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第31回 1940年代のアメリカンドリームカー
2015.2. 2

 昔から、自動車メーカーは新型車の開発にあたって、新しいスタイルやメカニカルな仕掛けを織り込んだ実験車を造って秘密裏にテストを行ってきたが、1940年代に入ると、新しい実験車をあえて公表して市場の反応を見極めたり、モーターショーで自社のブースに観衆を誘導する道具として活用するという、素晴らしいアイデアを思い付いた。近頃はその手のクルマをコンセプトカーと称するが、当時はドリームカー、エクスペリメンタルカー、アイデアカー、ショーカーなどと称していた。
 今回は日本と戦争状態に入る直前に発表されたビュイック「Y-ジョブ(Y-Job)」、クライスラー「サンダーボルト(Thunderbolt)」及び「ニューポート(Newport)」について紹介する。

◆Buick Y-Job
 かつてはボディーのデザインと架装を多くのコーチビルダーに委ねていたアメリカの自動車メーカーの中で、1927年にGMは最初に自前のデザイン部門「Art & Color Section」を設立し、チームのリーダーを務めたのがハーリー・アール(Harley J. Earl)であった。その彼がデザインした、アメリカの量産車メーカーによる最初のコンセプトカーがY-Jobであった。モディファイされた1937年型ビュイック(1938年型ビュイックロードマスターとの資料もある)のシャシーに架装され、完成したのは1939年も終わりに近い頃で、発表されたのは1940年春であった。Y-JobのYは開発途中の戦闘機に使われる記号を拝借し、Jobはハーリー・アールのプロジェクトカーを示すと言われる。
 Y-Jobはショー、ディーラーでの展示を大々的に行うことはせず、ハーリー・アールの日常の足として使用され、彼の所属するソーシャルクラブのメンバーたちを驚かせたという。しかし、1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃で戦争に突入したことで、乗用車の生産が1945年までストップしてしまう。Y-Jobは戦時中もハーリー・アールの足として使われ、毎年のように再塗装されてきれいな状態が保たれていた。1947年に一部モディファイされ、戦後のデザイントレンドの先駆者として再度発表されている。そして、1951年に次の足となるドリームカー第2弾であるルセイバー(LeSabre)が登場するまで、Y-Jobはハーリー・アールの足として活躍した。

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1940年に発表された当時のY-Jobとハーリー・アール。撮影場所はサンフランシスコ シビックセンター。低く、幅広く、長い2シーターコンバーティブルで、横長の低いフロントグリル(1942年型にこのモチーフは採用された)、コンシールドヘッドランプ、ランニングボードなしのボディーサイド、フラッシュドアハンドル、コンシールドパワーコンバーティブルトップ、パワーウインドー、13インチの小径ホイール(当時の標準は16インチであった)に冷却フィン付ブレーキドラムなど最新装備を備えていた。(Photo:GM)

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ソフトトップを上げた状態。リアフェンダースカートは戦後の1947年に加えられたもの。あるとき、ハーリー・アールが休暇でフロリダへ向かう途中、ワシントンD.C.でリアタイヤがバーストしてしまった。ところが、フェンダースカートの外し方が、ビュイックディーラーでも分からず、ハーリー・アールがビュイックスタジオのチーフに電話した結果、彼が外し方を説明した3枚のスケッチを用意し、特別便でハーリー・アールに届けたというエピソードがある。どんな構造になっているのだろう。(Photo:GM)

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これは、撮影された時期は不明だが、1970年頃には固定式のヘッドランプに改造されていた。なお、前後バンパー、ドアハンドルからプッシュボタンへの改造、フロントフェンダーにアンテナを追加するなどの変更は1947年に実施されていた。(Photo:GM)

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これはGMヘリティッジセンターに収蔵されている現在の姿。ヘッドランプはオリジナルのコンシールド式に戻されている。Y-Jobで最も話題になったのは「Gunsight(照準器)」あるいは「Bombsight(爆撃照準器)」と言われるフードオーナメントであろう。モディファイされたものが1946年型に採用されると、子供たちのお気に入りとなり、頻繁に盗まれた。自転車のアクセサリーにされたのである。ビュイックは全米の子供たちに一人一個ずついきわたるほど「Bombsight」を造ったのではないかと言われるほどであった。

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Y-Jobのサイドビュー。エアコンがまだ普及していない時代であり、三角窓は必需品であった。隣はシボレー ノマドコンセプト。後方にはキャディラックのコンセプトカー群、ポンティアック バンシーコンセプトなどが並ぶ。

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美しいボートテールのリアビューだが、量産されることはなかった。テールランプがリアフェンダーと一体になったのも当時は斬新なことであった。コンバーティブルトップはメタルデッキの下に完全に収納されているのが分かる。後方にはビュイック、オールズモビル、コルベットのコンセプトカーが並ぶ。

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Y-Jobの運転席。スピードメータはドライバーの真ん前の高い位置に置かれている。丸型メーターを並べるのはハーリー・アールの好みであったのか、その後のコンセプトカーにも多く見られる。

◆クライスラー社の社長K. T. ケラー(Keller)は1941年型のプロモーションの一環として、当時GMが行っていた全米巡回ロードショーの実施を考え、観衆の注目を集めるため2種類のコンセプトカーの製作を決断した。2シーターのリトラクタブルハードトップクーペの「クライスラー サンダーボルト」と、6人乗りデュアルカウルフェートンの「クライスラー ニューポート」であった。同時に6ヵ所でショーを開催することから、それぞれ6台ずつ製作された。ボディーの架装を担当したのは、ブリッグス社(Briggs Mfg. Co.)のカスタムボディーデザインセンター及びコーチビルダーであったルバロン社(LeBaron Carrossiers)で、空力デザインを得意とするアレックス・トレミュリス(Alex Tremulis)とブリッグス社のラルフ・ロバーツ(Ralph Roberts)が担当した。なお、巡回ショー終了後12台はすべて売却されてしまった。ちなみに、ブリッグス社は1953年にボディー工場を「ルバロン」の名前と共にクライスラー社に売却している。

◆Chrysler Thunderbolt
 完成したのは1940年の終わりに近い頃で、クライスラーではボディー型式を「コンバーティブル ロードスター」と称している。名前の「サンダーボルト」はキャプテン ジョージ・アイストン(Capt. George E. T. Eyston)のランドスピードレコードカーから採ったもの。ホイールベース127.5インチ(3238mm)のクライスラーニューヨーカーのシャシーに、5.3リッター143馬力のLヘッド直列8気筒エンジン+「フルードドライブ」オートマチックトランスミッションを積む。タイヤサイズは7.00×15。

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これは1961年11月にクライスラー社のエンジニアリングディビジョンが発行した冊子「Chrysler Corp. IDEA CARS and PARADE CARS 1940-1961」に載ったサンダーボルト。おそらく製作直後の写真と思われる。バスタブタイプのオールスチールボディーは空力を考慮してか、4輪ともフェンダー内に隠されている。注目したいのはリアバンパーで、現在W. P. クライスラーミュージアムに展示されている個体と上下逆である。

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サンダーボルトのサイドビュー。スチール製の電動リトラクタブルトップの作動状況が分かる。ルーフトップを格納した状態でも後部に十分なラゲッジスペースが確保されていた。電動のパワーウインドーも装備されていた。(Photo:FCA)

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上の3点は発表当時発行された資料で、6台すべて異なる塗色とトリムが施されていた。コンシールドヘッドランプ、ドアの開閉は内側、外側ともプッシュボタンによって行われた。ラジエーターグリルは無く、冷却はバンパー下の開口部から空気を取り入れて行う。サイドモールディング類の材質はほとんどがアルマイト。なお、後ろ姿は無いが、これらの絵からリアバンパーの左右についたフィンは上についているように見える。

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上の2点は現在W. P. クライスラーミュージアムに所蔵されているサンダーバード。リアバンパーはこの方がフロントバンパーとのバランスが良いと思うのだが。どちらが正しいのかは未確認である。どなたかご存知の方がおられたらご教示願いたい。

◆Chrysler Newport
 サンダーボルトと同様、デザインはアレックス・トレミュリスとラルフ・ロバーツによる。ニューポートは1930年代まで多くの独立したコーチビルダーによって競うように造られてきたデュアルカウルフェートンの進化型としての試みであり、大恐慌後は需要も減り、第2次世界大戦が終わり英雄たちの凱旋パレードに使われることはあるかもしれないが、需要は期待できないことは承知の上であった。ニューポートはルバロン社が手掛けた最後のスペシャルフェートンとなった。ホイールベース145.5インチ(3696mm)のクライスラーインペリアルのシャシーに架装され、エンジンとトランスミッションはサンダーバードと同じだが、こちらはオールアルミボディーをまとう。タイヤは7.50×15を履く。
 1941年のインディアナポリス500マイルレースではペースカーとして活躍した。量産車以外が選ばれたのは初めてと言われているが、1996年にPublications International, Ltd.から発行された「INDY 500 PACE CARS」(ISBN:0-7853-2063-6)によると、その後の研究で、1915年のレースでペースカーを務めたパッカードModel 5-48が、量産車とは異なるエンジンを積んだスペシャルであったことが分かり、ニューポートは量産車以外で2番目となると記されている。

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「Chrysler Corp. IDEA CARS and PARADE CARS 1940-1961」に載ったニューポート。コンシールドヘッドランプ、ドアはプッシュボタンで開閉される。

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発表当時の資料でコンシールドヘッドランプの点灯時の様子が分かる。

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上の3点は現在W. P. クライスラーミュージアムに所蔵されているニューポート。6人乗りで、前後のシートには独立した平面ガラスで、前に倒すことが出来るウインドシールドが備わる。油圧作動のソフトトップが装着されているがドアガラスは無く、サイドカーテンを備える。この個体はフロントグリルの横桟が他の写真とは異なり、細く、本数が多い。また、クライスラー社によって買い戻された時には固定式ヘッドランプにストンガードが付いた状態に改造されていたが、現在はオリジナルのコンシールドランプに戻されている。この個体は以前、ハリウッド女優のリタ・ヘイワースが所有していたとの説があるが、確かに彼女が一時ニューポートを所有したことはあるが、この個体ではないとW. P. クライスラーミュージアム発行の「Forward」誌2000年春号で否定している。

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執筆者プロフィール

1937年(昭和12年)東京生まれ。1956年に富士精密機械工業入社、開発業務に従事。1967年、合併した日産自動車の実験部に移籍。1970年にATテストでデトロイト~西海岸をクルマで1往復約1万キロを走破し、往路はシカゴ~サンタモニカまで当時は現役だった「ルート66」3800㎞を走破。1972年に海外サービス部に移り、海外代理店のマネージメント指導やノックダウン車両のチューニングに携わる。1986年~97年の間、カルソニック(現カルソニック・カンセイ)の海外事業部に移籍、うち3年間シンガポールに駐在。現在はRJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)および米国SAH(The Society of Automotive Historians, Inc.)のメンバー。1954年から世界の自動車カタログの蒐集を始め、日本屈指のコレクターとして名を馳せる。著書に『プリンス 日本の自動車史に偉大な足跡を残したメーカー』『三菱自動車 航空技術者たちが基礎を築いたメーカー』『ロータリーエンジン車 マツダを中心としたロータリーエンジン搭載モデルの系譜』(いずれも三樹書房)。そのほか、「モーターファン別冊すべてシリーズ」(三栄書房)などに多数寄稿。

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