2015年4月アーカイブ

第4回【再】喜多川歌麿 五人美人愛嬌娘 太田記念美術館蔵.jpg

7、五人美人愛敬競 松葉屋喜瀬川 喜多川歌麿 寛政7年~8年頃(1795~1796)
  
 この絵は、化粧に直接は関係ないが、明和から天明、寛政にかけて流行した燈籠鬢がきれいに描かれているのと、今でいうブレスレットのような手首に巻かれた紙縒(こより)を紹介したい。
 襟足をぐっと引締め、燈籠鬢に大きな島田髷を結っているのは、江戸吉原の江戸町一丁目松葉屋半左衛門抱えの遊女、喜瀬川である。ちなみに、「五人美人愛敬競」と書かれている脇の判じ絵は松葉、矢(や)、煙管の上部(きせ)、川、で松葉屋喜瀬川と読むことができる。
 髪のほつれもなく、すっきりした顔立ちである。朝顔の描かれた団扇を持っているので、夏景色であろう。髪の生え際がきれいに描かれ、とくに燈籠鬢の美しさは際立っている。
燈籠鬢というのは、生え際の髪を横に大きく張り、その鬢が透けて見えるところから、また燈籠の笠に似ているところから付けられたといわれている。ただし、この鬢の形を作るには、「鬢挿し」という小道具が必用で、この喜瀬川も、よく見るとべっ甲製のような鬢挿しが見えている
 大きな櫛、簪は前に左右三本、後ろざしに左右一本、と笄一本、計九本の髪飾りが付き、さらに髷の根の部分に、赤い布、白い紙で作った丈長、紙縒を束ねたような髪飾りが付いている。このような派手な髪飾りは、若い証拠である。
 顔を触っている左手をみて見ると、手首になにか巻いてあるのに気がつく。これは、紙縒を縛ったもので、願掛けやまじない、あるいは恋人との約束のため、右手首に紙縒を巻いたらしい。その様子は、歌麿が享和2年(1802)に書いた「教訓親の目鑑 正直者」に、若い娘がまさに手首に紙縒を結んでいるところが描かれている。ただし、この喜瀬川は、左手に結んでいる。
 歌麿は、この手首の紙縒をこの喜瀬川以外、芸者、遊女合わせて3人に描いている。なにか、気にいったのかもしれない。面白い風俗である。


第4回渓斎英泉 当世好物八契 着物 太田記念美術館蔵.jpg
 
8、当世好物八契 大極上 本結城紬嶋 溪斎英泉 文政6年頃(1823)

 大きな丸髷、斑の入った大きなべっ甲の櫛。既婚女性であろう。剃ったばかりなのか、眉が青くなっている。子供がいるのかもしれない。以前も述べたが、江戸時代の女性は、結婚が決まるとお歯黒をした。これを半元服といい、子供が出来ると眉を剃った。これを本元服といったのである。口元を見ると、お歯黒に笹色紅が見えている。笹色紅は文化10年頃まで流行したというから、この浮世絵が描かれたぶん頃は、下火になっていたかもしれないが、身分、階級、未婚、既婚、職業の区別なく笹色紅が流行していたに違いない。この笹色紅というは、紅を濃く塗ると、笹のようなグリーン色に発色したので、その名が付いたのであろう。
 江戸時代の紅は、主に紅花から作られていた。紅花から作られる紅の抽出量は0.1~0.3%と大変少なく「紅一匁・金一匁」といわれるほど大変高価だった。そのため、小さな猪口や皿に塗って売られていた。高価な紅を贅沢に使って、濃くぬることが出来たのは富裕な商家の妻女か、遊女などであろうが、一般庶民もあまり沢山の紅を使わず、同じ笹色紅にする化粧法が、江戸時代末期に出された『守貞謾稿』に書かれている。
 まず、上下の唇に墨(薄く磨ったもの)を塗り、その上に紅を塗れば、笹色紅と同じような真鍮色になるというのである。この方法は、以前、ポーラ文化研究所でも再現化粧を行ったが、事実、墨の黒味を帯びたきれいな笹色紅になった。誰が下に墨を塗る方法を考え出したのか分らないが、感心する化粧法である。
 上部に描かれた「大極上 本結城紬嶋」の包は、縞織の藍の反物(絹織物)で、茨城県結城市を中心とする地区およびこれに隣接する栃木県桑絹町一円で作られ、紬糸を用いた精細な絣および縞の着尺地である。寛延4年(1751)に発行された『江戸総鹿子』にも「結城紬は下総結城より出づ。いかにも強し云々」と、その品質を讃えいてる。
 縞模様は年齢を問わず好まれたが、この縞織の結城紬は高級品だったのだろう。既婚女性などが好んだのかもしれない。


※収録画像は太田記念美術館所蔵。無断使用・転載を禁じます。

太田記念美術館ホームページ

ポーラ文化研究所ホームページ

 日本人の体型は江戸時代から著しく変化しましたが、第二次性徴の時期は変わらないのに生命の神秘を感じます。『絵入女重宝記』という元禄時代に書かれた女子の作法についての啓蒙本にも、
「それ女は十四さいよりはじめて経水通じ、男は十六さいより始て精水通ずと医書に見へたり」とあります。
 経水という表現がなかなか風流です。当時の書物では「月水」とも称されていました。「生理」「メンス」「あれ」という表現よりも女子力が高くなりそうなスピリチュアルな呼び名です。
 江戸時代のことわざには「十三ぱっかり毛十六」というものがあり、女子が十三歳くらいで性器が成熟し、初潮が訪れ、十六歳で発毛する、という変化を表しているそうです。
 川柳にも、
「十三と十六ただの年でなし」
「めっきりとおいどのひらくお十三」(おいど=お尻)
など、ひめやかな作品が。川柳はさり気ない性教育になっていたのでしょうか。
「十六の春からひえをまいたやう」
人体も自然の一部......発芽の季節です。
「琴ではわれる三味線ではえるなり」
琴は十三弦で十三歳、三味線は三弦を足して十六歳、という年齢をほのめかしている小粋な句もありました。
「時候たがへず十六の春ははへ」
「十六でむすめは道具ぞろいなり」
「道具」という表現が妙にエロいです......。
「十六になると文福茶釜なり」
タヌキが化けていた文福茶釜に毛が生えた、という 昔話とかけています。
「十七ではえぬを母は苦労がり」
江戸時代の人は発毛具合をことさらに気にしていたようです。
 さらに重要なのが初潮です。生理のことは「お客」とも表現していました。
「お客とは女の枕詞なり」
「はじめてのお客娘はまごまごし」 
 とにかくわずらわしいとかネガティブなイメージが強い生理も「お客」と呼ぶだけで少しポジティブに受け止められそうです。お赤飯をたいて祝うのは昔も今も同じでした。ただよく考えたら生理で赤いご飯というのは若干エグいです。
「娘のお客御馳走に赤の飯」
「初めてのお客に赤の飯を焚き」
「兄はわけ知らずに祝ふあづき飯」
「小豆めしだまって喰やとふるまわれ」
性に関する情報が今のように氾濫していなかったので、兄や弟は何も知らず無邪気に赤飯を食べていたようです。
 当時使われていたふんどし状の月経帯は、馬の腹帯に似ていたので生理のことは「新馬」とも呼ばれていました。
「初花といふ新馬に娘乗り」
「乗り初めに駒の手綱を母伝授」
「姫君の御乗出し十三四から」
  はじめての時、怪我で出血したのかと焦る娘さんもいました。
「初花にたばこをつけて大さわぎ」
「すでの事むすめたばこを付けるとこ」
止血には煙草をこすりつけると良い、という民間伝承が。でも、一回経験すると慣れて対処できるようになります。
「初午に乗ると娘もうまくなり」
 ちなみに、生理用品は、浅草紙という再生紙をあてがい、馬の腹帯状の月経帯を付けていたそうです。細かくたたんだ布や紙を詰めるという方法も。心もとない感じですが、当時の女性は量が少なく下腹部の筋力が強いため、厠でゆるめて排泄できたという説があります。今のように下着で締め付けていないし、食べ物や大気に有毒な物質も含まれていないので、健康的なロハス生活できっと生理も軽かったのだと思います。
 そして神仏への畏敬の念や穢れの観念から、生理中はお参りしない、という風習も。
「初午で娘稲荷へ詣られず」
「いわく有る娘鳥居の外を行き」
 現代人は構わず生理中でも神社にお参りしていますが、ちょっと前までは禁忌でした。過度の穢れ意識は必要ないですが、神様的には少し抵抗あるのかもしれません。日本の国力を復興させるためにも今後心の隅で気をつけたいです。

第7回江戸時代の月経観.jpg

たけのこ

春はいそがしい。桜の花があわただしく散ると、すぐにたけのこが出てくるから。


 たけのこは はじめ じびたの したに いて、あっち こっちへ くぐって いく もので あります。
 そして、あめが ふった あとなどに ぽこぽこと つちから あたまを だすので あります。
「たけのこ」新美南吉


たけのこが生えてくる「じびた」を自宅の庭として所有している友人がふたりいる。だからたけのこが出る時期は楽しい。ひとりは毎年掘れたてを数本届けてくれる。くるまれた新聞紙を開いたとたんに、目の前で太いたけのこがにょっきりとさらに大きく伸びるような気がする。気がするだけかもしれないが、実際にそうであっても不思議ではないと思う。

もうひとりは毎年おこなわれる自宅でのたけのこパーティに呼んでくれる。二つの大きなテーブルに並べられた料理のすべてに庭で掘りたてのたけのこが入っているのを見ると、毎年圧倒される。和風、中華風、イタリア風、それから各種カレーなどなんでもあって、どれから食べようかと毎年悩む。たけのこが新鮮でどれもこれもおいしいのだ。もちろんたけのこご飯もあり、いつも最後はこれに決めている。

庭に出て、靴底に意識を集めて歩いていると、硬いちいさなものを感じる。地表にはまだなにもないが、もうすぐ出てくるたけのこの頭がそこにあるのだ。この状態が掘るのにもっともいいのだ、と友はおしえてくれる。つまり、おししい。竹林から出ている地下茎は遠くまで伸びているが、遠いところよりは近いところに出てくるもののほうがおいしいのだ、とも友はおしえてくれる。庭のまんなかでは火が熾されていて、掘りたての一本が皮ごと焼かれているし、竹筒には日本酒が満ちている。だからその日がたまたま春によくある薄ら寒い日であっても、心配はいらない。すぐにあたたまります。

ふたりの友によって我が家の一年分のたけのこは供給されている。この時期に食べるだけで満足できてしまい、次の年まで買ってまで食べる気にならない。短い時間に大きくなるもののエネルギーが生きつづけているのだろうか。食べる時期をあっという間に過ぎて、たけのこはエネルギーのままに竹になってしまう。この待ったなしのエネルギーこそ竹なのだということもできそうだ。


竹  萩原朔太郎

 光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。


吉川英治「折々の記」のなかの「夏隣り」は母の日にちなんで母性について書かれたものだ。「やはり女性は"母の座"を占めることに、悔いのない生涯の率が多さうである。」というような理屈の部分は読んでいてあまり楽しいものではないが、母という人の記憶を書いた部分は、「夏隣り」というタイトルとともに忘れがたい。


 ぼくの母は、とうのむかしに、この世にゐない。だが、夏隣りともなつて季節の野菜物、たとへば、味噌汁のなかのサヤゑんどう、竹の子めし、新そらまめ、若い胡瓜モミなど、母が好きだつたお菜に會ふと、ふと、母が胸をかすめる。
 母はビールの一口を美味がつた。初夏の夕、夕方の掃除や打水もすました母と、青すだれの小窓を横に、よく一本の小瓶を二人して一杯づつ酌み分けた。


夏隣りの季節の野菜物には、ちゃんと「竹の子めし」も入っている。新そらまめにも苦い胡瓜モミにも、たけのこと同じように夏に向かうエネルギーがあふれていて、「夏隣り」という言葉の意味を実感する。そしてビールは夏隣りから夏の初めに移行してからのものだ。すだれも新しくて青い。夕方の掃除や打水など、当時の母は忙しそうだけれど、夏隣りから初夏に変わっていく季節や、息子と分かち合って飲む小瓶のビールの一口の美味さとも仲の良い忙しさだ。パソコンの前にじっとすわって、ときに頭をかきむしりながら何かやっている今日的な忙しさとはどこか根本的に違う。そんな母の労働は息子の記憶にどのように刻まれるのだろうか。この世の行方が気になってくる。

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