三樹書房
トップページヘ
catalog
第22回 戦後のアメリカ車 - 4 :1940年代の新型車(カイザー/フレーザー)
2013.10.28

 1971年に米国のオートモビル クォータリー社(Automobile Quarterly Inc.)から発行された「The American Car Since 1775」によると、米国で乗用車を生産、あるいは生産しようと試みた会社はおよそ5000社(カナダの50数社を含む)に達すると記されている。このなかで1500社ほどが実際にクルマを生産したようだ。
 さすがに戦後登場したクルマは少ないが、1946年初頭、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア ホテルにおいて、新会社カイザー・フレーザー社(Kaiser-Frazer Corp.)から、まったく新しいクルマ、カイザーとフレーザーが発表された。第2次世界大戦のために4年ほど乗用車の生産が禁止されていた米国において、新型車の発表は待ち焦がれていたものであり、会場には16万人が訪れたという。
 フレーザーはフレーム付きで、コンチネンタル製エンジンを積む、ごく普通のクルマであったが、カイザーは前輪駆動、トーションバーサスペンション、ユニットボディーと言う先進的なクルマであった。しかし、駆動系の騒音、振動がひどくて売れる代物ではなかったようで、1946年6月に生産開始したときは、カイザーもフレーザーと基本的に同じ双子車に化けてしまった。
 デザインは当初、戦前に独創的なリアエンジン車「スタウト・スカラブ(Stout Scarab)」を造ったウイリアム・スタウト(William B. Stout)に依頼して「プロジェクトY」の名前で先進的なモデルを開発していたが、最終的にはフランスのコーチビルダーで、パッカード・ダーリン・ビクトリアなどのデザインで有名なハワード・ダーリン(Howard A. "dutch" Darrin)が担当したが、量産に際して加えられた修正に納得せず、ボディーに"Darrin-styled"のロゴを付けるのを認めなかったという。しかし、カタログには"styled by Howard Darrin"としっかり印刷されている。
 カイザー・フレーザー社は、米国で道路やフーバーダムなどのダム建設、造船(第2次世界大戦中プレハブ船として有名な1万トン級の戦時標準型輸送船「リバティ船」を143隻建造している)、鉱業を手広く展開していたヘンリー・カイザー(Henry John Kaiser)と、パッカードを皮切りに、GM、マックスウエル、クライスラーで販売部門を仕切り、1939年1月にウイリス・オーバーランド社の社長に就任し、ジープの受注成功によって同社を発展させたが、同社の戦後プランで会長のワード・キャナデイ(Ward M. Canaday)と意見が合わずに1944年に退社し、同年9月、グラハム・ペイジ 社(Graham-Paige Motors Corp.)を買い取り、会長兼社長に納まっていたジョン・フレーザー(Joseph W. Frazer)が、彼の友人であったバンクオブアメリカのジャンニーニ社長の仲介によって、1945年7月にヘンリー J. カイザー社(Henry J. Kaiser Co.)とグラハム・ペイジ社が50/50出資により資本金500万ドルで共同設立した会社である。

05-22-01.jpg

「The Saturday Evening Post」誌の1945年9月1日号に掲載されたグラハム・ペイジ社の広告。新型車発売の予告と、新型車の名前は社長の名前をとって「フレーザー」だと紹介している。さらに早い1945年6月21日の「Farm Implement News」誌の広告では、ジョン・フレーザー記名入りで、私にとって戦争は終わった。新しいクルマを造ると予告している。ちなみにフレーザーがヘンリー・カイザーと最初に会ったのは同年7月17日であった。

05-22-02.jpg

「The Saturday Evening Post」誌の1945年11月3日号に掲載されたカイザー・フレーザー社とグラハム・ペイジ社の連名で出された広告。世界的に有名な爆撃機工場であった「ウイローラン」をカイザー車とフレーザー車を量産する工場に転換すると宣言している。
ウイローラン工場はデトロイト西方約50kmに位置し、フォードが戦時中B-24爆撃機を流れ方式で大量生産した工場で、最盛期には1時間に1機のペースで生産された。B-24の総生産機数1万8181機の内8685機(48%)がここで生産されている。760万㎡(230万坪)の土地に、当時、一つ屋根の建物としては世界最大の幅390m、長さ975mのL字型工場と2本の滑走路を持つ飛行場も併設されていた。
 カイザー・フレーザー社は所有者であった政府機関から1955年までのリース契約を結んでいた。リース料は1946年:50万ドル、1947年:85万ドル、以降120万ドル/年であった。広大な工場で、アセンブリーラインの全長は2kmに及んだ。

05-22-03.jpg

「The Saturday Evening Post」誌の1946年4月20日号に掲載されたカイザー・フレーザー社とグラハム・ペイジ社の連名で出された広告。同じ広告は「Newsweek」誌4月1日号にも掲載された。「米国市場の要求に応えた1947年型カイザーとフレーザーは市場の圧倒的な支持を得た結果・・・10万台の先行受注をいただいた」と伝え、「早い納車をお望みなら、今すぐお近くのカイザー・フレーザー販売店でオーダーしてください」と、顧客の焦りを誘導している。

05-22-04.jpg

「The Saturday Evening Post」と「New Yorker」誌の1946年6月15日号に掲載されたカイザー・フレーザー社とグラハム・ペイジ社の連名で出された広告。同じ広告は「Colliers」誌6月22日号にも掲載された。おそらく最初のカラー広告で、1946年初頭、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア ホテルに展示されたのもこの塗色であった。この時点ではカイザーは前輪駆動、前後ともトーションバーサスペンション、ユニットボディーで、エンジンは187cu-in(3067cc)直列6気筒92馬力、ホイールベース2972mm、全長5004mm、全幅1851mmであり、フレーザーはFR駆動方式、フロントはダブルウイッシュボーン+コイル、リアは半楕円リーフ+リジッドにフレーム付きボディーのごく平凡な仕様で、エンジンは226cu-in(3706cc)直列6気筒100馬力、ホイールベース3137mm、全長5156mm、全幅1851mmであった。
 ヘンリー カイザーは戦前から自動車生産に興味を持ち、いくつかのプロトタイプを造っていた。 特に前輪駆動、トーションバースプリング、FRPボディーにこだわった。 先生役は前輪駆動車の1927年トラクタをはじめ、オチキス・グレゴアール、パナール・ディナ等を手掛けたフランスのグレゴアール(Jean A. Gregoire)であった。

05-22-05.jpg

「New Yorker」誌の1946年7月1日号に掲載されたカイザー・フレーザー社とグラハム・ペイジ社の連名で出された広告。この時点でカイザーは前輪駆動をあきらめ、フレーザーの双子車に変更されてしまった。フレーザーのフロントグリルはクロームではなく、ボディーと同色に塗装されていた。

05-22-06.jpg

05-22-07.jpg

上の2枚は1947年型フレーザーとカイザー・スペシャル。1946年6月から生産開始し、標準エンジンは3.7ℓ 直列6気筒100馬力であったが、フレーザー・マンハッタンとカイザー・スペシャルには112馬力仕様がオプション設定されていた。また、フレーザーにはオーバードライブもオプションで取り付け可能であった。価格と生産台数はフレーザー(2295ドル)3万6120台、フレーザー・マンハッタン(2712ドル)3万2655台。カイザー・スペシャル(2104ドル)6万5062台、カイザー・カスタム(2456ドル)5412台。全モデル合計13万9249台(シェア4.1%)でスチュードベーカーに次ぐ9位であった。価格帯で見た競合車はフレーザーがオールズモビル98、カイザー・スペシャルはクライスラー・ウインザーであった。

05-22-08.jpg

「The Saturday Evening Post」誌の1947年5月17日号に掲載されたカイザー・フレーザー社の広告。バンパーのオーバーライダーが2個から4個に変更されている。グラハム・ペイジ社は1947年2月カイザー・フレーザー社に吸収されたが、それ以前に生産されたフレーザー6,476台はグラハム・ペイジ社から販売された。

05-22-09.jpg

1947年3月に追加発表された1947-48年型フレーザー・マンハッタン。フレーザーのハイグレードモデルで、6種類の美しい専用色が用意され、内装もカラーコーディネートされた美しい仕様で、クローム部品が有効に活用されていた。なぜか、発表に先立ち、ファッション・アカデミー主催の"Best Dressed Women"コンテストの1947年ウインナーを称えるニューヨークの昼食会で、マンハッタンにゴールドメダルが授与された。この効果はてきめんで、4月の販売計画台数3000台に対して1万2000台を受注したという。

05-22-10.jpg

05-22-11.jpg

上の2枚はゴールドメダル受賞に気をよくしたのか、「1948年のファッション」と題した、ファッションデザイナーとのコラボで展開した広告13点をまとめた冊子が発行された。これはマキシミリアン(Maximilian)の作品とフレーザー・マンハッタン。クルマは衣装と同じで、オーナーの審美眼、好み、美点を反映するが、カイザーとフレーザーはスタイル、内外装の質感、色の調和などはファッションの最高権威であるファッション・アカデミーも認めるところであると訴求している。表紙はジョン・フレデリックス(John Frederics)の作品。

05-22-12.jpg

05-22-13.jpg

上の2枚はマイナーチェンジされた1949年型フレーザー・マンハッタンと同車の室内。当時の内装の様子が理解できよう。112馬力エンジンが全車に標準装備され、価格はスタンダードが2395ドル、マンハッタンは2595ドル。1950年型もまったく同じで、49年型と50年型合わせて生産台数はスタンダードが約1万4700台、マンハッタンは約9950台であった。1949年型はビッグ3とナッシュが一斉に戦後の新型を投入したため、フレーザーは苦戦を強いられ1950年春には50年型の生産を終了して、ビッグマイナーチェンジした51年型を発売した。

05-22-14.jpg

05-22-15.jpg

上の2枚は1949-50年型カイザー・デラックスと運転席。スペシャルには100馬力、デラックスには112馬力エンジンが標準装備され、価格と生産台数はスペシャルが1995ドルで約2万9000台、デラックスが2195ドルで約3万8250台であった。ビッグ3とナッシュの新型投入の影響を考慮してジョン・フレーザーは生産調整を考えたが、当時、社長であったヘンリー・カイザーの息子、エドガー(Edgar)・カイザーは強気の年産20万台の設備投資を行なった。しかし、売れたのはカイザーとフレーザー合わせて6万台程度であり、同社衰退の始まりとなったのである。

05-22-16.jpg

1949-50年型カイザー・バージニアン(Virginian)。初の4ドア・ハードトップで価格は2995ドル、生産台数はわずか946台であった。ドアサッシと前後ドアの間にセンターウインドーが付く独特のデザインであった。ルーフにはサテン風ナイロンが張られていた。

05-22-17.jpg

1949-50年型カイザー・トラベラー。1949年型アメリカ車の中で最もユニークなモデルで、リアウインドーとトランクリッドの前半分が一体で上に開き、トランクリッドの後ろ半分が下に開く、1台でセダンとピックアップバンの二通りに使えるモデルであった。ただし、スペアタイヤが左後部ドアの内側に立てて納めてあり、左後部ドアは開閉できないダミーであった。後にハッチバック誕生のヒントとなったであろう。価格は2088ドルで約2万2000台生産された。なお、デラックスシリーズにもグレードの高いモデルが「バガボンド(Vagabond)」の名前で設定されており、2288ドルで約4500台生産されている。

05-22-18.jpg

1949-50年型フレーザー・4ドアコンバーティブル。戦後のアメリカ車初の4ドアコンバーティブルで、価格は3295ドル。生産台数はわずか65台の超レアモデルであった。

05-22-19.jpg

1949-50年型カイザー・4ドアコンバーティブル。パワーウインドーがオプション設定されており、トップとウインドーの開閉はプッシュボタンで操作された。トップを開けた状態でもドアサッシとセンターウインドーはイラストのような状態で残る。価格は3195ドル。生産台数については諸説あるが、1975年に発行されたラングワース(Richard M. Langworth)の「Kaiser-Frazer The Last Onslaught on Detroit」には22台。1980年に発行されたモロニー(James H. Moloney)/ダマン(George H. Dammann)の「Encyclopedia of American Cars 1946-1959」には42台。1984年に発行されたラングワースの「Encyclopedia of American Cars 1930-1980」には54台とあり、これが最も新しいデータであると推察する。

05-22-20.jpg

1949年型カイザー・タクシーキャブ。1948年11月からフリート・マーケットの開拓を試み、タクシー車の生産を始めた。ヘビーデューティ・クラッチ、ジェネレーター、スプリング、ショックアブソ-バー、6プライタイヤ、強靭なビニールの内装やシート、グリルガードを装備し、価格1995ドルで挑戦したが、チェッカーキャブ、デソートなど強力なライバルには勝てず、わずかな台数を販売しただけで1951年には撤退してしまった。

05-22-21.jpg

カイザーは1951年型でフルモデルチェンジを実施したが、1951年型フレーザーは1950年2月にビッグマイナーチェンジを施し「手作業で造られる1951年型フレーザー(The Handcrafted 1951 Frazer)」のキャッチコピーと共に発表された。エンジンは115馬力に強化され、1950年型カイザーのボディーをベースに前後の造形を大幅に変更して発売された。5万台ほどの予約を受けたようだが、旧型カイザーボディーの在庫が切れた1950年8月に生産を終了してしまった。ジョン・フレーザーは完全に戦意喪失してしまったようだ。このクルマはセダンで、価格2359ドル、生産台数は約6900台であった。

05-22-22.jpg

これは1951年型フレーザー・マンハッタン・4ドアハードトップセダン。価格3075ドルで、生産台数は152台。

05-22-23.jpg

これは1951年型フレーザー・バガボンド。価格2399ドルで、生産台数は約3000台であった。相変わらず左後部ドアはダミーのままである。

05-22-24.jpg

これは1951年型フレーザー・コンバーティブルで、3075ドル、生産台数131台であった。
なお、1951年型以降のカイザーについては別の機会に紹介する予定。

 余談だが、グラハム・ペイジ社と日産自動車の関係についてはご存じと思うが、小型車「ダットサン」に加えて、普通車「ニッサン車」開発に当たり、この頃、経営難に陥っていたグラハム・ペイジ社と1936年4月に提携契約を結び、同社のウエスト・ワーレン・アベニュー工場の機械設備、工具、型、ゲージ等の内、必要なものを18万ドル以上買いつけ、更に、1935年型シリーズ73用3674cc直列6気筒85馬力エンジンのシリンダーブロックの改造試作費用を支払い、製品500個を購入。同年9月には1935年型シリーズ73、1936年型シリーズ80の車体とシャシーの生産に必要なダイ、ミル、シェーバー、フォーム、治工具などを21万ドルで買い入れた。それらをもとに開発されたのがニッサン70型乗用車であり、このエンジンはニッサン80型トラックおよび90型バスにも搭載された。

05-22-25.jpg

1936年型グラハム・シリーズ80 クルセーダー。他の1936年型グラハムはモデルチェンジされたが、シリーズ80はマイナーチェンジにとどまった。ホイールベース2819mmのシャシーに2781cc直列6気筒70馬力エンジンを積む。

05-22-26.jpg

1938年型ニッサン70型セダン。ホイールベース2794mmのシャシーに3670cc直列6気筒85馬力エンジンを積む。70型はグラハムのシリーズ80の車体に、シリーズ73のエンジンを組み合わせて開発されたことが分かる。

このページのトップヘ
BACK NUMBER

第111回 ミカサ – わが国初の前輪駆動AT車

第110回 BMWアート・カー

第109回 AMC グレムリン(Gremlin)

第108回 1963年型ビュイック リビエラ(Riviera)

第107回 キャディラック エルドラドブローアム

第106回 日産自動車創立25周年記念冊子

第105回 Automobile Council 2021

第104回 ランチア デルタS4

第103回 アバルト(ABARTH)

第102回 日野コンテッサ

第101回 鉄道が趣味だった時代

第100回 コレクションの紹介

第99回 Supercar ランボルギーニ

第98回 チェッカー

第97回 Automobile Council 2020

第96回 スズキジムニー誕生50周年(第3世代)

第95回 スズキジムニー誕生50周年(第2世代)

第94回 スズキジムニー誕生50周年(第1世代)

第93回 アメリカでコレクターズアイテムとなるR32 GT-R?

第92回 戦後のアメリカンコンパクトカー(3)

第91回 戦後のアメリカンコンパクトカー(2)

第90回 東京オートサロン 2020

第89回 戦後のアメリカンコンパクトカー(1)

第88回 シトロエンのロータリーエンジン車

第87回 シトロエン トラクシオンアヴァン

第86回 シトロエン創立100周年記念イベント

第85回 「モーターファン」誌1952年1月号に載った広告

第84回 英国人のハートをつかんだフィガロ

第83回 サクラ・オートヒストリーフォーラム2019

第82回 ジャパン・クラシック・オートモービル 2019

第81回 Automobile Council 2019

第80回 MINIの60周年記念

第79回 日産自動車初の大型トラック&バス(80型/90型)

第78回 東京オートサロン 2019

第77回 新町暮らシックCarまちなか博物館

第76回 2018トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

第75回 三菱500

第74回 空飛ぶクルマ

第73回 Automobile Council 2018

第72回 戦後から1950年代初頭のジャガー

第71回 フォルクスワーゲンのアメリカ進出

第70回 ACC・JAPANの東京交歓会

第69回 1949年型アメリカ車 – フォード編

第68回 1949年型アメリカ車 –クライスラー編

第67回 サーブ 92

第66回 東京オートサロン2018

第65回 ボルボ・カー・ジャパン、1959年式PV544をトヨタ博物館へ寄贈

第64回 2017トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

番外編 2017トヨタ博物館クラシックカー・フェスティバルin神宮外苑

第63回 1948年型アメリカ車 – インデペンデント編

第62回 1948年型アメリカ車 – ビッグ3編

第61回 Automobile Council 2017

第60回 1947年型アメリカ車 – インデペンデント編

第59回 1947年型アメリカ車 - ビッグ3編

第58回 戦時下に発行されたアメリカ車メーカーのポスター

第57回 AC & Shelby AC Cobra - 2

第56回 AC & Shelby AC Cobra - 1

第55回 ナッシュヒーレー&ハドソンイタリア

第54回 東京オートサロン2017

第53回 リンカーン コンチネンタル

第52回 2016トヨタ博物館 クラシックカー・フェスティバル in 神宮外苑

第51回 クライスラー300 レターシリーズ – その2

第50回 Automobile Council 2016 – そのⅡ

第49回 Automobile Council 2016

第48回 クライスラー300 レターシリーズ – Ⅰ

第47回 フォードランチェロ

第46回 1954年カイザー・ダーリン161

第45回 1950年代ポンティアックのドリームカー

第44回 1950年代オールズモビルのドリームカー

第43回 1950年代ビュイックのドリームカー

第42回 1950年代キャディラックのドリームカー

第41回 クラシックカー・フェスティバル

第40回 アメリカの初期SUV/MPV

第39回 メトロポリタン

第38回 フォード サンダーバード

第37回 シボレーコルベット(第1世代 – 2/2)

第36回 シボレーコルベット(第1世代 – 1/2)

第35回 1950年代のアメリカンドリームカー(4)

第34回 1950年代のアメリカンドリームカー(3)

第33回 1950年代のアメリカンドリームカー(2)

第32回 1950年代のアメリカンドリームカー(1)

第31回 1940年代のアメリカンドリームカー

第30回 戦後のアメリカ車 - 11 :1940年代の新型車(フォード)

第29回 戦後のアメリカ車 - 10 :1940年代の新型車(GM)

第28回 戦後のアメリカ車 - 9 :1940年代の新型車(パッカード)

第27回 戦後のアメリカ車 - 8 :1940年代の新型車(タッカー)

第26回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ナッシュ)

第25回 戦後のアメリカ車 - 7 :1940年代の新型車(ハドソン)

第24回 戦後のアメリカ車 - 6 :1940年代の新型車(クライスラー・タウン&カントリー)

第23回 戦後のアメリカ車 - 5 :1940年代の新型車(クロスレイ)

第22回 戦後のアメリカ車 - 4 :1940年代の新型車(カイザー/フレーザー)

第21回 戦後のアメリカ車 - 3 :1940年代の新型車(スチュードベーカー)

第20回 戦後のアメリカ車 - 2 :1940年代の新型車(ウイリス/ジープ)

第19回 戦後のアメリカ車 - 1 :1946年型の登場(乗用車の生産再開)

第18回 アメリカ車 :序章(6)1929~1937年コード・フロントドライブ

第17回 アメリカ車 :序章(5)1934~37年クライスラー・エアフロー

第16回 アメリカ車:序章(4)1924~1929年

第15回 アメリカ車 :序章(3)1917~1923年

第14回 アメリカ車 :序章(2)フォード モデルT(1908年~1927年)

第13回 アメリカ車 :序章(1) 登場~1919年

第12回 AF+VKの世界:1959~1971年型ポンティアックのカタログ

第11回 コペンの屋根:リトラクタブルハードトップ

第10回 スクリーンで演技するクルマたち

第9回 シトロエンDSのこと

第8回 よみがえった『力道山のロールスロイス』

第7回 メルセデス・ベンツ300SL - SLクラスの60周年を祝して

第6回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その2)

第5回 近代的国産乗用車のタネ:外車のKD生産(その1)

第4回 短命だった1942年型アメリカ車のカタログ

第3回 「ラビット」から「スバル」へ - スバル最初の軽乗用車と小型乗用車

第2回 「キ77」と電気自動車「たま」。そして「日産リーフ」

第1回 自動車カタログ収集ことはじめ

執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

関連書籍
ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜
三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー
トップページヘ