三樹書房
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第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)
2017.1.27

(00)08-01-15_1846 GottliebDaimler(1834-1900).JPG
(00) ゴットリーブ・ダイムラー

今回取り上げる「Daimler」には、ドイツで生産された本家「ダイムラー」と、このダイムラーのエンジンのライセンス生産をする為1893年イギリスで設立された「デイムラー」がある。我が国ではドイツのほうを「ダイムラー」、イギリスの方を「デイムラー(デムラー)」と呼び両者を区別している。
・「ダイムラー」は言わずと知れたガソリンエンジンの父「ゴットリーブ・ダイムラー」(1834-1900)に由来する。彼はガソリンエンジンを実用化した功績から高い評価を受けているが発明者ではない。
・シリンダー内の圧力を動力に変える発想はすでに蒸気機関で実用化されており、どこからが内燃機関と言えるのかは諸説あるが、1794年英国で「ロバート・ストリート」が特許を取得したものが混合気に点火栓を備えている点で第1号だろう。 
・その後1860年実用的な動力として成功したのはフランスの「エティエンヌ・ルノワール」が造った石炭ガスを燃料とし、電気点火栓を持つ無圧縮2サイクル・エンジンだった。これは定置用としては役に立ったから1865年までに400台近くが量産され、イギリスでも100台がライセンス生産された。この後石炭ガスに変えてガソリンを使用するエンジンを開発したが、これには広く浅い容器からの自然に蒸発したガスをシリンダーに導入する「サーフェス・キャブレタ」が使われていた。
・1862年、無圧縮2ストロークの欠点を改良し、吸入、圧縮、爆発、排気の4ストローク理論を完成させたのはフランス人「ボー・ド・ロシャ」だったが、彼は理論のみで実物は造っていない。
・結局この4サイクル・エンジンの実用化に成功した「ニコラウス・アウグスト・オットー」(1832-91)が4サイクル・エンジンの創始者として世に知られ、このシステムは「オットー・サイクル」とも呼ばれている。オットーは1872年1月「ガスモトーレン・ファブリーク・ドイツ」を設立し、3月にこの工場長に就任したのが「ゴットリーブ・ダイムラー」だった。

・「ゴットリーブ・ダイムラー」は1834年3月17日ドイツの南西部ショルンドルフで生まれた。父はパン屋とワインバーを営んでいたが、本人は子供の頃から機械に興味を持ち、鉄砲鍛冶の徒弟を経てシュトゥットガルトの工芸学校、工科大学に学ぶ。一時蒸気機関車の製造工場に就職するも、蒸気機関の将来に疑問を感じ退職、27歳で1年間イギリスに滞在し当時の最先端技術を習得する。帰国後はその知識を生かして、いくつかの会社で働き、その間に終生の友人「ウイルヘルム・マイバッハ」と知り合う。そして38歳で「アウグスト・オットー」が作ったエンジン製造会社に工場長としてスカウトされ、「マイバッハ」と共に「オットー・ランゲン・ガスエンジン」の改良に当たり、1875年には634台を製造した。しかしこのエンジンは彼らが目指している「小型・高速エンジン」とは程遠く、出力は3hp止まりで、大きさは3~4メートルの高さが必要で、振動も騒音もひどいものだったという。そこで次世代の新エンジンの開発に1861「オットー」が一旦諦めた4サイクル・システムを取り上げ、「ダイムラー」と「マイバッハ」の知恵を加えて一つ一つ問題点を解決し1876年5月には理論的完成、10月には実物が完成した。
(写真01) 1880 定置用オットー・サイクル・エンジン
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・「オットー・サイクル・エンジン」は4サイクル・エンジンとしては完成したがまだ大型の定置用で小型・軽量では無かったが、企業としてはそれなりに成功した。しかし、これに満足できなかった「ダイムラー」は1881年独立し、シュツットガルトに研究所を造り、盟友「マイバッハ」と共に理想のエンジン開発に取り掛かる。当時のエンジンの最大の弱点は「点火装置」で、「火焔式」と呼ばれる直に炎をシリンダー内に送り込むシステムが主流だったが高速化には適さなかった。そこで考え出されたのが「ホットチューブ・イグニッション」と呼ばれるシステムで、シリンダー内に試験管形の金属チューブを突出し、その先端を外部からバーナーで加熱するというもので、このおかげでそれまではせいぜい150rpmだった回転は一気に900rpm 迄可能となった。もう一つの弱点「スライド式の排気装置」は最終的にはカムとバルブスプリングに変わり、吸気に関しても自然蒸発の「サーフィス・キャブレター」は1883年「マイバッハ」が発明した現代と殆ど変わらないキャブレターが装着され、ダイムラーの小型エンジンが完成した。

(写真02) 1883 ダイムラー・エンジン(第1号)
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・この1号機は小型ではあったが定置型そのままの仕様で、空冷、水平型、オープンクランクだった。これを改良してより実用性を高め、水冷、直立型で、クランクをケースに収め防塵と潤滑を図った。1885年特許を取得したこのエンジンを使って造られたのが史上初の「ガソリン自動車」となった2輪車だった。

(写真85-1abc) 1885 Daimler The First Motor Bicycle & Engine
(85-1a) 08-01-15_1871 1886 Daimler Single-Cylinder Engine(theGrandfatherClock).JPG
モーターサイクルに使われた1気筒直立エンジン
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写真は自動車の歴史に興味を持った人なら誰でも知っている「ガソリンエンジンで最初に走った乗り物」として知られる「ダイムラーのモーターサイクル」とその「エンジン」だ。初めて移動可能な小型エンジンを使った乗り物として選んだのが木製フレームのモーターサイクルだった。座席の下に置かれたエンジンは直立 空冷(水冷ではない)1気筒 264cc 0.5ps/600rpm で最高時速12km/hのスペックを持って居た。最初に見た印象はそのサドルの形で、自転車と違って大きく幅が広いのでライダーは乗馬している感覚だっただろう。会場の説明にも「ライディング・カー」と表示されていた。両サイドの補助輪は常時接地していたから「4輪車」と言えなくもないが、細いアームはカーブで車体が傾いだ時には多少たわむようになっているようだ。

今回の写真で撮影日時・場所が記入されていないものは「2008-01-15 メルセデス・ベンツ・ミュージアム」で撮影したものです。

(写真86-1a~d) 1886 Daimler First Motorizing Carriage
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1885年モーターサイクルで成功すると、次は4輪車に挑戦した。そのために一回り大きい462cc 1.1ps/600rpm のエンジンを造ったが、当時彼らはエンジン・メーカーだったからボディは専門家に外注した、と言ってもそれは馬車を造る専門家だった。だから出来てきたボディは馬車そのもので、後席の床に穴をあけて背の高いエンジンの首を出し、水冷エンジンのラジエターは後方に斜めに付けられた。操舵は前輪の車軸ごと向きを変える馬車と同じシステムだったから、馬が引っ張れば「馬車」、エンジンで走れば「ホースレス・キャリッジ」だった。後席の床にはデンとエンジンが顔を出していたから人は乗れなかっただろう。最高時速18km/hで走った。


<自動車以外にエンジンを使った「陸」「海」「空」の乗り物たち>

(写真87-1ab) 1887 Daimler Motorrized Handcar
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初期の手押し人力鉄道にガソリンエンジンを付けたもので、エンジンは後席の床の真ん中に据え付けられている。人力で押す苦労に較べれば、座ったままでお客を運べるこの装置は画期的な発明だ。

(写真88-1a) 1888 Daimler Motorboat " Marie "
(88-1a)08-01-15_1942 1888 Daimler Motorboat 
ガソリンエンジンを載せた小型ボートは当時としては驚異的な速さを誇り、プリンス・ビスマルクが愛用した。489cc 1.5ps/700rpm 11kn/h

(写真88-2ab) 1888 Wolfert's Motorized Airsip with Daimler Engine
(88-2a) 08-01-15_1945 1888 Wolfert's Motorized Airsip with Daimler GrandfatherCloockEngine (初期の飛行船の動力装置).JPG

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この展示物を見た僕の第一印象は「おおッ! ダイムラーもダビンチと同じようにヘリコプターを造ったか」と思った。前進と昇降用の大きなスクリュウと方向舵を持っていたからだ。しかしこのエンジンで空を飛べる訳はないと思ったら、実は気球の下に吊り下げてコントロールするもので、後年実用化した「飛行船」の先駆けと言えるものだった。ヴェルフェルト博士が「自由気球」の飛行に成功したことを知って、それをエンジンでコントロールすることを考えたのだ。新エンジンの用途について模索中のダイムラーにとっては、これで「陸」「海」「空」を制する事になった。(因みにライト兄弟が初飛行に成功したのは5年後の1903年だから、飛行機と言うものはまだこの世には存在しなかった。)603cc 2ps/720rpm


(写真89-1abc) 1889 Daimler Motor Quadri Cycle "Stahlrad Wagen"
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(89-1b)08-01-15_1950 1889 Daimler Motorized Quadri Cycle V2 565cc Stahlrad Wagen(シュトラール・ヴァーゲン).JPG

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直立1気筒に改良を加え、V型2気筒 970cc 1.65ps/920rpmを完成する。このエンジンは出力/重量比が従来の2倍という軽量化に成功した優れものだった。このエンジンを搭載する新しい車体は「ダイムラー」と「マイバッハ」自身が考案したもので、「馬車」からの脱却を視野に造られたものだが、全体には「自転車」の雰囲気が強い。馬車の木製車輪に変えて鉄製のホイールにワイヤースポークの車輪が特徴で「シュトールラート・ヴァーゲン」の愛称は「鋼鉄製の車輪を持つ車」という意味だ。特に自転車を連想するのは前輪周りで、自転車の前輪を2つ並べて1本のティラーで操作するというシステムだ。エンジンは完全に座席の下に収納された。

(写真92-1a~d) 1892 Daimler Motor-Strassenwagen
(92-1a) 08-01-15_1969 1892 Daimler Motor-StrassenWagen(1889 クワドリシクルの市販モデル).JPG

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写真の車こそダイムラー初の市販車で、ベースは前項の「ワイヤー・ホイール」の車だ。見た目は初期の自動車と変わらないが前輪にその特徴がそのまま残っている。それぞれが独立していて、前輪の車軸が無い。車輪はやや小型で当時使われていた普通の物に変わったから愛称も「鉄の車輪」から「道路を走る車」と変わった。V型2気筒 762cc 2ps/700rpm 最高速度は22km/hで12台造られ、最初の購入者はモロッコのモーレイ・ハッサン一世だった。

(写真92-2a) 1892 Daimler Motorized Fier-Fighting-pump
(92-2c)08-01-15_1964 1892 Daimler Motorized Fire-Fighting Pump.JPG
消防用の放水車だが本体はまだ馬に引かれて走る馬車で(その方が速かった?)、放水を直列2気筒 3041cc 7ps/540rpmのガソリンエンジンが行った。性能は毎分300リッターとなっていた。

(写真96-1a~d) 1989 Daimler Riemenwagen (Belt-driven car)
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(96-1b) 08-01-15_1990 1896 Daimler RiemenWagen Vis-a-Vis(ベルトドライブ).JPG

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資金難を解決するため、外部から資金を導入し、1890年「ダイムラー・モートレン㈲」を設立、ダイムラーは2/7 (28.5%) の株を所有したが、経営権は大株主に握られ、自由に研究が出来ない状況に見切りをつけ、1893年3月マイバッハと共に「カンシュタット」に移り、未完成の「ベルト駆動車」の完成を目指した。このベルト駆動車には1892年に取得していた4つの特許を取り入れたもので当時としては最も静かでスムースなものであった。新たに完成した初の直列2気筒 1060cc 4.6ps/740rpmエンジンにはマイバッハが発明した「スプレイ式・キャブレター」が使われた。このエンジンは「フェニークス」と名付けられ、フランスの「パナール・ルバッソール」ではライセンス生産をして自社の車に載せていた。

(写真98-1ab) 1898 Daimler Cannstatt (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
(98-1a) 07-06-25-1208 1898 Dailer Cannstatt.JPG

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「Daimler」は英語表記では同じなので「ドイツ製」か「英国製」かの区別が難しい。この写真はイギリスで撮影したものだが案内にドイツ製と書かれていた。「カンシュタット」の愛称はダイムラー達が「ベルト駆動車」を造るため研究所を置いた場所だ。丸ハンドルとなったが、依然として前車軸のセンターを軸にして回る馬車時代と同じシステムで、典型的な「馬なし馬車」がエンジンで走る最初期の自動車だ。

(写真98-2a~d) 1898 Daimler 1.25t Truck
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ダイムラーは1896年最初のトラックを発表しており、初期からイギリスにも輸出されていた。参考の白黒写真の車は5トン積なので大小各種あったようだが、写真の車は2気筒 1527cc 5.6ps/720rpm で 1.25トン積だ。

(写真99-1abc)1899 Daimler Motor-Geschaftswagen(Bisiness Vehicle)
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一寸洒落た小型トラックと言う印象だが、この車は「トラック」ではなく「ビジネス・ビークル」とよばれる。用途は現代の「ピックアップ・トラック」や「ライトバン」のようなデリバリーを主な目的に使われたものと思われる。エンジンは「フェニックス」で、2気筒1527cc 5.6ps/720rpm 積載量は0.5トンだった。


<英国デイムラーの誕生>1896~
1894年フランスで「パリ~ルーアン」間のトライアルが開催され、「プジョー」と「パナール・ルバッソール」が上位を占めたが、そのエンジンはどちらも「ダイムラー」のライセンスによるものだった。それ以前からこのダイムラー・エンジンに注目していたのがドイツ生まれのイギリス人「フレデリック・リチャード・シムズ」で、英国内で独占権を得るため1893年「ブリティッシュ・モーター・シンジケート社」を設立しライセンス契約を結ぶ。1896年2月英国で「デイムラー・モーター・カンパニー」が設立され2年間は本家ドイツの「ダイムラー」を輸入販売にしていたが、その後エンジン以外は英国独自の発展を遂げて行く事になる。

(写真00-1ab)1900 Daimler 23ps Rennwagen
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00-1b 08-01-15_2590 1900 Daimler 23PS Phoenix Rennwagen.JPG
ダイムラー初のレーシングカーとなったこの車のオリジナルは1898年マイバッハによって造られた。その年は大活躍したが、翌年の「パリ~ボルドー」と「ツール・ド・フランス」では、皮肉にもダイムラーの「フェニックス・エンジン」を載せた「パナール・ルバッソール」に勝てなかった。1900年には3月のレースで大事故を起こしてしまう。それは重心が高く、重いエンジンで短いホイールベースではコントロールが難しいという欠点を持っていたからだ。そこでマイバッハが1900年後半から開発を始め1901年初めに完成したのが「ダイムラー35PS」である。


<メルセデスの誕生>1902~25
...............(写真00-1a) 1900 Daimler 35PS Ren Wagen " Marcedes "
................02-0 IMG_20170108_0002.jpg
1897年からフランスのニースでダイムラーのデーラーを開き、大株主でその後重役にもなったのが「エミール・イェリネック」で、当時オーストリア・ハンガリー帝国の領事であり、パイオニア・モータリストでもあった。前項の「23PS」に対して彼は「もっと重心を下げる」「ホイールベースを長くする」「エンジンの馬力を増やす」とその欠点を指摘し、1901年初めには新しいレーシングカーが誕生した。「ゴットリーブ・ダイムラー」はこの初期の傑作レーシングカー「35PS」を見ることなく1900年3月に生涯を閉じており、この車は「マイバッハ」と息子「パウル・ダイムラー」の手によって造られた。4気筒 5930cc 35ps./1000rpmのこの車は3月のニース・スピード・ウイークでレースにデビューすると、ぶっちぎりの速さで圧勝し、満足した「イェリネック」は「オーストリア・ハンガリー」「フランス」「ベルギー」「アメリカ」4国における独占販売権を獲得する。しかし「フランス」では「ダイムラー」の商標権は「パナール・ルバッソール社」が持っているため使えないし、堅い感じの「ダイムラー」に変わってもっと可愛らしい名前として考え付いたのが、当時11歳だった娘の名前「メルセデス」だった。この段階では「イェリネック」が扱う上記4国以外の物はまだ「ダイムラー」だったが「メルセデス」を名乗っている車がレースで活躍するとこちらの方が有名となり、翌1902年には本家ダイムラー社が「メルセデス」を自社の商品名として正式に登録した。これで晴れてダイムラーの一員となり、以来100年以上世界のトップブランドとして今日に至っている。不思議なのはこの歴史上重要なこの車が「メルセデス・ベンツ・ミュージアム」に展示されて居なかったことだ。 

(写真02-1a~e)1902 Mercedes -Simplex 40PS
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今回の項も1900年を超えてやっと自動車らしい形が登場した。この車は現存する最古の車で、マイバッハが設計した35PSの後継機は「シンプレクス」の名前が付けられて大きさの違う姉妹機が造られた。写真の車はレース用ではないが変わった形のヘッドライトさえ外せばすぐにもレースに参加できそうだ。4気筒 6785cc 40ps/1100rpm 最高速度80km/h。
最後の図面「60hp」は外見は「40PS」と殆ど変らないが4気筒 9290cc 65PS/1100rpm で最高速度は128km/hだったが、この車は有名な「ゴードン・ベネット・カップ」で優勝したことで良く知られている。

'写真04-1ab) 1904 Mercedes-Simplex 60ps Reiselimousine
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この車は前記の「ゴードン・ベネット」で優勝した「60PS」と同じタイプのバリエーションで、ホイールベースを伸ばし馬車風のリムジン・ボディを積んでいる。

(写真14-1abc)1914 Daimler Aussichtswagen Omnibus(2008-01 シュパイヤー科学技術館)
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ドイツの博物館で見つけたこの車は「1914 Daimler」と表示されており「メルセデス」ではないからイギリス製かとも思ったが、正面に「スリー・ポインテッド・スター」が付いているので、ドイツ製とわかった。このマークは1909年商標登録を申請し1911年許可されてそれ以降総てに使われている。30人乗りのこのバスは「輸送用」ではなく「観光用」だから窓は無く、左右一杯のベンチシートにそれぞれドアを持って居る。ドイツ語の「Aussightswagen」を訳したら「展望車」とあり納得した。

(写真14-2ab)1914 Mercedes Grand-Prix Rennwagen
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「メルセデス」はレースで活躍しその名を高めていたが、中でも1914年のこの車はリヨンで開かれたACFグランプリ(4.5リッター・フォミュラー)で1.2.3位を独占、翌年アメリカに送られ「インディー500」も優勝してしまった。4気筒 SOHC 4483cc 105ps/3100rpm 最高時速180km/hのエンジンを持ち、フレームはキックアップにより車高が低く抑えられ、正面のグリルはV字に折れて空気抵抗を軽減するなど、レーシングカーとしての進歩が見られる。V型ラジエターは1911年から始まり、初期は三ツ星マークが左右に2つ並んでいた。

(写真19-1abc)1919 Mercedes Knight 45/50PS(2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
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メルセデスでは1909年から乗用車部門に「ナイト・シリーズ」を登場させた。これはアメリカ人「チャールズ・ナイト」の特許「ナイト式ダブル・スリーブ・バルブ」を使ったエンジンを持つ車だ。その仕組みは現代のきのこ型のポペット式がカチャカチャと打音がするのに対して、穴の開いたシリンダーが2重になっていて外側が上下、或いは左右に動いて位置があった時に吸気・排気が行われるので、騒音が全く出ない。ただその機構が複雑な事、慣性が大きく高速回転に適さない事、オイルの消費量が多い事、シリンダーは高熱で膨張するので隙間の精度には高度な工作技術が必要である事など、数々の問題点を抱えているので、主に「静粛性」を重要視する高級車に限られ、1920年代後期までには殆ど消滅した。(「スリーブ・バルブ」は日本語では「摺動弁式」と書き擦れ合うという意味で、最近目にする「スリー・バルブ(3弁)」ではないので念のため)この博物館の案内板はいまいち信頼性に欠けるが、この車は「メルセデス・ベンツ」となっていた。合併するのはまだ先です・

(写真21-1ab)1921 Mercedes Knight 16/45PS Tourenwagen
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この車も前の車の後継モデルで、同じく「スリーブ・バルブ・エンジン」付きである。4気筒4084cc 45ps/1750rpm 最高速度80km/ hで、1926年までに約5000台造られた傑作車だ。この車の後ろ半分が外にせり出しているボディーは「ダットサン」の最初の市販車「10 型 フェートン」とも共通している。

(写真23-1abc) 1923 Mercedes 10/40/65ps Sport-Zweisitzer
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ダイムラー社が混合気を強制的にエンジンに送り込むことを考えたのは古く、1885年ゴットリーブ・ダイムラーが特許を取得している。ダイムラーがこれを実用化しようとしたのは第1次大戦中の航空エンジンへの対応で、高度が上がるにつれて希薄になる空気を補うため、という事になっているが、僕個人の感想では当時の飛行機は空気が希薄になるほどの高さまで上昇したとは思えない。せいぜい1000メートルまで上がっても88%程度が保たれるので(理論上は別として)実質支障は感じない筈だ。これが必要とされたのは第2次大戦末期B29の来襲で1万メートル付近が主戦場となった日本上空では8千メートル以上で戦闘能力を持つ「高々度戦闘機」として中島の「キ-87」が3段過給機付きで開発されたが実現に至らなかった。横道にそれた話を元に戻すと、ダイムラーではこの過給装置を自動車に取り入れ、レースで有効に使うことを考えた。「スーパーチャージャー」には駆動は機械式か排気利用か、混合気か空気のみか、フルタイムかパートタイムかなど幾つかの種類がある。メルセデスの場合は機械式で、空気のみ圧送、アクセルを一杯に踏み込んだ時のみ作動するパート式であった。最初にこの装置を備えた車は1921年ベルリン・モーター・ショーに登場した「1.5リッター 6/25/49PS」と「2.6リッター10/40/60PS」の2台だった。型式の数字は最初が課税馬力、次がノーマル出力、最後が過給時の出力で、この表示方法はメルセデス・ベンツになってからも引き継がれた。写真の車は4気筒 2614cc 40ps/65ps/2800rpm とても魅力的な車で1922~24年に851台造られた。

(写真23-2abc)1923 Mercedes 6/25/40PS (2008-01 フォルクスワーゲン・ミュージアム)
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この車は1921年ベルリン・モーター・ショーでデビューした2シーターのスポーツカーと同じく、4気筒 1568cc 25ps/40ps/2800rpmのエンジンを持つ姉妹車で、一見普通のツーリングカーに見えるが、素晴らしい性能を秘めており、現代風に言えば「羊の皮を被った狼」というところか。

(写真24-1ab) 1924 Mercedes 2-litre 120PS Rennwagen
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この車は「パウル・ダイムラー」の後を継いで「フェルデナント・ポルシェ」がダイムラー社の技術部長に就任して最初に手掛けた車で、イタリアのシシリー島で開かれた「タルガ・フローリオ」でデビューしクリスチャン・ヴェルナーがいきなり優勝した。それを記念して「タルガ・フローリオ」と名付けられた。ドイツのレーシング・カラーは「白」なのに何故かこの車はイタリアン・カラーの「赤」だ。ドライバーがイタリア人かと調べたがドイツ人で、「赤」にした根拠は不明。しかし、この赤い塗装がこの車の優勝を大きく後押しした、と言うのは沿道の観客は、ライバルの「白」(ドイツ)や「青」(フランス)と違った「赤い車」が遠くから近づいて来ると大声援を送った結果が優勝につながった、という事らしい。
 

<ダイムラーとベンツの合併>
第1次世界大戦は1918年ドイツの大敗で終結した。だから1920年代の初めは敗戦国として賠償金1320億マルクの支払義務を負わされ、1923年ルール地方の労働者のストライキに端を発したハイパーインフレに襲われるなど、経済は不安定の状況で、高級車の購買層だった貴族や大地主にも冬の時代が続いた。自動車の購買層は中産階級にも広がって量産によるコスト引き下げで低価格の車種も必要とされる時代となってきた。この社会情勢の中で「ダイムラー」と「ベンツ」が合併をすることになる。両社共世界最古の自動車メーカーであり、市場でもレース場でもしのぎを削り合ったライバルが合併して、上手く行くだろうかと言う懸念はあったに違いない。どちらかが吸収されるような合併は、される方に諦めがあるが、対等合併はそれぞれが負けまいと頑張る傾向があり、完全にニュートラルになるのは合併後入社した新人が中堅となり、旧社意識を持ったベテランが居なくなるまで20年はかかるだろう、と僕自身の体験からも想像される。この合併については「ベンツ」側が積極的で、1924年には合併を前提とした両社間で持ち株の交換が始まり、1926年6月ダイムラー 6 対ベンツ3.45の割合で合併が成立した。これ以降は「メルセデス・ベンツ」となるので、今回の「ダイムラー」(独)についてはここで終了とする。

― 次回は「デイムラー」(英)の予定です ―

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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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