合計551台であった。

 DB MarkIIIのフロントグリルはコンペティションモデルのDB3Sにインスパイアされたスマートなものとなった。インストゥルメントパネルのデザインは一新され、ゲージ類はドライバーの眼前のクラスターに集められた。リアクォーターウインドーは開閉可能となっている。初めてフロントブレーキにガーリング製ディスクブレーキがオプション設定され、後に標準装備となっている。サイズはDB2-4 MarkIIとおなじだが、乾燥重量は91kgほど重くなり1270kgであった。

 タデック・マレックの手によって大規模な改良がおこなわれたDB MarkIII用2922cc直列6気筒DOHCエンジン。排気量は変わらないが、シリンダーブロックは新設計され、トップシーティングのウエットライナーが採用され、クランクシャフトも新設計され2.5インチ径の4個のベアリングで支持される。シリンダーヘッドは大径バルブとハイリフトカム、半球形(ヘミ)燃焼室、14mm径のスパークプラグ(従来は10mm径)を持ち、新設計の吸・排気マニフォールド、13⁄4in(44.5mm)径ツインSUキャブレターを装着し、圧縮比8.2:1、シングルエグゾーストで162hp/5500rpm、ツインエグゾーストでは178hp/5500rpmを発生する。オプションの3ウエバー・キャブレター、圧縮比8.6:1,ツインエグゾーストでは195hpを発生、214hpを発生したユニットもあったという。タデック・マレックはその後、アストンマーティンDB4、DB5、DB6、DBS、DBSV8などのエンジン開発を行っている。

 DB2-4 MarkIIIのスペック表。

 これはDB MarkIII後期型で、テールランプが縦型で大きくなっている。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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