三樹書房
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第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」
2020.6.27

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1964 Honda F1 RA271/1960 RC143

「ホンダ」が2輪で世界を制覇したのは1961年の事で、初の4輪車となる「T360」や「S500」が発売されるのは2年後の1963年になってからだ。F1のプロジェクトが発足したのも同じ年で、車としての経験が全くないホンダが世界最高峰のF1に挑戦するという事は、世間の常識でいえば「暴挙」としか思えないが、「ホンダ」にとっては「当然の挑戦」だった。目標は例の通り「宗一郎」の掲げる「世界最高」「他に類例の無いもの」だったが、結果として考えられたエンジンは水冷、横置き、挟角60度V型12気筒DOHC4バルブ、ギアボックス一体構造、1500ccと決まり、こうして試作されたのが「RA270E」エンジンだった。その結果誕生したエンジンの最高馬力は220hp/12000rpmで当時のF1では最強、最高回転だったが、F1が200馬力程度だったとは時代を感じる。ホンダとしては、手始めに元々得意技術で高性能エンジンを造り有力チームに売り込んでF1に関わる事を目論んでいた。ホンダにはレーシングカーの車体を造るノウハウも余力もなかったからで、最初は自ら参戦する予定ではなかったのだ。後年F1チームの総監督となる中村良夫はヨーロッパに飛びシャシーを提供してくれる相手を探した結果、「ブラバム・チーム」と話しを付け帰国したが、そのあと「チーム・ロータス」の「コーリン・チャップマン」が強引に割り込んで搭載を決めた。そこはチャンピオン「ジムクラーク」がいる最強チームだったから「ホンダ」にとっては願ってもないチャンスだった。しかし、デビュー直前となってこの予定は一方的に取り止めとなった。その理由はF1エンジンメーカー「コベントリー・クライマックス」がロータスと関係のあるジャガーの傘下となった為だった。かくして「ホンダ」はF1に参戦するためには、自前の車を造らざるを得ない状況に追い込まれたのだった。
・「ホンダ」がいつからF1を狙っていたかを遡れば、その原点は1958年中村良夫が入社面接で「F1グランプリに参加される意思がありますか」と質問した際「出来るか出来ないか判らないが、俺はやりてぇよ」と「宗一郎」が答えた時が出発点だろうか。

 
<第1期・自前のシャシー時代> (1963~68)

(写真00-0abc) 1961 Cooper T53 Climax     (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
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この車の解説には「ホンダ」のF1の開発の原点のように書かれており確かに最初に入手したF1の車だが、1962年輸入された本当の理由は、ホンダの2輪レーサーで事故死したボブ・マッキンタイヤ未亡人の経済的援助のため買い取ったもので、F1への転身を図って練習用に使っていた旧式のマシンだったから技術的にはあまり参考する程の車ではなかったようだ。ただ、「ホンダ」がF1に参戦するらしいとの噂の中でヨーロッパから「F1カー」が輸入されたから周りが色めき立ったのは事実だ。

<RA270>
(写真00-0def) 1964 Honda RA270 Prototype      
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試行錯誤の末1964年初めに何とか辿り着いた最終試作車と思われるのがこの車だ。「宗一郎」の強い希望で「金色」に塗られた車としても知られるが、変色した原画からはこの程度にしか補正はできなかった。少しは「金色」が感じられるだろうか。当時のF1エンジンは8気筒か6気筒だったから、ホンダのV12気筒は異色だったが、しかもそれが横置きに搭載されるという型破りなところも「他に例を見ない」「宗一郎」好みだった。この写真では横置きがはっきりと確認でき、後ろに6本ずらりと並んだ排気口も面白い。因みに型式の「270」は目標とした「270馬力」との事だ。 
*(この項だけは僕の撮影したものではないが、どうしても外せないので外部資料から引用させて頂いたことをご了承下さい。)
 

<RA271> (1964)
(写真01-1a~g) 1964 Honda RA271    (2013-11 東京モーターショー/ビッグサイト)
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1964年8月、遂に「ホンダ」のF1カーがグランプリ・レースに登場する日が来た。5月の第1戦「モナコGP」から参戦の予定だったが3か月遅れの第5戦「ドイツCP」でのデビューだった。取りあえず1台のみの参戦で、ドライバーにはこの年鈴鹿の日本GPでホンダS600に乗って優勝したアメリカ人「ロニー・バックナム」が起用された。初戦「ドイツGP」では予選をまともに走れなかったが、特別の計らいで最後尾のグリッド22位からスタートし、途中9位まで順位を上げ実力の片鱗を見せたが残り3周で金属疲労のため部品が壊れリタイヤした。結果は完走扱いで13位となった。続く第7戦は欠場、第8戦「イタリアGP」、第9戦「アメリカGP」はいずれもリタイヤだった。
・当時の「フォミュラー・レース」にはナショナル・カラーが決められていた。英国「グリーン」、ドイツ「シルバー」、イタリア「レッド」、フランス「ブルー」などが良く知られているが、初めて参加する「日本」は金色を希望した。ところがこの色は、なんとレースには参加しそうもない「南アフリカ共和国」がすでに獲得していた。(車は作っていないがCPレースは開催している)やむなく第2希望の「アイボリー・ホワイト」に決まったが、「シルバー」のドイツと見誤らないため「赤い日の丸」を追加することになったから、日本の国旗「日の丸」のイメージがありゴールドより良かったと思う。


<RA272 (1.5 ℓ) > (1965)
「1.5 ℓフォミュラー」最後の年となった1965年シーズンの「ホンダ」は、10戦中1、7戦を除く8戦にエントリーした。ドライバーは「ロニー・バックナム」の他に「リッチー・ギンサー」が加わった。当初は「バックナム」がNo1の予定だったが、強気の「ギンサー」にその座を奪われ、チーム内も「ギンサー」に重点を置いため5,6戦では「バックナム」は出走できなかった。「ギンサー」は完走5回(入賞3回)に対し「バックナム」は完走2回(入賞1回)だったから、実力重視の世界では当然かもしれない。年間で11ポイントを上げコンストラクターとしては6位となった。

(写真01-2a~i) 1965 Honda RA272  (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
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車番⑪はリッチー・ギンサーがメキシコGPで優勝し「ホンダ」に初勝利をもたらした車だ。
メキシコGPが開催されたロドリゲス・サーキットは標高2,240mの高地にあり、空気が薄いため燃料噴射装置の混合比の調整が勝負で、それを見事に的中させたのが「ホンダ」優勝への大きな要因となった。予選3位でスタートした「ギンサー」はファースト・コーナーでトップに立つと、残りの65周をそのまま走り切る完璧な勝利だった。実はこの車は「バックナム」の車で予選では4位と「ギンサー」の車より好調だったため、乗り換えたもので、「バックナム」は交換させられた車では予選10位止まりで決勝を迎えた。最終結果は5位に入賞し立派な成績を残したが、「ギンサー」の優勝の陰に隠れてしまった。


<RA273 ( 3 ℓ) > (1966~67)
1966年シーズンからはフォミュラーが変更され、排気量が「3リッター」となった。これに対応するエンジンが「RA273E」だが開発に手間取って実践に投入出来たのは9月の第7戦「イタリアGP」からだった。ドライバーは前年と同じく「ギンサー」と「バックナム」で、最終戦「メキシコGP」で「4位」「8位」の結果を残している


(写真01-3a~f) 1966 Honda RA273  (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
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(写真01-4a~g) 1966 Honda RA273     (1966-11 東京モーターショー/晴海)
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⑫ロニー・バックナム シーズン終了直後、東京で展示された「RA273」だ。微妙に長さを調整するためか複雑に曲がりくねったマフラーが興味深い。


(写真01-5a~e) 1967 Honda RA273 (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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「RA273」は前年3戦しかしていないので、1967年も引き続いて使用された。ドライバーは2輪チャンピオンとして「ホンダ」を高く評価していた「ジョン・サーティース」が前チャンピオンの肩書と共に「フェラーリ」から移籍してきた。チームは1台体制で、第1戦「南アGP」から第7戦「ドイツGP」まで「RA273」に乗り、第9戦からは「RA300」で闘うことになる。「RA273」での戦績は6戦して3,6,4位と3回入賞し、さすがに実力者だ。


<RA300> (1967~68)
「RA300」は「ローラT130」という別名も持っていた。「サーティ-ス」は開発能力にもすぐれており、「ホンダ」最大の欠点である重量の軽減について思い切った提案をした。それはレーシングカーに経験のある「ローラ」社にシャシーを造らせることだった。そして生まれたのが「RA300」(ローラT130)だった。エンジンは「RA273」と同じ「RA273E」(V12)がそのまま搭載されたが、総重量では約70キロ軽減された。「RA300」は1967年シーズン最後の3戦と68年第1戦に出走し、次の「RA301」にバトンタッチした。

(写真01-6a~d) 1967 Honda RA 300     (1968-03 東京レーシングカーショー/晴海)
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⑭ジョン・サーティース ニューモデルとしてデビューしたイタリアGPでいきなり優勝して「ホンダ」に貴重な1勝をもたらしたが、実は最終ラップで燃料切れした「ロータス」と、コーナリングでミスした「ブラバム」をかわしての辛勝だった。転がり込んだ優勝だがこれも実力のうち、とはいえその後チャンスは来なかったから、これがF1に挑戦した第1期「ホンダ」にとって最後の優勝となった。


<RA301> (1968)
1968年シーズンの「ホンダ」は水冷の「RA301」でスタートし、7月の第6戦「フランスGP」からは空冷の「RA302」に変わる予定であった。しかし結果的には、第2戦から最終第12戦まで「RA301」で走り、第1期のF1参戦を終えることになった。「RA301」もシャシーは「ローラ製」で型番は「T180」だった。水冷チーム(RA301)の本拠地はイギリスにあったが、一方空冷チーム(RA302)はシャシーも含め日本で造られていた。何としても空冷でF1の実績を残したい一心で開発の重点は空冷に置かれ、水冷についてはポテンシャルを残しながらも開発は進まなかった。その結果は11戦中完走3回、完走率27%で、2,5,3位 止まりだった。

(写真01-7a~e) 1968 Honda RA301     (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
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⑤ジョン・サーティーズ ナンバーに「T」が付いているので、実際にレースを走った車ではなくスペアーカーと思われる。この年より「空力」が安定走行の重要な要因であることが注目され始め、フィンガ出現する。


<RA302> (1968)
「RA302」は空冷信奉者の「宗一郎」にとって「夢を叶えた車」であり「夢が破れた車」でもあった。新しい車が完成したのでイギリスに持ち込み「サーティース」が試走した結果では、「ホンダ」の最大の弱点だった重量については大いに改善され、加速性能を含めそこそこの操縦性を見せていたが、なんといっても最大の特徴である「自然空冷」は全く機能せず、エンジンの温度はどんどん上がり続け、それにつれて出力が低下し、激しいオイル漏れを起こすなど、レースを走れる状態ではなかった。レース監督の「中村良夫」はこの車でレースを走ることを拒否したが、本社の指示に従って「フランスGP」に車を持ち込んだ。しかしこの危険なマシンを本番で走らせるつもりは無く、折角造った珍しい車だから、プラクティスで軽く走行して世界にお披露目してやろうという程度の心づもりだったのだろう。
・ところが現地に到着すると、なんと、セカンド・ドライバーとして、F1経験のないフランス人「ジョー・シュレッサー」が登録されていた。既に登録期限が過ぎていたにも拘らず「ホンダ・フランス」の政治的な働きかけで、フランス人をドライバーにするという条件付きで追加登録が認められたのだ。中村は監督として責任はもてないと拒否し、マネージメントは現地スタッフに任された。ただ「シュレッサー」本人は憧れの「F1」に乗れることに凄く感激し喜んでいたようだ。

(写真01-8a~d) 1968 Honda RA302 (1969-02 東京レーシングカーショー/晴海)
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 1968年の⑤番は「サーティース」のナンバーなので、第9戦「イタリアGP」のプラクティスのみ走った車と思われる。

(写真81-8e~h) 1968 Honda RA302
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案内板にはドライバー「J・シュレッサー」とあるが車番が入っていない。「フランスGP」では ⑱番で出走したが、3周目コントロールを失い土手に突っ込んで転覆、死亡した。満タンの燃料と、ボディに多用されていたマグネシュウム合金で激しく炎上し、車は原形を留めない程に変形してしまったから、この車は別の車だろう。


<第2期 エンジン・サプライヤー時代> (1983~88 )
「速く走れるシャシー」と「ライバルより強力なエンジン」が組めばまさに「鬼に金棒」で、こうなるとチャンピオン・クラスのドライバーが「向こうからやって来る」?から、「向う所敵なし」の状態だ。F1挑戦第2期の「ホンダ・チーム」がまさにこの状態で「セナ」「プロスト」「マンセル」「ピケ」の4天王がみなドライブしている。圧巻は1988年で16戦15勝となると勝って当たり前状態で、かつて1966年ブラバム・ホンダがF2で成し遂げた11連勝を超える快挙だった。第2期の活動期間6年で合計77回の優勝は凄い確率だ。


<スピリット-ホンダ>
(写真02-1a~d) 1983 Spirit-Honda 201C (RA163E) 1496cc V6 TwinTurbo 600ps/11000rpm
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1968年を最後に「ホンダ」はF1から遠ざかっていたが、レースそのものは毎年開かれていたから、「ホンダ」の復帰を望むファンの声は多かった。そして1978年待望の復帰宣言が発表されたが、実際にサーキットを走ったのは1987年7月の「イギリスGP」(シルバーストーン)で、発表から5年も待たされたのだ。復帰の目的は「エンジン・サプライヤー」に徹することで、有力なシャシーと上手に手を組むことだった。最初に組んだ「スピリット」は1982年からF2に参戦した新参者だが、会社そのものはホンダが出資して造られたもので、復帰への足慣らしに1982年のF2 からスタートし、83年からそれを足がかりにF1へと参入した。マシンはF2用「201」の改良型「201C」が用意されたが 結果的には「201C」は6戦中2戦のみで残りの4戦は「201」で闘うことになった。ドライバーはスエ―デン人「ステファン・ヨハンセン」で、82年のF2でうまく当たれば早いという実績を買われたか、そのままF1のシートを獲得した。6戦中完走は3回で最高順位は7位だった。この年の「ホンダ」はテスト期間で、翌年からは名門「ウイリアムズ」との提携が決まり「スピリット」は存在価値がなくなり消滅した。


<ウイリアムズ-ホンダ> (1984~87)
「ウイリアムズ・レーシング」は1966年「フランク・ウイリアムズ」と「パトリック・ヘッド」によって設立されたF1チームで、1979には5勝を挙げ、80、81年には2年連続してコンストラクターズ・チャンピオンを獲得している強豪だ。

(写真02-2a~d) 1984 Williams-Honda FW09 (RA164E) 1496cc V6 TwinTurbo 600ps/11000rpm
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(写真02-2e~h) 1986 Williams-Honda FW11 (RA166E) 1494cc V6 TwinTurbo 1050ps/11600rpm
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1986年シーズンはNo.1ドライバー「ナイジェル・マンセル」、No.2「ネルソン・ピケ」という豪華なラインアップだった。優勝は「マンセル」5回、「ピケ」4回で、2位5回の他にも入賞多数、獲得ポイントは合計141ポイントで当然「コンストラクターズ・チャンピオン」となった。前年の1985年からは「キャノン」がスポンサーに参加し塗装が変わった。


<ロータス-ホンダ>
 (1987~88)
「ロータス」はコーリン・チャップマンが始めたメーカーという事は今更言うまでもないが、F1サーカスには1958年から参戦している。1982年チャップマンが亡くなった後83年からは「ピーター・ウオー」がチーム監督を務めているが、彼が1963年鈴鹿で開かれただ第1回日本グランプリで、地を這うような「ロータス23」で圧勝した姿を思い出す。
「ホンダ」が復帰するまでの10年の間に、スポンサーの存在が大きくなり、F1はナショナル・カラーを無視した「スポンサー・カラー」と「ロゴ」による「走る広告塔」的存在になった。その第1号となったのが1965年のロータスで、タバコの「ゴールド・リーフ」を模した赤、白、金、の3色に塗装されていた。その後「JPS」カラーの黒に金のストライプ時代を経て、黄色にラクダのマークが入った「キャメル」と、タバコメーカーの支援が続いたが、2006年以降タバコは世間から有害視される風潮に押され、スポンサーになれなくなった。

(写真02-3abc) 1987 Lotus-Honda 99T (2004-06 (フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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⑫「アイルトン・セナ」は1985年から87年まで「ロータス」に在籍したが、「ホンダ・エンジン」と「中嶋悟」に関わったには87年だけだった。この年は優勝2回、2位4回、3位2回でドライバーズ・チャンピオンシップは3位だったが、第7戦「イギリスGP」では、「セナ」3位、「中嶋」4位、の結果に加え、「ウイリアムズ」の「マンセル」が優勝、「ピケ」が2位だったから「ホンダ・エンジン」としては1~4位を独占する快挙だった。

(写真02-3d~h) 1988 Lotus-Honda 100T (RA168E) 1494cc V6 Turbo 900ps/12500rpm
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(02-3bb)09-11-15_266 1988 Lotus Honda 100T (RA168E 水冷V6 1494cc Turbo)②中嶋悟.JPG

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中島悟は「ロータス」には1987年から89年まで在籍したが、ホンダ・エンジンとは88年までだ。88年のパートナーは「セナ」から前年チャンピオンの「ピケ」に変わり、彼が車番①を持ってロータスに来たから「中嶋」には②番が割り振られた。日本人が参加した事で日本中の関心が高まり、テレビの放映もフルタイムで充実していた。


<マクラーレン-ホンダ>  (1985~92)
「マクラーレン」が「ホンダ・エンジン」の提供を受けたのは1988年から92年までの4年間だ。その間の快挙は何と言っても88年に成し遂げた16戦15勝、勝率94%という、F1史上空前絶後の勝ち振りだ。ドライバ-は88、89年には「プロスト」「セナ」体制で、90年からは「プロスト」が「ベルガー」に変わった。エンジンは87年提携を申し入れたが、すでに「ウイリアムズ」「ロータス」と契約済で実現出来ず、88年からやっと1.5 ℓ V6 ターボ(RA168E)を載せることになった。89年はターボが禁止となりノンターボの3.5 ℓ V10 (RA109E)に変わった。91年は3.5 ℓ V12 (RA121E)、92年は(RA122E)だった。

(写真02-4abc) 1988 McLaren-Honda MP4/4 (RA168E)1494cc V6 Turbo 900ps/12500rpm
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 ⑪番のアラン・プロストはこの年初戦から始まって3、4、7、13、14、16戦と7回優勝し、⑫番の「セナ」と2人であげた15勝の片棒を担いだ。「両雄並び立たず」という諺(ことわざ)があるが、⑪番の「プロスト」はN0.1ドライバーのつもりだが、⑫番の「セナ」は決して2番手とは思っていなかったから、同じチームでもレースでは容赦なく攻めかかった。第13戦「ポルトガルGP」で「セナ」に幅寄せされたことから両者間に穏やかならない感情が発生していた。 .

(写真02-4de) 1988 McLaren MP4/4 (RA168E) (2004-06/フェスティバル・オブ・スピード)
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⑫番のアイルトン・セナは第2戦から始まって5、6、8、9、10、11、15戦と8回優勝し、3ポイントの僅差でチャンピオンとなった。「プロスト」の勝利と組み合わせると第12戦「イタリアGP」だけ優勝がない。しかし落としたイタリアGPも終盤までトップを走っていた「セナ」が周回遅れと接触してストップした結果で、そのまま走っていれば優勝の可能性は十分あった筈だ。

(写真02-4fg) 1989 McLaren MP4/5 (RA109E) 3493cc V10 NA 600ps/12000rpm
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(02-4g)09-11-15_315 1989 McLaren Honda MP4/5(RA109E.JPG
①番は前年のチャンピオンに与えられる栄光のナンバーで、1989年はアイルトン・セナのものだった。しかし、この年の「セナ」は6回優勝したにも拘らず、優勝4回の「プロスト」にチャンピオンを持っていかれた。2位を6回とった「プロスト」の方が1回の「セナ」よりポイントを稼いでいたからだ。去年から続く両者の間は益々険悪になりシーズン中に「プロスト」は来年移籍を発表していた。こんな中で「プロスト」有利だが「セナ」の逆転可能という緊張した中で迎えた第15戦「日本GP」はスタートした。2番グリッドからスタートした「プロスト」は、1コーナーでポール・ポジションの「セナ」を抑えてトップに立ち、10周目までに10秒ほどリードしていた。しかし途中から降り出した雨は「セナ」の得意とするところで、30周目では2秒迄差を詰めて以後虎視眈々と追い抜きのチャンスを狙っていた。それぞれの車は、ウイングを寝かせた「プロスト」はストレート狙い、逆にウイングを立てた「セナ」はコーナー重視でセッティングしており、その差は130Rカーブから最終シケインまでが「セナ」に有利だった。残り6周となった47週目、130Rを過ぎたところで遂に勝負に出た「セナ」は、ブレーキを遅らせ「プロスト」のインに割り込んだ。しかし一瞬遅く、わずかに先行していた「プロスト」に鼻先を抑えられて両車は絡み合いエンジンがストップして絶対有利の1、2位を棒に振った。この経過を冷静に見れば「セナ」の突っ込みには無理があったとも思えるが、相手がプロストでなければ、衝突を避けてコースを開けたかもしれない。この結果「プロスト」はリタイヤしたが、「セナ」はコースマーシャルの助けを借り、押し掛けで再スタートしコースに戻った。ピットインして応急処置をしたため2位となったが僅かな残り周回で再びトップに立ちチェッカーを受けた。しかし「プロスト」の抗議が認められ「セナ」はエスケープ・ゾーンを通ってコースに戻ったため「シケイン不通過」で失格となった。マクラーレンはこれを不服として「FIA国際控訴審判所」に提訴したが、結果的には「レース中の押し掛け」という理由で失格は変わらなかった。「プロスト」がリタイヤしてまでもコースを譲らまかったのは、自分の得点よりも「セナ」に得点させないことが狙いで、作戦が見事的中しともいえる。ここで「セナ」が優勝していたらこの年もチャンピオンになっていたかもしれないが、第15戦「日本GP」、第16戦「オーストラリアGP」の2戦では両者とも無得点だったので、そのまま「プロスト」のチャンピオンが決定した年だった。


(写真02-4hij) 1992 McLaren Honda MP4/7 (RA122E)
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88年から91年までの4年間は「ドライバー」「コンストラクター」の双方ともチャンピオンを守り続け、絶対王者の座を守っていたが、92年になると、他チームの追い上げに対応しきれず、一人で9勝を挙げた「マンセル」が乗る「ウイリアムズ・ルノー」にチャンピオンの座を奪われ、コンストラクターは2位、ドライバーは「セナ」4位、「ベルガー」5位だった。この年が不調だったせいだったのか、ここで「ホンダ」の「第2期F1チャレンジ」は終了した。


③-1 <第3期(前半)・B.A.R.時代>  (2000~05)

< 前 史 > (1997~99)
このチームが生まれた原点は「ジャック・ビルヌーブ」のマネージャーだった「クレイグ・ポロック」の発案で、シャシーを提供していた「レイナード」と、タバコ会社のスポンサー責任者「トム・モザー」の同意を得てスタートしたものだった。1997年末、資金難の「ティレル」を買収、98年シーズンは「ティレル」のままF1に参戦した。99年には「ティレル」から「ブリティッシュ・アメリカン・レーシング」(B.A.R.)と名前を変え、2年前のチャンピオン「ジャック・ビルヌーブ」がハンドルを握り、「世界2位のタバコ会社から3億ドル(360億円)の資金提供を受け、市販シャシーでは連戦連勝の「レイナード」とくれば新顔ながら上位入賞は間違えなしと思われたが、肝心のエンジンが実質2年落ちのルノー「スーパーテックFB01」では全く勝負にならず、年間を通して1ポイントも獲得できないまま終わり、チーム成績は最下位だった。その結果翌年はF1復帰を図っていた「ホンダ」エンジンの提供を受けることになった。

<エンジン・サプライヤー時代> (2000~05)
8年間のブランクを経て、「ホンダ」がまたF1に返ってきた。第2期の圧倒的な強さを知っている者にとっては限りない期待でこの再開を迎えたが、日進月歩のF1の世界では8年のブランクはあまりにも長く、期待に応えられない日々が続いた。2000年「BAR」と組んでスタートし、2006年から08年まで「ホンダF1」チームとして活動した9年を振り返るとチームとしての成績は5、6、8、5、2、6、4、8、9位と不甲斐ない成績で、我々にストレスを残したまま姿を消した。この間優勝して表彰台の頂点に立ったのはたった1回2006年第13戦「ハンガリーGP」の「ジェンソン・バトン」だけだった。(2015年から第4期の活動に入っているが最近は有料放送以外テレビ中継もなく僕も殆ど情報を持たない。実は僕は1976年のビデオ時代からテレビで放映されたF1レースは殆どを録画し、現在はCDにダビングして保管している。)

(写真03-0a) 2000 BAR-Honda 002 (RA000E)

(03-0a)BAR_002_Honda_Collection_Hall[1].jpg
2000年のエントリーリストには「ラッキーストライク・レイナード・BAR・ホンダ」と登録されている。関係者がすべて名を連ねている感じだ。今回の復帰に際して「ホンダ」はシャシーも自前で造り「コンストラクター」として参戦するつもりだったのだが、すでにシャシーの実績を持つ「BAR」が「ホンダ」はシャシーに関してもパートナーとして共同開発するという条件を示したので取りあえずその線から始めることになった。開幕戦では4位と6位に入賞しポイントを挙げた。「ビルヌーブ」はシーズを通して表彰台こそなかったが、4位4回、5位2回、6位1回とポイントを重ね、ドライバーズ・ランキングでは7位となり何とか面目を保った。

(写真03-1ab) 2001 BAR-Honda 003 (RA001E)
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この年の⑩番は「ビルヌーブ」の車だ。17戦すべてにエントリーし、第5戦「スペインGP」と第12戦「ドイツGP」で3位に入り表彰台に上った。しかしその他は4位と6位が各1回で残りはポイントに繋がらず、ランキングは7位だった。「佐藤琢磨」がテストドライバーとして加入したがレースに出る機会はなかった。チームとしては1つ下がって6位となった。「ホンダ・エンジン」(RA001E)は「BAR」と同じものがこの年から「ジョーダン」にも提供されている。2000年の「BAR」の結果に満足できなかった「ホンダ」が、ほかにも可能性を求めた結果だと思われる。

(写真03-3ab) 2003 BAR-Honda 005 (RA003E)
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・2002年はシーズン前に「BAR」の発起人「ポロック」が代表をやめ、代わって「デビッド・リチャーズ」が代表となった。またシーズン開幕直後の3月にはシャシーを担当していた「レイナード」が倒産した。(世界2位のタバコ会社とホンダが付いていて何で倒産したのだろう?)代わってウイリアムズから来た「ジェフ・ウイリス」が開発責任者となったが、この年は散々の成績で入賞4回、最高位4位止まりだった。テストドライバーだった「佐藤琢磨」は「ホンダ」がエンジンを提供した「ジョーダン」にレギュラー・シート」を獲得し移籍した。
・2003年になるとシャシーも空力の改善効果が出始め、そこそこの戦闘力が付いてきた。ドライバーは「パニス」に変わって「ジェンソン・バトン」が入り、今年から変更になった8位まで入賞の恩恵で、4位2回、7位2回、8位3回と手堅くポイントを稼いだ結果9位となった。もう一人のドライバー「ビルヌーブ」は仲間だった「ポロック」に変わって代表となった「リチャーズ」とは折り合いが悪く、その上高額の契約金は支払えないという事で契約の継続は見送られた。その後任として来年からは「佐藤琢磨」を起用することが決まっていたが、最終戦「日本GP」で「ビルヌーブ」に変えて前倒しで「佐藤琢磨」が出場することになった。そして見事に6位入賞で3ポイント獲得した。

(写真03-4a~d) 2004 BAR-Honda 006 (RA004E)
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2004年は低迷した「ホンダ」の第3期F1チャレンジの中では一番充実した年となった。ドライバーは⑨バトン、⑩佐藤琢磨(写真の車)で1年を通して戦い「バトン」は18戦中15回完走、優勝こそなかったが2位4回、3位6回、4位1回、5位2回、6位1回、8位1回と完走したすべてのレースで、ポイントを挙げ、表彰台には10回上った。(ランキング3位) 一方「佐藤琢磨」も第9戦「US GP」では3位に入り、日本人としては1990年の「鈴木亜久里」以来14年ぶりに表彰台に立った以外にも、4位2回、5位2回、6位3回、8位1回と着実にポイントを稼ぎ、チームがコンストラクターズ・ランキングで「2位」になる為に大いに貢献した。(ランキング8位) しかし「バトン」はこの成績にも拘らず、シーズン半ばで来年は「ウイリアムズ」への移籍を表明した。(優勝可能なチームを探していた?)「BAR」側は契約無効の申し立てをし、これが認められて来年も残留することが決まった。シーズン終了後「本田技研工業」が「BAR」に資本参加することが決まり、「BAT」(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)が 55%、「本田技研」が45%を出資して新たに作った「BARH」という会社が旧「BAR」を買収する形となった。

(写真03-5a~d) 2005 BAR-Honda 007 (RA005E)
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前年が好調だっただけに「今シーズンこそは」と期待を持たせたが、結果は散々な年となった。開幕から第3戦まで1ポイントもとれず出遅れた。しかし続く第4戦「サンマリノGP」では「バトン」3位、「佐藤琢磨」5位と2人揃って入賞し10ポイントを挙げた。ところがレース終了後の車検で車重が最低規定より4.5キロ軽いと判定され失格となった。(違反の事実より重すぎる車に悩んでいた「ホンダ」が軽すぎて罰せられる事の方が驚きだが)この年の「ホンダ・エンジン」は予備のコレクター・タンクに一定量の燃料をキープし、走行条件に関係なく安定して燃料供給を行う仕組みだった。ホンダの見解はこれは使い切ることのないもので、燃料というよりはいわば構造物に近いものとして重量に含めていた。入賞しなかった過去のレースでは問題視されなかったし、今回のレース中も常に600キロを上回っていたというデータも提示し一旦は失格が取り消された。しかし「FIA]はこれを不服として「BAR」の2005年出場停止と罰金1万ユーロを求めて国際控訴裁判所に提訴した。この辺りからはレース以外の政治的思惑が絡んでくる。裁定では「故意」「悪意」は認められないが「レギュレーションの確認義務を怠った」として2レースの出場停止が言い渡された。当時「FIA」の独断に嫌気を感じていたF1参加メーカー達は、2008年から別の運営組織を作って レースをやる計画を立てており「ホンダ」もその一員だったのでその辺も絡んでおるのでは、という見方もあった。以後のレースでは6キロのバラストを搭載してレースに臨んだ。
・中盤過ぎの第10戦から「バトン」は息を吹き返し、残りの9戦はすべて完走してポイントを上げ、3位で2回表彰台に上がった。失格、出場停止2回のハンデを負いながらも個人ランキングでは9位に入っている。一方「佐藤琢磨」は、復帰後も全く不調で、第13戦「ハンガリーGP」で8位になってあげた1ポイントだけでシーズンを終わった。
・「バトン」は来年から「ウイリアムズ」に移るのではないかと予測され、それに備えて「BAR」は「ルーベンス・バルチェロ」を獲得していたが、前年一度も優勝できなかった「ウイリアムズ」を見た「バトン」は移籍することをやめ2006年も「BAR」に残ることになった。その結果、割を食ったのが「佐藤琢磨」で「バトン」の抜けた後の座を狙っていた望みが絶たれてしまった。
・F1の有力スポンサーが販売する「タバコ」が人体に有害として社会的に嫌悪される傾向はかなり前から始まっていたが、タバコの広告が規制され始め、その波はF1の世界にもやってきた。ナショナル・カラーがいつの間にかスポンサー・カラーとなり「ラッキーストライク」や「キャメル」など、タバコを吸わない僕でさえお馴染みとなっている時代は終わりを迎えていた。かくして広告の出来ないことを見越したタバコ産業はF1のスポンサーから撤退が始まり、2005年10月「BAT」は所有する株全てをホンダに売却し「BAR」チームは100%ホンダの物となった。ここで「BAR」の時代は幕を閉じたが「ホンダ」の挑戦はもう少し続く。
 

③-2 <第3期(後半)・ホンダF1時代> (2006~08)
(写真03-6a~d)2006 Honda RA106 (RA806E)
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・2006年はエンジンの規定が変わり、排気量は3.0 ℓから2.4 ℓに下げられ、気筒数もV10からV8に減らされた。前年所有する株をすべてホンダに譲り渡した「BAT」だが,まだこの年は広告が可能だったのでスポンサー契約は継続され、車体は「ラッキーストライク・カラー」のままだ。車名が変わっても運営スタッフは変わらず、開発責任者は2002年以来「ジェフ・ウイリス」が担当している。車名は「RA106」と変わったが「RA」(レーシング・オートモビル)のネーミングは、第1期の1968年「RA302」以来38年ぶりに復活となった。
・第2戦「マレーシアGP」では「バトン」がポール・ポジションをとる好調な出だしを見せて3位となり、18戦を通して8、9、11戦の3回以外はどちらかが入賞してポイントを獲得していた。「バトン」は第13戦「ハンガリーGP」で念願の優勝を果たし、「ホンダ」には、1967年RA300が「イタリアGP」で優勝して以来のコンストラクターとしては3勝目をプレゼントした。「バトン」は個人順位では6位となったが、相棒「バルチェロ」も着順では4位以上はなかったものの、入賞回数は多く地味にポイントを稼いで7位に付けた。

(写真03-7a~e)2007 Honda RA107 (RA807E)
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・この年から「タバコ産業」のスポンサーが姿を消した。その影響で目を引いたのが「ホンダ」の塗装で、日頃から地球環境に高い関心を持っていた「ホンダ」は一切の広告を排除し、宇宙から見た地球にも見える「アースカラー」と名付けた「ブルー」「グリーン」「ブラック」の3色で構成されたものだった。しかし話題となったのはこの見た目だけで、肝心の走行性能については最低だった。それまでマシン開発の中心となっていた「ウイリス」が前の年解雇されて以来、合議制で造られたマシンはリーダー不在の失敗作となってしまった。結果の出ないホンダの車はその塗装から「カビが生えた車」とまで言われた。シーズンを通して「バトン」は5位1回、8位2回で6ポイントしか稼げず、「バリチェロ」に至っては最高9位で1点も取れなかった。コンストラクターの順位はそれでも8位ではあったが、1位の「フェラーリ」204ポイント、2位の「ザウバー」101ポイントに対して僅か6ポイントだった。

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「ホンダ」のF1挑戦は2008年で幕を下ろした。前年が絶不調の上、08年も2人で3位1回、6位2回、7位1回と4回しか得点圏に入れなかったから、2年続きの成績不振がやる気をなくした原因かと思っていたが、それは大間違えだった。「ホンダ」は2007年11月名将「ロス・ブラウン」を責任者に迎え入れ、根本的立て直しを図っていたのだ。2008年はバランスの悪いマシンの改良を諦め来年に賭け、早めに「RA109」の熟成に時間をかけた。その成果はホンダを引き継いだチーム「ブラウンGP」によって実を結び、2009年「ブラウンGP」の「バトン」はデビュー戦でいきなり優勝すると2、4、5、6、7戦と優勝を続け、後半は「バリチェロ」が11、13戦と2勝し通算8勝を挙げて172ポイント獲得しコンストラクターズ・チャンピオンとなった。そのマシンこそ2008年の結果を捨てまで翌年を目指し15か月かけて熟成した「ホンダRA109」となる予定の「BGP001」だったから、「ホンダ」があと1年頑張れば連戦連勝の感激が味わえたかもしれないのに、と悔やまれる。因みに「ホンダ」が撤退した本当の理由は「リーマン・ショック」の影響による財政的な理由という事だ。

(参考)2009 Brawn BGP001
(03-8d) 2009 Brawn BGP001 Jenson_Button_2009_Turkey.jpg

 
― 次回から「I」項に入り「インペリアル」「イノチェンティ」「インヴィクタ」の予定です―

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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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