第4回 「五人美人愛敬競 松葉屋喜瀬川」喜多川歌麿/「当世好物八契 大極上 本結城紬嶋」溪斎英泉

第4回【再】喜多川歌麿 五人美人愛嬌娘 太田記念美術館蔵.jpg

7、五人美人愛敬競 松葉屋喜瀬川 喜多川歌麿 寛政7年~8年頃(1795~1796)
  
 この絵は、化粧に直接は関係ないが、明和から天明、寛政にかけて流行した燈籠鬢がきれいに描かれているのと、今でいうブレスレットのような手首に巻かれた紙縒(こより)を紹介したい。
 襟足をぐっと引締め、燈籠鬢に大きな島田髷を結っているのは、江戸吉原の江戸町一丁目松葉屋半左衛門抱えの遊女、喜瀬川である。ちなみに、「五人美人愛敬競」と書かれている脇の判じ絵は松葉、矢(や)、煙管の上部(きせ)、川、で松葉屋喜瀬川と読むことができる。
 髪のほつれもなく、すっきりした顔立ちである。朝顔の描かれた団扇を持っているので、夏景色であろう。髪の生え際がきれいに描かれ、とくに燈籠鬢の美しさは際立っている。
燈籠鬢というのは、生え際の髪を横に大きく張り、その鬢が透けて見えるところから、また燈籠の笠に似ているところから付けられたといわれている。ただし、この鬢の形を作るには、「鬢挿し」という小道具が必用で、この喜瀬川も、よく見るとべっ甲製のような鬢挿しが見えている
 大きな櫛、簪は前に左右三本、後ろざしに左右一本、と笄一本、計九本の髪飾りが付き、さらに髷の根の部分に、赤い布、白い紙で作った丈長、紙縒を束ねたような髪飾りが付いている。このような派手な髪飾りは、若い証拠である。
 顔を触っている左手をみて見ると、手首になにか巻いてあるのに気がつく。これは、紙縒を縛ったもので、願掛けやまじない、あるいは恋人との約束のため、右手首に紙縒を巻いたらしい。その様子は、歌麿が享和2年(1802)に書いた「教訓親の目鑑 正直者」に、若い娘がまさに手首に紙縒を結んでいるところが描かれている。ただし、この喜瀬川は、左手に結んでいる。
 歌麿は、この手首の紙縒をこの喜瀬川以外、芸者、遊女合わせて3人に描いている。なにか、気にいったのかもしれない。面白い風俗である。


第4回渓斎英泉 当世好物八契 着物 太田記念美術館蔵.jpg
 
8、当世好物八契 大極上 本結城紬嶋 溪斎英泉 文政6年頃(1823)

 大きな丸髷、斑の入った大きなべっ甲の櫛。既婚女性であろう。剃ったばかりなのか、眉が青くなっている。子供がいるのかもしれない。以前も述べたが、江戸時代の女性は、結婚が決まるとお歯黒をした。これを半元服といい、子供が出来ると眉を剃った。これを本元服といったのである。口元を見ると、お歯黒に笹色紅が見えている。笹色紅は文化10年頃まで流行したというから、この浮世絵が描かれたぶん頃は、下火になっていたかもしれないが、身分、階級、未婚、既婚、職業の区別なく笹色紅が流行していたに違いない。この笹色紅というは、紅を濃く塗ると、笹のようなグリーン色に発色したので、その名が付いたのであろう。
 江戸時代の紅は、主に紅花から作られていた。紅花から作られる紅の抽出量は0.1~0.3%と大変少なく「紅一匁・金一匁」といわれるほど大変高価だった。そのため、小さな猪口や皿に塗って売られていた。高価な紅を贅沢に使って、濃くぬることが出来たのは富裕な商家の妻女か、遊女などであろうが、一般庶民もあまり沢山の紅を使わず、同じ笹色紅にする化粧法が、江戸時代末期に出された『守貞謾稿』に書かれている。
 まず、上下の唇に墨(薄く磨ったもの)を塗り、その上に紅を塗れば、笹色紅と同じような真鍮色になるというのである。この方法は、以前、ポーラ文化研究所でも再現化粧を行ったが、事実、墨の黒味を帯びたきれいな笹色紅になった。誰が下に墨を塗る方法を考え出したのか分らないが、感心する化粧法である。
 上部に描かれた「大極上 本結城紬嶋」の包は、縞織の藍の反物(絹織物)で、茨城県結城市を中心とする地区およびこれに隣接する栃木県桑絹町一円で作られ、紬糸を用いた精細な絣および縞の着尺地である。寛延4年(1751)に発行された『江戸総鹿子』にも「結城紬は下総結城より出づ。いかにも強し云々」と、その品質を讃えいてる。
 縞模様は年齢を問わず好まれたが、この縞織の結城紬は高級品だったのだろう。既婚女性などが好んだのかもしれない。


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