三樹書房
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第15回  アウディ・1
2014.2.27

前回の最後に「Audi」が僕にとって「難物」だと書いたのには次のような理由がある。ここで対象とする「アウディ」一族は「色々なメーカー」の集合体であること、呼び名が何回も変り、しかも「両方の名前が重なる」こともあり分類しにくい事、僕の中では戦後の「DKW」がスタートの原点で、その後「アウトユニオン」や「アウディ」に変わったと思っていたが、実は「昔の名前に戻った」だけだった、という時代的な違和感もある。それやこれやで、頭の中で上手く分類整理が出来ていない。そこで今回は戦前を「ホルヒ」「アウディ」「DKW」「ヴァンダラー」「アウトウニオン」の順に、そして戦後は「DKW」「アウトウニオン」「アウディ」と続けたい。

現代版アウディのシンボルマークとなっている4つのリングは、戦前「DKW」「アウディ」「ホルヒ」「ヴァンダラー」の4社が大連合して1932年に誕生した「アウトウニオン」の象徴として戦前から使われてきた。因みに左から「アウディ」「DKW」「ホルヒ」「ヴァンダラー」とポジションが決められているそうだ。

(写真00-0)「アウトウニオン」になってからの各モデルのグリルには「4つの輪」が付いたが、それぞれの車名を表すバッジはその儘だ。
(00-0a)b(99-36-08) 1937 Audi 225 Glaser Cabriolet - コピー.jpg
  アウディ
(00-0b)b(99-11-12) 1935-37 DKW F-5 700 Front Luxus Cabrioletのコピー - コピー.jpg
 DKW(デー・カー・ヴェー)
(00-0c)b(04-71-33) 1938 Horch 853A Erdmann & Rossi Sport Cabriolet - コピー.jpg
 ホルヒ
(00-0d)b(99-35-30) 1936 Auto Union Wanderer Roadster - コピー.jpg
 ヴァンダラー


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<戦前・1 ホルヒ> 1899-1945
アウトウニオンを構成する4社の中で一番古いのはアウグスト・ホルヒが1899年設立した「ホルヒ社」で1901年には1号車を発表している。しかし1909年には経営陣と折り合いが付かず会社を飛び出し「アウディ」という別会社を作ってしまうからややこしい。創業者が飛び出してしまった後も会社は「ホルヒ」の名前で車を造り続け、1923年にはゴットリブ・ダイムラーの息子「パウル・ダイムラー」がチーフエンジニアに就任し、第1次大戦中ダイムラーの航空エンジンで得たノウハウを生かしDOHC直列8気筒エンジンを完成した。最初に市販されたのは1926年の3132ccの「300」だったが、この時点でDOHCの高度なメカニズムを持つのはレーシングカーかスーパースポーツのみで、これ以来超高級車として「ホルヒ」のイメージが定着した。そして「アウトウニオン」となってからのグレード別住み分けでも、最上位を担当することになる。


(写真01-1abc)1932 Horch 8 Type780 Sports Cabriolet (1999-08 ペブルビーチ)
(01-1a)(99-35-31) 1932 Horch 780 Sports Cabriolet.jpg

(01-1b)(99-35-32) 1932 Horch 780 Sports Cabriolet.jpg

(01-1c)(99-35-33) 1932 Horch 780 Sports Cabriolet.jpg

1920年代の初期モデルは残念ながら写真を撮っていないので、アウトウニオンに参加した直後のこの車が最初に登場する。1930年代初期の「ホルヒ」には気筒数によって「8」と「12」のシリーズがあり8気筒には3ℓから5ℓまで、12気筒には6ℓのエンジンが用意された。写真の車は4944ccのエンジンを持つグループの中の一つで、Type「780」だが、仲間は「480」「500」となっており排気量でもなく、馬力でもなく、順番とも言い難くこの数字を決める法則は解明出来なかった。


(写真01-2abc)1938 Horch 853A Sports Cabriolet by Erdmann & Rossi (2004-08 ペブルビーチ)
(01-2a)(04-71-33) 1938 Horch 853A Erdmann & Rossi Sport Cabriolet.jpg

(01-2b)(04-71-32) 1938 Horch 853A Erdmann & Rossi Sport Cabriolet.jpg

(01-2c)(04-71-34) 1938 Horch 853A Erdmann & Rossi Sport Cabriolet.jpg


(写真01-3ab) 1938 Horch 853A Sports Cabriolet by Voll-Ruhrbeck (199-08 ペブルビーチ)
(01-3a)(99-36-05) 1938 Horch 853A Voll-Ruhkrbeck Sport Cabriolet.jpg

(01-3b)(99-36-02) 1938 Horch 853A Voll-Ruhrbeck Sport Cabriolet.jpg

(写真 01-4a) 1939 Horch 853A Sports Cabriolet (2008-01 ジンスハイム博物館/ドイツ)
(01-4a)08-01-14_0828 1939 Horch 853A.JPG

(写真 01-5ab) 1939 Horch 853A Sports Cabriolet (2012-04 トヨタ自動車博物館)
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(01-5b)12-04-21_175 1939 Horch  853A.JPG

(写真 01-6ab) 1939 Horch 853A Sport Cabriolet (2008-01 ドイツ博物館)
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(01-6b)08-01-16_3363 1939 Horch 853A Sport-Cabriolet.JPG

ここにズラリと登場した「853A」シリーズは前の「780」シリーズと同じく8気筒SOHC 87×104 4944cc のエンジンを持つ。このエンジンは1931年から登場し1937年には圧縮比を上げ100psから 120psにアップして1940年の最終モデルまで造られた。ホルヒにはV12気筒6021cc の大型エンジンがトップモデルとして存在したが1931年から33年の3年間だけで姿を消したのでそれ以降はこの8気筒4944ccのエンジンが最上位であった。

 

(写真 01-7a) 1938 Horch 855 SpecialRoadster by Erdmann & Rossi (1995-08 オークション会場/モンタレー)
(01-7a)(95-29-27) 1938 Horch 855  Erdmann & Rossi Roadster.jpg

(写真 01-8ab) 1938 Horch 855 Special Roadster by Erdmann & Rossi (1999-08 ペブルビーチ)
(01-8a)(99-36-14) 1938 Horch 855 Erdmann & Rossi Special Roadster.jpg
(01-8b)(99-36-12) 1938 Horch 855 Erdmann & Rossi Special Roadster.jpg

「855」シリーズは前の「853A」と同じエンジジンを持ち、諸データを見る限りメカニカル的には全く変わらない。ただ「853」系が4人乗り「スポーツ・カブリオレ」だったのに対して「855」は2人乗りの「スポーツ・ロードスター」とボディの違いだけで型式まで変わったらしい。総重量は150kg軽量化され、最高速度は135km/hから140km/hと上がったが、値段も15250マルクから22000マルクと大幅に上がっている。仲間内で一番お洒落な車である。

(写真 01-9ab) 1939 Horch 930V 4dr Tourer (1999-08 ペブルビーチ)
(01-9a)(99-36-21) 1939 Horch 930V Cabriolet.jpg

(01-9b)(99-36-19) 1939 Horch 930V Cabriolet.jpg

(写真 01-10abc)1938 Horch 930V Cabriolet (2008-01 VW博物館/ウオルフスブルグ)
(01-10a)08-01-13_0207*1938 Horch 930V.JPG

(01-10b)08-01-13_0208*1938 Horch 930V.JPG

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1938-39年当時「850」シリーズより大きい「900」番代を持つこのシリーズは、一般的には、最上位の車である筈なのだが、どっこいこの車のエンジンはV8 3823cc の普及版の方で値段も10100マルクと半額以下だ。(もっと判らないのは同じ年の「951A」は直8 4944ccのエンジン付きの文字通り最上位で23550マルクもする)このからくりを全体で見るとV8エンジンの「830」系が1938年に次世代「930」系となったのに、直8エンジンの「850」系が同時に変更せず其の儘「850」を使い続けた為で、「853A」「855」は「953A」「955」だったら不自然を感じなかった筈だ。・

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<戦前・2 アウディ> 1910-
1909年「旧ホルヒ」社を飛び出した「ホルヒ」はその年のうちに同じ町に「アウグスト・ホルヒ自動車工業」と名づけた会社を立ち上げた。(ややこしい)同じ町に同じ名前の会社が出来てしまったわけで、「旧.ホルヒ」側からの抗議で裁判となり、結局本人は自分の名前を使えない事になってしまった。止むなく付けたのが「Audi」で、「Horch」から連想するドイツ語の「Horchen」(注意をして聞く)と同じ意味をもつ「ラテン語」から採った。こうして1910年「アウディ自動車工業」はスタートした。最初の市販車は1911年の「TypeB」で「アウトウニオン」になるまで「C」以降アルファベット名のシリーズが続き、「アウトウニオン」となってからは中級部門を担当した。

(写真02-1abc)1914 Audi TypeC Alpensieger (2008-01 ドイツ博物館)
(02-1a)08-01-16_3293 1914 Audi typeC Alpensieger.JPG

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1911年の最初の市販車「タイプB 10/28ps」に続いて、同じシャシーに一回り大きい4気筒3564ccエンジンを載せた強化版「タイプC 14/35ps」が発売された。写真の車はこの車のホイールベースを3050mmから2900mmに縮め、エンジンを40psまで高めたスポーツバージョンでアウグスト・ホルヒ自身のドライブで1912-14年のオーストリア・アルパイン・トライアルで連勝し、それに因んで「アルペンズィーゲル」と名付けられた。殆どこのままでアルペン・レースを走っている写真もあり結構頑丈そうだ。

 
 
(写真02-2ab)1934 Audi Front UW220 (2008-01 VW博物館)
(02-2a)08-01-13_0218*1934 Audi Front UW220.JPG

(02-2b)08-01-13_0221*1934 Audi Front UW220.JPG

(写真 02-3ab)1937 Audi Front UW225 (1999-08 ペブルビーチ)
(02-3a)(99-36-08) 1937 Audi 225 Cabriolet by Glaser.jpg

(02-3b)(99-36-07) 1937 Audi 225 Cabriolet by Glaser.jpg

アウトウニオンは1932年DKWの主導で組織されたが、アウディは1928年以降既にDKWの支配下にあり、かつての6気筒4.7 ℓ「モデルM」や8気筒4.9 ℓ「モデルR」などの上級モデルの生産は既に中止され、グループ内では「中級担当」と位置づけされた。戦後、最後まで名前が残った「アウディ」だが意外なことに、4つのブランドの中では最も弱い立場にあり、エンジンは「ヴァンダラー」か「ホルヒ」から提供を受け、同じ中級車担当の「ヴァンダラー」が無難なフロントエンジン/リアドライブのレイアウトに対して、「アウディ」は競合を避けるため当時はまだ一般化していなかったFWD(フロントエンジン/フロントドライブ)を生産することになる。写真の車はこうして誕生した「ヴァンダラー」製の6気筒1950ccエンジンを持つ「アウディ・フロントUW220」で、支配者DKWのFWDは1ℓ以下なので2ℓ級に対するテストケースとして造らされたのだろう。しかし、この試みは成功で引き続き一回り大きい2257ccのエンジンを持つ「アウディ・フロント UW225」が1935年から38年まで造られ、DKWと合わせ全生産台数の4分の3がFWD車で占められた。


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<戦前・3 DKW(デー・カー・ベー)> 
DKWの創立者はデンマーク生まれの「イエルゲン・スカフテ・ラスムッセン」で、1907年、第2次大戦後は東ドイツとなるザクセン州ケムニッツに蒸気機関に関連する会社「ラスムッセン&エルンスト有限会社」を設立した。会社は順調に発展し、第1次大戦の軍需景気で更に大きく発展を続けて行く。1914年には蒸気エンジン付き自動車の開発を試みるも失敗、15年前ならいざ知らず、既にガソリンエンジンが普及しているこのタイミングではその意図が測りかねるが、実は、「蒸気自動車」のことをドイツ語で「Dampft Kraft Wagen」略して「DKW」となり、ここで「DKW」という車名が誕生したとされる。(一説には戦時中不足するガソリンの代替えエンジンを模索したとも言われる)第1次大戦後「DKW」の特徴となる「2ストローク・エンジン」の開発に成功し、敗戦国となって疲弊したドイツで、お手軽な「自転車用補助エンジン」(25cc)を発売し大成功を収めた。(本田宗一郎が造った「バタバタ」を思い出す)このエンジン「DKW」には「Des Knaben Wunch」(若人の夢)という解釈が与えられ、その後更に「Das Kleine Wunder」(小さな奇跡)と変更されたが、これが一番実態を表した表現で「DKW」というブランドにふさわしい。1921年この2ストローク・エンジンを使って本格的なオートバイの生産を開始し、瞬く間にドイツを代表するメーカーとなり会社の基盤を固める。この勢いを駆って1927年には4輪進出を決意し、手始めに自動車部品メーカーの子会社を作り、シュトフ・エンジン工場やドイツ自動車工業を吸収、1928年には2サイクル2気筒584ccのエンジンを搭載した小型大衆車「Type P 15ps」がライプツィッヒ・フェアでデビューし4輪車メーカーとしてスタートする。この年経営危機に瀕していた名門「アウディ」の株の大半を取得し経営権を握る。「DKW」は「アウトウニオン」の中では小型大衆車を担当する部門だが、企業体としては最も勢いがあり、ユニオン結成の中心となった。尚「DKW」はあくまで商品名であって、この当時の正式社名は「ゾッパウ・エンジン工業株式会社J.S.ラスムッセン」である。

(写真 03-0) 1929 DKW 2E200 Luxus Blitblase (2008-01 VW博物館/ドイツ)
(03-0b)08-01-13_0101 1929 DKW 2E200 Luxus Blitblase.JPG

1929年と言えば第1次大戦で敗戦国となったドイツが賠償金を払いながら復興途上に有った時期で、その貧乏さ加減は僕らが体験した昭和25-26年頃の日本と共通したものだろう。日本でも4輪車は殆ど生産されておらず高嶺の花で、手頃の移動手段は自転車か小型オートバイが主流で、数え切れないほどのオートバイ・メーカーが存在した。DKWは1920年に自転車用の小型エンジンの製造を始め、徐々に「200」「250]「300」の2ストロークエンジンを持つオートバイに発展して行ったのは「ホンダ」とも似ている。この2輪車こそ環境の要求に乗って大ヒットし経済的安定をもたらしたDKWの孝行息子である。

(写真03-1abc) 1931 DKW F1 Roadster   (2008-01 ドイツ博物館)
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DKW初の4輪車がデビューしたのは1928年だが1926年から自動車部品製造の子会社を作り、部品メーカーを吸収し、エンジン工場を吸収し、アウディを傘下に収め、ドイツ自動車工業を吸収している。この当時周囲は不況の真っ只中だが、年間4万台以上もオートバイが売れていたDKWは羽振りがよく、倒産寸前の中小工場を買収するのは比較的容易だったのだろう。写真の車はその後DKWの特色となるFWD(前輪駆動)の初代で、2ストローク、2気筒490cc 15psという一昔前の我が国の軽自動車並の車だが、これこそ不況時代が要求する経済車で、工場を拡大するほど売れた。写真の車は2トーンでお洒落に見えるが当時1750マルクで、同じ年の「メルセデス・ベンツ170」の4400マルクの半額以下だった。

 

(写真03-2ab) 1936-37 DKW F-5 700 Front Luxus Cabriolet  (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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(03-2b)(99-11-13) 1936-37 DKW F-5 700 Front Luxus Cabriolet.jpg

F-1から続いてきたFWD車はアウトウニオンになった後もそのまま継続され、1935年には「F-5」シリーズとなった。「F-5」には584ccの「600」と692ccの「700」があったが、DKWが造るFWD車は全てがこのサイズだったのは、1ℓ以上は「アウディ」が担当していたからだ。グリルには「アウトウニオン」の証「4つの輪」がしかり付いている。 


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<戦前・4 ヴァンダラー>
 ヴァンダラーの創業は古く、1885年、リヒャルト・イェニケとヨハン・バプチスト・ウィンケルホッファーの二人が「DKW」と同じ町ケムニッツで自転車の製造を始めたところから始まる。1902年には当時としてはまだ珍しいモーター・サイクルの製造を始めた。そして1905年には4輪車の開発に着手、何台かの試作を経て、1911年初の市販車「5/12 ps」が完成した。この車は2人乗りだが細身のボディーで前後に1人ずつ乗るタンデム方式で、自動車と言うよりは、むしろサイクルカーに近い。1931年には独立したばかりの「ポルシェ設計事務所」に設計を依頼し、ポルシェの設計番号「Type7」が(実はこれが事務所としては初仕事で本来ならば「Type1」だが、既に何台かの経験を持っているように見せかけらしい)ヴァンダラー「W15」として製品化された。続いて依頼した車はポルシェ「Type8」と呼ばれる8気筒3250ccスーパーチャージャー付きで、ピアスアローのように埋め込まれたヘッドライトを持つモダンな流線形ボディの魅力的な車だったが、アウトウニオン結成の際の車種統合でプロトタイプが1台完成しただけで市販には至らなかった。しかしこの車はポルシェ博士のパーソナルカーとして長く愛用された。「サイクルカーもどき」からスタートしたヴァンダラーだったがその後実績を重ね「アウトウニオン」では「中型車」「スポーツカー」分野を担当した。(余計な心配だが、もしこの時ポルシェが1番から番号を振っていたらあの有名なポルシェ「356」シリーズは「350」シリーズとなり、「911」シリーズは元が901だから「895」シリーズとなったかもしれない。)

(写真04-1) 1908 Wanderer Motorcycle (1008-01 ドイツ博物館)
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1902年からモーター・サイクルの製造を始めたというから既に6年経っているが、まだ自転車の面影を強く残している。ペダル付きでベルトドライブなど初期のメカニズムを持つ1910年前後のモーターサイクルの典型的な姿だ。

(写真04-2abc) 1911 Wanderer5/12ps Puppchen (2008-01 ドイツ博物館)
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写真の車は「ヴァンダラー」が最初に市販したモデルで、エンジンは4気筒で1145ccあり全体からすれば大き目である。写真ではあまり感じないが、かなり細長い車で、一見4人乗りのように見えるが実は縦に1人ずつのタンデム2人乗りで、正面の写真でハンドルが中央あることでも確認出来る。


(写真 04-3ab) 1938 Wanderer W24 Limousine (2008-01 シュパイヤー博物館/ドイツ)
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(04-3b)08-01-14_0839 1938 Wanderer W24.JPG

「アウトウニオン」結成後の「ヴァンダラー」のラインアップは、6気筒1種のみで1690cc の「W21」と1950ccの「W20」「W22」だった。1937年になって6気筒1690ccの「W21」に代わって、「W15」以来5年振りで4気筒1767ccの「W24」が登場した。一方6気筒1950cc「W40」は2257ccの「W45」「W50」と2651ccの「W52」となり排気量を増やし車格を明確にした。価格でも「W24」の3875マルク(旧「W21」は4660マルク)に対し「W45」5250マルク、「W52」5550マルクと一番安いランクでも大きく差がついている。


(写真04-4abc) 1936 Wanderer W25K Roadster (1999-08 ペブルビーチ)
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(04-4c)(99-35-27) 1936 W25K Roadster.jpg


(写真04-5ab) 1939 Wanderer W25K Roadster (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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(04-5b)(99-11-14) 1939 Wanderer W25K Roadster.jpg


(写真 04-6ab) 1939 Wanderer W25K Roadster (1999-08 ペブルビーチ)
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(04-6b)(99-35-26) 1939 Auto Union Wanderer W25K Roadster.jpg

「W24K」は「W40」の6気筒OHV 1950cc 40ps/3500rpmエンジンにルーツのコンプレッサーを付けた強化版スポーツバージョンで,その結果85ps/4000rpmと2倍以上の馬力を得て最高速度150km/hを可能にした。価格は6800~8250マルクとヴァンダラーの中で一番高く、スペシャル・ロードスターが少数造られた。 .


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<戦前・5 アウトウニオン> .
1929年の秋に起きた世界的大恐慌は、第一次大戦の賠償問題の痛手からようやく立ち上がりかけていたドイツに深刻な経済危機をもたらした。自動車業界にも倒産や吸収される中小メーカーが現れ、1929年最大手の「オペル」さえも、アメリカの「GM」に買収された他、同じアメリカ資本の「ドイツ・フォード」(戦後のタウナス)も大規模で進出してきた。この当時、オートバイと小型自動車で成功して羽振りの良かった「DKW」の「ラスムッセン」は「アウディ」を傘下に収めた後、その技術を取り込んだ、よりグレードの高い「DKW」の開発を目指していた。しかし日毎に力を増す海外資本に対抗するには民族資本の団結しかないと判断し、自らが音頭をとり、1932年中頃、既に傘下となっていた「アウディ」と、そのアウディと深い関係にある高級車メーカー「ホルヒ」を、更に年末には「ヴァンダラー」も含め4社によるザクセン州一帯をカバーする一大民族資本連合が出現した。これが「アウトウニオン」である。連合を組んだ後は部品やエンジンの融通で合理化を図り、一部のモデルの整理・統合はあったものの、それぞれのブランド名や特長はそのまま生かされた。元々競合車種が少ないメーカー同士が近くにまとまっていた事も合体しやすかったといえよう。「アウトウニオン」となった後も売られる車名は以前と変わらず、「連合」の象徴である「4つの輪」がグリルに追加されただけだが、「アウトウニオン」は立派な法人で、「DKW」「アウディ」「ホルヒ」「ヴァンダラー」の立場は、「ゼネラル・モータース」における「キャディラック」や「ビュイック」「シボレー」のようなデヴィションと考えればわかり易い。従ってこの時期「アウトウニオン」という「市販車」は1台もないが、「アウトウニオン」の名を世に知らしめたのは1連のグランプリカー「Pヴァーゲン・シリーズ」である。

<アウトウニオンのグランプリカー> 
1930年前後のヨーロッパ・グランプリは事実上無制限の「フォミュラー・リブレ」状態で、2ℓから7ℓまでが同じレースを走る中「ブガティT35」(仏)、「アルファロメオP2・P3」(伊)などが活躍し、ドイツにはそれらに対抗する車がなかった。1934年から「最大重量750Kg」とする新フォミュラーがはっきり決められ、ここでドイツの2大エース「メルセデス・ベンツ」と「アウトウニオン」が登場する。誕生までの経緯は、①ヒトラーが国威発揚のため国策として「アウトウニオン」「M・B」両社に「レースカー」造りを命じた。②アウトウニオン社が「ポルシェ」に設計を依頼した。と常識的に考えていたが、事実は全く逆だった。
「アウトウニオン」がポルシェ設計事務所と以前からコンサルタント契約のあった傘下の「ヴァンダラー」を通じてGPカーの設計を依頼した、という説明もあるが、僕は「GPカー」の設計はあくまでもポルシェ博士の意思で始められたもので、それに「アウトウニオン」が乗ったのだと思う。1932年10月12日に新フォミュラーが発表されると、間髪を入れず3週間後の12月1日には新フォミュラーGPカーの研究・設計をするため「高性能車開発会社」を設立して本気で開発を始め、1933年7月には図面が完成する。実現のための資金集めで、石油会社やタイヤ会社に協力を求めたが捗々しく無かった。しかしこの計画に資金的にも協力していたドライバーのハンス・シュトゥックがポルシェの「Pヴァーゲン」の可能性について「アドルフ・ヒトラー」に話した結果、国家の補助金が貰える事になった。と言われるが、補助金についてはダイムラー・ベンツのミュンヘン支配人「ヤコブ・ヴェルリン」が政権を取る前からヒトラーと親密な関係にあり、本人の持論である「ドイツ工業の地位向上のためには国際レースに進出すべし」を実現すべくヒトラーを動かして補助金獲得に成功している。「アウトウニオン」の場合はこの制度に便乗した形なので、シュトゥックがヒトラーに直訴したかは少々疑問が残る。この車は別名「Pヴァーゲン」(ポルシェのP)と呼ばれ、グループの中でも技術水準の高い「ホルヒ」の工場で造られる事になり、1933年10月「Aタイプ」の試作車が完成した。この契約に「コースを200km/hで周回出来た場合に限って採用する」という条件があったが、1時間平均224.8km/h、直線を275km/hで走り切り無事に契約は成立した。この状況(力関係)から見ると「アウトウニオン」が依頼したのではなく「ポルシェ」が売り込んだように思われる。1934年1月の「ベルリン自動車ショー」では話題となり「アウトウニオン」の名はやっと人々に知られ始めた。一連の「Pヴァーゲン」は1934-37年の「750kgフォーミュラ」で24勝した。(余談だがこの項で僕は幾つかの推理を働かせて原稿を書いている。実は今読みかけている矢田喜美雄著「謀殺下山事件」という「帝銀事件」「三億円事件」と並んで戦後三大ミステリー事件のドキュメンタリーが、国鉄総裁の「自殺説」と「他殺説」を推理する場面に差し掛かっているので、僕の頭の中も「探偵モード」なのだ。)

このシリーズにはAからDまで4つタイプがある。
(750kgフォミュラー(排気量無制限)/主任設計者フエルナンド・ポルシェ)
①  1934    タイプA V16気筒 4358cc 295hp SC付ミッドシップ・エンジン
②  1935    タイプB V16気筒 4950cc 375hp SC付
③  1936~37 タイプC V16気筒 6010cc 520hp SC付 
④   1938      タイプC ストリームライナー(速度記録車)
⑤  1938    タイプC マウンテン・クライムSP(ダブルタイヤ)

(3ℓフォミュラー/主任設計者エベラン・フォン・エベルホルスト)
⑥  1938~39 タイプD  V12気筒 2990cc 485hp 2段SC付

<CタイプGP>(1936-37)
フェルナンド・ポルシェが設計したPヴァーゲンと呼ばれるGPカーのレイアウトは、今では当たり前のミッドシップ・エンジンで重量配分を考慮した先進的な構造だが、今までと較べて座席が極端に前進したことからドライバーの受ける感覚は未経験の世界で、順応性の高い一部のドライバーしか乗りこなせなかったようだ。CタイプのエンジンはV16気筒6010cc 520hpで36-37年シーズン中殆ど変わらなかったが、それでも数多くの優勝を勝ち取っている。Pヴァーゲンの「Aタイプ」「Bタイプ」が現存するかは分らないが写真を撮っていないので、この項では「Cタイプ」から登場する。

(写真05-1a,b)1936 TypeC GP (1999-08 ラグナ・セカ/カリフォルニア)
(05-1a)(99-10-01) 1936 Auto Union TypeC GP.jpg

(05-1b)(99-10-02) 1936 Auto Union TypeC GP.jpg


(写真05-1c~e)1936 TypeC GP (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
(05-1c)(99-35-10) 1936 Auto Union TypeC GP.jpg

(05-1d)(99-35-17) 1936 Auto Union TypeC GP.jpg

(05-1e)(99-35-18) 1936 Auto Union TypeC GP.jpg


(写真05-1f~i)1936 TypeC GP  (2008-01 VW博物館/ウオルフスブルグ)
(05-1f)08-01-13_0376.JPG

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(05-1i)08-01-13_0379.JPG
 
僕はCタイプの写真を4回撮影しているが1999年の「ラグナセカ」と「ペブルビーチ」は同じ車である。また、2008年の2台は別の場所に常設展示されているので、それぞれ別の車である。そのうちVW博物館の車はペブルビーチのリストに出展者が「Audi AG」となっていたので、グリル周りにスリットが追加されているが多分同じ車だろう。

(写真05-1j~l)1936-37 TypeC GP  (2008-01ドイツ博物館/ミュンヘン)
(05-1j)08-01-16_3282 1936-37 Auto Union typeC GrandPrix.JPG

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この車は終戦前からミュンヘンのドイツ博物館に展示されていたため、唯一西ドイツ側に残された「アウトウニオンCタイプ」そのものである。造られた当時の新品のままの保存されていたこの車には、レストアされたものと違うオリジナルの持つ特別な雰囲気を感ずるのは僕の思い過ごしかもしれないが。

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<ストリーム・ライナー/速度記録車>(1938)
1934年、新フォミュラー「750kg」時代に入ると「アウトウニオン」のライバルは、赤の「イタリア」やブルーの「フランス」よりも、同じシルバーの「メルセデス」だった。ライバルに競争心を燃やしていたのは相手も同じだった。始まりは1937年10月、それまでに最もミッドエンジンのPヴァーゲンを乗りこなしていた「ベルント・ローゼマイヤー」が「タイプC」のスペシャルカー(6330cc 545hp)で公道での世界記録に挑戦、401.9km/hを出し、初の400キロ超えに成功した。負けじとばかりメルセデスは当時の最速マシン「W125」に、GPレース用の8気筒エンジンに代えてV12, 5577cc 736psのスペシャルエンジンを積み、完全フルカバーの流線型ボディを被せた「W125レコルトワーゲン」を完成させ、当時最強のドライバー「ルドルフ・カラツィオラ」のドライブで1938年1月28日、真冬のアウトバーンで挑戦することになった。一方、その噂を聞き付けた「アウトウニオン」も黙っている訳には行かず、急遽前回の「タイプC・スペシャル」に流線型のボディを被せて性能アップ(+30キロ)させた「タイプC・レコルトワ-ゲン"ストリームライナー"」で挑戦を決めた。驚くのはこんな凄いチャレンジを同じ日に同じ場所で両者が交互に行った事だ。現場はフランクフルト~ダルムシュタット間のアウトバーンで、アウトウニオン」のローゼマイヤーは午前10時30分に第1回目の試走を行い非公認ながら449km/hを記録した。一方「メルセデス」のカラツィオラは、午前中に公式記録としてフライング・キロメーター432.7km/hの世界最高記録を出していた。このあと正午にスタートし公式記録に挑んだローゼマイヤーは時速400キロを超えて走行中、モルフェルデンの切り通しと呼ばれる場所で横風に煽られて宙を舞い.斜面に激突する。そこで記録への挑戦と彼の人生は終わった。一説にはボディに当たる風圧は時速450キロでは1㎡当り約460kgもあり、それに突風の風圧が加わって薄いアルミ板の外皮が耐えうる限界を超えたのがコントロールを失った要因ではないか、ともいわれる。

(写真05-2a~e)1938 Autounion Recordwagen"StreamLiner" (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(05-2a)(99-04-29) 1937 Auto Union TypeC Streamliner.jpg
移動するときは、ボディを押すと凹んでしまうので、スパッツを外して車軸を押すしかない。

(05-2b)(99-05-34)  1937 Auto Union TypeC Streamliner.jpg

(05-2c)(99-04-22) 1937 Auto union TypeC Streamliner.jpg

(05-2d)(99-10-16) 1937 Auto Union TipeC Streamliner.jpg

(05-2e)(99-10-21) 1937 Auto Union TypeC Streamliner.jpg

(写真05-2f)(参考)1938 Mercedes Benz W125 Recordwagen (2008-01 ベンツ博物館)
(05-2f)08-01-15_2711 1938 M-B W125 V12国際B級記録車  .JPG

ライバルの「メルセデス」も見事な流線型だが、こちらはフロントエンジンで運転席は真ん中より後ろにある。


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<V16 マウンテンクライム・カー>(1938)

(写真05-3a~f)1938 V16 Mountain Climbing Car (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(05-3a)(99-10-12) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

(05-3b)(99-10-13) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

(05-3c)(99-10-14) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

(05-3d)(99-26-03) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

(05-3e)(99-05-35) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

(05-3f)(99-24-12) 1937-39 Auto Union V-16 Mountain Climb Car.jpg

この車は16気筒で「CタイプGPカー」のエンジンを持つ。6ℓ 520hpの強力エンジンの力を借りて、1938年イングランドの「シェルズリー・ウォルシュ」にあるマウンテン・コースの記録更新に挑戦した当時の姿を復元したもので後輪はダブルタイア仕様となっている。ただ、オリジナル・カーの写真を見るとサスペンションはむき出しだが、この車はカバー付きでむしろ「Dタイプ」のボディに近い。1938年からレギュレーション変更でGPレースに出られなくなってしまったCタイプの再利用先がこれだった。(追記・後日見つけた資料によるとヒルクライム・カーは2台造られ、1台は「Cタイプ」そのものだが、もう一台は「Dタイプ」のシャシーにCタイプの16気筒エンジンを載せた、とあるので写真の車がそれだと思う。)


<DタイプGP>(1938-39年)
1934年からの「750kgフォーミュラ(排気量無制限)」は最大重量を規制することでパワーとスピードを抑えるのが目的だったが1937年には6リッターを超えるエンジンで500馬力320km/hに達し、その開発速度は想定外だった。そこで新たに設定されたのが「3リッター(SC付き)」又は「4.5リッター(SCなし)」と排気量に明確な制限を設けるフォミュラーとなった。Pヴァーゲンの生みの親ポルシェ博士はこの時期KdF(後のVW)の計画で忙しく、新フォミュラーの開発はロベルト・エベラン・フォン・エベルホルスト博士が担当した。ミッドシップのレイアウトは変わらず、エンジンはCタイプV16、6ℓの改良版で「V12気筒2985cc 460hp /7000rpm SC付き」(最終的には500 hp)となる。シャシーはCタイプの流れを汲むツインチューブ・ラダーフレームだが従来の「スイングアクセル」から「ドディオン・システム」に変更され、テールの挙動が安定し大幅に操縦性が向上した。しかし、エース・ドライバーのローゼマイヤーを失った「アウトウニオン」は精彩を欠き、なかなか上位に食い込むことができなかった。そこで目をつけたのがイタリア人でアルファロメオのチャンピオン・ドライバー「タツィオ・ヌヴォラーリ」で、38年シーズン終盤なんとか2勝を挙げることができた。39年シーズンは若手の活躍もあってヌヴォラーリ以外にも優勝3回、2位5回と順調に推移していたが、1939年9月3日ベルグラードで行われた「ユーゴスラビアGP」でヌヴォラーリが優勝したその日、イギリスがドイツに対して宣戦布告し第2次世界大戦が始まると同時にグランプリ・シーズンは終わった。

(写真05-4a~d)1939 TypeD GP (2010-07 グッドウッド/イギリス)
(05-4a)10-07-04_0674 19398 Auto Union TypeD.JPG

(05-4b)10-07-04_0676 1939 Auto Union TypeD.JPG

(05-4c)10-07-04_0680 1939 Auto Union TypeD.JPG

カウルを外した写真からミッドシップに積まれたV12気筒エンジンと2基のスーパーチャージャーがよく解る。

1930年代後半のヨーロッパ・グランプリ界を2分した「メルセデス・ベンツ」と「アウトウニオン」は大戦後全く異なった道を歩む。東西に分割されたドイツは、西側にあった「メルセデス・ベンツ」と違って、東側に入ってしまった「アウトウニオン」傘下の各社はソ連の管理下に置かれ、グランプリカーの行方は全く不明で、ミュンヘンのドイツ博物館に展示されていたため西側に残った「Cタイプ」が1台しか確認出来ない期間が続く。殆ど情報のないまま30年近く経過、1973年になって熱心なコレクターの執念は遂にチェッコのプラハ近郊で「Dタイプ」(3ℓV12気筒)を探し出した。シャシー・ナンバー2番のこの車は、終戦時プラハのアウトウニオン・ショールームに展示されていた車で、見た目は完璧だが実はエンジン、ギアボックス、スーパーチャージャーの中が空っぽの展示用車両だった。買い取って西ドイツに持ち帰ったあと懸命に部品を探しエンジン復活の努力をするも見つからず、設計者のエーベルホルスト博士にも相談したが情報は得られず、止むなく新しく作れないかとポルシェに相談するも不可能で、万策尽きたデンホフ伯は遂に手放すこと決意する。引き取り相手はアメリカのコーリン・クラップで、GPマシンのレストア経験があるイギリスのヒュー・クックのワークショップに送られエンジン・レビルトの方法を模索する。一方コーリン・クラップは修復とは別に完全なエンジンを探すことを諦めなかった。というのは、1937,38年の英国ドニントンGPでサーキット近くの小さな工場を借りて秘密裏に整備していたことを知っており、その辺からエンジンやパーツについての何らかの情報を期待していた。ところがその工場の地下室に転がっていた12気筒エンジンこそが探し求めていた「Dタイプ」のエンジンだったのだ。そして1979年8月ニュルブルクリングのイベントで再びエグゾースト・ノートを轟かせ復活した勇姿を披露した

(写真05-4e~g)1939 TypeD GP (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(05-4e)(99-10-11) 1939 Auto Union TypeD GP.jpg

(05-4f)(99-10-23) 1939 Auto union typeD GP.jpg

(05-4g)(99-24-15) 1939 Auto Union TypeD GP.jpg
走っている写真を見るとミッドエンジンだから確かに前の方に座っているが、乗用車なら我々が普段運転している位置と殆ど変わらない。名手「ヌヴォラーリ」はこの車を4輪ドリフトして操ったと言われる。

(写真05-4h~i) 1939 TypeD GP (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
(05-4h)(99-35-06) 1939 Auto Union TypeD GP.jpg

(05-4i)(99-35-02) 1939 Auto Union TypeD GP.jpg

最初に「アウディ」は難物と書いたとおり、複雑、かつエピソードがありすぎ、戦前だけで一杯になってしまった。次回後編は戦後のDKW/アウトウニオン/アウディの予定です。

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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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