2017年8月アーカイブ

 尼僧という存在には妙に心惹かれるものがあります。過去世、尼僧だったと言われて嬉しかったこともあります。でも、一言に尼僧といってもジャンルがいくつもあって、中には微妙な尼僧も......。知った時衝撃だったのが「屁負い比丘尼」です。『大辞林』から引用します。

「科負い比丘尼」
昔、良家の妻女に近侍しその罪を身代わりに負った比丘尼。娘が放屁したときなどに、なりかわってその科を負うので屁(へ)負い比丘尼ともいう。

身分が高い女性がおならの音を発してしまうのは一大事です。そんな時、傍らの尼僧が「今のは私です!」と申告。尼さんのおならなら、霊妙でありがたいものに感じられる......かもしれません。しかし冷静に考えてバレバレです。
 絵や歌の才能を披露する尼さんたちもいました。女子クリエイターや歌手の元祖です。


「絵解き比丘尼」
歌を歌いながら地獄・極楽の絵解きをし、また特に許されて仏法をも勧めて歩いた尼僧。江戸初期の頃から次第に堕落して、後には一種の遊女となった。歌比丘尼。勧進比丘尼。

「歌比丘尼」
歌念仏やはやり歌などを歌い、施し物を求めた尼。のちには売春する者も現れた。

「勧進比丘尼」
地獄・極楽などの絵巻を見せて絵解きをしたり、浄土和讃を歌ったりして勧進しつつ諸国を巡った比丘尼。のちには一種の売春婦に堕落した。歌比丘尼。

「熊野比丘尼」
近世,熊野三山に詣でて行をし、その帰途、熊野牛王の誓紙を売り歩いた尼僧。はやり唄などを唄い、物乞いをして歩いたため、歌比丘尼ともいわれた。のちには売春もするようになった。

 尼僧たちの様子がおかしい、というか皆最終的には遊女になっています。自分の表現に限界を感じてしまったのでしょうか。また、最初からコスプレだけの安易な尼僧も......。

「浮世比丘尼」
江戸時代、天和(1681~1684)から元禄(1688~1704)頃にかけていた尼僧姿の売春婦。
 
「伊勢比丘尼」
伊勢寺の勧進と称して尼の姿をした遊女。

 江戸時代になると、多くの尼僧は遊女の道に......。上記以外にも鉢比丘尼、船比丘尼なども体を売っていた尼僧の流派だそうです。尼僧という存在感のエロさは、いつの時代も変わらないのでしょうか。ちなみに現代は、剃髪の女性が相手をするデリヘルがあったようです......。

 『江戸艶笑小咄と川柳』(西尾涼翁著)は、様々な職業や人種にまつわる艶話や川柳が紹介されている素敵な本です。この中にも比丘尼、尼僧にまつわる川柳が紹介されていました。
 
「二十にはなるやならずに尼になり」
二十歳そこそこで夫と死別したのか、何か事情を感じさせる尼さんについての句です。
「まだ髱(たぼ)のある気で探るにわか尼」
髪の後ろ、うなじの上に張り出している部分が髱です。剃髪したあとも、まだ髱があるような感覚で触ろうとしてしまう新人の尼さんです。
「お比丘人ひとの欲しがる顔があり」
剃髪しても美人なのは本物です。むしろ美しさが際立ち、世の男性を惑わしてしまいそうです。思い出したのは室町時代の慧春尼の伝説。とても美しい女性で出家したいと言っても家族に反対されていたのですが、焼火箸で自分の顔を焼いて出家の覚悟を見せて、ついに許されたそうです。美しい顔を自ら捨てることで、修行の道に入られました。慧春尼さまくらいになると、全ての煩悩からは解き放たれていることでしょう。
 いっぽう江戸時代の尼僧たちの事情は......。
「尼のつれづれ懺悔してお聞かせな」
尼僧たちのガールズトーク。娑婆での思い出や武勇伝を語り合っているのでしょうか。お寺でも、経験値の高い尼僧が主導権を握りそうです。
「つれづれなるままに尼寺二本入れ」
雅な言葉でさらっと自慰行為について綴っています。このように自然な流れで行為に及んでいたのでしょう。尼僧も人間です。
「尼寺へ極内で売る小間物屋」
出入りの張形業者がいたケースも。さすがにどうかと思います。
尼僧がひとり遊びに興じるのは、そもそも男子禁制だから。
「尼寺の門へ虚無僧入られず」
「虚無僧」は、バチ当たりなことに男根の隠語だそうです。虚無僧が男性器に見えるなんて欲求不満の末期症状です。
 「尼寺は女の花の散る所」
尼寺では、もう女の花は咲かせる機会はないと自認して、禁欲的に生きるのが良さそうです。後世の日本の平和のためにもよろしくお願いします。
 尼僧の川柳には女の業がうずまいていました。自分の過去世もあやぶまれます......。

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参考文献:『江戸艶笑小咄と川柳』(西尾涼翁著・太平書屋版)


 

31、「浮世風俗美女競 一双玉手千人枕」渓斎英泉 文政6年(1823~24)頃

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 髪にこれだけのたくさんの髪飾りと、口元にお歯黒が見えているので、最高位の遊女であろう。花簪8本、前髪のところに挿した簪6本、そして小さな前挿し2本、全部入れると16本である。島田髷の根には笄、櫛は2枚である。高位の遊女は、眉は剃らなかったがお歯黒をして、一晩客の妻となる、というところで貞節を見せたのである。黒地の着物には羽を広げた金色の鶴、帯には鳳凰が描かれている。たぶん手に持っている煙管には、雲が画かれているので見えないところに龍が描かれているのかもしれない。右上にある漢詩には、玉のように美しい両手(腕)が、千人の男の枕になるであろう、と書かれている。気合の入った顔つきと髪飾り。隆盛を極めた遊女ともいえる。

32、「御利生結ぶ縁日 日本橋中通り新右エ門町 妙見」渓斎英泉 文政7年(1824)頃

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 参詣ブームと美女を組み合わせたシリーズ。手拭で顔を拭いているのは、既婚女性であろう。眉無しで髪は割鹿の子である。大きな笄を挿し、大きな赤い櫛には「鯉丈作」という文字が描かれている。ちなみに鯉丈というのは、滝亭鯉丈りゅうていりじょうのことであろう。江戸時代後期の滑稽本作者で、本名は池田八右衛門。為永春水の縁者らしいがはっきりしない。乗物師、縫箔師、櫛職人などともいわれていたらしいが、この櫛に名前が書かれているのをみると、櫛職人だったのかもしれない。大きな蝶が描かれた浴衣を着ているので、湯上りあろう。黒い鏡台の前には、うがい茶碗に房楊枝、手前の袋のようなものには、「紅玉香 ぎんざ四丁目 福井」と書かれた白粉袋かもしれない。
 こま絵は、「日本橋中通り新右衛門 妙見」と書かれているが、俗にいわれている「柳島の妙見様」とは違って、小さな宮だったと思われる。ただ多くの参詣人が描かれているところを見ると、当時は有名だったのかもしれない。それにしても、眉無しで髪がほつれ、しどけない浴衣姿。どれをとっても年増の女性の色っぽさが描かれているような気がしてならない。


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