浮世絵で見る江戸の化粧

29、「傾城道中双録(※録は実際は女偏) 大磯 見立吉原五十三対 尾張屋 ゑにし」溪斎英泉 文政8年(1825)頃

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 この「傾城(情)道中双録(※録は実際は女偏)」というシリーズは、東海道の五十三の宿場と出発点である日本橋、終着地である京を含めた五十五ヵ所に、吉原の遊女を振り分けて描いている。
 島田髷に三枚櫛、そして左右併せて16本の簪を挿しているのは、尾張屋の遊女「えにし」である。豪華な打掛の背中全体に描かれているのは、大きく羽根を広げた孔雀で、大きな黒い足と、何かを捉えたような顔つきが印象的である。着物は更紗模様のような三枚重ねで、裾の吹きが厚くなっている。前に結んでいる帯には大きな牡丹が付いている。たぶん染たり織ったりしたものでなく、アップリケのように後で貼り付けたものであろう。牡丹が浮き上がって立体的に見えている。このような衣裳に負けないような美人なのであろうが、惜しいことに着物の襟で口元が隠れていて確認できない。

30、「浮世姿 梅屋敷」一筆庵英泉 天保後期(1830~1844)

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 瓢箪形の中にある梅屋敷というのは、亀戸村にあった梅屋敷のことである。江戸時代地主喜右エ門が庭に梅を植えて、梅屋敷、あるいは清香庵ともいった。江戸から明治時代にかけて名所の一つだった。その園内に、竜が臥したように枝がたれて地中に入り、またはなれて幹となる梅の名木があった。かつて水戸光圀が臥竜梅がりようばいと命名したと伝えられていたが、明治43年、水害で枯れてついに廃園となったらしい。
 大きな橘の紋がついた着物、中着は桜模様を着ているのは芸者といったところか。帯は縞模様に椿が描かれている。左手で着物の褄をとっているが、臥竜梅が満開のところをみるとまだまだ寒い時期であろう。長い布を頭に巻きつけ、口元を手拭で縛って御高祖頭巾おこそずきんのようにして、寒さをしのいでいるが、足元は素足に高下駄である。芸者の分限(身分の程度)といったものを示しているのだろう。江戸時代の女性たちは意外と、雪の降る中でも、富裕な商家の妻女や、御殿女中、子供などを除いて、素足で歩いているのを見かける。寒さに強かったということだろうか。見等がつかない。


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27、「納涼美人図」喜多川歌麿 寛政6~7年頃(1794~1795)

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 大きな燈篭鬢に勝山髷を結っているのは、遊女であろう。お風呂上がりかもしれない。髪に白い布かなにかで、鬢の部分をしばっている。団扇で扇いでいるところを見ると、暑いのだろう。着物が肩からすこしずり落ちているのも気にせず、涼をとっているのだろう。こころなしか顔がすこし赤みをおびている。黒い着物は絽かなにかで、下に着ているものが透けて見えている。その透けた着物から、左足の先がちらっと見えているのが、艶かしい。幅広の帯、着物の裾には紋と同じ桜が描かれている。右手に巻きついている赤い紐は、団扇の紐で、団扇には撫子が描かれている。遊女の右手にあるのは、銅製の水盤で雲竜が描かれ、石菖(石菖蒲)が植えられている。


28、「当時三美人 冨本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」 喜多川歌麿 寛政5年頃(1793)

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 描かれているこの三人は、寛政(1789~1801)の三美人といわれた女性たちである。右下は浅草随身門近くの水茶屋難波屋のおきた、真ん中は富本節の名取りで吉原芸者の豊雛、そして左は両国米沢町の水茶屋高島おひさである。ただ、寛政の三美人を、真ん中の富本の豊雛でなく、芝神明前の水茶屋菊本おはんという説もある。
 それは、斎藤月岑げっしんが書いた『武江年表』の「寛政年間記事」のところに、「○浅草寺随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島のおひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の聞え有りて、陰晴をいとはず此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭いんてい云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひて、年の市の群衆に似たり。おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかりき。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり。その家の婦にてありし)。」と書かれているからであろう。歌麿が描いた寛政の三美人は、菊本のおはんより、どうみても富本の豊雛の方が多いように思える。
 いずれも、歌麿が描いたことで大評判になったのであろう。中でもおきたの美しさが光っていたのか、大人気だったことは、前述した『武江年表』でもあきらかである。当時、おきたは十六歳、おひさは十七歳であった。三人とも髪型は、燈籠鬢に潰し島田である。
因みに、この三人の見分け方であるが、高島おひさは、桐紋で、簪にも桐紋ついている。難波屋おひさは、柏の紋がついた団扇を持っていたり、簪も柏紋になっている。また、富本豊雛は桜草の紋である。この寛政の三美人以降、文化、文政期には、三美人というタイトルで登場する女性たちはいなかったように思う。世間を騒がせるような、秀でた美人がいなかったのかもしれない。


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 今回から、千葉市美術館所蔵の浮世絵版画から、江戸の化粧や髪型について解説したいと思います。

25、「青樓七小町 玉屋内 花紫 せきや てりは」喜多川歌麿 寛政6~7年頃(1794~1795)
 

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 大きな貝髷か、鼈甲の櫛、簪を挿しているのは、新吉原江戸町一丁目玉屋の遊女、花紫である。鬢のところを白い紐のようなもので縛っている。衣裳は、桜模様の中着と、網目模様の下着を着ている。たぶん正装前の姿であろう。天明から寛政頃に流行した燈籠鬢のところから、鼈甲製なのか、鬢挿しの先が少し見えている。そして、よく見ると前髪が短く切られている。このように短いと、普通は簪が挿せない。どこかで簪を止めているのかもしれない。端正な顔立ちの美人である。右手に筆を持って、筆の先を舐め、たぶん客に手紙を書くところだろう。花紫の左に書かれている「せきや、てりは」というのは、二名の禿かむろの名前である。


26、「扇持つ娘」喜多川歌麿 寛政9年頃(1797)
 

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 大きな島田髷を結っているのは、若い娘であろう、大きな鼈甲製の櫛を挿して、手に扇と小鞠を持っている。鬢は流行の燈篭鬢である。この娘の面白いところは、髷のところに、盛りだくさんに髪飾りをつけているところで、まず銀製の大きな牡丹をつけた両天びらびら簪を挿している。因みに、びらびら簪が流行し出したのは、たぶんこの絵の書かれた寛政頃からであろう。さらに髷には、赤、緑、などの布で縛ってある。それだけではない。髷の根元には水引のような細いひものようなものを束ねた髪飾りをつけ、白い丈長という細い紙も付けている。
 以前、この髪型の髪飾りが実際のところ付けられるものか、実験したことがある。その時は、かつらを使用したが、結髪師の人が、このように沢山の髪飾りは、無理がある、といっていた。つまり、飾りを挿すスペースがなかったのである。若い娘を表現しようとして、髪飾りを増やしていったのかもしれない。浮世絵に描かれた髪型や髪飾りの付け方など、時々実験をすると面白いかもしれない。

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23、「今様美人いまようびじん拾二景 てごわそう」溪斎英泉 文政5~6年

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 タイトルにあるように、顔つきを見ると、目も眉が吊り上がり、顔全体がこわばって見える。なにか、思いつめているのかもしれない。
 大きな潰し島田に、赤い蔦模様つたもようの櫛を横に挿し、杜若かきつばたの付いた鼈甲の簪を左右に挿している。鏡台に向かって筆で口紅を付けている。左手に持っているのは紅猪口で、何度も下唇に紅を塗ったので、当時流行していた笹色紅になっている。ただ、この女性、心ここにあらずなのか、普通グリーン色になるところ、黒くなるまで塗ったようだ。着物は花菱模様はなびしもようで、黒衿になっている。  
 髷の上に描かれたこま絵には、「深川八幡之新冨士」とあるのは、今の富岡八幡宮のこと。『東都歳時記』に、「深川八幡宮境内(文化年中、石を以て富士山の形を造る。昨今登る事をゆるす)同一の鳥居の右 同森下町神明宮内 銕炮洲稲荷内、茅場町天満宮境内、池の端七軒町...其餘、挙げてかぞふべからず。都て石をたたみて、富士をつくる事、近世の流行なり。」と書かれている。 
 模造の富士を築いて、山開きの日には行者姿で富士禅定ふじぜんじょう(富士山に登って修行すること)にならう富士詣が文化文政以後、江戸市内の中で流行したという。因みに、「てごわそう」というタイトルと、この深川八幡の新冨士とどういう関係なのかわからないが、『東都歳時記』には、多くの老若男女が登っているところが描かれているので、深川芸者などが客を誘って新富士まで行けるかどうか、悩んでいるところ、というのは少し考えすぎかも知れない。


24、「遊女物思いの図」菱川師宣 元禄前期(1688~94)頃

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 遊廓の室内であろう。布団の上でくつろいでいるのは遊女で、側にいるのは島田髷に結った禿かむろであろう。遊女は梅、禿は菊模様の着物を着ている。夜着よぎ(普通の着物のような形で大形のものに厚く綿を入れた夜具。かいまきのこと)には、枕が二つあり、それにもたれかかっている遊女は、当時、流行していた玉結びという髪型に結っている。ひたいの白いのは、白粉おしろいを少し濃く塗ってきわだたせていたのかもしれない。足元に置いてあるのは、香炉と開いた香包こうづつみである。香炉から漂っているほのかな香りのなか、客の帰ったあとの気だるさを楽しんでいるのだろうか。
 落款に菱川友竹とあるが、これは剃髪した晩年の菱川師宣である。禿の着物や夜着に描かれた模様は、縫箔師ぬいはくし(繍は刺繡、箔は摺箔の意で、衣服の模様を繍と箔で表わしたもの)の家に生まれたこともあり、華やかに描いて女性たちの心を捉えたと思われる。
 屛風の上に書かれているさん(画に題して画に添え書かれた誌・歌・文)は「おきわかれなみたくもらぬ月ならハそてのなこりのかけそみてまし」となっている。


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21、「今風いまふう化粧鏡けしょうかがみ びんかき」五渡亭国貞 文政6年頃
 
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 今回は、歌川国貞が描いた「今風化粧鏡」の2枚をご紹介する。最初の1枚は、唐人髷であろうか、横兵庫のような髷を結った女性である。着物の袖から白い二の腕を出して、両手で器用に鬢の部分を掻き上げている。なにか急いでいるのか、顔に緊張感が表れている。赤い唇に白い歯。お歯黒はしていないので、未婚。遊女か、それとも、下働きでもしている女性なのかもしれない。鬢を梳いて、その後、使っている赤い櫛を挿して出来上がり、といったところであろう。ただ、後ろ衿の部分に描かれているのは、着物なのか、肩に描けているものなのか、はっきりしない。何気ない日常の情景であろう。


22、「今風いまふう化粧鏡けしょうかがみ こうがいさし」五渡亭国貞 文政6年頃

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「今風化粧鏡」の2枚目である。大きなつぶし島田に棒状の笄を挿そうとしているところである。笄は、長い髪を巻きつけるのが当初の役割で、それを笄髷と呼んだが、その後、島田髷やほかの髷でも笄を挿す場合も出てきた。装飾としても、用いられるようになったのである。この女性は遊女であろうか。麻地模様に松の葉のような羽根のついた鶴が袖口に描かれた下着を着ている。ボリュームのある髷と横に広がった鬢。歌麿の時代に流行った燈籠鬢とうろうびん彷彿ほうふつとさせる大きな鬢の形であるが、文政期は潰し島田や鹿子かのこといった髪型が流行っていたのか、国貞が描く女性の髪には多く見られる。癖直しでもした後か、潰し島田に、笄を挿そうとしている。珍しい情景でもなく、見慣れた風景なのかもしれない。

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19、「風流四季哥仙 五月雨」鈴木春信 明和5年頃

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 雨が降る中、二人で傘を持ちながら湯屋の行き帰りであろう。傘を少しつぼめた女の子と言葉を交わしている。まん中で、右手に浴衣を持ち、肩に手拭を掛けている女性は、帯を前で結んでいる。髪型は、島田髷なのかはっきりしないが、たぼのところにも櫛を挿している。たぶん髱の部分がたるんでこないように挿していたのかもしれない。右隣りの振袖を着ているのは、若い娘であろう。着物をたくし上げ、髪には赤い櫛が挿してある。
 そして、傘を少しつぼめた女の子は、島田髷を結っているので、たぶん12~13歳くらいであろう。肩には、手拭を掛けている。足元を見ると三人とも、違った下駄を履いている。年齢や職業などで履くものが違っていたのかもしれない。右端の格子のところに「明日休」という札が見えている。湯屋の札であろう。
 ところで、この絵が描かれたのは、明和5年頃であるが、この三人、髪型の髱の部分が、既に引きつめられている。この時期はまだ、髱が後ろに長く伸びて、それが反り返った鷗髱や鶺鴒髱というのが流行していたはずである。というのは、この絵が描かれた約10年後の、安永8年に出された阿部玉腕子の『当世かもじ雛形』には、まだ鷗髱や鶺鴒髱といったような、後ろに出ている髱も描かれている。ただし、この『当世かもじ雛形』には、引きつめられた髱も多数あり、安永8年前後が髱の流行から鬢が流行する移行期と考えていたが、この絵を見る限り、明和の5年頃から、髱を引きつめることが流行していたということなのかもしれない。
 横なぐりの雨が降っている。たぶん着物にも雨が降り注いでいるのだろうが、女性たちの表情には、困ったという顔にはなっていない。ちょっととした立ち話が楽しいのかもしれない。
 ちなみに、上部の雲形の中の和歌は「ふりすさふとたへはあれと五月雨の雲ははれ間も見へぬ空かな」と書かれている。


20、「湯屋へ行く美人」歌川豊国 寛政頃(1789~1801)

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 タイトルにあるように、湯屋に行く美人で、髪型が三つ輪髷のようにも見える。そうであれば、口元を見るとお歯黒をしているので、お妾かもしれない。鼈甲のような櫛、簪を挿して、髱は流行の燈篭鬢であろう。鬢挿しが透けて見えている。左手に浴衣を持って、肩には赤い糠袋が付いた手拭、右手はつまを持っている。着ている着物は格子こうし模様もようで、中着は七宝しっぽう模様もよう。帯びは幅広で、牡丹唐草のような模様になっている。
 歩いているのは海辺で、沖にはたくさんの船が停泊している。少し風があるのか、鬢の髪が乱れている。この絵の書かれた寛政頃は、女性の髪型で見ると、髷が大きくなったのが特徴で、元禄頃に流行った大島田といった名称の髷が流行し、勝山髷も大勝山といった髪型が登場している。襦袢の裾と手首から見えている袖口の赤が、この女性の色気を演出している。

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17、「美艶仙女香びえんせんじょこう」溪斎英泉 文化12年~天保13年

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 切り前髪に大きな潰し島田に結っているのは、若い芸者であろう。文化・文政頃に流行った笹色紅色(紅花から作った紅を濃く塗ると、緑色になったもの)をしている。右手には南天模様の懐中鏡を持ち、左手には「志きぶ」と書かれた刷毛を使って白粉を延ばしている。この「志きぶ」というのは、『浪華百事談』(幕末~明治にかけて書かれたもの)によると、山城国の福岡式部という筆の老舗が浪華で質のよい白粉刷毛を作り、全国的に有名になった、とある。
 右上のこま絵に描かれているのは、杯洗と白粉の美艶仙女香である。美艶仙女香というのは、寛政頃活躍した歌舞伎の名女形だった瀬川菊之丞の俳名「仙女」から名付けたもので、京橋南伝馬町三丁目の稲荷新町にあった坂本氏から発売されたものである。こま絵の左に「美艶仙女香といふ 坂本氏のせいする白粉の名高きに美人によせて 白粉の花の香のある美人かな 東西菴南北」と書かれている。この東西菴南北というのは、通称を朝倉力蔵といい、戯作者であり木版彫師で、浮世絵なども描いたという。今でいうマルチタレントである。
 描かれている芸者は、菊の花のついた簪を何本か挿し、長い笄も挿している。着物は八重裏桜の紋が描かれ、帯びには唐鐶木瓜の模様が見えている。色の白いのが美人とされた時代である。そのためには、白粉を丹念に延ばし、色白に見せるのも芸者にとっては仕事の一部である。洗練されて粋なさま、つまり婀娜な姿である。

18、「今風化粧鏡 房楊枝ふさようじ」五渡亭国貞 文政6年(1823)

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 タイトルにある「房楊枝」とは、江戸時代の歯ブラシのこと。潰し島田に赤い櫛を挿しているのは、粋筋の女性であろうか。左手に持っているのは、赤く色がついた紅入べにいり歯磨きで、今まさに歯を磨こうとしているところだろう。この紅入り歯磨き、文政6年頃にも結構使われていたのか、五渡亭国貞だけでなく、同時代の浮世絵師・溪斎英泉も紅入り歯磨きを使っている女性を描いている。人気があったのかもしれない。また、房楊枝に使われているのは柳の木で、棒状にしたものを叩いて房状にした。使い込んでぼろぼろなったら、そのところを切って、また房状にし、短くなるまで使ったのである。
この女性の着ている着物には桜が描かれ、中着も白抜きの桜である。ついている紋は二つ斜め雁金かりがねというのだろうか。「今風化粧鏡」のシリーズは10枚の揃いで、いずれも、柄鏡の中に化粧する女性を描いている。「眉そり」「びんかき」「あわせ鏡」「かねつけ」「牡丹刷毛ぼたんばけ」「こうがいさし」「眉かくし」「眉毛ぬき」そしてこの「房楊枝」であろう。あと1点あるはずだが、個人的にはまだ調査していない。
因みに、当時の鏡は銅と錫の合金製で、表面を磨いた上に錫アマルガム(錫と水銀の合金)を塗っていた。塗りたてはガラス鏡と同じくらいよく見えていたが、長く使うと曇って映りが悪くなるので、鏡研職人が定期的に家々を回って磨き直していた。

★お知らせ
ポーラ文化研究所よりCD-BOOK新刊「近・現代化粧史文化年表」発売
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15、「新吉原年中行事 十一月初雪酉の日 海老屋内愛染」 溪斎英泉 文政末~天保頃

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 格子に手をついて、差し出された酉の市の熊手を見ているのは、新吉原の海老屋の遊女、愛染である。島田髷に鼈甲製の簪、左右6本と二枚櫛、その櫛のところにも簪を立に1本挿している。牡丹模様が額縁のようになっている着物には、大小の蝶が乱舞している。中着は、絞りの麻の葉模様に桜や楓が描かれ、帯の片方が床に垂れ下がっている。これだけの衣装と豪華な髪飾りから、上級の遊女であることが分かる。
 初雪の降る酉の日に、いいお客がついてもっと稼げるようにと熊手を差し入れているのは、馴染みの客かもしれない。ちょっとしたプレゼントである。
 足元にある四角い包みは、白粉の美艶仙女香である。これは美艶仙女香の発売元坂本氏と浮世絵の版元がタイアップしたのだろう。いろいろなところに登場している。遊女の顔の美しさと、顔の白さは、この美艶仙女香が演出している、といったところであろう。こま絵には、初雪の降る新吉原が描かれている。今のように暖房設備のない時代、さぞ寒かったに違いない。

16、「美人東海道 沼津宿 十三」 溪斎英泉 天保13年(1842)頃

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 剃刀を顔に当てているのは、宿場の遊女であろうか。桜模様の着物を着て、立て膝には手拭が置いてある。髪は潰し島田で、前髪に櫛を挿している。鏡台の上には、房楊枝と歯磨粉の入った箱、その下には、髪を結うのに使う元結などが見えている。また、引き出された引き出しには、剃刀箱、紅猪口であろうか、ちらりと見えている。面白いのは、この引き出しが右に引き出されているところだろう。普通、引き出しは手前に出るが、そうすると、鏡にうつる顔が遠くになってしまう。右に引き出せば、色々な道具も使いやすく、鏡に映る自分の顔も近くに見える、という寸法である。鏡台の左には白粉の美艶仙女香、右には水の入った嗽茶碗であろう。奥の黒い箱は、柄鏡の上蓋かもしれない。
 書かれている句は「剃刀の手あわせかろし春の風」で、「手あわせ」とは、かみそりの刃をみがくため、手のひらにこすり合わせること、である。沼津の宿の春の様子か、山には雪がなく、木々の枝にはこれから葉が伸びて、日1日暖かくなっていくのだろう。なにか、のんびりした風景である。

★お知らせ
2004年に発売して長らく重版をしていませんでした『結うこころ 日本髪の美しさとその型』(2500円+税)を11月25日、再販いたしました。ご希望の方は、ポーラ文化研究所のホームページから入って頂くか、直接お電話(TEL 03-3494-7250)頂ければお届け致します。

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13、花魁おいらん 女房 芸者 二代歌川豊国 文政~天保(1818~44)頃

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 有職紋が織られた白地の衣装を四枚重ねて着ているのは八朔はっさく姿の花魁であろう。前帯びには雲竜が描かれている。麻地模様の赤い下着が鮮やかさを増している。全盛の花魁であろう、髪は大きな横兵庫で、鼈甲で出来た豪華な菊花模様の簪を左右各6本挿し、櫛2枚挿したその後ろには長い笄が見えている。口元は小さいが、お歯黒をしているのが見える。
 また、その右にいるのは、町方の女房で、髪は割鹿子わりかのこであろう。髷を左右に割って長い笄を通している。櫛は蒔絵に珊瑚が嵌め込んであり、鬢の部分に斜めに挿してある。風呂帰りか、着ているのは浴衣で袖をたくし上げ、手にしている着物には黒衿が付いている。たぶん、それまで着ていたものだろう。左手には手拭が見えている。顔を見ると眉なしで、お歯黒をしている。耳にかかる髪が透けている。胸がはだけ、いかにもリラックスした様子は町方の女房といったところである。
 下で座っているのは芸者で、右手に持っているのは熊手である。黒地の着物には、ねじ梅の五つ紋、裾には鉄線唐草てっせんからくさが描かれている。よく見ると簪もねじ梅である。さらに凝ったところは、中着の模様で、利休梅と小さな梅が一緒に描かれているところである。目立たないところに気を配っている。帯びは縞模様で右手の辺りに見えているのは、帯に挟んだ懐紙入かいしいれである。
 髪型は若い女性の結う島田髷の燈籠鬢のようにも見える。化粧を見ると、芸者は基本的に眉を剃らず、お歯黒をしなかったので、白歯である。このように身分、階級、未・既婚の違いで、着ているものや髪型、化粧の違いが分るのが浮世絵の楽しいところであるが、文政頃には廃れたと思われる燈籠鬢を結う女性が、まだいたのであろうか。そういったことを考えるのも面白い。


14、女三題 溪斎英泉 文政4~5年(1821~22)頃

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 こちらの女性三人は、右から富裕な家の娘、まん中は御殿女中、左は芸者であろうか。富裕な家の娘は、根の高い大きな島田髷に赤い手柄てがらを巻いている。櫛はなく、前髪をくくった赤い絞りの布が愛くるしい。前髪の上にびらびら簪、両サイドに挿してある簪には挿しぬきの桜が付いている。着物は市松模様になっているが、真っ赤な中着が若さを演出している。右手には琴の爪を付けているところをみると、なにか曲を弾いていたのかもしれない。まだ15歳~16歳くらいであろう。白歯で眉も剃っていない。ただし、口紅は流行の笹色紅である。
 真ん中の御殿女中は、眉なしで笹色紅、お歯黒もしている。髪型は御殿女中の代名詞にもなっている「片はづし」で、櫛は挿さない。位の高い御殿女中は、基本的には一生奉公なので、結婚したしるしのお歯黒をして、眉も剃るのである。
 下にいる芸者を見ているのか、手には扇子を持ち、帯に懐紙入れを挟んでいる。着物は地味に見えるが、格調高い唐草模様からくさもように菊の五つ紋、帯はこれも唐花模様のようにも見える。
 左の芸者は潰し島田に大きな鼈甲風の櫛と笄を挿している。簪は八重裏梅やえうらうめの模様が付いている。盃を持っているところと、髪がほつれているところを見ると、ほろ酔い酒というところであろう。地味な縞の着物、赤い襦袢の白い衿には蝶が描かれ、ちらっと洒落た感じを演出している。向き合う富裕な娘と御殿女中を相手に、酒の勢いもあるのか、一歩も引かない芸者の心意気のようなものを感じる。
 富裕な娘の下に書かれている文句は、山東京伝の弟で『歴世女装考』を書いた山東京山さんとうきょうざんである。「つぼすみれつぼみし花の色はまだ人にゆるさぬ紫の上」ういういしい娘の姿を源氏物語の紫の上にたとえているのだろう。
 御殿女中の歌は狂歌師の狂歌堂・四方よも真顔まがおである。「この小町男ひでりの雨乞いにぬれんとてこそ御代参すれ」御殿奉公の女性たちは、代参の帰りに芝居見物などで男性との出会いを期待しているのではないか。そんな心情を書いたのであろう。その手の歌は川柳にもよく登場している。
 芸者の歌は、狂歌師の六樹園こと宿屋やどや飯盛めしもりが書いたもので「そみせんはやめて手にとるさかづきのあひも袖をひかるゝぞうき」とある。三味線を弾くのをやめて盃をとるその間にも、袖を引く男がいるのが煩わしい、ということらしい

 これまで紹介してきた浮世絵類は、すべて原宿にある太田記念美術館の所蔵作品である。今回ご紹介するものも、太田記念美術館所蔵の肉筆浮世絵で、「花魁・女房・芸者」もこの「女三題」も、肌の白さや紅(笹色紅)の鮮やかさ、髪の質感などがよく分って、いつ見ても、何度見ても飽きない。贅沢なひと時である。

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【お知らせ】10月2日から11月23日まで歌麿・英泉・北斎―礫川浮世絵美術館名品展を開催中です。

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11、傾城けいせい江戸方えどほうがく う 水道橋 丁子ちょうじ屋内やない唐歌からうた 渓斎英泉 文政12年(1818)頃

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 「傾城江戸方格」というシリーズ物の一枚で、いろは順で、ひらがながふられているらしい。「う」は水道橋になっている。水道橋は、小石川御門の東、本郷から稲荷小路(三崎町)へ渡す神田川に架かった橋で、少し下流に神田上水の懸樋かけひ(ふしを抜いた竹や中心部をくりぬいた木を地上に架設して水を通ずるとい)があった。因みに、現在、中央線水道橋駅東口の前の橋である。
 合わせ鏡で、襟足に手をやり、白粉化粧の出来具合を見ているのは、新吉原江戸町二丁目にあった丁子屋の遊女唐歌で、足元にあるのが、白粉の「美艶仙女香」である。たぶん、白粉で襟足を燕の尾のように整えたところであろうか。首を長く見せるのも美人の条件の一つである。
 また、松竹梅が描かれた鏡台は蒔絵であろうか、化粧道具の牡丹刷毛、白粉の容器が見えている。ただ、鏡台に架かっている柄鏡は、普通、同じ模様の柄鏡が付いていると思うが、ここでは、黒地に桜が描かれ、唐歌が左手で持っている柄鏡と合わせ鏡になっているのだろう。
 着ている着物は中着であろうか、黒地に丸雨龍まるあまりゅう瑞雲ずいうん、帯びには蝙蝠こうもりが描かれている。鏡台の松竹梅同様、吉祥模様になっている。唐歌は今、全盛の遊女なのであろう。これから、島田髷に鼈甲製の簪を6~7本挿して、着物を着替え、帯を締めて、更に打ち掛けを着て、座敷に出ていくのだろう。身繕いにも時間をかけ、自分をいかに美しく見せることができるか、これからが遊女にとっては真剣勝負である。

12、当世美人合とうせいびじんあわせ 町藝まちげい 香蝶楼国貞 歌川国貞 文政12年(1818)頃

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 女性の半身像を描いた揃物で10図あるといわれている。「町藝」とは芸者のことであろう。大きな潰し島田髷に鼈甲製の櫛。長い棒のように見えるのはこうがいで、かんざしは全部で4本挿している。前髪を挟んでいる簪は、前挿し。右の蕾みのように見える簪は、髷の根のところに挿している。その下にある簪は、「差し込み」といって、菊の花の部分が取り外しできるようになっている。そして、左の下のほうに斜めに挿してあるのは、銀の簪であろうか。下手すると落ちそうである。
 因みに、簪は基本的には、挿す場所が決まっていない。
 この芸者、右手に巻いた懐紙で化粧直しをしているのであろうか。左手には懐紙を巻いた懐紙入れが見えている。着物は大小の霰小紋あられこもんか。花を裏から描いた紋を白く描いて入れている。また、黒く見える模様は、花模様らしいが、どんな花なのか不明。
 そして、二枚重ねの中着なかぎの赤い襟には、麦を束ねたような模様が描かれ、どことなく洒落た感じで描かれている。
 考えみると、鏡も見ずに、慣れた手つきで化粧直しと思ったが、本格的なものではなく、そっと白粉を押える程度であろう。水で溶いた白粉を下手に直すと、白粉がまだらになることもある。
 右を向いて、何かをじっと見ているのは気になるが、仲間と話に夢中になっている、そんな一瞬かもしれない。
 上にある、扇形のこま絵には、桜の紋の入った着物と帯であろう、きちんと畳んである。当人のものか分らないが、なにかきっぱりとした芸者のように感じるのは、私一人であろうか。

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著者について

村田孝子(むらたたかこ)。ポーラ文化研究所 化粧文化チーム研究員。主に日本と西洋の化粧史・結髪史を調査している。著書に『眉の文化史』『モダン化粧史』 『日本の化粧』『結うこころ』『婦人たしなみ草 江戸時代の化粧道具』(いずれもポーラ文化研究所刊)。『江戸300年の女性美 化粧と髪型』(青幻舎)がある。