三樹書房
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第70回 F項-14 Ferrari・1
2018.9.27

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< 前 史 >

「フェラーリ」の生みの親は、フルネームを「エンツォ・アンセルモ・フェラーリ(Enzo Anselmo Ferrari)」と言い、1898年2月18日イタリアの北部、エミリア・ロマーニャ州モデナで、鉄工所を営む「アルフレード」の次男として生まれた。1908年9月、10才の時車好きな父に連れられて、モデナから30キロほど離れたボローニャで初めて自動車レースを見てすっかり魅了され、以来「レーシング・ドライバー」になりたいという夢が芽生えた。1917年には徴兵されるも1918年11月戦争は終わり、職を求めてピエモンテ州トリノにある「フィアット」で面接を受けたが、地元優先で他所者は採用されなかった。その後、解体したトラックのシャシーを整備してカロセリア(ボディー架装業者)に提供する町工場に職を得てトリノに住み続けた。この時期に知り合った「ウーゴ・シヴォッチ」は「CMN」(コストルツィオーニ・メカニケ・ナツィオーリ)という自動車メーカーのレーサー兼テストドライバーだったが、彼に誘われて1919年4月ミラノにある「CMN」社に移籍した。この会社は小さいながら自動車メーカーで当時はレースにも参加していたようだが、現代では全く無名の存在だ。1919年10月5日戦後初のヒル・クライム・レースが開催され、「エンツォ」はドライバーとして「CMN15」(2.3 リッター 20ps)で参戦し、総合11位、クラス4位の成績を上げた。続いて11月にはあの有名な「タルガ・フローリオ」で総合9位となっている。
(写真01-01) 1919 CMN 15 (パルマ・ポッジオ・ディ・ベルチェットヒルクライム)
(01-1) 1919 CMN 15.jpg

しかし1920年に入ると「CMN」社の経営が苦しくなり、「エンツォ」は「イソッタ・フラスキーニ」のインディ500用で3レース戦い3位の実績を残している。この年後半に「エンツォ」はレーシング・ドライバーとして後に「アルファロメオ」となる「アルファ社」に移籍する。最初のレースは10月開催された「タルガ・フローリオ」で、「A.L.F.A.40/60hp」を駆ってクラス優勝(総合2位)という自身最高の成績を挙げた。
(写真02-1a) 1913 A.L.F.A. 40/60hp
(02-1a)10-07-02_0286 1913 Alfa Romeo 40/60hp.JPG

(写真02-01b) 1920 Alfa Romeo 40/60hp (ドライバーはエンツォ・フェラーリ)
(02-1b)1920(1913-22) Alfa Romeo40/60hp.jpg
1913年デビューしたこの車は第一線で活躍した期間が長く、「エンツォ」が優勝した1920年も殆ど変わっていない。

当時の「アルファ」は、老舗「フィアット」目標とする後発メーカーで、本格的なレーシングカー造りを目指して人材を求めていた。その人探しを任されたのが「エンツォ」で、旧知のメカニックを介して紹介されたのが「フィアット」のエンジン開発を担当する「ルイジ・バッツィ」(1892-1986)だった。当時最高のノウハウを持ったこのエンジニアは、この後も終生「エンツォ」と行動を共にする事になる。さらにこの「バッツィ」からフィアットでの仕事仲間「ヴィットリオ・ヤーノ」(1891-1965)を紹介され、なんとか説得して移籍させることに成功した。彼は自動車設計者として歴史上に名を遺す偉大なエンジニアだった。1923年の「P2」から始まり、「8C 2300」「P3」など数々の傑作車を生みだし、現代に続く「アルファロメオ」のイメージの基礎を築いた人だ。マネージメントで力を見せた「エンツォ」だったが、レーサーとしても才能を見せた。
1923年6月17日故郷に近いラヴェンナで開かれた「チルクイト・デル・サヴィオ」で、「Alfa Romeo RL Targa Florio」に乗って優勝してしまったのだ。
(写真03-1a) 1923 Alfa Romeo RL Targa Florio
(03-1b)1923 Alfa Romeo RL Targa Florio.jpg

(03-1a)(97-01-25) 1923 Alfa Romeo RL Targa Florio.jpg

地元出身のドライバー「エンツォ・フェラーリ」が優勝したことで観客は大興奮したが、この優勝が「フェラーリ」として切っても切れない、あの「跳ね馬」のマ-クと出会うきっかけとなったのだ。「跳ね馬」のマークは第1次大戦のイタリア空軍で34機を撃墜した空の英雄「フランチェスコ・バラッカ」の愛機に描かれていたもので、本人はすでに戦死していたが両親から幸運と勝利のシンボルとして贈られたものだ。「バラッカ」と「跳ね馬」の関係は、撃墜したドイツ機が付けていた「シュツットガルト市の紋章」との説もあるが、彼が空軍に入る前に所属していたイタリア陸軍「第2騎兵連隊」の紋章との説が有力である。ここで参考に「第2騎兵連隊の紋章」「バラッカ機」「フェラーリ」「シュツットガルト市紋章」を並べて見ると「フェラーリ」は「バラッカ機」のマークをベースに、「シュツットガルト市の紋章」も参考にしたのではないかと推測される。「バラッカ」と「フェラーリ」の関係として、バラッカが1917年5月「戦闘機部隊91中隊」の隊長となったが、「エンツォ」の兄「アルフレード」がこの中隊に所属していたという説もあるが、兄は1916年に病死しているのでこれは真実ではなさそうだ。

(写真04-1~4) 跳ね馬のマーク
(04-1)イタリア陸軍第2騎兵連隊の紋章.jpg (04-1) バラッカ機 - コピー.jpg イタリア陸軍第2騎兵連隊の紋章.........................バラッカ機............................
(04-2)フェラーリ - コピー.JPG (04-4)シュツットガルト市の紋章.jpg  フェラーリ............................................................シュツットガルト市の紋章.................

1924年は前年に続いて「サヴィオ」で優勝、その後も「ポリネーシ」「ペスカーラ」と3連勝しドライバーとして絶好調だったから、8月にはフランスGPにワークス・ドライバーとして、「ヴィットリオ・ヤーノ」の傑作「P2」で出走予定だった。しかしプラクティスを走っただけでレースには出場しなかった。「気持ちがのらない」と告げただけで原因は不明だが、「P2」の圧倒的な性能の前にGPカーに対しては自分の力量の限界を悟ったのではないかとの推量も出来る。
(写真05-1abc) 1924 Alfa Romeo P2 GP 
         「エンツォ」が手に余ると感じたのではないかと思うほどの高性能な傑作車。
(05-1a)07-06-22_140 1924 Alfa Romeo P2 GP.JPG

(05-1b)(97-02-06b)1924/30  Alfa Romeo P2.jpg

(05-1c)(97-02-06) 1924 Alfa Romeo P2 Grand Prix.jpg

2年のブランクの後、1927年には小型軽量のスポーツカー・クラスでースに復帰し、「6C1500」などのスポーツカーを駆って1931年レースを引退するまでドライバーとしても活躍した。
(写真06-1) 1928 Alfa Romeo 6C 1500 (GPカーに較べれば扱いやすい小型スポーツカー)
(06-1a)(99-25-19) 1928 Alfa Romeo 6C 1500S Spider Zagato.jpg

(06-1b)(99-25-21) 1028 Alfa Romeo 6C 1500S Spider Zagato.jpg


<スクデリア・フェラーリの誕生>

一方1929年12月にはレーシングチーム「スクデリア・フェラーリ(Scuderia Ferrari)」(語源は厩舎の意味)を発足させる。当初は「アルファロメオ」でレースに出る「ジェントルマン・レーサー」をサポートする愛好家グループ的存在だったが、1933年になると「アルファロメオ」がメーカーとしてレーのレース活動を中止し、その代わりを「スクデリア・フェラーリ」が受け持つことになり、完全に「ワークス・チーム」となった。

(写真07-1abc) 1932 Alfa Romeo 8C 2500 Monza
(07-1a)(00-47-25) 1932 Alfa Romeo 8C 2600 Monza.jpg

(07-1b)(00-47-24) 1932 AlfaRomeo 8C 2600 Monza.jpg

(07-1c)(99-42-27)b 1932 Alfa Romeo 8C 2600 Monza.jpg
スクデリア・フェラーリで活躍した車を代表するのがこの「8C 2800」で、チームの証はスカットルに張られた「跳ね馬」のステッカーだ。この車には多分当時の侭と思われる古びたステッカーが見える。


1937年この活動が終止符を打つまでの5年間は「アルファロメオ」と「スクデリア・フェラーリ」は別に語る事の出来ない一つのものだった。しかし後年になるとドイツ勢はヒットラーの国威発揚政策による圧倒的資金援助を受け、「メルセデス」「アウト・ウニオン」が悉(ことごと)く優勝を浚って行くようになった。そこで黙って居られなくなった「アルファロメオ」は再び「アルファ・コルセ」と名付けたワークス・レーシング・チームを立ち上げたが、その際折り合いが付かず1939年「エンツォ・フェラーリ」は「アルファロメオ」を退職することになった。ただし「今後4年間はフェラーリの名前を使ってレース活動はしない」という条件付きだった。(「4年間」という期間は確か残りの契約期間だったと何かで読んだような気がする。)

<アウト・アビオ・コストルツィオーニ>
独立した「エンツォ」は1940 年になって42歳で初めて自分の会社を持つことになった。会社の名前に「フェラーリ」を名乗ることが出来ないため付けた名前は、当り障りのない「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ(Auto Avio Costruzioni)」(自動車飛行機製作所)というものだった。(多くの資料では「コルトルツィオーニ」と訳されているので、「Cortru」の誤りかと原文を確認したが「Costru」が正しいようなので、イタリア読みに従って「コストルツィオーニ」とした。)欧州では1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まっていたが、故郷「モデナ」に立ち上げた工場では、名前こそ「フェラーリ」は名乗れなかったが、「エンツォ」自身の手で2台のスポーツカーが造られていた。このとき造られた「815」の誕生については幾つかの疑問があるが、その一番は発注の時期で、4月28日から始まった「ミッレ・ミリア」に間に合うためには新会社発足以前でなければならない。確証はないので僕の勝手な推測だが、最初は1939年中にスポーツカーの製作依頼があり、それがきっかけで「アルファロメオ」を退職に踏み切ったのではないか。その時「アルファロメオ」も薄々気が付いていたから4年間のフェラーリのネーミング禁止措置を取ったのではないか。会社の設立は1940年だが、工場は39年から稼働していたのではないか。というこの仮説はいかがだろうか。車は2台造られたが、その依頼主の一人は地元モデナ出身のランゴーニ侯爵で、もう一人はアルファロメオ時代の仲間だった「アントニオ・アスカーリ」の息子で後年フェラーリのエース・ドライバーとなる「アルベルト・アスカーリ」が、ミッレ・ミリアでデビューする為のものだった。
(写真02-1abc)1940 Auto Avio Costruzione 815 Spider Touring
(08-2a)(00-11-23) 1940 Autoavio 815 Touring.jpg

(08-2b)(00-11-24) 1940 Autoavio 815 Touring.jpg

(08-2c)(00-11-25) 1940 Autoavio 815 Touring.jpg
「815」と名付けられた直列8気筒1500cc のこの車は,元「フィアット」のエンジニアだった「アルベルト・マッシミーノ」を中心に開発がすすめられた。ベースとなったのは「フィアット508C」で、当時イタリアの中小メーカーの大部分が利用して1100ccクラスのスポーツカーを造ったが、「815」は激戦区の「1100cc」、強敵のいる「2000cc」を避け「1500cc」クラスを選択した。(この年のエントリー・リストでは「1100cc」クラス27台、「1500cc」クラス15台、「2000cc」クラスは僅か5台だったが全て「BMW328」で1,3,5,6位と上位を占め、強敵を避けた狙いは当たった。)シャシーからサスペンションまで利用できるものはすべてフィアットに頼ったが、エンジンだけは4気筒のフィアットのボア×ストロークを69×75から63×60に縮小したものを縦に並べた直列8気筒を新しく造り上げた。空力に優れた流れる曲線を持ったボディは「カロセリア・ツーリング」が担当した。
さて、肝心の「ミッレ・ミリア」の結果だが、No65は6時20分スタートのランゴーニ/ナルディ組、No62は1分後からスタートしたアスカーリ/ミノッツィ組で、変則コースを10周するレースを1周終わった時点では飛ばしに飛ばして総合順位はNo66が12位、No65が13位と順調だった。しかし後年の大レーサーも初陣では気合が入りすぎたようで2周目でバルブロッカーアームを壊して早々にリタイヤしてしまう。代わってトップに立ったランゴーニ伯爵は7周目、総合10位を走っていたがリア・アクスルの破損でリタイヤしてしまった。この車は小さいながら最高速度は170キロも出たから、レースでは平均時速146㎞/hのクラス・レコードを記録している。
1940年ミッレ・ミリアを走るオリジナルの「815」でNo65はランゴーニ伯爵の車
(08-1)1940 Auto Avio Cstruzioni Type815 (オリジナル).jpg

このレース終了2か月後の1940年6月10日には、「独伊軍事同盟」に従って(というかドイツの勢いが良いのを見て)イタリアは英・仏に宣戦布告し第二次世界大戦に参入したから、「815」の量産を目論んでいた「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ」社も、軍需工場として心ならずも自動車以外の物を造らざるを得ない状態だった。第二次世界大戦におけるイタリアの立場は奇妙で、1943年9月8日には降伏し連合国側に寝返ったが、北部はドイツに占領され、連合国側の南部と戦う羽目となり、工場はモデナより15キロほど南の「マラネッロ」という当時は無名の小さな村に疎開することになった。1943年になると4年間の禁止期間が終了して、晴れて「フェラーリ・アウトモビリ(Ferrari Automobili)を名乗っている。工場はその後2回も爆撃をうけ壊滅の状態で終戦を迎えた。「815」は戦後も造られる事は無かったが、1947年復活した「ミッレ・ミリア」には元「アスカーリ」の車がベルトラッチーニ/マッサ組として2000ccクラスに出走している。
(08-3a)(01-26-08) 1940 Autoavio 815 Touring.jpg

(08-3c)(01-26-09) 1940 Autoavio 815 Touring.jpg

「アウト・アヴィオ・コストルツィオーニ」が造った「815」は、長い「フェラーリ」の歴史の中で実質1号車に相当する車ですが、紹介されている資料が少ないので少々長すぎたと思いつつも誕生の経過を詳細に説明しました。次回は「フェラーリ166」が始まります。


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第107回 L項-8 「ロータス・1」(マーク1からタイプ14エリートと23エラン迄)

第106回 L項-7 「リンカーン・2」(米)

第105回 L項-6 「リンカーン・1」

第104回 L項-5 「ランチャ・2」

第103回 L項-4 「ランチャ・1」

第102回 L項-3 「ランボルギーニ」

第101回 L項-2 「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」「ラ・セード」「ロイト」「ロコモービル」「ローラ」「ロレーヌ・デートリッヒ」

第100回 L項-1  「ラゴンダ」

第99回 K項-1 「カイザー」「カイザー・ダーリン」「ケンワース」「キーフト」「ナイト」「コマツ」「コニリオ」「紅旗」「くろがね」

第98回 J項-5 「ジープ」「ジェンセン」「ジョウエット」「ジュリアン」

第97回 J項-4 「ジャガー・4」(大型サルーン、中型サルーン)

第96回 J項-3 「ジャガー・3」 (E-type、レーシング・モデル)

第95回 J項-2 「ジャガ-・2」(XK120、XK140、XK150、C-type、D-type、XKSS)

第94回 J項-1  「ジャガー・1」(スワロー・サイドカー、SS-1、SS-2、SS-90、SS-100)

第93回 I項-2 「イターラ」「イソ」「いすゞ」

第92回 I項-1 「インペリアル、イノチェンティ、インターメカニカ、インビクタ、イソッタ・フラスキーニ」

第91回 H項-8 「ホンダ・5(F1への挑戦)」

第90回 H項-7 「ホンダ・4(1300(空冷)、シビック(水冷)、NSX ほか)」

第89回  H項-6 「ホンダ・3(軽自動車N360、ライフ、バモス・ホンダ)」

第88回 H項-5 「ホンダ・2(T/Sシリーズ)」

第87回  H項-4 「ホンダ・1」

第86回 H項-3 「ホールデン」「ホープスター」「ホルヒ」「オチキス」「ハドソン」「ハンバー」

第85回 H項-2 日野自動車、イスパノ・スイザ

第84回 H項-1 「ハノマク」「ヒーレー」「ハインケル」「ヘンリーJ」「ヒルマン」

第83回 G項-2 「ゴールデン・アロー」「ゴリアト」「ゴルディーニ」「ゴードン・キーブル」「ゴッツイー」「グラハム」

第82回 G項-1 「GAZ」「ジャンニーニ」「ジルコ」「ジネッタ」「グラース」「GMC」「G.N.」

第81回 F項-25 Ferrari・12

第80回 F項-24 Ferrari・11 <340、342、375、290、246>

第79回  F項-23 Ferrari ・10<365/375/410/400SA/500SF>

第78回 F項-22 Ferrari・9 275/330シリーズ

第77回 F項-21 Ferrari・8<ミッドシップ・エンジン>

第76回 F項-20 Ferrari・7 <テスタ ロッサ>(500TR/335スポルト/250TR)

第75回 F項-19 Ferrari ・6<250GTカブリオレ/スパイダー/クーペ/ベルリネッタ>

第74回 F項-18 Ferrari・5<GTシリーズSWB,GTO>

第73回  F項-17 Ferrari・4

第72回 F項-16 Ferrari・3

第71回 F項-15 Ferrari・2

第70回 F項-14 Ferrari・1

第69回 F項-13 Fiat・6

第68回 F項-12 Fiat・5

第67回 F項-11 Fiat・4

第66回 F項-10 Fiat・3

第65回 F項-9 Fiat・2

第64回 F項-8 Fiat・1

第63回 F項-7 フォード・4(1946~63年)

第62回 F項-6 フォード・3

第61回 F項-5 フォード・2(A型・B型)

第60回 F項-4 フォード・1

第59回 F項-3(英国フォード)
モデルY、アングリア、エスコート、プリフェクト、
コルチナ、パイロット、コンサル、ゼファー、ゾディアック、
コンサル・クラシック、コルセア、コンサル・カプリ、

第58回  F項-2 フランクリン(米)、フレーザー(米)、フレーザー・ナッシュ(英)、フォード(仏)、フォード(独)

第57回 F項-1 ファセル(仏)、ファーガソン(英)、フライング・フェザー(日)、フジキャビン(日)、F/FⅡ(日)

第56回 E項-1 エドセル、エドワード、E.R.A、エルミニ、エセックス、エヴァ、エクスキャリバー

第55回  D項-8 デューセンバーグ・2

第54回 D項-7 デューセンバーグ・1

第53回  D項-6 デソート/ダッジ

第52回 D項-5 デ・トマゾ

第51回 D項-4 デイムラー(英)

第50回 D項-3 ダイムラー(ドイツ)

第49回  D項-2 DeDion-Bouton~Du Pont

第48回 D項-1 DAF~DeCoucy

第47回 C項-15 クライスラー/インペリアル(2)

第46回 C項-14 クライスラー/インペリアル

第45回 C項-13 「コルベット」

第44回 C項-12 「シボレー・2」(1950~) 

第43回 C項-11 「シボレー・1」(戦前~1940年代) 

第42回  C項-10 「コブラ」「コロンボ」「コメット」「コメート」「コンパウンド」「コンノート」「コンチネンタル」「クレイン・シンプレックス」「カニンガム」「カーチス]

第41回 C項-9 シトロエン(4) 2CVの後継車

第40回  C項-8シトロエン2CV

第39回  C項-7 シトロエン2 DS/ID SM 特殊車輛 トラック スポーツカー

第38回  C項-6 シトロエン 1 戦前/トラクションアバン (仏) 1919~

第37回 C項-5 「チシタリア」「クーパー」「コード」「クロスレー」

第36回 C項-4 カール・メッツ、ケーターハム他

第35回 C項-3 キャディラック(3)1958~69年 

第34回  C項-2 キャディラック(2)

第33回 C項-1 キャディラック(1)戦前

第32回  B項-13  ブガッティ(5)

第31回 B項-12 ブガッティ (4)

第30回  B項-11 ブガッティ(3) 

第29回 B項-10 ブガッティ(2) 速く走るために造られた車たち

第28回 B項-9 ブガッティ(1)

第27回 B項-8 ビュイック

第26回 B項-7  BMW(3) 戦後2  快進撃はじまる

第25回 B項-6 BMW(2) 戦後

第24回  B項-5   BMW(1) 戦前

第23回   B項-4(Bl~Bs)

第22回 B項-3 ベントレー(2)

第21回 B項-2 ベントレー(1)

第20回 B項-1 Baker Electric (米)

第19回  A項18 オースチン・ヒーレー(3)

第18回  A項・17 オースチン(2)

第17回 A項-16 オースチン(1)

第16回 戦後のアウトウニオン

第15回  アウディ・1

第14回 A項 <Ar-Av>

第13回  A項・12 アストンマーチン(3)

第12回 A項・11 アストンマーチン(2)

第11回  A項-10 アストン・マーチン(1)

第10回 A項・9 Al-As

第9回 アルファ・ロメオ モントリオール/ティーポ33

第8回 アルファ・ロメオとザガート

第7回 アルファ・ロメオ・4

第6回 アルファ・ロメオ・3

第5回 アルファ・ロメオ・2

第4回  A項・3 アルファ・ロメオ-1

第3回  A項・2(Ac-Al)

第2回  「A項・1 アバルト」(Ab-Ab)

第1回特別編 千葉市と千葉トヨペット主催:浅井貞彦写真展「60年代街角で見たクルマたち」開催によせて

執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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