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第60回 1947年型アメリカ車 – インデペンデント編
2017.7.30

 前回は1947年型アメリカ車の内、ビッグ3について紹介したが、今回はインデペンデントと呼ばれる独立系メーカーのクルマについて紹介する。ビッグ3同様、ほとんどのメーカーが1946年型のキャリーオーバーで済ましていたのに対し、スチュードベーカーは真っ先にフルモデルチェンジを敢行した。さらに、まったく新しいブランドとしてカイザーとフレーザーが登場している。

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上の表は1947年型のブランド別生産台数とマーケットシェアを示すが、フルモデルチェンジしたスチュードベーカーは8位と健闘している。

●スチュードベーカー

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1946年5月に発表され、6月に発売された1947年型スチュードベーカーのカタログと、表紙を飾るコマンダー・リーガルクーペ(スターライトクーペと称する)の斬新なラップアラウンドリアウインドー。フェンダーがボディーと一体化したスラブサイドを米国の量産車で初めて採用している。デザインは戦前から引き続き、たばこの「ピース」やミツワ石鹸のパッケージデザインで日本でもおなじみのレイモンド・ローウィ事務所が担当したが、責任者に任命されたのは1937年にポンティアックからレイモンド・ローウィ事務所に移籍し、1949年にはクライスラーに移籍して野心的なコンセプトカーを次々と発表したヴァージル・エクスナー(Virgil M. Exner)で、当時スチュードベーカーの社員であり、1940年にエクスナーに認められ、ローウィのチームに加わったボブ・バーク(Robert E. Bourke)が中心となって作業が進められたと言われる。

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あらゆる生活シーンにぴったりですよ。と言わんばかりのラインアップ。右側はチャンピオンシリーズで、ホイールベース112in(2845mm)のシャシーに169.6cid(2779cc)直列6気筒80馬力エンジンを積み、価格は1378~1551ドル、コンバーティブルは1902ドル。左側はコマンダーシリーズで、ホイールベース119in(3023mm)、226.2cid(3707cc)直列6気筒94馬力エンジンを積み、価格は1661~1882ドル、コンバーティブルは2236ドルであった。スターライトクーペとコンバーティブルにはワンピースのフロントウインドシールドが採用され、その他のモデルはツーピースであった。

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これはコマンダーシリーズのランドクルーザーで、ほかのランドクルーザーより4in(102mm)長い123in(3124mm)ホイールベースと、セダンでありながら1枚ガラスのフロントウインドシールドを持つ。価格はコンバーティブルを除くと最も高価で2043ドルであった。

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スチュードベーカー最大の売りは、現代のクルマには当たり前のように備わる、坂道発進でずるずる後退しないための仕掛け「ヒルホルダー」が1938年型から標準あるいはオプション設定されていたことであろう。1947年型でも当然オプション設定されていた。さらに、オートアジャスター付きブレーキ、メーターパネルの照明に軍用機で開発された、防眩効果の高いブラックライトを採用するなど、当時としては先進的な仕掛けが採用されていた。

●パッカード
 パッカードは1941年に1942年型として発売したクリッパーモデルを1947年型まで販売した。

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これは前々回に紹介したパッカードの広告の続きのような広告。戦時中、パッカードでライセンス生産したロールス・ロイス社製マーリンV-1650エンジンに換装したノースアメリカンP-51マスタングが、第2次世界大戦の最優秀戦闘機と評されるほどの完成度を誇り、ヨーロッパ戦線でその優秀さを実感した一人の航空隊の大佐がニューヨークに帰還する飛行機の中で、パッカードのスーパークリッパーを買おうと考えている。そんなシチュエーションの広告。まさに、パッカードの有名なスローガン「Ask the man who owns one」ではなく「Ask the man who flies one」である。

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これも戦時中の状況を題材にした広告。多くの米国人が兵役に就き、ガソリンもわずかな量が配給制となったため、多くのクルマが使われずに保管された。このパッカードも戦争中車庫で眠っていたのであろう。そのような状況に置かれても、トラブルフリーであり、パッカードの品質の高さが証明された。そして、もし新しいパッカードを所有しているならば、戦後の品質はこれまで以上に優れていることを保証します。と訴求している。しかし、実態は広告通りではなかったようで、高級車の地位はキャディラックに奪われていく。

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パッカードのボディースタイルとモデル記号一覧。モデルラインアップはホイールベース120in(3048mm)、245.3cid(4020cc)直列6気筒105馬力エンジンのクリッパーシックス(1695~2148ドル)、282cid(4621cc)直列8気筒125馬力のクリッパーエイト(1895/1947ドル)。ホイールベース127in(3226mm)、356cid(5834cc)直列8気筒165馬力のスーパークリッパーエイト(2342/2391ドル)、カスタムスーパークリッパーエイト(3140/3274ドル)とロングホイールベース148in(3759mm)モデル(4357/4521ドル)が設定されていた。クリッパーシリーズのボディーはブリッグス社から供給を受けており、頻発するストライキなどによって必ずしも満足できるものではなかったようだ。

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ホイールベース148inのシャシーにセミカスタムボディーが架装された1947年型カスタムスーパークリッパーエイト。

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バンパーとタイヤを外し、セミ・アッセンブルとして木箱梱包され輸出されるスーパークリッパーエイト。このような方法をとるのは、完成車輸入が認められない国向けか、あるいは節税のためであろう。

●ナッシュ

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1947年型ナッシュも外観ではアッパーグリルがわずかにワイドになったほかは1946年型のキャリーオーバーであった。上側の4台はナッシュ600シリーズ40で、112in(2845mm)のホイールベースに、172.6cid(2828cc)直列6気筒82馬力(1946年型より2馬力アップした)エンジンを積み、価格は1415~1464ドルであった。下側の4台はアンバサダーシリーズ60で、121in(3073mm)ホイールベースのシャシーに234.8cid(3848cc)直列6気筒OHV 112馬力エンジンを積み、価格は1751~2227ドルであった。

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ナッシュのセールスポイントである、フロントシートの後ろにベッドをアレンジすることが可能であることと、堅牢なモノコックボディーを採用していると訴求している。

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「ナッシュのコンバーティブルベッドがあればホテルの予約は必要ない」のコピーが付けられた、ベッドを紹介するカタログ。

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1947年5月30日に開催されたインディアナポリス500レースのペースカーを務めた1947年型ナッシュアンバサダーセダン。セダンのペースカーはインディ500の歴史始まって以来初めてであった。ハンドルを握るのはスピードウエイの社長ウイルバー・ショウ(Wilbur Shaw)。

●ハドソン

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1947年型ハドソンも1946年型と殆んど変わらないが、左ドア(ドライバー側)にもキーロックが追加された。この頃からドライバーも左ドアから出入りするようになったのであろう。モデルラインアップはスーパーシックス/エイト(1628~2021ドル/1855~1862ドル)、コモドールシックス/エイト(1887~1896ドル/1955~2196ドル)の4シリーズで、ホイールベースは全車121in(3073mm)で、エンジンは212cid(3474cc)直列6気筒103馬力および254cid(4162cc)直列8気筒128馬力が積まれていた。

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ハドソンには1942年型からセミオートマチックTMの「ドライブ・マスター」が98ドルでオプション設定されていた。インストゥルメントパネルにあるスイッチを入れ、エンジンをスタート、TMを3速にシフトしてアクセルを踏むと、セカンドギアからスタートし、アクセルを少し戻すと3速に入る、ブレーキを踏んで停車すると自動的に2速に戻る。という仕掛け。クラッチだけを自動化した「バキューモティブ(Vacumotive)・ドライブ」(ドライブ・マスターには組み込まれている)も40ドルでオプション設定されていた。さらに、ブレーキは油圧ブレーキとメカニカルブレーキの2系統が組み込まれており、万一油圧回路が破れてもノーブレーキにはならず、そのままペダルを踏みこむとメカニカルブレーキで停止することができた。

●カイザーおよびフレーザー
 戦後登場したカイザー・フレーザー社は、米国で道路やフーバーダムなどのダム建設、造船(第2次世界大戦中プレハブ船として有名な1万トン級の戦時標準型輸送船「リバティ船」を143隻建造している)、鉱業を手広く展開していたヘンリー・カイザー(Henry John Kaiser)と、パッカードを皮切りに、GM、マックスウエル、クライスラーで販売部門を仕切り、1939年1月にウイリス・オーバーランド社の社長に就任し、ジープの受注成功によって同社を発展させたが、同社の戦後プランで会長のワード・キャナデイ(Ward M. Canaday)と意見が合わずに1944年に退社し、同年9月、グラハム・ペイジ 社(Graham-Paige Motors Corp.)を買い取り、会長兼社長に納まっていたジョン・フレーザー(Joseph W. Frazer)が、彼の友人であったバンクオブアメリカのジャンニーニ社長の仲介によって、1945年7月にヘンリー J. カイザー社(Henry J. Kaiser Co.)とグラハム・ペイジ社が50/50出資により資本金500万ドルで共同設立した会社である。

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カイザー・フレーザーが生産拠点として選んだのはウイローラン工場。デトロイト西方約50kmに位置し、フォードが戦時中B-24爆撃機を流れ方式で大量生産した工場で、最盛期には1時間に1機のペースで生産された。B-24の総生産機数1万8181機の内8685機(48%)がここで生産されている。760万㎡(230万坪)の土地に、当時、一つ屋根の建物としては世界最大の幅390m、長さ975mのL字型工場と2本の滑走路を持つ飛行場も併設されていた。カイザー・フレーザー社は所有者であった政府機関から1955年までのリース契約を結んでいた。リース料は1946年:50万ドル、1947年:85万ドル、以降1200万ドル/年であった。広大な工場で、アセンブリーラインの全長は2kmに及んだ。

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当初、カイザーの開発は前輪駆動で進められていた。前後ともトーションバーサスペンション、ユニットボディーで、エンジンは187cu-in(3067cc)直列6気筒92馬力、ホイールベース117in(2972mm)、全長197in(5004mm)、全幅72.87in(1851mm)であった。ヘンリー カイザーは戦前から自動車生産に興味を持ち、いくつかのプロトタイプを造っていた。 特に前輪駆動、トーションバースプリング、FRPボディーにこだわった。 前輪駆動車の1927年トラクタをはじめ、オチキス・グレゴアール、パナール・ディナ等を手掛けたフランスのグレゴアール(Jean A. Gregoire)の指導を受けたという。

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カイザーは1946年10月の発売前に多くのFF車の広告を出している。いつ頃FRにすることを決断したのか、広告で追跡すると、上の広告は「The Saturday Evening Post」誌1946年6月15日号に掲載されたものだが、このときはまだFFで紹介されていた。

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上の広告は「The New Yorker」誌の1946年7月1日号に掲載されたもので、ここではすでにFRになっており、この頃FFを断念したことが分かる。

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生産型カイザースペシャルはFRのごく平凡な駆動方式を採用して発売されたが、デザインは当初、戦前に独創的なリアエンジン車「スタウト・スカラブ(Stout Scarab)」を造ったウイリアム・スタウト(William B. Stout)に依頼して「プロジェクトY」の名前で先進的なモデルを開発していたが、最終的にはフランスのコーチビルダーで、パッカード・ダーリン・ビクトリアなどのデザインで有名なハワード・ダーリン(Howard A. "dutch" Darrin)が担当したが、量産に際して加えられた修正に納得せず、ボディーに「Darrin-styled」のロゴを付けるのを認めなかったという。しかし、カタログには「styled by Howard Darrin」としっかり印刷されている。ボディーは斬新なスラブサイドをとり入れ、クロームの飾りを極力排除したモダンなものであった。
 モデルバリエーションは当初スペシャル4ドアセダンのみで、ホイールベース123.5in(3137mm)、エンジンは226.2cid(3707cc)直列6気筒100馬力で3速MTを積み、80ドルでオーバードライブがオプション設定されていた。車両価格は1868ドルであった。

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フレーザースタンダードはカイザースペシャルより4カ月早い1946年6月に発売された。フレーザーも当初は1モデルのみでシャシー、エンジンはカイザーと共通であった。但し、価格はカイザーより若干高い2053ドルであった。

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広告上部のクルマは1947年9月に追加発売されたカイザーカスタム(2301ドル)と、下は1947年3月に追加発売されたフレーザーマンハッタン(2550ドル)。内外装を豪華な仕様にしたモデルで、外観では4個のバンパーガード、クロームのホイールリング、フレーザーでは幅広のサイドモールディング、ツートンカラー(シングルカラーもあり)などが標準装備されていた。

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1947年型カイザーのシャシー。特徴のないごく平凡なものであった。

●クロスレイ
クロスレイは量産型ラジオのパイオニアで、1922年には世界最大のラジオメーカーとなり、ラジオ局や野球チームのシンシナティ・レッズのオーナーであったパウエル・クロスレイJr.(Powel Crosley Jr.)が少年時代からの夢であった自動車生産を実現したクルマであった。最初のクロスレイは1939年4月に登場した。

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戦後、1946年6月、クロスレイは全く新しいモデルを発表した。ホイールベース80in(2032mm)、全長145in(3683mm)、全幅49in(1245mm)のコンパクトなボディーに、当時としては先進的な44cid(722cc)直列4気筒OHC 26.5馬力エンジンを搭載していた。1946年はセダンと、わずか12台ではあったがコンバーティブルの2車種であったが、1947年にはステーションワゴンが追加されている。価格はセダン888ドル、コンバーティブル949ドル、ステーションワゴン929ドルであった。
しかし、搭載されたコブラ(COBRA=Copper Brazed)エンジンと称する、アルミ鋳造のクランクケースに、鋼板を銅ろう付けしたシリンダーブロックを結合し、クロームモリブデン鋼のシリンダーライナーを嵌め、冷却水通路には腐食防止のため樹脂コーティングを施すという凝ったものであったが、電食にやられ、孔あき、水漏れ不具合を起こし、やがて信頼を失ってしまう。

次回は、1948年型アメリカ車はひと休みして、8月4日(金)~6日(日)に幕張メッセで開催される「AUTOMOBILE COUNCIL 2017」の様子を紹介する予定。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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