三樹書房
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第63回 1948年型アメリカ車 – インデペンデント編
2017.10.27

 戦後のアメリカ車でビッグ3と呼ばれるGM、フォード、クライスラー各グループのフルモデルチェンジは遅く、1948年型でようやくGMのキャディラックとオールズモビルの98シリーズが登場したが、インデペンデントと呼ばれる独立メーカーは1947年型でスチュードベーカーがフルモデルチェンジしたし、まったく新しいブランドとしてカイザーとフレーザーが登場した。
 1948年型ではハドソンが「ステップダウン」という全く新しいコンセプトのクルマを登場させたし、パッカードはフルモデルチェンジかと錯覚しそうなビッグマイナーチェンジを断行している。成功はしなかったがタッカーという斬新なクルマの試みも見られた。更に、全長4メートルにも満たない、リトラクタブルハードトップを持ったプレーボーイ、4輪にラバースプリングを装着したケラー、三輪車のデイビスなど、量産には至らなかったがユニークな試みが見られた。
 下に1948年型のブランド別生産台数とシェア一覧を載せたが、米国といえども戦後の混乱から完全に回復しておらず、資材の不足や頻発するストライキなどによって、まだ売り手市場であったにもかかわらず、戦前の1941年型420万台+の生産台数までは回復していない。

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●スチュードベーカー
 前年にフルモデルチェンジしたスチュードベーカーは、1948年型はマイナーチェンジされて販売された。ビッグ3のフルモデルチェンジがほとんど実施されていないこともあり、販売は好調で前年比+15%ほどの18.5万台に達している。前年と同様、チャンピオンシリーズと上位のコマンダーシリーズがラインアップされていた。

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夜の海岸で、長い串に刺したソーセージを焼きながら談笑する女性たちの表情は平和そのもの。たき火とランプの明かりに照らし出されるのは1948年型スチュードベーカーで最も高価なコマンダー リーガルデラックス コンバーティブル。価格は前年モデルより195ドル値上がりして2431ドルであった。生産台数は7982台。

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これはチャンピオンシリーズで、コマンダーシリーズとは異なるフロントグリルを持つ。左上から時計回りに、リーガルデラックス4ドアセダン(1709ドル)、リーガルデラックスクーペ5人乗り(1704ドル)、リーガルデラックス2ドアセダン(1677ドル)、デラックスクーペ3人乗り(1535ドル、最も安価なモデル)で、ほかにチャンピオンシリーズでは最も高価なリーガルデラックスコンバーティブル(2059ドル)を含め9モデルがラインアップされていた。

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これはコマンダーシリーズで、左上はデラックス4ドアセダン(1956ドル)、右上はリーガルデラックスクーペ5人乗り(2072ドル)、下は唯一123in(3124mm)ホイールベースを持つランドクルーザー(2265ドル)で、ほかにコマンダーシリーズで最も安価なデラックスクーペ3人乗り(1856ドル)を含め10モデルがラインアップされていた。

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スチュードベーカーのセールスポイントを訴求するページ。軍用機の技術を流用したブラックライトをメーターパネル照明に採用、戦前から採用していた坂道発進を容易にする「ヒルホルダー」のコマンダーシリーズへの標準装備などが載る。

●パッカード
 パッカードにはフルモデルチェンジする体力はなく、1948年型はアウターパネルを大幅に変更するビッグマイナーチェンジを施して登場した。新しいグリルは従来の伝統的な縦長のグリルと比べてエレガントさに欠け、重量も200ポンド(91kg)ほど重くなり「妊娠した象(pregnant elephant)」などと揶揄された。しかし販売は好調で9万台以上売れ、シェアも1.52⇒2.85%に、順位も17⇒13位に躍進している。6気筒エンジンモデルはタクシーおよび輸出仕様に一部残るが、米国市場には直列8気筒モデルのみで、エイト/デラックスエイトシリーズには288cid(4719cc)130馬力、スーパーエイトシリーズには新設計の327cid(5359cc)145馬力、そしてカスタムエイトシリーズには356cid(5834cc)160馬力が積まれていた。

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これはホイールベース(WB)120in(3048mm)のスーパーエイトツーリングセダン(2690ドル)。

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上は戦後のパッカードでは初めてのコンバーティブルで、スーパーエイトコンバーティブル(3250ドル)で、生産台数は7763台であった。下は141in(3581mm)のロングホイールベースのスーパーエイトデラックスセダン7人乗り(3650ドル)で、3800ドルのデラックスリムジンも設定されていた。

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これは120in WBのエイトツーリングセダン(2150ドル)で、2375ドルのデラックス仕様も選択可能であった。

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上は1948年型パッカードの中で最も安価であったエイトクラブセダン(2125ドル)で、下は1948年型で初めて登場したエイトステーションセダン(3350ドル)。3226テールゲートはかえで材のフレームとかば(バーチ)材のパネルで造られているが、ドアサイドとウインドーフレームはメタルの上に貼り付けている。1950年型まで生産された。

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上の2点は最上級シリーズのカスタムエイトで、127in(3226mm)WBの2ドアクラブセダン(3700ドル)から148in(3759mm)WBの4ドアリムジン(4868ドル)まで5モデルがラインアップされていた。

●ナッシュ
 1948年型ナッシュは基本スペックは前年モデルと変わらなかったが、ワイドバリエーション戦略をとり、7モデル⇒15モデルが設定された。基本シリーズは前年同様600シリーズとアンバサダーシリーズだが、それぞれにスーパーラインとデラックス仕様のカスタムラインが設定されている。追加車種として3人乗りのビジネスクーペと戦後初のカブリオレが加わった。独立したフレームを持つ最後のナッシュであり、1949年型からはモノコックボディーが採用される。1948年6月には創業者のチャールス・ナッシュ(Charles Nash)が84歳で亡くなっている。社長のジョージ・メイソン(George Mason)が会長兼CEOに就任し、彼の招請で、後にミシガン州知事となるジョージ・ロムニーが副社長として加わっている。

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1948年型ナッシュのカタログ表紙と600シリーズ。スーパーライン(1534~1587ドル)とデラックス仕様のカスタムライン(1727~1776ドル)が設定されていた。112in(2845mm)のホイールベースに、172.6cid(2828cc)直列6気筒82馬力エンジンを積む。1948年型ではベルトライン下のサイドモールディングを廃止したため非常にすっきりしたスタイルとなった。レイモンド・ローウイがデザインした1942年型スチュードベーカーのスカイウエイ・シリーズに通じるところがある。

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これは上級グレードのアンバサダーシリーズで、スーパーライン(1858~2239ドル)とデラックス仕様のカスタムライン(2047~2105ドル)が設定されていた。121in(3073mm)ホイールベースのシャシーに234.8cid(3848cc)直列6気筒OHV 112馬力エンジンを積む。

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1948年型ナッシュではボディーカラーと内装のカラーハーモニーをセールスポイントの一つにあげていた。また、粋な組み合わせのツートンカラーも選択可能であった。

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1948年型ナッシュのラインアップに加えられた600デラックスビジネスクーペ。セールスパーソンやフリートオーナーが大量の荷物を携えて仕事できるよう、大きなラッゲージルームとシート後方にも大きなスペースを確保している。1948年型ナッシュで最も安価な1478ドルであった。生産台数は925台。

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これは手元のカタログには載っていないが、1000台が限定生産されたアンバサダーカスタムカブリオレ。1948年型ナッシュのなかで最も高価な2355ドル。ナッシュ・ファン待望の戦後初のオープンモデルであった。

●ハドソン
 フルモデルチェンジして登場した1948年型ハドソンは当時のアメリカ車のなかで最も先進的なクルマであった。「ステップダウン」デザイン、セミオートマチックトランスミッション「ハドソンドライブマスター(HDM)」、「フルードクッションドクラッチ」、「トリプルセーフブレーキ」など先進的な仕掛けが装備されていた。詳細は「M-BASE第25回ハドソン」を参照。モデルバリエーションはコモドールシックス/エイトシリーズとスーパーシックス/エイトシリーズがあり、124in(3150mm)ホイールベースのシャシーに、新設計の262cid(4293cc)直列6気筒121馬力と254cid(4192cc)直列8気筒128馬力エンジンが設定されていた。
「ステップダウン」デザインはハドソンのデザイナーであったフランク・スプリング(Frank Spring)による戦時中の落書きから進化したもので、チーフ・エンジニアのミラード・トンクレー(Millard Toncray)がデザインワークの功績を獲得している。

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1948年型ハドソンのカタログ。キャッチコピーはクルマの先進性を訴求する「Now...You're face to face with tomorrow(さあ、あなたは明日を実感します)」であった。すっきりしたスラブサイドに流れるようなルーフラインの美しいプロポーションを持つ。大きく湾曲したフロントウインドーに注目。ツートン塗装とホワイトサイドウォールタイヤはオプションであった。

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「ハドソンの勝利の秘密はここにあります」のコピーを付けて紹介された「ステップダウン」の解説。ペリメーターフレームのサイドメンバーの内側にフロアパンを落とし込んだ構造で、サイドメンバーは後輪の外側を後方に伸びている。セミモノコック構造でボディーとシャシーは溶接されている。ただし、モノコックボディーではあったが、強固なメンバーを多用していたため前年モデルより13%ほど重くなっている。安全性も高く、低重心で運動性も優れ好評であったが、唯一の苦情は床の掃除がし難いことであったと言われる。

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コモドールシリーズの4ドアセダン。6気筒モデルが2399ドル、8気筒モデルは2514ドル。

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コモドールシリーズのコンバーティブルブロアム。1948年型ハドソンでは最も高価なモデルで、6気筒モデルが3057ドル、8気筒モデルは3138ドル。

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コモドールシリーズのクラブクーペ。6気筒モデルが2374ドル、8気筒モデルは2490ドル。

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スーパーシリーズの4ドアセダン。6気筒モデルが2222ドル、8気筒モデルは2343ドル。

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スーパーシリーズのクラブクーペ。6人乗りの6気筒モデルが2222ドル、8気筒モデルは2343ドル。3人乗りは6気筒モデルのみの設定だが1948年型ハドソンでもっと安価な2069ドルであった。

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スーパーシリーズの2ドアブロアム。6気筒モデルのみの設定で2172ドル。他にコンバーティブルブロアムがあり、これも6気筒のみの設定で2836ドルであった。

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1948年型ハドソンのエンジン。左は新設計の262cid(4293cc)直列6気筒121馬力/4000rpmと、右は254cid(4162cc)直列8気筒128馬力/4200rpmエンジン。

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運転席周りにあるハドソンのセールスポイントの数々。

●フレーザー
 いち早くフルモデルチェンジしたスチュードベーカー、ハドソンそしてフレーザーの姉妹車カイザーが好調な売れ行きなのに比べ、1947年型として新型車を投入したフレーザーの売れ行きは芳しくなく、パッカードやキャディラックより少ない4万8000台ほどで、前年に比べ30%も落ち、シェアも2.05⇒1.49%に、ブランド別順位も15⇒17位に落ち込んでしまった。不振の原因の一つは競合車であるオールズモビル98がフルモデルチェンジし、ベストセラーモデルであった4ドアセダンは2078ドルのプライスタグをつけて3.8万台も売れている。フレーザーマンハッタンは2746ドルもした。

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上の4点は1948年型フレーザーマンハッタンのカタログ。フレーザーはスタンダード4ドアセダン(2483ドル)とマンハッタン4ドアセダンの2モデルのみの設定であり、顧客のニーズに応えられていなかった。ホイールベース123.5in(3137mm)のシャシーに226cid(3703cc)直列6気筒100馬力エンジン+3速MTを積む。オプションで112馬力仕様エンジンと80ドルでオーバードライブも選択できた。

●ウイリス
 ウイリス・オーバーランドモーターズ社は1948年に2種類の新型車を発売した。一つはジープスターフェートンで、もう一つは6気筒エンジンを積んだステーションセダン。

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1948年5月に登場したジープスターのアイデアは第二次世界大戦のさなかに工業デザイナーのブルックス・スチーブンス(Brooks Stevens)によって考えられていた。「スポーツフェートン」と称されるとおり、カウルから後方に大きなオープン区画をもつ構造で、ドアおよびサイドウインドーは巻き上げ式ではなく、昔のフェートンを彷彿させるサイドカーテン方式が採用されていた。ホイールベース104in(2642mm)のシャシーに134cid(2196cc)直列4気筒63馬力エンジン+3速MT+オーバードライブが標準装備されていた。価格は1765ドルで、冒頭のブランド別生産台数一覧表には含まれていないが1万326台生産された。

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1948年1月に登場したジープステーションセダンはステーションワゴンの豪華版ともいえる性格のクルマで、新設計の148.5cid(2433cc)直列6気筒72馬力エンジンを積む。グリルとエンジンフードにクロームモールディング、ボディーサイドには籠目模様の帯が追加され、内装もシート幅を広げるなどの変更が施されている。価格は1890ドルで、4気筒63馬力エンジン搭載のステーションワゴンの1645ドルに比べて245ドル高であった。

●タッカー
 1947年6月に発表されたタッカーについては「M-BASE第27回 タッカー」で紹介したが、1946年に発行されたと思われる「Announcing The TUCKER Torpedo」のタイトルが付いたカタログを紹介する。タッカーは4輪独立懸架サスペンション、ディスクブレーキ、脱落式ウインドシールド、リアエンジンによるR/R駆動方式、ステアリングの回転に連動して左右に首を振る、車両前面中央に装着された「サイクロプスアイ(Cyclops Eye:ギリシャ神話に登場する一つ目の巨人の目)」ランプ、1948年型ハドソン同様のステップダウンデザインなど先進的な仕掛けを採用していた。
 下に載せたカタログを見ると、生産型として発表されたモデルとは大きく異なるのが分かる。ボディーのデザインは大きく異なり、フロントフェンダーはボディーと独立しており、ステアリングの回転に連動して左右に首を振る(上下動はしない)、中央の一つ目は固定。スピードメーターなどの計器類はステアリングホイールの中央に位置するなど、当時は信じられないような仕掛けが満載されていた。

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これはトヨタ博物館に所蔵されているシャシーNo.1004号車。日本にはもう1台シャシーNo.1020が九州に生息している。タッカーの生産台数はプロタイプ1台を含めて51台だが、47台が現在も動態保存されており、日本の2台、オーストラリアとブラジルに各1台あるほかはすべて米国にあるという。

●プレーボーイ
 戦後の米国ではいくつかの小規模なメーカーが小型車の生産に挑戦したが、クロスレーを除いてはごく少量のプロトタイプを造っただけで消滅してしまった。そのひとつがプレーボーイで1947年(1948年型)からリトラクタブルハードトップを装備した小型車を発売した。最初にプロトタイプを開発したのは1940年であったが、第二次世界大戦で中断し1945年に再開した。当初はミゼットの名前で発売されたが、1946年にプレーボーイに車名を変えている。1947年末にはニューヨーク州ノーストナワンダの旧シボレー工場を購入し、年産10万台を計画したが果たさず、タッカー同様、SEC( The Securities and Exchange Commission:証券取引委員会)の監視対象となり、わずか100台ほど生産して1951年に倒産してしまった。

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上の2点は1948年型プレーボーイのカタログ表紙で、トップを下げた時とあげたときの様子が分かる。コイルスプリングによる4輪独立懸架のシャシーに初期のモデルはハーキュレス社(Hercules Engine Co.)製133cid(2179cc)直列4気筒40馬力エンジンを積むが、早い段階でコンチネンタル製91cid(1491cc)直列4気筒40馬力に換装された。フレームとボディーを溶接したセミモノコック構造を採用していた。ホイールベース90in(2286mm)、全長155in(3987mm)で価格は985ドルであった。

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リトラクタブルハードトップの作動状況が分かるシーン。操作は手動で行うがカウンターバランスデザインによって軽く、スムースに行えたという。

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プレーボーイの製作風景。

●デイビス
 デイビスは1947年に登場したユニークな三輪乗用車であった。デイビスのルーツは1940年にデザイナーで後にカーチスやマンツジェットを造るカーチスクラフト社を設立したフランク・カーチス(Frank Kurtis)が、カリフォルニア州バーバンクのソーン エンジニアリング社(Thorne Engineering Co.)の依頼で製作された三輪乗用車「カリフォルニアン」であった。1945年にグレン・デイビス(Glenn Gordon "Gary" Davis)がこの車を購入。同時にデイビスモーターカー社を設立し、カリフォルニア州バンナイズの元航空機アッセンブリー工場での量産計画も立てられたが、デイビス氏が財務運営に関連した詐欺の罪で有罪判決を受け、1948年にデイビスの計画は破たんしてしまった。

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1945年にデイビスが購入した直後の「カリフォルニアン」。ハンドルを握るのはデイビスで、このあと40万マイルに及ぶテストのあと、分解調査を行い、フランク・カーチスによってリデザインされたのがデイビスであった。

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「3輪の長椅子セダン」という不思議なコピーの付いたデイビスのカタログ。種を明かせば64in(1626mm)の横4人掛けのシートにあった。量産には至らず17台(13台とする史料もある)のプロトタイプが製作されただけであった。価格は995ドルと設定されていた。

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このような11人乗りのステーションワゴンやピックアップなども計画されたが製作には至らなかった。

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デイビスはチューブラーフレームにアルミパネルを貼りつけたボディーに、アルミ製のデタッチャブルトップを備えていた。初期にはコイルスプリングによるリアサスペンションとハーキュレス社製133cid(2179cc)直列4気筒60馬力エンジンを積んでいたが、途中からリアサスペンションは半楕円リーフスプリングに変更され、エンジンもコンチネンタル製60馬力に換装されている。

●ケラー
 最後にもう1車、1948年に出かかって消えたクルマを紹介する。ケラーの前身は1945年に登場したボビー・カー(Bobbi-Kar)というクルマであった。カリフォルニア州サンディエゴにあったボビーモーターカンパニー社(Bobbi Motor Car Co.)は1946年に財政難で破たんしたが、アラバマ州バーミンガムに移転してディキシーモーターカー社(Dixie Motor Car Co.)として再建された。その後、スチュードベーカーに28年在籍し、役員であったジョージ・ケラー(George D. Keller)が買収してジョージ D. ケラーモーター社となった。1948年までに再度移転しアラバマ州ハンツビルを本拠地としている。ボビー・カーに改良を加え、ジョージ・ケラーの販売経験を生かして1500店以上のディーラーネットワークも整えたが、1949年10月、ニューヨークへのプロモーショナルトリップの際に心臓発作で急死してしまった。残念ながら引き継ぐ者は居らず、1950年2月に計画を断念し、設備は売却された。

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ケラーの車種構成はコンバーティブルとステーションワゴンで、それぞれにスタンダード仕様の「Chief」とデラックス仕様の「Super Chief」が設定されていた。価格はコンバーティブルのChief/Super Chiefが895ドル/未定、ステーションワゴンは1095ドル/1250ドルの設定であった。しかし、生産されたのは合計18台でいずれもプロトタイプであった。その後、1954~55年にステーションワゴンがベルギーで「P.L.M.」の名前でわずかながら販売されている。

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ケラーのサスペンションは4輪独立懸架でグッドリッチ社製「トーシラスティック(Torsilastic)」ラバースプリングが装着されていた。エンジンはコンチネンタルまたはシラキュース製162cid(2655cc)直列4気筒58馬力を、ステーションワゴンはフロントに、コンバーティブルはリアに積んでいた。ホイールベース92in(2337mm)、全長はコンバーティブル167in(4242mm)、ステーションワゴン171in(4343mm)であった。

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第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ

第3回 「ラビット」から「スバル」へ - スバル最初の軽乗用車と小型乗用車

第2回 「キ77」と電気自動車「たま」。そして「日産リーフ」

第1回 自動車カタログ収集ことはじめ

執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
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