自宅から最寄りの駅までの道の途中に、小さな公園がある。けやきのほかに何本かある大きな松の木の存在が際立っている。東京の公園で松の木を見ることはあまりないと思う。しかもすくすくと真っ直ぐに天に向かって伸びている。そこがどのようにして公園になったのかわからないが、世田谷区では最初の公園であると入口に書いてある。  

 公園の入り口は二箇所ある、とはいっても柵などはないから、開放的だし、トイレはあるし、松の木は晴れた日ならいつも影を作ってくれるので、タクシーの運ちゃんたちには知られた居眠り場所であるらしく、特に暑い夏の日の午後には、複数の人が運転席の背もたれを倒し、エアコンを盛大にかけたままで熟睡しておられるのを見ることができる。  

 遅めの午後にここを通る。入り口に3つほど置かれている車止めのようなまあるい石に腰をおろして、おばあさんたちがたむろっている。その定期的集まりの中心にいるのは一人のおばあさんと彼女が飼っている犬だ。公園は散歩の途中の休憩場所らしい。犬はおばあさんと同じ年頃の柴犬で、たいてい腹を地面につけて、寝そべっている。お疲れなのか、リラックスしているのか、きっとその両方なのだろう。いつも落ち着いている。わたしは道を歩いているので、観察出来るのはせいぜい十秒くらいだが、十秒の回数を重ねるうちに、集まっておしゃべりしているのは決まったメンバーだということもわかってきた。たまにやはり犬を連れた人が加わっていることもあるが、犬はそれぞれそっぽを向いていて、互いに興味はないようだ。自分は目の前にいる犬よりも人間に近いと思っているのだろうか。  

 ある日、公園を通り過ぎてから、向こうから公園に向かって歩いてくるおばあさんとその柴犬とすれ違うことになった。おばあさんはずっと犬になにか話しかけている。あちらは私のことは知らないが、こちらはよく知っている。歩いている一人と一匹を正面から見ると、年齢(つまりは歩く速度や歩きかた)といい、姿(肥満体!)といい、顔つきといい、そっくりで目をそらすことが出来ないのだった。いくら悪気はないといったって、ジロジロと見て笑ったりしたら失礼だとは思うけれど、そうなってしまう。のっそりと威厳のある犬とのっそりと世話好きなおばあさん。長い時間をいっしょに過ごすうちにおばあさんのほうが犬に似てきたということは、見ればわかる。犬と人間では老化の速度が違うから、いまはちょうど同じ年頃だとしても、これからは犬に追い抜かれるのだなと、ふと思う。  

 水野仙子の「犬の威厳」は1914年に書かれた短い話だ。よしのさんという女性が、自分の夫に始まってありとあらゆる男ついて語る。  
「私は良人を崇拜してゐてよ、また愛してもゐるわ。」「それだのにたつた一つ私に滿足されないあるものがあるやうなの。」「それはそもそも私があの人を見はじめた時から、私の心はすつかりあの人の持つてゐるもので滿足してしまひながら、それでもなほどつかに、あるもの足らなさが潛んでゐたんです。」「だけど、それは良人にばかし懷く私の心持ぢやないんですの。世の中のありとあらゆる――少くも私の見たかぎりの男に、私はいつもその物足らなさを味はゝされてゐるわ。あ、この人だと一目で思はれるやうな男に、私はまだ一度だつて半度だつて出つくわしたことがないんだもの。」  

 よしのさんは話しているうちに気づく。ずいぶん前のこと、血のように燃えて輝く夕日が落ちていくとき、そのあたりにいた人間はみなうろうろとして見すぼらしく貧弱だった。そこで偶然に出会った大きな黒い犬は凛として威厳があったのだ、と。「それは犬なんですよ。犬の威嚴だつたのよ!」そして犬の威厳は犬だけのものであり、それを人間の男に求めても無理というものではないか。「あゝ、解つてみりあばかばかしい、ほんとにばかばかしいつたらありやしない!」  

 水野仙子は1888年に生まれ、1919年に28歳で死んだ。田山花袋の内弟子となり、1911年には「青鞜」に加わった。「犬の威厳」はユーモラスなコントというものだけれど、青鞜への方向性ははっきりとわかるし、いまも古びていない。青空文庫で初めて読んだ。  

 このごろの犬は人間に繋げられていなくては散歩も出来ないし、おしっこをしたらすぐに水をかけられてしまう。犬だってひとりで好きなようにふらふらしてこそ本来の威厳をとり戻すのではないかしら。そうでなくては『大菩薩峠』のムクのような、忠実で賢くて、人間を超えた犬であり、犬らしい犬、のようになれないのはもちろんのこと、人間と出合うおもしろさもないと思う。  

 僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸(かうぐわん)を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角(かど)へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。 (「鵠沼雑記」芥川龍之介)  

 にやりと笑った白犬は誰かに飼われていたのかもしれないが、ペットと呼ぶことはできない。当時の日本語にそんな単語はまだなかったはずだ。一人と一匹は、そのとき目の前にいる生き物として完全に対等で、そうでなければこの不思議な空間は成り立たない。  

 いつもの公園でおばあさんがひとりぽっちで入り口の石に腰掛けているのを見たときには、犬、死んじゃったのかなと心配した。その次に見たときには、犬もいっしょにいたので安心した。公園の横の道を歩く十秒に彼らがいれば、十秒だけ一方的にいっしょに生きている。


  犬 八木重吉  
 
 もじゃもじゃの 犬が  
 桃子の  
 うんこを くってしまった  (「貧しき信徒」より)