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第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]
2016.5.27

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(1-1)<ACコブラ>(米)

この車を「C」項に登場させてもいいのかと一寸ためらう所だ。というのは、普通には「コブラ」と呼ばれているこの車は正式には「AC」あるいは「シェルビー・コブラ」だからだ。1923年テキサス生まれのアメリカ人キャロル・シェルビーは、1954年からアストンマーチンのワークスドライバーとして活躍し1959年には遂にルマンで優勝を果たすも、翌年健康上の理由で引退、以後車造りに専念する。アメリカではフォード・フェアレーンのV8エンジンと、グッドイヤー・タイヤ、そしてイギリスからはACエースのシャシーの提供を受けることに成功し、これを組み合わせた新しい車「ACコブラ260」が1962年誕生した。ヨーロッパのシャシーにアメリカの強力エンジンを積み込んだ車を「アングロ・アメリカン」と呼び、イギリスでは「アラード」「ジェンセン」「ブリストル」、フランスでは「ファセル・ヴェガ」、イタリアでは「イソ」などが有名だ。最初の「コブラ260」はフォード・フェアレーン用 V8エンジンが使用されたが、その排気量がアメリカ式の表示で「260キュービック・インチ」だったところから命名されたもので、換算すると4260ccとなる。この「AC 260コブラ」は75台造られ、1963年には排気量がアップして 「AC289コブラ」となった。「289キュービック・インチ」は4747㏄相当で、284hp、555台が造られた。これら「アングロ・アメリカン」たちは性能的には優れたパフォーマンスを持っているが、純粋なスポーツカーにこだわる一部ファンからは「邪道視」される異端児だった。しかし「ACコブラ」によって、これらを受け入れる市場がアメリカに存在することを知ったシェルビーは、パワーとワイルドさをより強調した究極の7リッター「シェルビー・コブラ427」の発売に踏み切る。

(写真01-1ab)1963-65 AC Cobra 289 (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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最初の「ACコブラ260」は75台しか造られておらず、残念ながら僕は写真にとっていないとおもう。「427」の場合はサイドフェンダーにはっきりとプレートで表示されているので間違えないが、「289」の場合は、このプレートが「Powerd by Ford」とあり「260」なのか「289」なのかは判別できない。だから、殆どオリジナルの「AC」に近い写真の車が「260」である可能性も有るかもしれない。コブラと名がつくとみんなフェンダーが張り出しているので、むしろ張り出しのない方が珍しい。

(写真01-2a-d)1964 AC Cobra 289 (1989-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド広場)
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「コブラ」はかなり古くから日本に住みついていた。写真の場所は神戸ポートアイランドにあるイタリア風の雰囲気を持った市民広場で、イベントは「モンテ・ミリア」と名付けられた「ミッレ・ミリア」をイメージしたもので、ミーティングの後、六甲の山道を一巡りするところから「モンテ」(山)となったのだろう。会場は9割までがイタリア車で、遠くから見ると広場全体が真っ赤に見えるほどだった。


(写真01-3a-b) 1963 AC Cobra 289 (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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「コブラ」は「ACエース」から進化したものだが、その証としてフェンダーの張出が状況に応じて何段階かに分かれて確認できる。最初の車に比べれば2番目とこの車(3番目)」は中程度といえる。フォード・フェアレーンから転用されたV8エンジンは「Cobra Powerd by Ford」のヘッドに変わっているが、大型のエアクリーナーは特にレース仕様とは思えない。


(写真01-4) 1962-68 AC Cobra 289 (2001-05 モンザ・サーキット)
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「コブラ」は世界中に生息しており、イタリアでも発見した。こちらは完全なレース仕様で、たぶん後ろのトラックに書かれたレーシング・チームの車だろう。フェンダーの張出はマックスだ。


(1-2)<シェルビー・コブラ> 

「ACコブラ260/289」のシャシーは基本的にはベースとなった「ACエース」のままだったが、倍近い7リッター・エンジンのパワーには対応しきれず新しく造り直された。また足回りもマグネシュームの7インチリムに8.15-15と極太 タイヤを履いたから、フェンダーは以前より張出しが大きくなり、ワイルド感も増した。エンジンはV8 427Cu.in.(6997cc),標準型では425hp/ 6000rpm、レース用では485hp/6500rpmと強力で、0-1/4マイル 12.2秒、最高速度は280km/hの性能を持っていた。1965年から1967年までに510台造られた。

(写真02-1a-d) 1966 AC Shelby Cobra 427 (2004-06/フェスティバル・オブ・スピード)02-1a (04-15-09) 1966 AC Chelby Cobra 427.jpg

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巨大化した「コブラ」はこの車でも見た目がかなり獰猛となったが、それでもこれが一番おとなしいロードバージョンの標準モデルだ。前後にバンパーを持っており、左ハンドルなのでアメリカに輸出されてイギリスに里帰りしたものだろう。

(写真02-2a-g) 1964-66 AC Cobra 427 (2004-08 ラグナセカ/カリフィルニア)
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キャロル・シェルビーがコブラを造ろうと考えたときに、その舞台は陽光の降り注ぐカリフォルニアだった。だから毎年8月カリフォルニアのラグナ・セカ・レースウエイで開催される「モンタレー・ヒストリック・オートモービル・レース」では、この「コブラ」の一族が嫌というほど集まってくる。あまり多くて全部は紹介しきれないがその一部を1枚ずつ紹介する。

(写真02-3ab) 1964-66 AC Cobra 427 (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
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「コブラ」はアメリカに沢山棲息しており、特にカリフォルニアのイベントでは必ず顔を出す。毎年8月開催されていた「コンコルソ・イタリアーノ」は名前の通りイタリア車が中心のイベントで、会場のステージではカンツォーネが唄われ、場内アナウンスがイタリア語で行われたりして、イタリア色一杯なのに、ここにも「コブラ」が見つかった。

(写真02-4a-c) 1964-66 AC Cobra 427 (1998-08 /カーメル市内)
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この車も全くおとなしいストリート・バージョンだ。写真の場所はカリフォルニア州のカーメル市内で町並みは縦横十文字に区切られ、ビルは一つもなく非常に落ち着いた美しい街だ。1980年代クリント・イーストウッドが市長だったこともある。

(写真02-5a-c) 1964-66 AC Cobra 427 (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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ダッシュボードにコブラの生みの親「Carroll Shelby」のサインが入っている所にご注目を。この車はテンガロンハットをかぶった似顔絵が入ったトレーラーの近くに止まっていたので、サインは間違えなく本物だ。ナンバープレートは「7リッターのスネーク」だって(笑)。 


(写真02-6ab) 1964-66 AC Cobra 427 (2001-05 ブレシア/ミッレミリア)
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イタリアのミッレミリアで発見したこのコブラは、ナンバープレートからドイツから来た車のようだ。ストリート・バージョンだが威嚇するように太いマフラがむきだしになっている。

(写真02-7) AC コブラの木型  (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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イギリスのイベントでACのテントの前にあった木型で、これを型に手たたきでボディを造ったのだろう。

(写真02-7a-e) 1964 AC Cobra 427 (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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ロールバーを装備し、オイルクーラーが見える、かなりやる気のこの車は、右ハンドルなのでイギリス国内向けのようだ。後ろにずらりと立てかけてあるボディは、木型から叩き出した完成品。


(写真02-8a) 1965 AC Cobra 427 (1968-03 東京レーシングカー・ショー/晴海)
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1968年には早くも日本で「コブラ」を見ることができた。東京レーシングカー・ショーで「レーシング・メイト」のコーナーに展示されたのが、多分我が国では最初に一般公開されたものだろう。レーシング・メイトは自動車のチューニングやそれらのパーツを販売するショップとしてはパイオニア的な存在で、「Van ジャケット」と姉妹関係にあり、レース活動は式場壮吉氏に代表される。


(写真02-9ab) 1965 AC Shelby Cobra 427 (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
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427のフル・レースバージョンと説明されていたこの車は、見るからに精悍な顔つきをしている。場内のライトの映り込みがボディの曲線を見事に描き出している。

(写真02-10a) 1965 AC Cobra MkⅢ 7-Litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
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この車は僕の撮った「コブラ」の中で最大のフェンダーを持った究極の1台だ。イギリスのイベントに登場したこの車は、右ハンドルの英国仕様で、案内プレートには「AC Cobra MarkⅢ7-Litre」とあり、「Shelby」も「427」も出てこないのはイギリス人のこだわりか。

(写真02-11a-c) 1964-66 AC Cobra 427/Ferrari (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
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イタリア車中心のこのイベントに、「コブラ」が参加している。しかしこの場合はそれなりの理由がある。ボンネットを開けると、そこには「フォードV8」ならぬ「赤いヘッドのフェラーリV12」が詰め込まれているのだ。

(写真03-1a-e)1965 Willment Cobra (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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この車のプロトタイプは1953年のミッレミリアに登場した「アルファロメオ・アバルト-コンレロ2000」で、翌年フィアットV8」のシャシーの載せて「スーパーソニック」として市販された。デザインはサヴォヌッティで「カロセリア・ギア」が作った。写真の車は、このボディをもとに作られ勿論中身は427コブラのスペシャル・チューニングエンジンが載っており、当時「J.Wオートモティーブ・チーム」の花形ドライバー-「ウイルメント」のために造られたワンオフの車だ。

(写真03-2a-c) 1971 AC 428 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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ここまで来ると「AC」と「コブラ」の区分けがこんがらかってしまうが、「コブラ427」の発展型「AC428」も、ついでに紹介しておこう。1965年誕生したこの車はシェルビー・コブラと違って英国で生産される。中身は7リッターのコブラをベースにしたものだが、エンジン製造元のアメリカでは「コブラ427」の排気量が1966年から「428キュービックインチ」に変わっているのでそれが使われている。イタリアの「フルア」のデザインで、直線を生かしたすっきりしたボディには、荒々しさはなく上品で街中でも周辺りに気兼ねなく乗れそうだが、性能は「コブラ」と変わらず400馬力のエンジンは最高時速240キロ、SS1/4マイルを14秒で走りきるスーパーカーである。


(01-3)<デイトナ・コブラ>

(写真04-1a-d) 1965 Shelby Daytona Cobra Coupe (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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ACコブラ289のシャシーにピーター・ブロックがデザインした軽量ボディを載せたこの車は、1964年2月「デイトナ2000km」でデビューし大成功したので、以後「デイトナ・コブラ」と呼ばれる。1965年には「フェラーリGTO」を抑え、GTⅢ部門で「ワールド・マニュファクチャラース・チャンピオン」となっている実力の持ち主である。「デイトナ・コブラ」のエンジンにはフォードV8 289キュービック・インチ(4727cc)が使用されている。ピート・ブロックはキャロル・シェルビーがドライバーをやめて、次のビジネスに取り組んだ時からの強力なパートナーだが、僕個人にとってこの名前は1967年日本GPにエントリーしただけでレースを走らなかった幻の車「HINO SAMURAI」という日野コンテッサをベースにした物凄く格好良かったスポーツカーのデザイナーとしての印象が強く残っている。

(写真04-2ab)1965 Daytona Cobra (1966-05 第3回日本グランプリ/富士スピードウエイ)
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写真の車は第3回 日本GP予選で雨のなかを疾走する雄姿だ。決勝ではプリンスR380、トヨタ2000GT、ポルシェ・カレラ6などを向うに回し大健闘したが、2位を走っていたラップ47でエンジン・トラブルのため13周を残してリタイアした。この車は前年のルマン24時間に出場した車そのもので、エンジンを新しく積み換えたものだった。この車は特に後姿が印象的だ。


(1-4)<フォード版 ムスタングGT・シェルビー・コブラ>(1966-70)

フォードからエンジンの提供を受けているシェルビーは1965年から「フォ-ド・ムスタング」のハイパフォーマンス版の開発を委託され1966 年「GT350」シリーズを完成させ、67年から「GT500」が加わった。当初は「289」キュービック・インチだったエンジンは67年「390」、68年には「428」が登場した。これらの一連のムスタング・シリーズは「シェルビー」の名は付いているが製造も販売もフォードが行っており、ムスタングに箔をつけるため「コブラ」の名前を利用したとも考えられ、スポーツマインドを持った「シェルビー・コブラ427」とは全く別のコンセプトの車だ。

(写真05-1ab) 1965 Shelby GT350 (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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ノーマルのムスタングは200hp/4400rpmだが、シェルビー・マスタングは同じ排気量から306hp/6000rpmを絞り出している。写真の車の外見は殆どノーマルと同じように見えるがボンネットサイドに「GT350」と入っており、中身は凄いことを割と控えめに主張しているが、この年はどこにも「コブラ」のネームは入っていない。


(参考) 1968 Ford Mustang GT
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(写真05-2a-e) 1968 Shelby Cobra GT350 2+2 Coupe (1969-11 東京オートショー駐車場/晴海)
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ベースとなるムスタングは1967年モデルチェンジで顔付きが変わった。最初の写真がスタンダードのムスタングで、次が「シェルビー」仕様だが、ボンネットの先端に大きくエア・インテークが口をあけ、ハイパフォーマンスをアッピールしている。前後に「SHELBY」の文字が入り、あちこちに「コブラ」が顔を出した。

(写真05-3ab)1968 Shelby Cobra GT350 Convwrtible (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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こちらは前と同じグレードのコンバーチブルで、このモデルはファストバックの方が格好良く見えるのか、オープン・モデルの方が少ないようだ。
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(2)<コロンボ・マリアニ>(伊)
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(写真06-1ab)1954 Colombo-Mariani 1100 (2000-05/ミッレミリア)
2000年のミッレミリアで撮影した「コロンボ」という車だが、残念ながら素性が全く判らない。1940年代フェラーリで後年「コロンボ・エンジン」と呼ばれる傑作を残した設計者「ジョアッキーノ・コロンボ」は、1953年にはマセラティで250Fのエンジンを製作中であり、1955年にはブガッティに移りT251を造っているので、こんな車を作っている暇は無さそうだ。ミッレミリアでは見たことも聞いたこともない謎の車によく出逢うが、中には器用な人が趣味で造ってしまった一品ものまであるから厄介だ。「1100」とあるのでご多分に漏れずベースは「フィアット1100」だろう。念のため1954年と1955年のミッレミリア出走リストで調べたが該当する車名は見当たらなかった。もしかしたら「フィアット1100改」で出ていたかも知れないが・・。
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(3)<コメット> (米・マーキュリー)1960~
1903年に創立されたフォード・モーター社のラインアップは1960年時点では上から「リンカーン」「マーキュリー」「フォード」となっていた。創立者のヘンリー・フォードは頑固に実用一点張りでT型を造り続けて来たが、1922年息子のエドセルの意見を入れて高級車「リンカーン」を買収し、高級車と大衆車の2本立てとなった。しかし1930年代になるとライバルのGMは「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」、クライスラーは「デソート」「ダッジ」、その他独立系でも「ナッシュ」、「ハドソン」、「スチュードベーカー」など、中級車クラスが市場を占める割合が大きくなった。出遅れたフォードには追いつくために適当な買収先が見つからなかったのか、1938年新しく創設されたのが「マーキュリー」で、戦後の1949 年専用のボディが提供されるまではフォードと同じスタイルに一回り大きいエンジンを積んだものだった。しかし1950年代に入ると大型高級化が進み、大衆車フォードの兄貴分だったマーキュリーはいつの間にか高級車リンカーンの弟分と化した。1960年前後になると大きくなりすぎたことへの反省から各社から1930年代に近いサイズに小型化された、いわゆる「コンパクトカー」が発売され、フォードは1959年から「ファルコン」が投入され、翌1960年からマーキュリー」には「コメット」が誕生した。

(写真07-1a-c) 1960 Mercury Comet 4dr Sedan (1960年/虎の門)
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1960年誕生したてのマーキュリー版コンパクトカー「コメット」で、エンジンの6気筒 2364cc は、フルサイズのマーキュリー・モンテレー5110cc、モントクレア7043ccに較べれば、半分以下、1/3以下なのでアメリカとしてはずいぶん小さいと感じる排気量だ。ホイールベースの114インチは約3010ミリで、初代トヨペットクラウンの2530ミリに較べればかなり大きい。生まれたての「コメット」のグリルはフルサイズの凹型曲面モチーフから転用したものだ。場所は虎の門病院の前で、隣がアメリカ大使館なので最新のアメリカ車を見つけるには絶好の場所だった。


(写真07-2a-c) 1961 Mercury Comrt 4dr Sedan (1961年/虎の門ニューエンパイアモータース)
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アメリカ車の通例として毎年モデルチェンジが行われ、この年からフルサイズ・モデルとは全く関係ない独自のグリル・デザインが与えられた。場所は虎の門の交差点近くにあったフォード系ディーラー「ニューエンパイア・モータース」の前で、リンカーン、マーキュリー、フォードの看板が見えるが、ここでは最新モデルが見られるので土曜日の午後仕事が終わってからよく足を運んだ場所だ。(僕が現役だったころは週休2日制になる前で、土曜日は半日仕事をしていた。)
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<コメート>(仏・フォード)
(写真07-3a-c)1954 Ford Comete Monte Carlo 2dr Coupe by Facel (2004-08 ペブルビーチ)
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アメリカのフォード社は1950年代初めには各国にフォードを名乗る独立した子会社を持っていた。「イギリス・フォード」、「ドイツ・フォード」「フランス・フォード」などでそれぞれが本社の影響を受けつつも、独自に開発したモデルを製造していた。(日本フォードは組み立て工場で独自のモデルはなかった)この車は今回確認するまではマーキュリー・コメットのカスタム・ボディだと勘違いしていた。しかし実は今は亡きフランス・フォード(1958年以降シムカとなる)の「ヴデット」をベースにしたヴァリエーションだった。
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(5)<コンパウンド> (米)
(写真08-1a-d)1906 Compaound 7.5 Light Touring Car (1971-03 ハーラーズ・コレクション・フェスティバル/晴海)
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この車を造ったアイゼンハス・ホースレス・ヴィークル社という会社は1904年から1908年まで5年間しか存在しなかった殆ど知られないメーカーだが、1つだけ面白い仕掛けがあるので取り上げた。それは搭載されていた3気筒エンジンで、3気筒が珍しいのではなく、内2気筒が4ストローク(101.6×101.6)、残りの1気筒は2ストローク(177.8×101.6)という組み合わせになっている。4ストローク側の排気はそのまま2ストロークの吸気となり、燃焼効率の悪い排ガスは点火すれば再燃焼するので多少の馬力向上となる。また4ストロークの爆発のインターバルに2ストロークはもう1度爆発しエンジンの回転もよりスムースになる、しかも再燃焼は結果的には排ガスの浄化にも貢献する、とここまで考えていたかは判らないがとにかく面白い発想だ。
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(6)<コンノート>(英)1948-59
「コンノート」という名前は日本では殆ど知る人がない。もし知っているとすれば1950年代の「F1」に興味のある人か、ミニチュアカーのコレクターくらいだろう。第2次大戦後1940年代の英国は緊縮財政を敷いていたから物資が欠乏し、車を売りたくても売る車がないような状態だった。コンノートはF1活動を始める前の1948年、「リー・フランシス」をベースにしたスポーツカー「L2」を6台作っている。F1(F2)には1952年から59年まで活動し最高位は1956年イタリアGPの3位止まりだが、小規模コンストラクターとしてマセラティーなどの大メーカーと互角?に戦ったから、イギリスでは人気が高かった。(ノンタイトルではGPで1度だけ優勝している)

(写真・参考)1947-49 Lea-Francis 14hp Sports
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(写真09-1ab) 1948 Connaught L2  (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
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「コンノート」が最初に造ったスポーツカーで、1930年代からスポーツカーを造っていた「リー・フランシス14hp」のシャシーをベースにロドニー・クラークが改良して軽量ボディを被せ、直4 1767ccエンジンもマイク・オリバーに手でチューンアップされてはいるがもとは「リー・フランシス」なのだ。一寸「オースチン・ヒーレー・スプライト」に似た可愛い顔だが、スプライトは1958年に誕生したのでこちらの方が10年も先輩だ。-
(参考) 赤い車はベースとなった「リー・フランシス14hp」だ。


(写真09-2a) 1952 Connaught A4 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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この車もエンジンはリー・フランシスの1.8リッターが使われている。「Aタイプ」は「F2」だが、ドライバーズ・チャンピオンシップの対象で、若き日のスターリング・モスもこの車をドライブしている。


(写真09-3ab) 1953 Connaught L3/SR (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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ロータス・シックスかセブンのように見えるがこれもコンノートで、ポーツカー「コンノート」の最終モデルとなる。レースの際はマッドガードを取り外すことができる。


(写真09-4ab) 1954 Connaught ALSR (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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4気筒1500cc クラスのスポーツカーは2台造られ、この車もスターリング・モスがドライブしている。小メーカーの造った車にしてはどこにも破たんのないよくまとまったスタイルだ。


(写真09-5ab) 1955 Connaught B3 Streamline (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
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Bタイプのスポーツカー・バージョンが「3シリーズ」でアルタ製4気筒DOHC 2リッターエンジンを積んでいる。


(写真09-6ab) 1955 Connaught B F1 The Siracusa (2007-06 英国国立自動車博物館)
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BタイプのF1バージョンが「4シリーズ」で、この車がイギリスで注目されるのは
トニー・ブルックスという歯科医を目指す若い新人ドライバーがマセラティを抑えて堂々優勝してしまったからだ。この年のグランプリ・タイトル戦に「コンノート」は第6戦「イギリスGP」に2台出走したが完走できなかった。最終第7戦が9月11日で終わり、そのあと10月23日シチリア島で開かれた「シラクーザGP」はノンタイトルではあったが、突然優勝が転がり込み、ここ数年啼かず飛ばずのイギリス・レーシング界にとっては、大相撲で日本人が優勝したような久々の大快挙だったに違いない。それを記念してこの車は「ザ・シラクーザ」と呼ばれる。


(写真09-7a) 1956 Connaught C (2000-05 モナコ)
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写真の場所はモナコ市内で、テレビのF1中継でよく映し出される最終コーナーのスタンドを出たすぐ後ろの道路だ。うしろの崖は堅い岩でできているが、実はモナコは全部が岩の上に乗っているらしく、岬の向うへ続くトンネルも堅い岩盤を素掘りしただけのものだったし、ホテルの窓から見える裏山も岩山だった。
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(7)<リンカーン・コンチネンタル>(米)
「コンチネンタル」という言葉は、島国イギリスから見たヨーロッパ大陸のことだが、自動車に関しては、広いヨーロッパ大陸を高速で走るという意味で、現代の「GTカー(グランド・ツーリングカー)」と同じように考えられる。もともとは1931年頃ロールスロイス・ファンタムⅡの圧縮比を高め、大径ジェットをもったキャブレターで軽くチューニングされた大陸旅行用の車に付けられた名前で、これが後年エドセル・フォードによってデザインされたリンカーン・ゼファーのスペシャル・ボディに付けられ、ついにはシリーズ名として正式に採用されることになる。

(写真10-0)1936 Lincoln Zephyr V12 4de Sedan(2004-01 ブリジストン・ショールーム/国分寺)
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「リンカーン」は1930年代「パッカード」「キャディラック」などと並び大型高級車の代表的存在だったが、不況の中各社が格下げ車種で売り上げを確保する中で1936年「リンカーン・ゼファー」を発表した。この車はリンカーンの販売ルートで売られたが、実質はリンカーンの普及版というよりは、フォードのデラックス版プラスαといった存在だった。4384cc V12気筒エンジンといってもフォードのV8をV12に増やした程度の平凡なもので、価格も大型「Kシリーズ」の4~5000ドルに対し1275~1320ドルと段違いに安く、日本では大型リンカーンの顧客に配慮して「リンカーン」とは区別して「リンコン・ゼファー」と呼んだ、と何かで読んだ記憶がある。「コンチネンタル」のベースとなったといわれるのが「リンカーン・ゼファー」だ。写真の車は戦前からブリジストンの石橋幹一郎氏が使用していたもので、レストアに際しては当時のタイヤが手に入らず、アメリカのファイアストーンでオリジナルタイヤのパターンを型から起こして造らせたと伺った。参考に発売当時の日本国内用カタログの一部を掲載した。

(写真10-1a-c) 1940 Lincoln Zephyr Continental Town Car (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
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1938年ヨーロッパ旅行から帰ってきたエドセル・フォードは、自身のパーソナルカー構想を指示、翌1939年2月完成したのはリンカー・ゼファーのシャシーにエドセルのアイデアを具体化した素晴らしいプロポーションを持ったカブリオレだった。この車は周りで大評判となり同じ車を造ってほしいという注文が200件を超えた。そこで1940年からゼファーの生産ラインを使って市販車が生産された。最初の年は「ゼファー・コンチネンタル」と呼ばれ、まだ「コンチネンタル」として独立していない。この年クーペ54台、カブリオレ350台が造られた。写真のタウンカーはカタログモデルではなく、建築家フランク・ロイド・ライトがカブリオレをカスタマイズしたもの。


(写真10-2a-d) 1941 Lincoln Continental Coupe (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
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1941年からは「コンチネンタル」の扱いがシリーズ名から「ゼファー」と同格の車名に格上げされた。外見上は波切り型のグリルの外縁にフレームが付き、フェンダー上にサイドランプがついた。エドセルは素晴らしい外見に仕上がったこの車に上級の「Kシリーズ」に使われているV12 6781ccを積んでハイパフォーマンス・カーを目指すことを主張したが実現せず、性能的にはゼファー並みの平凡な車のままだった。コンチネンタルはこの年クーペ850台、カブリオレ400台が造られた。

(写真11-1a-f) 1956-57 Lincoln Continental MkⅡCoupe(1978-01 東京プリンスホテル)
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初代の「コンチネンタル」は1940年から戦後の1948年まで造られ続けたが、その後しばらく空白が続いていた。ファンからは復活を望む声が多かったが、それに応えて「コンチネンタル・デヴィジョン」が新設され1955年10月発表されたのが新世代の「コンチネンタル・マークⅡ」だ。そのデザインの基本理念は「マークⅠ」(初代コンチネンタル)のプロポーションを忠実に守り、シンプルで単純の中に美しさを求めることだった。そして、それは見事に実現され、オーバー・デコレーション真っ只中のアメリカ車のなかに一服の清涼剤として清々しさを与えた。「マークⅠ」ではエンジンに不満があったが、マークⅡではリンカーンと同じV8 6035cc 285hpが搭載され、外観に相応しい実力もそなえている。最良の素材と最善の技術で丁寧に作り上げられた車のお値段は、クーペが('56) 9966ドル,('57) 9695ドル、コンバーチブル('57)10000ドルだった。同じ年のキャディラック60スペシャルの6019ドルに較べかなり高価だが、お金があったら買いた~い! 2年間で2996台造られたが全く同じものでモデルチェンジはされなかった。何処から見ても破たんのない美しさに惹かれ6枚も載せてしまった。

(写真12-1ab)1958 Lincoln Continental MkⅢSedan(1960年虎ノ門ニューエンパイア・モータース)
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1958年は大モデル・チェンジの年に当たり、高価で思ったように売れ行きが伸びなかった「コンチネンタル・マークⅡ」は製造中止となった。その代り「リンカーン・コンチネンタル・マークⅢ」という最上位のシリーズ名として名前だけは残った。しかしグリルが変わりインテリアを高級化しても普通のリンカーンに変わりはなかった。

(写真13-1ab) 1960 Lincoln Continenntal MkⅤSedan (1961-12 桜田通り/虎の門付近)
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この年もリンカーンの最上位シリーズに「コンチネンタル・マークV」として名前が残った。この車を撮影したとき降りてきたドライバーに写真が欲しいと言われて後で送った記憶がある。

(写真14-1ab) 1961 Lincoln Continenntal 4dr Sedan(1961-10 港区溜池付近)
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1961年になるとシリーズ名だった「コンチネンタル」は再び車名に返り咲いた。というかリンカーンはコンチネンタル1種だけになった。名前だけではなく見た目も大きく変わり、1957年製造を中止した「コンチメンタル・マークⅡ」を意識したバランスの良いシンプルなスタイルは少々縮小され、パーソナルカーとしても適当な大きさとなった。改めて高級車とは何かと見直し、確かな材料を使って入念な作業で手間をかけて仕上げている。

(写真15-1a) 1989 Lincoln Continental MkⅦ (2002-01 ハワイ/カピオラニ通り)
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1968年からは四角い大きなグリルを持った「ザ・コンチネンタル・マークⅢ」が出現し、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵと続いて1988年のMkⅦが写真の車だ。もはや高品質のパーソナルカーの面影はなく、ただ大きいだけのアメリカ車に見える。場所はワイキキのアラモアナ・ショッピングセンターの一つ北側を通るカピオラニ大通り。街路樹がいかにもハワイっていう感じだ。
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(8)<クレイン・シンプレックス>
この車が日本に紹介されたときは「クレイン・シンプレックス」だったが、1912年創立された「クレイン社」と、1907年からスポーティな車を作っていた「シンプレックス社」があり、1914年両社が合併して「クレイン・シンプレックス」となった。アメリカの自動車メーカーが網羅されている大事典によると、クレインの項では「クレイン・シンプレックス」だが、「シンプレックス」の項にも掲載されており、合併後のモデルもこちらに記載されている。しかし実質の経営権は「クレイン」側にあったようで、合併後の「モデル5」という大型モデルはヘンリー・M・/クレイン自身が設計したといわれる。
(写真16-1-e)1916 Crane-Simplex Model5 Touring by Holbrook 1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)
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写真の車は極めて個性の強い、趣味性の高い一品もので、海にこだわるオーナーの好みから車体は「波を蹴立てるボート」をイメージして造られた。上から俯瞰すると客室の周りはボートのようなチーク材が貼ってあり、室内の換気も船についているような換気筒でおこなう。後ろに背負ったスペアタイヤの留め具はスクリュウを模している、といった凝りようだ。金具類はすべて真鍮の磨き出しで金色にひかり輝いて豪華だ。エンジンは6気筒 SV 9237cc/110hp 最高速度113 km/hは当時としてはかなり速い。前席にはドアがなく、後ろから乗って中央通路を通って運転席に着く。
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(9)<カニンガム>(米)(1951-55)

「カニンガム」はカリフィルニアの大富豪ブリッグス・カニンガム(1907-03) が私財を投じて製造した、戦後のアメリカで最初に登場した本格的なスポーツ/レーシングカーだ。1950年にはキャディラック61シリーズでルマンに挑戦、ボディをグラマン社が手掛けた改造車(余りにも奇異な外観からル・モンストルと呼ばれた)は自からドライブして11位、もう1台の殆どストックのままのキャディラックは10位となっている。もう一つの大きな功績はカリフォルニア州コスタ・メサに「ブリックス・カニンガム・オートモティブ・ミュージアム」を作り、個人コレクションを公開したことだろう。1966年から20年目の86年には閉鎖されてしまったが、ここには「カニンガム」をはじめ、ブガッティのロワイアルやT55、イスパノスイザ・キングアルフォンゾ、ドラージュV12 GPなど、後年世界のいろいろなイベントで僕が写真に収めることの出来た夢のような名車が展示されていた。まだ外国の情報が少なかったこの当時、C/G1966年10月号に掲載された写真入りの現地レポートには夢の世界を見る思いで見入った記憶がある。 「カニンガム」と名のついた車は1951年から55年に造られた「C1」から「C6」の6種しかない。最初に造られた「C1」はあまり資料がなく殆ど知られていないが、カニンガム・ミュージアムに収納されていた時代の写真が残っており、それは初期のフェラーリに似たオープン2シーターのスポーツカーで1951年のルマンでプラクティスに出走している。

写真17-1a-c)1951 Cunningham C2R (1999-08 ラグナセカ/ペブルビーチ)
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1950年キャディラックでルマンに挑戦したカニンガムは、フロリダ州のウエストパームビーチに工場を作り本格的にレーシング・スポーツカー造りに取り掛かった。エンジンはクライスラーのV8 OHV 5426ccをベースに、キャディラックのピストン、コンロッドを組み合わせて圧縮比をあげて強化した。1951年のルマンには3台で挑戦したが、2台はリタイア、残りの1台は2位を走っていた20時間目でエンジンにトラブルが発生、スローダウンを余儀なくされ18位まで順位を下げてしまった。

(写真18-1a-c) 1952 Cunningham C3 Continental(2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
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レーシングカーを個人で造ろうというのは「ビジネス」というよりは「道楽」に近いが、それでもスポーツカーを作って市販すれば幾らかの利益が上がるのだろうか。この車は「ミケロッティ」のデザインを「ヴィニアーレ」が架装したボディに、クライスラーの5.3リッターエンジンを持つ超高級スポーツカーで、全体のイメージは同時代にヴィニアーレが多数手がけたフェラーリにも似ている。イラストの媒体まで作ったところを見ると本気で売る気だったのか。生産台数の資料が見つからないので判らないが多分一桁止まりではなかっただろうか。

(写真19-1a-e)1952-4 Cunningham C4R (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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カニンガムのレーシングカで一番有名なのはこの「C4R」だろう。3年続けて入賞した実力もさることながら、正面から見た時のまん丸のグリルと、大きく切れ上がったフェンダーが強い印象を与えるからだ。前年の残念な結果を踏まえて、全く新しく作り直された「C4R」は一回り小さくなり、重量も約450kg軽くなったが、エンジンは300hpまで強化され、戦闘力はさらに増した。1952年のルマンには2台のロードスターと、1台のクーペが出走したが2台はリタイヤし、カニンガム自身がドライブするロードスターが4位に入賞した。

(写真20-1a-d)1953 Cunningham C5R (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
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「C5R」に発展したカニンガムは「ソリッド・カニンガム」の別名を持つ。それはルマンのコースのように平坦でタイトコーナーが無いサーキットではロードホールディングが最重要ではないと判断し、大型ブレーキ・ドラムを最優先するためフロントをトーションバーで吊るリッジド・アクスルにした為で、これがアメリカ式では「ソリッド・アクスル」と呼ばれる。1953年のルマンには「C5R」ロードスターとクーペが各1台、「C4R」1台出走し「CR4」が3位入賞、「CR5」は7位、10位と全車完走と大健闘した。因みに「ミュルサンヌ」のストレートでの「C5R」の速さは249km/hで、アルファロメオ3.5、ジャガーCタイプ、フェラーリ4.1など他の参加車より断然早かった。

(写真21-1a-c)1955 Cunninghan C6R (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
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・外観がジャガーのD-Typeに似ているカニンガム「C6R」は、1954年回転が上がらないOHVエンジンに見切りをつけ、より軽く、より強力なDOHCのフェラーリ4.5リッターエンジンが選ばれた。1954年のルマンには「C6R」1台、「C4R」2台が出走し、「C4R」が3位と5位に入賞したが、「C6R」はリタイアした。
・ルマン挑戦最後の年となった1955年は、シャシーは「C5R」のまま、エンジンをインディ500用4気筒、DOHC 3リッター「メイヤー・ドレイク」に変えて1台参加したが、フィニッシュ出来ずルマンへの挑戦は終わった。写真の車は1955年とあるので後期の車だ。
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(10)<カーチス>(日)

我が国の車好きの間では「カーチス号」として知られるこの車は、本田宗一郎少年が奉公していた本郷のアート商会という修理工場の主人榊原郁三氏が組み上げたスペシャル・レーサーで、1923-4年(大12-3)にかけ、シャシーや足回りには古いアメリカ車ミチェルやビュイックが利用され、ホイールやボディは自作した。初期のボディは軽量化のため後ろ半分は木骨羽布張りで、テールが長く突き出していたが、その後スチールの現在の形に変わり、ラジエターもオークランドからシトロエンに変わっている。エンジンは車名のもとになったアメリカの複葉機「カーチス・ジェニー」に使用されていたV8 8.3リッター90hpで、初代エンジンはダイムラーをコピーした100hpが積まれたが重いうえ背が高いのでコーナーに弱く、もっと小型で軽量なものとして探し当てたのが千葉・津田沼の民間教習所にあったこのエンジンだ。(宗一郎氏はここで飛行機の操縦を習っていたらしい) 

(写真22-1a-c) 1923-24 Curtiss Special Racer (1966-07 / /横浜ドリームランド) 
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この車は若き日の本田宗一郎氏がアート商会に奉公していた時に、御主人を手伝って造ったレーサーだという事はよく知られており、現物を見たことのある方も多いだろう。しかし一般に知られる様になったのは、ホンダ・インターナショナル・スクールの生徒さんの手で綺麗に修復された1979年より後のことだが、この写真が撮られたのはそれより13年も前の修復前のことだ。前輪がレーサーに似つかわしくないホワイトウオールを履いているのは、2つだけ物が無い時代に荷車用に売ってしまったらしい。

(写真11-2a-e) 1923-4 Curtiss Special Raser (2009-11 //本田コレクションホール)
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こちらは見事に修復された後の姿で、たぶん出来たばかりより綺麗に仕上がっているだろう。この車は走行可能で、在りし日の本田宗一郎氏が満面の笑みを浮かべながら鈴鹿サーキットをドライブしていた姿が目に浮かぶ。


今月は予定よりずいぶん長くなってしまった。来月は大物「シボレー」に取り組む予定です。

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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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