まぼろしの明日

手紙

送られてきた封筒をあけると、文庫本が一冊入っていた。面白い本です。237ページにきみがいるよ。と書かれた付箋が表紙に貼り付けられている。文庫本のタイトルは『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』(H・G・ポンティング著 長岡祥三訳 講談社学術文庫 2005)。挟んである栞に導かれて開いた237ページを見ると、明治に生まれたならこれが自分だと感じられる若い女性が、ポンティングの撮影した一枚の写真に固定されてそこにいた。何の苦もなく100年以上前に呼びもどされる。

ポンティングは1910年スコット大佐の第二次南極探検隊の記録写真を撮った写真家として知られているが、その前の1901(明治34)年から1906(明治39)年にかけてアメリカの雑誌の特派員として何度か日本を訪れ、1910年にはその見聞を撮影した写真とともに一冊にまとめて出版した。タイトルは"In Lotus - Land Japan"。lotus landは桃源郷という意味だが、lotusの実を食べると夢見心地になるといわれるからなのかな。届いた文庫本はこの本の翻訳(抄訳)なのでした。日本各地を旅し、浅間山の噴火に遭遇しても、ポンティングにとって明治の日本は美しい風景とそこに生きる人々の素質によって桃源郷と呼ぶにふさわしいところだった。『この世の楽園・日本』という文字を2011年の原発事故を知ったあとで眺めると、胸がしめつけられる。

私の原型ともいうべき彼女の写真は「日本の婦人について」と題された章のはじめに載っている。十代の後半だろうか。日本髪に無地の着物、帯をお太鼓にしめ、畳の部屋に敷かれた座布団の上に、左半身をこちらに向けてきちんとすわっている。顔は向かって左を向いて入る。右手に小筆、左手には巻紙を持って、手紙を書いている最中だ。細かい桟の障子の窓が正面にあり、出窓には盆栽の鉢がひとつ。右の膝の前の真鍮製らしき小さな火鉢には鉄瓶がかかっている。左の膝の手前寄りには硯の入っている塗りの箱があり、その蓋の上には書き終えた手紙を入れるための封筒の束が置いてある。そして、硯の箱の右隣りにあるのは急須とお菓子ののっている塗のお盆。必要なものはすべてそろっている。湯呑み茶碗はすでに彼女の手元に置かれているから、鉄瓶のなかで沸いているお湯でいれたお茶を飲みつつ、すらすらと筆はすすんでいるのだ。彼女の手元を見て、机の上に置いた紙に小筆で書くと、まったくうまくいかなかったことを思い出す。小筆はこの写真のように、宙に浮かせて軽く使うのがよいのだ、きっと。真剣だけれどちょっと力の抜けている表情が明るい。書きながら手紙の相手を思っていることがわかる。

実際に彼女くらいの年だったころを思い出してみると、時間としては明治よりいまのほうが近いけれど、暮らしの実際は明治のほうがずっと近かったことに気づく。いまともっともかけ離れているのは通信手段だろう。当時は電話だって一家に一台あるのが普通とはいいがたかった。それはほんとうに必要な連絡のときだけに使われる特別なもので、無駄話や長電話などもってのほか。そういう個人的な必要を担うのは手紙だった。

歌人でアイルランド文学の翻訳者でもあった片山廣子は手紙を「小さい芸術」と呼んでいる。
「言葉はなりたけ簡単に、言葉の上の技巧は捨てて、全体のトーンの上にある苦心をしなければなるまい、感傷的の形容詞は捨てて、その折々のまことの感情を言外に現はす努力もしなければなるまい。そんな注文をいへば、それは詩をつくるよりも小説をつくるよりも、もつとむづかしい事かも知れないが、とにかく、私どもは、もつとよい手紙を、もつとらくに書きたい、手紙によつて、与へ、また与へられたい。それは私どもの手紙に対する心持をもつとあたらしくしなければなるまい。......手紙といふ小さい芸術の中に力とよろこびを感じることが出来るほどに私どもが若がへることは出来ないものだらうか。
 物質的の報酬のないところには些の努力も惜しむといふほど、私どもはそれほどさもしい心は持つてゐないつもりである。報酬の目的なしに、互に与へ、与へられるよろこびは、いつの時代にも、特に人類に恵まれたる幸福でなければなるまい。」(「小さい芸術」)

転勤族の父親の娘だった私は、中学入学からちょうど一年間を福島市で過ごした。福島を離れる日、駅まで送りに来て泣いていた同じクラスの親友が最初にくれた手紙の一節をいまも覚えている。「あなたのもみじのくさったような手を握りたくなりました」。発育不良だったのか背も低く痩せっぽちだったのに、なぜか手だけは大きくてしかもふっくらしていたのだ。ふたりで手をつないで歩きながら、ささいなことで笑ってじゃれあっていた短い日々のことを、まだ友だちもできない知らない土地で思った。なつかしいというよりはせつない。彼女には二度と会う機会がないままだ。どこでどうしているのかな。

そのうち真性な思春期を迎えて、そのあいだにラブレターをたくさんもらった。まあ、男子はみな発情していたのだろうからしかたがない。どう返事を書いていいのかわからないし、そもそも返事を要求されているのかどうかわからなかったので、一度読んだら段ボール箱に入れて押入れに入れておいた。おとなになるまで箱のまま手紙を取っておいて、しかるべきときに全員に送り返してみたらどうなるだろうとふと邪悪な考えが浮かんだりももしたが、そんな関心が長続きするわけはない。次の引っ越しのときにみんな燃やしました。ぼんやりしたこの私でさえ、もらった手紙を送り返してみようかなどと、たとえ一瞬とはいえ考えたりするのだから、手紙は意図しない危険もはらんでいる。

夏目漱石が「手紙」という短編小説を書いたのは、ポンティングの"In Lotus - Land Japan"がロンドンで出版された次の年、1911(明治44)年だ。漱石は前の年に療養中の修善寺で吐血して意識を失い、死を体験したと言われる。「手紙」はそのあとに書かれたもので、タイトルそのままに手紙が主人公といってもいい、軽い味わいの小品だ。ある夫婦が身内のようにかわいがっている青年重吉に結婚の世話をしている。相手の女性お静さんの両親は「金はなくってもかまわないから道楽をしない保証のついた人でなければやらない」という。重吉は「全面が平たく尋常にでき上がっている」人物なので、「遊ぶとは、どうしても考えられない。」ところが、である。重吉が滞在していたいなかの旅館を訪れた夫のほうが鏡台の引き出しの奥に入っていた手紙を偶然に発見してしまう。手紙は「細かい女の字で白紙の闇をたどるといったように、細長くひょろひょろとなにか書いてある」。文面からくろうとの女性が書いたものだとわかり、気楽に読んでいるが、さいごに宛名が重吉の名前になっていてびっくり、さてどうする。「とにかく遊ぶのがすでに条件違反だ。お前はとてもお静さんをもらうわけにゆかないよ」と言い渡された重吉は、この縁談に未練があるのか泣きつくのだが、重吉自身のそうした態度ゆえにこそ縁談は破綻するであろう。なにかの事件をおこした人がよく「あんなにマジメでおとなしかったのに」と評されるが、「全面が平たく尋常にでき上がっている」という重吉にはおなじ危うさをぞんぶんに感じる。

漱石の「手紙」は、モーパサンの「二十五日間」と題する小品とプレヴォーの「不在」という端物のふたつと同じ経験をした、というところから始まっている。「二十五日間」も「不在」も宿屋の部屋のひきだしから手紙が出てきたのがきっかけとなり、手紙はそっくりそのまま作品のなかに転載されていると書かれている。作家が手紙を書いた人も受けとった人も知らなければ、それもいい。ためしに青空文庫のトップページの右上にある検索窓口に「手紙」と入力して検索してみると、約4360件もヒットした。重要な文学的アイテムであることがはっきりとわかる。

風が吹いてきた。さあ、楽園の明治から原発事故後の平成へと帰ろう。『英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』を送ってくれた彼には電話でお礼を言ったけれど、手紙も書いてみようと思う。もっとよい手紙を、もっとらくに書きたいと願って。


◆夏目漱石「手紙」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card798.html

◆片山廣子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1346.html#sakuhin_list_1

たけのこ

春はいそがしい。桜の花があわただしく散ると、すぐにたけのこが出てくるから。


 たけのこは はじめ じびたの したに いて、あっち こっちへ くぐって いく もので あります。
 そして、あめが ふった あとなどに ぽこぽこと つちから あたまを だすので あります。
「たけのこ」新美南吉


たけのこが生えてくる「じびた」を自宅の庭として所有している友人がふたりいる。だからたけのこが出る時期は楽しい。ひとりは毎年掘れたてを数本届けてくれる。くるまれた新聞紙を開いたとたんに、目の前で太いたけのこがにょっきりとさらに大きく伸びるような気がする。気がするだけかもしれないが、実際にそうであっても不思議ではないと思う。

もうひとりは毎年おこなわれる自宅でのたけのこパーティに呼んでくれる。二つの大きなテーブルに並べられた料理のすべてに庭で掘りたてのたけのこが入っているのを見ると、毎年圧倒される。和風、中華風、イタリア風、それから各種カレーなどなんでもあって、どれから食べようかと毎年悩む。たけのこが新鮮でどれもこれもおいしいのだ。もちろんたけのこご飯もあり、いつも最後はこれに決めている。

庭に出て、靴底に意識を集めて歩いていると、硬いちいさなものを感じる。地表にはまだなにもないが、もうすぐ出てくるたけのこの頭がそこにあるのだ。この状態が掘るのにもっともいいのだ、と友はおしえてくれる。つまり、おししい。竹林から出ている地下茎は遠くまで伸びているが、遠いところよりは近いところに出てくるもののほうがおいしいのだ、とも友はおしえてくれる。庭のまんなかでは火が熾されていて、掘りたての一本が皮ごと焼かれているし、竹筒には日本酒が満ちている。だからその日がたまたま春によくある薄ら寒い日であっても、心配はいらない。すぐにあたたまります。

ふたりの友によって我が家の一年分のたけのこは供給されている。この時期に食べるだけで満足できてしまい、次の年まで買ってまで食べる気にならない。短い時間に大きくなるもののエネルギーが生きつづけているのだろうか。食べる時期をあっという間に過ぎて、たけのこはエネルギーのままに竹になってしまう。この待ったなしのエネルギーこそ竹なのだということもできそうだ。


竹  萩原朔太郎

 光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。


吉川英治「折々の記」のなかの「夏隣り」は母の日にちなんで母性について書かれたものだ。「やはり女性は"母の座"を占めることに、悔いのない生涯の率が多さうである。」というような理屈の部分は読んでいてあまり楽しいものではないが、母という人の記憶を書いた部分は、「夏隣り」というタイトルとともに忘れがたい。


 ぼくの母は、とうのむかしに、この世にゐない。だが、夏隣りともなつて季節の野菜物、たとへば、味噌汁のなかのサヤゑんどう、竹の子めし、新そらまめ、若い胡瓜モミなど、母が好きだつたお菜に會ふと、ふと、母が胸をかすめる。
 母はビールの一口を美味がつた。初夏の夕、夕方の掃除や打水もすました母と、青すだれの小窓を横に、よく一本の小瓶を二人して一杯づつ酌み分けた。


夏隣りの季節の野菜物には、ちゃんと「竹の子めし」も入っている。新そらまめにも苦い胡瓜モミにも、たけのこと同じように夏に向かうエネルギーがあふれていて、「夏隣り」という言葉の意味を実感する。そしてビールは夏隣りから夏の初めに移行してからのものだ。すだれも新しくて青い。夕方の掃除や打水など、当時の母は忙しそうだけれど、夏隣りから初夏に変わっていく季節や、息子と分かち合って飲む小瓶のビールの一口の美味さとも仲の良い忙しさだ。パソコンの前にじっとすわって、ときに頭をかきむしりながら何かやっている今日的な忙しさとはどこか根本的に違う。そんな母の労働は息子の記憶にどのように刻まれるのだろうか。この世の行方が気になってくる。

略歴

 数かぎりなくある本の中から一冊を手にとって、これを読もうと思うのはその本がなんだかおもしろそうと感じるからだ。なにかが自分のアンテナにひっかかる。読んでみると、おもしろいのもあり、そうでないのもある。著者のことを知らずに読んでおもしろい本だったら、書いたのはどんな人なのか知りたくなる。奥付の上あたりに小さな文字で数行の「著者略歴」をじっくりと見るのはそんなとき。ふつうは生まれた年と業績くらいしか書かれていないので、ほとんどなにもわからない。

 坂口安吾の「てのひら自伝――わが略歴――」は、こんなふうに始まる。「私は私の意志によって生れてきたわけではないので、父を選ぶことも、母を選ぶこともできなかった。/そういう限定は人間の一生につきまとっていることで、人間は仕方なしに何か一つずつ選ぶけれども、生活の地盤というものは人間の意志とは関係がない。」なるほど、ではあるけれど、坂口安吾に限らず、この世に生まれ落ちた誰にとってもおなじ条件だと思う。それを意識し続けるかどうかは人それぞれだとしても、自分の略歴をこんなふうに始めるのは意識のし過ぎではないのかな。


 反対に具体的でおもしろいのは直木賞としてその名を冠している直木三十五の「著者小傳」だ。本名は植村宗一というところから始まって、
「筆名の由來――植村の植を二分して直木、この時、三十一才なりし故、直木三十一と稱す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。/翌年、直木三十二。この時月評を二篇書く。/震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦樂」の編輯に當る。三十三に成長して三誌に大衆物を書く。/三十四を拔き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映畫藝術家協會」を組織し、澤田正二郎、市川猿之助等の映畫をとり、儲けたり、損をしたりし――後、月形龍之介と、マキノ智子との戀愛事件に關係し、マキノと、袂を分つ。/キネマ界の愚劣さに愛想をつかし、上京して、文學專心となる。
習癖――無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時頃より、朝八九時まで書き、讀み、午後二三時頃起床する日多し。」
筆名をいくつか持っている作家はいるけれど、毎年筆名を変える人はいるのだろうか。夜中に布団のなかで臥して書いた日々のことを想像すると、なんだか笑えて、書いたものにも興味は伸びていく。

『すべての終わりの始まり』(国書刊行会 2007年)を読んだときのことだった。著者のキャロル・エムシュウィラーは1921年生まれで、作家になったのは50代になってからだという。さらにSFという手法をなによりも必要としたと、略歴にある。そのことと関係があるとはっきりわかるような変な話ばかりな短編集だ。「わたし」がつきあわなくてはならないはめに陥る相手が人間とは限らない。どこの誰とも何ともよくわからない謎のいきものだとしても、関係を持つことは謎ではなく当然であるという一貫した態度がある。

 あとがきを読むと、最初の著書(『私たちの大義に喜びを』1974年)のための自筆略歴が紹介されていた。すばらしいのでそこだけちゃんと書き写しておいた。紹介しましょう。

キャロル・エムシュウィラー 自筆略歴

なぜか私は三十近くなるまでものを書かなかった。
最初にアートと音楽を試した。
三人弟がいることで、もろもろの説明はつくだろう。
自分が妻と母になるべきか、作家になるべきかわからなかった。
断筆しようと三、四回試みたが、やめられなかった。
私は現代詩人が好きだ。
いつも思っているのだが、ほかの作家は自分で洗濯をするのだろうか? 皿を洗うのか? 壁のペンキ塗りを自分でするのだろうか? たとえばサミュエル・ベケットは? ケイ・ボイルは? アン・ウォルドマンは? アナイス・ニンは?
書くようになってまもなく最初の子が生まれたので、書き手としてはつねに戦ったり、すねたり、叫んだり、わめいたり(ときにはいい子であろうとしたり)して、書く時間がないことに相対してきた。
本書に収録した作品はすべて食卓か寝室で書いた。
これまで私は自分の部屋を持ったことはない。

 サミュエル・ベケットやアナイス・ニンの日常と作品は別なものだとは思うけれど、ときにこんなふうに考えてみることは楽しい。わたしも仕事はすべて食卓か寝室でやっているし、自分の部屋を持ったことはない。若い頃は自分の部屋がありさえすれば、と思ったりもしたが、こうした略歴を読むと、人間の出来の違いはとりあえず棚にあげて、それがなくてよかったのかもしれないと思えてくる。環境をととのえることは必要ではあるし、ついそちらを優先したくなるけれど、最初にやるべきことではないのかもしれない。

 アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神』(DHC 1998年)を読んだときも、訳者あとがきに彼女の愉快な自己紹介文があった。こちらは少し長かったので書き写すのではなく、コピーをとった。「インドの南西部ケララ州に祖母が営むピクルス工場で育ったわたしは、カレー粉を大袋に詰めてラベルを貼るプロフェッショナルとして社会への第一歩をふみだしました。」と始まるところがいい。それから建築を学び、女優として映画に出たり脚本を書いたりしたあとで『小さきものたちの神』を書き、ブッカー賞を受賞した。その後は開発反対運動のノンフィクションを書いたり、反グローバリズムの活動をしている。それらの活動のすべてが自己紹介文の最初のセンテンスとすんなり繋がっていると思う。

 こうして本人によって書かれた略歴によって、二人は忘れがたい作家となった。生まれる環境を選ぶことはできないけれど、二人がおもしろい小説を書いたという事実、またその小説のおもしろさは環境と無関係ではないという事実には刺激される。与えられた環境をまっすぐに受け止められなくても、この二人のように、前に進むことの推進力にすることはできるのだから。

 自宅から最寄りの駅までの道の途中に、小さな公園がある。けやきのほかに何本かある大きな松の木の存在が際立っている。東京の公園で松の木を見ることはあまりないと思う。しかもすくすくと真っ直ぐに天に向かって伸びている。そこがどのようにして公園になったのかわからないが、世田谷区では最初の公園であると入口に書いてある。  

 公園の入り口は二箇所ある、とはいっても柵などはないから、開放的だし、トイレはあるし、松の木は晴れた日ならいつも影を作ってくれるので、タクシーの運ちゃんたちには知られた居眠り場所であるらしく、特に暑い夏の日の午後には、複数の人が運転席の背もたれを倒し、エアコンを盛大にかけたままで熟睡しておられるのを見ることができる。  

 遅めの午後にここを通る。入り口に3つほど置かれている車止めのようなまあるい石に腰をおろして、おばあさんたちがたむろっている。その定期的集まりの中心にいるのは一人のおばあさんと彼女が飼っている犬だ。公園は散歩の途中の休憩場所らしい。犬はおばあさんと同じ年頃の柴犬で、たいてい腹を地面につけて、寝そべっている。お疲れなのか、リラックスしているのか、きっとその両方なのだろう。いつも落ち着いている。わたしは道を歩いているので、観察出来るのはせいぜい十秒くらいだが、十秒の回数を重ねるうちに、集まっておしゃべりしているのは決まったメンバーだということもわかってきた。たまにやはり犬を連れた人が加わっていることもあるが、犬はそれぞれそっぽを向いていて、互いに興味はないようだ。自分は目の前にいる犬よりも人間に近いと思っているのだろうか。  

 ある日、公園を通り過ぎてから、向こうから公園に向かって歩いてくるおばあさんとその柴犬とすれ違うことになった。おばあさんはずっと犬になにか話しかけている。あちらは私のことは知らないが、こちらはよく知っている。歩いている一人と一匹を正面から見ると、年齢(つまりは歩く速度や歩きかた)といい、姿(肥満体!)といい、顔つきといい、そっくりで目をそらすことが出来ないのだった。いくら悪気はないといったって、ジロジロと見て笑ったりしたら失礼だとは思うけれど、そうなってしまう。のっそりと威厳のある犬とのっそりと世話好きなおばあさん。長い時間をいっしょに過ごすうちにおばあさんのほうが犬に似てきたということは、見ればわかる。犬と人間では老化の速度が違うから、いまはちょうど同じ年頃だとしても、これからは犬に追い抜かれるのだなと、ふと思う。  

 水野仙子の「犬の威厳」は1914年に書かれた短い話だ。よしのさんという女性が、自分の夫に始まってありとあらゆる男ついて語る。  
「私は良人を崇拜してゐてよ、また愛してもゐるわ。」「それだのにたつた一つ私に滿足されないあるものがあるやうなの。」「それはそもそも私があの人を見はじめた時から、私の心はすつかりあの人の持つてゐるもので滿足してしまひながら、それでもなほどつかに、あるもの足らなさが潛んでゐたんです。」「だけど、それは良人にばかし懷く私の心持ぢやないんですの。世の中のありとあらゆる――少くも私の見たかぎりの男に、私はいつもその物足らなさを味はゝされてゐるわ。あ、この人だと一目で思はれるやうな男に、私はまだ一度だつて半度だつて出つくわしたことがないんだもの。」  

 よしのさんは話しているうちに気づく。ずいぶん前のこと、血のように燃えて輝く夕日が落ちていくとき、そのあたりにいた人間はみなうろうろとして見すぼらしく貧弱だった。そこで偶然に出会った大きな黒い犬は凛として威厳があったのだ、と。「それは犬なんですよ。犬の威嚴だつたのよ!」そして犬の威厳は犬だけのものであり、それを人間の男に求めても無理というものではないか。「あゝ、解つてみりあばかばかしい、ほんとにばかばかしいつたらありやしない!」  

 水野仙子は1888年に生まれ、1919年に28歳で死んだ。田山花袋の内弟子となり、1911年には「青鞜」に加わった。「犬の威厳」はユーモラスなコントというものだけれど、青鞜への方向性ははっきりとわかるし、いまも古びていない。青空文庫で初めて読んだ。  

 このごろの犬は人間に繋げられていなくては散歩も出来ないし、おしっこをしたらすぐに水をかけられてしまう。犬だってひとりで好きなようにふらふらしてこそ本来の威厳をとり戻すのではないかしら。そうでなくては『大菩薩峠』のムクのような、忠実で賢くて、人間を超えた犬であり、犬らしい犬、のようになれないのはもちろんのこと、人間と出合うおもしろさもないと思う。  

 僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸(かうぐわん)を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角(かど)へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。 (「鵠沼雑記」芥川龍之介)  

 にやりと笑った白犬は誰かに飼われていたのかもしれないが、ペットと呼ぶことはできない。当時の日本語にそんな単語はまだなかったはずだ。一人と一匹は、そのとき目の前にいる生き物として完全に対等で、そうでなければこの不思議な空間は成り立たない。  

 いつもの公園でおばあさんがひとりぽっちで入り口の石に腰掛けているのを見たときには、犬、死んじゃったのかなと心配した。その次に見たときには、犬もいっしょにいたので安心した。公園の横の道を歩く十秒に彼らがいれば、十秒だけ一方的にいっしょに生きている。


  犬 八木重吉  
 
 もじゃもじゃの 犬が  
 桃子の  
 うんこを くってしまった  (「貧しき信徒」より)

明日の天気


 夕方の西の空が夕焼けでバラ色に燃えているときに、そのバラ色の西の空に向かって立つ。それから大きな声で「あ~したてんきにな~れ」と微妙な節をつけて叫び、最後の「れ」と同時に右足に履いている下駄の親指をゆるめて力いっぱい前方に向けて放り出す。着地した下駄の鼻緒が上にあれば、明日は晴れで、鼻緒が下なら雨、と下駄が告げる天気予報だ。明日もいい天気だろうとわかるからなのか、夕焼けがきれいなときにこそ、下駄を放り投げたくなる。ときたま、下駄は横をむいて着地するが、そのときは「曇りだ!」と言いながら笑った。

 いまもテレビや新聞それにインターネットなどで、つい見てしまう天気予報。下駄によるものとはまったく違う理論によっておこなわれているが、毎日のように見ていれば、とことんデータを頼りにしている予報の当たる確率は下駄とそう違わないことがわかっておもしろい。テレビで予報をする人はいつだって確信ありげなのはなぜなのか。自分が言った昨日の予報については、どんなに外れたとしても決してそれには言及しない。彼ら自身が毎日更新されているかのようだ。

 特に明日の天気が気になるわけでもないのだ。明日はどんな天気でもいい。天変地異は別として、どんな天気でもそれなりに生きていけると、いまの私は思う。だとしても、天気予報はなぜにこうも当たらないのか。ほとんどの科学は戦争に勝つために発展してきたものだ、ということを思い出す。天気予報も例外ではない。

 「ユーゴーは『哀史』の一節にウォータールーの戦いを叙してこう云っている。「もし一八一五年六月十七日の晩に雨が降らなかったら、ヨーロッパの未来は変っただろう」と。雨が降って地面が柔らかくなり、ナポレオンが力と頼む砲兵の活動に不便なために戦闘開始を少し延ばしたばかりにブリュヘルが間に合って戦局が一変したと云うのである。これは文学者の誇張であるかもしれないが、こういう例は史上に珍しくはあるまい。同じ筆法で行けば弘安四年六月三十日から七月一日へかけて玄界灘を通過した低気圧は我邦(わがくに)の存亡に多大の影響があったのである。もし当時元軍(げんぐん)に現時の気象学の知識があったなら、あの攻撃はあるいはもう数ヶ月延期したかもしれない。
 日露戦役の際でも我軍は露兵と戦うばかりでなく、満洲の大陸的な気候と戦わなければならなかった。日本海の海戦では霧のために蒙(こうむ)った損害も少なくなかった。こういう場合に気象学や気候学の知識が如何に貴重であるかは世人のあまり気の付かぬ事である。
(中略)
 日本軍がシベリアへ出征するという場合でも、気象学上の知識は非常に必要である。彼(か)の地における各時季の気温や、風向、晴雨日の割合などは勿論、些細な点についても知識の有無に従ってその方面の準備の有無は意外の結果を来たすであろうと考えられる。」
「戦争と気象学」寺田寅彦

 宇宙には気象衛星がいくつも打ち上げられているのだから、こうした必要性はいまも続いているのだろう。だからといって、気象学がどんなに発展しても、私という人間が生きている、その具体的な土地で休みなく移り変わり続ける天候までは予報できっこないと思う。それはまずは目的外であり、そして予測不能なほどに複雑なことだからだ。予報が当たることを期待してはいけないのだ。

 たまたま自分がいるその場所で、刻々変わっていく天気にのどかに気持ちを向けていれば、変化を感じるのはむずかしいことではない。我が家のあたりでは、雨が止むと、すぐに鳥の鳴き声が聞こえる。「咳をしても一人」で有名な尾崎放哉の場合は、鳥ではなくて馬だったようだ。

  峠路や時雨晴れたり馬の声

 尾崎放哉には雨の句がたくさんある。季語を使わなかった人だから、季語ではない、ただの雨、である。ためしに十句選んでみると、季語がなくても意外に季節がわかるものだと思う。

  あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
  雨に降りつめられて暮るる外なし御堂
  船乗りと山の温泉に来て雨をきいてる
  あらしの闇を見つめるわが眼が灯もる
  空暗く垂れ大きな蟻が畳をはつてる
  雨の幾日かつづき雀と見てゐる
  かへす傘又かりてかへる夕べの同じ道である
  雨の椿に下駄辷らしてたづねて来た
  嵐が落ちた夜の白湯を呑んでゐる
  雨の中泥手を洗ふ
 「尾崎放哉選句集」より

 机の上にストームグラスを置いている。樟脳などの薬品をアルコールと混ぜた液体が閉じたガラス容器に入っている。気温や湿度、気圧の変化によって、ガラスに閉じ込められた液体のなかに結晶が出来たり、それが減ったりする。気温が低いときのほうが結晶が大きく育って、そのかたちも変化する。天候の移り変わりは「目にはさやかに見えねども」という場合が多いので、これは変化が結晶となって目に見えるところが好き。毎日写真を撮るといいかもしれないと思うが、実行しないで見ているだけだ。

 私の机の上にあるのはほんの少しだけ科学が入っているオモチャのようなものだが、本物のストームグラスは19世紀には航海のときの天気予報の道具だった。温度計や気圧計などとともにストームグラスの結晶の様子を観察して、迫り来る悪天候を読み取っていたのだ。ビーグル号に乗せられていたのは歴史的な事実で、フィクションでは、ジュール・ヴェルヌ作『海底二万マイル』の新鋭潜水艦ノーチラス号にも搭載されていた。

歩行

 大人になってからはずっと東京で暮らしている。それまでは転勤族だった父の勤務地に連れ回されて、いくつかの地方都市に何年かずつ住んだ。その土地にようやく慣れて友だちも出来たころに引き離されて、どこだかよくわからない知らないところに行き、転校するという繰り返し。これから暮らすことになる見知らぬ土地に長距離列車で行き、新しい家に着いたら、まずはそのあたりを歩きまわる。鼻をひこひこと動かして自分の置かれた場所を確認する犬みたい。家のまわりのことがわかるようになったら、次第に歩く距離をのばして自分との関係を広げていく。そういうときはひとりでなければいけない。車社会はまだ少し先の話で、自家用車というものは例外的な乗り物だった。地方都市の交通機関は必要最小限で、頼れるのはいつだって自分の足だけ。目的地まで歩くときに遠いと思ったことはあるけれど、不便だと感じた記憶はない。身軽なものだった。

 松本で2年間通った中学は、自宅からゆっくり歩いて30分、早足で20分ほどかかった。たまたま引っ越した家が学区域のもっともはずれにあったのだ。いつの間にか途中で友だちの家に寄り、彼女といっしょに学校まで行くのがルートとして定まった。彼女の家までひとりで歩いていくのは松本城の堀に沿った道で、反対側には神社やら教会があり、朝も帰りもほとんどだれも歩いていない。着ぶくれて歩く初冬の朝、お堀の水温より気温のほうがずっと低いので、静かな水面からは水蒸気が立ち上り、曇っている日にはすべてが灰色の霧のなかに幻想的に沈んでいる。そのうちほんとうの冬がやってきて、お堀が完全に凍ってしまうと霧はでない。きっぱりと冷たい空気を鼻から吸うと、鼻の穴の入り口が凍りつく。夏には堀端にはタチアオイやオニアザミが繁茂してたくさんの花をつける。自分の身長以上に丈高く、どれも太くてじょうぶそうな茎。紫色の花はきれいだが、オニアザミの葉はぎざぎざで横に大きくひろがっているし葉の先の刺が鋭利で、素手ではとてもかなわない感じ。毎日見ていると、植物もおそろしいものだと思うようになった。

 こどものころにそのような環境に置かれたせいなのか、歩くのはいまも好きだ。甘糟幸子『野の食卓』はほんの少しだけ野生児に近かったころを思い出させる一冊だ。書かれているのは大人の世界のことだが、野生児だった記憶が理解を助けてくれる。中に、住まいのある鎌倉から横浜まで山を越えて歩く話があり、お弁当と水筒を持ってその道を私も歩いてみたいとずっと憧れている。まず『野生の食卓』というタイトルで出版されたのは1978年と書いてあるから、40年近く前だ。もう同じ風景はないと言っていいと思うが、いつか、きっと、と望みは捨てない。

 今から140年ほども前になる1875年の「養生心得草」というものを青空文庫に見つけて読んでみる。徳島藩の藩医だった關寛(斉)による第一から第十までの心得のなかで歩くことが推奨されている。

  第七 一ヶ月五六度は必ず村里を離れたる山林或は海濱に出で、四五里の道を歩行すべき事。

 明治もはじめのころならば、町の道路だって舗装されてはいなかっただろう。歩くことはあたりまえだったに違いない。それでも週に一度以上は町を離れて自然のあるところまで行き、15キロから20キロくらい歩くべきなのだ。ほとんど一日がかりだろうから、実現できたらほんとうに養生になりそうだ。

 敗戦後の1954年、60年前には三好十郎のずばり「歩くこと」というタイトルのエッセイがある。

「自分の頭が混乱したり、気持がよわくなったり、心が疲れたりしたときには、私はよく歩きに出かけます。」と始まる。そして歩いているうちに「私の感覚は外気と運動のために鋭敏になっていて自分が見たり聞いたり、ふれるものの色や匂いや触感を、ひじょうにゆたかに受け入れ、味わっています。同時に、同じ理由のために、私の感受性は、私が家にすわっていたときのような神経質的な過敏さや不均衡を払いおとしていて、ずっと落ちついた健全なものになっているのです。」

 はい、よくわかります。40年後、60年後、140年後の現在でも、歩くことは健康のためにいいとされていますからね。運動として評価されている歩くことだが、ほんとうのよさはひろびろとした外の世界に身を置くことにあるのだと私には思える。ひとりで歩いているうちにすべての感覚が開放されて、自分とは異質なものを次々と受けとめることができるのだから、パソコンの前にすわってじっと考えているよりもいいアイディアがうかぶ確率が高い。漱石先生の『草枕』だって「山路を登りながら、こう考えた。」という一行から始まっているくらいだ。

 小学校でも中学でも音楽と図工の時間があったのに、高校ではそのふたつ(音楽と美術)が芸術というのだったか、ひとつの単位にまとめられていて、どちらかを選択しなければならなかった。高校の先にひかえている大学受験のためのカリキュラムだったのだろうか。勉強しておりこうになれたらいいなと頭のどこかで願いつつ、結局どうやって勉強すればいいのやらわからないまま今日まで来てしまった。一週間に六日もまじめに学校に通っていたことが今となっては信じられない。
 音楽ならば歌う、美術ならば描く。得意とはいえないが、両方やりたいと思った。授業ではあっても「お勉強」でないところによりどころがあったのだ。あれこれ考えて、芸術では美術を選択して、クラブ活動で音楽部に入った。
 美術の時間にヒマなときはなかった。デッサンとか写生とか、いつだって自分ひとりで描かなくてはいけない。音楽の授業を窓の外から見ると、みんなヒマそうにしている。レコード鑑賞ならただ聞いていればいいのだし、教科書に載っている歌をみんなで歌うなら、歌わないでいたって目立つことはない。机につっぷして眠っている人も必ずいる。サボることができるのがうらやましかった。どこまでも向上心のないアウトな高校生でありました。
 部活の音楽部は合唱部といってよく、合唱ばかりをやっていた。合唱は美術とちがって、自分ひとりではなく、違う声の人たちといっしょでなければ成り立たない。自分が歌うのは混声合唱か女性合唱だ。男声合唱は聞くだけだったせいなのか、今も詩とメロディーとのセットでときどき一節を口ずさむ歌がある。コーラスという世界を知っている人ならきっと誰でも知っている歌だろう。それ以外の人は誰も知らない歌だと思う。

 歌ってみようか。「おだのうすらい、ふみーわり、ふみーわたる、おおおそどり、からす」というのは「鴉」。歌曲集『沙羅』のなかの一曲だ。1936年に信時潔が作曲。詩は清水重道。
 次は「つきよのばんーにぼたんがひとつー、なみうちーぎわにおちていた」中原中也の詩集『在りし日の歌』のなかの「月夜の浜辺」。作曲は石井歓。1959年の作曲とある。
 ふたつとも魅力ある曲だけれど、「鴉」は過去にひっぱられていて、「月夜の浜辺」のほうは未来を向いているように感じられる。ふたつの歌の間に第二次世界大戦があったことと無関係ではないだろう。
「月夜の浜辺」を続けて歌っていくと「それをひろってやくだてようと、わたしはおもったわけでもないが」となるのだが、青空文庫でこの詩を確認すると、「それを拾つて、役立てようと/僕は思つたわけでもないが」となっている。わたしとぼくとの関係はこれいかに? わたしの記憶違いだろうか。ともあれ、ボタンは捨てられない。


月夜の浜辺
中原中也

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛(はふ)れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?


 そう、拾ったものでもボタンは捨てられないのだ。ボタンのついた服を買うとたいてい予備の替えボタンがついてくる。小さな紙やプラスチックの袋に入ってタグなどといっしょにこれ以上ない小さな安全ピンでとめられて、服からぶら下がっている。普段着用の木綿のシャツなら、前立ての下の裏側に縫い付けてあったりする。前をとめるのとそれよりひとまわりちいさい袖のカフス用のものと二種類だ。
 着ているあいだにボタンがとれてどこかに落としてしまうという経験はほとんどない。最近のボタンはめったにとれない。とれそうになっているボタンを見つけたときには、取って付け直す。
 だからほとんど必要はないのだが、替えのボタンはなぜだか捨てられない。予備としてついてくる替えのボタンはひとつかふたつだ。捨てられないので、それをそのままガラスの瓶にいれる。あまり鮮やかな色のものはないけれど、大きめのジャムの空き瓶のガラスを通して見るたくさんの小さなボタンの集積は愛らしい。
 十年くらい前までは裁縫や手芸に必要なものを売っている店がそこここにあり、店内にはかならずボタンのコーナーがあった。ボタンは5センチほどの高さの白い紙の箱に入っている。そして箱のひとつの側面には、外から見てわかるようにボタンの実物がとめてある。同じデザインでも最低大中小くらいのサイズがあり、サイズごとにみんなとめてある。それらすべてがひと目で特定できるのは買うほうにとっても売るほうの人にとっても便利だと思う。足もとから天井まで、何列もずらりと重ねられた、ボタンがとめてある箱をただ一望するのは楽しい。ボタンを探すのではなくただ鑑賞していると、人間の知恵にまで思いはいたる。
 ボタンの専門店というのも、まだ少しは存在している。私が実際に知っているボタン屋は海沿いの町にある。駅から海へ向かう大通りを歩いていくと、右側に小さな個人商店が密集しているところがあり、そのなかの一軒がボタン屋だ。間口が一間、奥行きは二間くらいの小さなスペースに、箱に入ったボタンがびっしりと詰まっていて壮観だ。気に入ったボタンを箱買いしてみたくなる。
 通りがかりに骨董市らしきものに遭遇すると、時間に余裕があれば見てみる。そこにボタンは必ずある。ガラス製のや動物の骨のや、材質だけでなくデザインも凝っているものが多い。ほしいなと思うけれど、使う目的がないので買わない。使う目的のないボタンは拾うか、あるいは替えとしてもたらされるものであり、買ってはいけないと思う。
 ボタンで好きなのは貝で出来ているもの。太陽の光を受けると、複雑系そのものの輝きを見せてくれる。厚めのものにはどこからも文句はつけられない。厚さそのものにも複雑系が宿っている。でも薄っぺらの貝ボタンのはかなさも好きだ。洗濯しているときに割れることがあるけれど、しっかりと縫い付けられていると、そのまま使い続けられる。はずすときに指先にちょっと違和感があるので、ますます気をつけてていねいに取り扱ってしまう。捨てられない、捨てられない。大きなものでもボタンは小さい。私のように、手に入ったものを一生捨てずにいても、段ボール箱ひとつを満杯にするまでにはいかないだろう。捨てなくてもいいのかもしれないな。

著者について

八巻美恵(やまきみえ)。 編集者。1970年代から80年代にかけて、伝説的ミニコミ誌「水牛」の編集に携わり、同時に水牛楽団のメンバーとしてコンサート活動をおこなう。その後は書籍編集や電子ブックの企画、自主コンサートなどの制作にもかかわる。インターネット図書館「青空文庫」の呼びかけ人の一人。水牛主宰http://www.suigyu.com/