2016年7月アーカイブ

 原始的でタフな江戸時代の出産。気付け薬は、お酢でした。お酢には疲労回復や殺菌など様々な効果があり、日本のアロマセラピーの元祖かもしれません。
「酢のわけを聞いて酒屋の内儀起き」
「酢だそうだ進ぜ申せと内儀起き」
酒屋も出産に必要だと言われれば夜中でも起きて店を開ける人情タウン、江戸。さらに親類や長屋の人総出で安産祈願のため、神社にお参りしたり、川垢離で身を清めて祈願したりしました。
「安産を百度参に知らせに来」
「あんじたる親より安く娘うみ」
周りの人々の祈り&酢のパワーのおかげか安産で生まれてきたおめでたいケース。
「産婦へはよろこびいふも首ばかり」
「安産の祝儀は屏風ごしにのべ」
屏風ごしに、出産後の産婦さんをお見舞いします。
中には誰にも手助けされず、ひとりでお産してしまう強者もいたようです。
「野良ヘ出た留守に一人で産で置き」
「まづちょっと産んでこべいと田を上り」
しかも野外で出産する産婦......。生命力の強い子どもに育ちそうです。
「生れ子は乳のにせ首をしやぶってゐ」
生まれたばかりの赤ちゃんには、解毒剤として海仁草を包んだ布をしゃぶらせたそうです。かなり苦くてまずいそうで、生まれた瞬間に、人生は苦であるという仏教思想を体感させられます。
 後産の胞衣(胎盤)は、穴を掘って埋める風習がありました。産後5日目か7日目に吉方位に埋めると良いらしいですが、現代人、全然そんなことしていなくて大丈夫でしょうか......。
「それはまあおめでたいねと鍬をかし」
「鍬を貸しながらちんこかめめっこか」
近所から鍬を借りて埋めていたようです。男児か女児か、いきなり性器の名称で訪ねる奔放な江戸人。
「もめるはず胞衣は狩場の絵図のよふ」
当時の「胞衣あるある」では、胞衣を洗ったら父親の紋が浮き上がってくるというオカルティックな言い伝えがあったそうですが、それが実際の家紋と違ってもめることも......。全て気のせいかもしれません。
「ゑなの上初てどらものにふませたい」
そして、埋めた土の上を最初にまたいだ人のことを、赤ちゃんが嫌いになる、という言い伝えもありました。「どらもの」は「ドラ息子」の意味です。
産婦は回復のために、味噌漬けや焼塩、魚肉などを食べました。
「味噌漬で亭主湯づけをご相伴」
「焼塩のやせが産婦の肉になり」
「乳の薬にと里から魚がくる」
産後クライシスの兆候か、夫に苛立ったり、物音に過敏になる産婦も。
「犬が吠えますと産婦に起こされる」
「三度まで産婦に聞いてぢれさせる」
食事療法と安静にすることで回復した産婦。日常生活が戻ってきます。
「流し元肥立った女房笑ふなり」
「緒を解いて鏡に向かふ久し振り」
幸せな瞬間が描写された句です。しかし、その一方で、いたましいことに充分な医療設備もなく、亡くなってしまう産婦もいました。
「むごらしさ赤子は現世母は過去」
「南無女房ちちを飲ませに化て来ひ」
「人間の子までそだてる牛の乳」
無念のまま亡くなった母が幽霊となった物悲しい川柳。そして母乳の代わりに牛乳を飲む赤ちゃん。今でいう粉ミルクのような、米粉に砂糖を加えた「白雪こう」という品もありました。神田豊島町の米屋吉兵衛で売られていたため「としま町」とも呼ばれていたようです。
「としま丁母のない子を育てあげ」
「やせた子の露命をつなぐとしま町」
「七人目白雪こうでそだて上げ」
「白雪こうもいはば母親」
虎屋のサイトによると、白雪こうは、良寛も好物だったというか、困窮し空腹のあまり菓子屋に白雪こうを恵んでほしいと綴った手紙が残されています。滋養強壮にもなりつつ、お菓子としてもおいしかった栄養機能食品のようです。
 しかし良寛が買えなかったくらいなので、それなりに高かったのかもしれません。白雪こうを購入できない場合は、赤ちゃんのために近所に乳もらいに出かけました。
「乳貰いの袖につっばる鰹節」
お礼のために鰹節を用意。しかし想像すると精神的にハードそうです。「母乳をください」なんて、隣近所の交流が盛んだった江戸時代でもなかなか頼めません......。
「親は子の為にやつれて乳貰い」
「乳貰いの帰は夢を抱て来る」
「乳貰いの親は子よりも泣あかし」
「乳もらいに大の男ハむごい事」
男親が乳もらいのため泣きながら近所を訪ね回るシーンが切ないです。
「乳貰ひは冬の月ヘも指をさし」
寒い冬、空腹でむずがる赤子に月を見せてあやしている叙情的な情景です。
「乳もらひは極楽の気で飯を焚」
「乳貰ひは待つ間に一寸一手桶」
母乳を分けてもらえるとなったら、大喜びで飯炊きの手伝いでも何でもします。水汲みもおやすいご用です。江戸時代のイクメン道は険しいですが、寡黙に耐えている日本男児らしい姿が垣間見えて、静かな感動を誘います。
 話は変わって、夫婦は出産後75日間は、夜の生活は慎まなければならないという習わしがありました。
「御不自由旦那なさいと取揚婆」
と、性欲が強そうな旦那に対し、忠告をする産婆さん。
「産後大切七十五日休み」
産後の養生のため、産婦は厳重に禁忌を守っていました。江戸時代は、一年のうち性行為をしてはいけない日も定められていたり、一見おおらかだけれど、厳しい部分もあります。この間浮気に走らないのか心配です......。
「今少し七十五日暮れかかり」
ついに七十五日目が終わると、楽しみにしている男心。
「いやと言わせぬ七十六日目」
「鼻紙の用意七十六日目」
「つひぞない朝寝七十六日目」
鼻紙とはティッシュでしょうか。抑えていたものがほとばしってそうです。朝寝するほど、というのも生々しく、連続回数の多ささを物語っています。
「まちっとじゃ青田刈る鎌といでゐるつむ
「八反の青田に母は鳴子引く」
出産後、はじめて行う行為を「青田八反の味」と呼んでいました。豊作が期待できる農地の意味で、お米の味の良さを女体になぞらえています。やはり米は日本人のソウルフードです。しかしあまりに激しい行為だと、産後の体にこたえます。
「女房が永血亭主の不埒なり」
夫が無理強いしたせいで、体調不良が長引くこともありました。
「里の母そばにねるので血を納め」
夫の性欲を萎えさせるため、実家から母親を呼んで近くに寝てもらうという秘策もありました。逆に興奮する夫もいそうな気も......。昨今セックスレスの夫婦や絶食男子が問題になっていますが、ありすぎても困ります。いつかちょうど良い時代が来るのでしょうか......。

【第22回】辛酸様-edo22.jpg

 今回から、千葉市美術館所蔵の浮世絵版画から、江戸の化粧や髪型について解説したいと思います。

25、「青樓七小町 玉屋内 花紫 せきや てりは」喜多川歌麿 寛政6~7年頃(1794~1795)
 

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 大きな貝髷か、鼈甲の櫛、簪を挿しているのは、新吉原江戸町一丁目玉屋の遊女、花紫である。鬢のところを白い紐のようなもので縛っている。衣裳は、桜模様の中着と、網目模様の下着を着ている。たぶん正装前の姿であろう。天明から寛政頃に流行した燈籠鬢のところから、鼈甲製なのか、鬢挿しの先が少し見えている。そして、よく見ると前髪が短く切られている。このように短いと、普通は簪が挿せない。どこかで簪を止めているのかもしれない。端正な顔立ちの美人である。右手に筆を持って、筆の先を舐め、たぶん客に手紙を書くところだろう。花紫の左に書かれている「せきや、てりは」というのは、二名の禿かむろの名前である。


26、「扇持つ娘」喜多川歌麿 寛政9年頃(1797)
 

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 大きな島田髷を結っているのは、若い娘であろう、大きな鼈甲製の櫛を挿して、手に扇と小鞠を持っている。鬢は流行の燈篭鬢である。この娘の面白いところは、髷のところに、盛りだくさんに髪飾りをつけているところで、まず銀製の大きな牡丹をつけた両天びらびら簪を挿している。因みに、びらびら簪が流行し出したのは、たぶんこの絵の書かれた寛政頃からであろう。さらに髷には、赤、緑、などの布で縛ってある。それだけではない。髷の根元には水引のような細いひものようなものを束ねた髪飾りをつけ、白い丈長という細い紙も付けている。
 以前、この髪型の髪飾りが実際のところ付けられるものか、実験したことがある。その時は、かつらを使用したが、結髪師の人が、このように沢山の髪飾りは、無理がある、といっていた。つまり、飾りを挿すスペースがなかったのである。若い娘を表現しようとして、髪飾りを増やしていったのかもしれない。浮世絵に描かれた髪型や髪飾りの付け方など、時々実験をすると面白いかもしれない。

※収録画像は千葉市美術館所蔵。無断使用・転載を禁じます。

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