2016年10月アーカイブ

27、「納涼美人図」喜多川歌麿 寛政6~7年頃(1794~1795)

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 大きな燈篭鬢に勝山髷を結っているのは、遊女であろう。お風呂上がりかもしれない。髪に白い布かなにかで、鬢の部分をしばっている。団扇で扇いでいるところを見ると、暑いのだろう。着物が肩からすこしずり落ちているのも気にせず、涼をとっているのだろう。こころなしか顔がすこし赤みをおびている。黒い着物は絽かなにかで、下に着ているものが透けて見えている。その透けた着物から、左足の先がちらっと見えているのが、艶かしい。幅広の帯、着物の裾には紋と同じ桜が描かれている。右手に巻きついている赤い紐は、団扇の紐で、団扇には撫子が描かれている。遊女の右手にあるのは、銅製の水盤で雲竜が描かれ、石菖(石菖蒲)が植えられている。


28、「当時三美人 冨本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ」 喜多川歌麿 寛政5年頃(1793)

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 描かれているこの三人は、寛政(1789~1801)の三美人といわれた女性たちである。右下は浅草随身門近くの水茶屋難波屋のおきた、真ん中は富本節の名取りで吉原芸者の豊雛、そして左は両国米沢町の水茶屋高島おひさである。ただ、寛政の三美人を、真ん中の富本の豊雛でなく、芝神明前の水茶屋菊本おはんという説もある。
 それは、斎藤月岑げっしんが書いた『武江年表』の「寛政年間記事」のところに、「○浅草寺随身門前の茶店難波屋のおきた、薬研堀同高島のおひさ、芝神明前同菊本のおはん、この三人美女の聞え有りて、陰晴をいとはず此の店に憩ふ人引きもきらず(筠庭いんてい云ふ、随身門前は見物の人こみ合ひて、年の市の群衆に似たり。おきたが茶屋の前には水をまきたり。両国のおひさが前は左程にはなかりき。此のおひさは米沢町ほうとる円の横町に煎餅屋今もあり。その家の婦にてありし)。」と書かれているからであろう。歌麿が描いた寛政の三美人は、菊本のおはんより、どうみても富本の豊雛の方が多いように思える。
 いずれも、歌麿が描いたことで大評判になったのであろう。中でもおきたの美しさが光っていたのか、大人気だったことは、前述した『武江年表』でもあきらかである。当時、おきたは十六歳、おひさは十七歳であった。三人とも髪型は、燈籠鬢に潰し島田である。
因みに、この三人の見分け方であるが、高島おひさは、桐紋で、簪にも桐紋ついている。難波屋おひさは、柏の紋がついた団扇を持っていたり、簪も柏紋になっている。また、富本豊雛は桜草の紋である。この寛政の三美人以降、文化、文政期には、三美人というタイトルで登場する女性たちはいなかったように思う。世間を騒がせるような、秀でた美人がいなかったのかもしれない。


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 友人から「主人です」と夫を紹介されたとき、その主人という呼び名に尊敬の念がこめられているように感じ、良い関係であることが伝わってきました。しかも主人というだけで立派な人に思えます。「旦那」「嫁」という呼び方にも憧れます。「細君」だと文学的で奥ゆかしいイメージ。「愚夫」「愚妻」は謙遜の表現ですが、ディスっているような後味の悪さがあります。
 など、現代でもいろいろな呼び方があり、迷うところですが、江戸時代は妻をどう表現していたのでしょう。実は身分によって呼び名が決まっていたようです。江戸末期の本「塵塚談」には、
「以前は幕府の役人の妻をかみさまと言ったのに、今は商人までがその言い方をまねる。さらに御新造様とは大名の妻のことだったのに、今では町人がそう呼んでいる」
と嘆く文面があったとのこと。また、別の本には、大阪と江戸でも妻の呼び名が違うと書かれていたり、身分によっても変わってきて複雑です。今では「奥さん」で大体通じますが、当時は身分の高い武家の夫人しか「奥様」と呼べませんでした。
「隔年に枕さびしき御内室」
貴人の妻を内室と言いました。この川柳では大名の妻で、参勤交代で夫が不在の間の淋しさを綴っています。
「時鳥よりも奥様お待ち兼ね」
渡り鳥のように4月になると戻ってくる夫。ちなみに領地に赴任している間は当然のようにその地に妾が......。身分が高いからと言って許されるわけではないと思いますが、当時の風習だったんですね。
「奥様のおひろひ足がねばるやう」
暇を持て余しているのか、ゆっくり散歩する武家の夫人。
御新造もセレブ的な身分の高い妻の呼び名です。
「おぬしもぐるでかくしゃると御新造」
主人の浮気を疑い、主人のお供の草履取りを詰問する妻。草履取りという使用人がいるなんて相当な身分です。やはり今も昔も、男性が地位と権力を得ると、アドレナリンで性欲過剰になってしまうのでしょうか。「グル」という単語は江戸時代からあったという意外な発見も。
「御新造ははやった人と御ぞういひ」
今はとりすましているセレブ妻も実は昔は遊女だった、という噂が出回っている、という句です。玉の輿には詮索がつきまといます。
「御新造も普請の内は惣後架」
御新造さんは裕福でトイレも家の中にあるけれど、工事中は長屋の共同トイレを利用せざるを得ない、という下衆な内容です。
「御新造をかみ様といひ叱られる」
「かみ様」は中流の家の呼び名なのに、御新造に使って、気安く呼ぶなと怒られたようです。
「御新造と内儀と噺す敷居ごし」
家柄が違うと一緒の場には座れないので、敷居ごしに会話。ランクは奥様→御新造→おかみさんの順でした。もしかしたら現代は皆それなりに便利で快適な暮らしをしていてトイレもお風呂もあるので、江戸時代の奥様的な身分ということで、自然と奥さんと呼ばれているのかもしれません。
「内儀の名むかししづあやなどといひ」
また、もと遊女の内儀を暴く川柳が。当時はツイッターやSNSのように川柳で噂が拡散されていたようです。
「お内儀は師匠の留守に出てしかり」
「お内儀のうけとり発句書いたよう」
きちんとして折り目正しい内儀はやはり庶民の妻よりワンランク上です。
「御内儀は千六本に酢をかける」
大根の千切りに酢をかけてお上品に食べるおかみさん。長屋では大根は大根おろしで食べていたようです。
 いっぽう庶民の夫は、妻のことを「かかあ」と呼んでいました。今も「かあちゃん」とか呼んでいるおじさんを見かけます。
「かかあどのとは四五人も出来てから」
妻が子どもを4.5人産むと尊敬の意味をこめて「かかあどの」にランクアップ。また、庶民の夫はあまり権限がなかったため、自虐的に「かかあどの」と呼んでいた節もあるようです。
「かかあどの姫始めだと馬鹿を言ひ」
かかあという俗な呼び名と、姫始めという単語のギャップをおもしろがる句です。
「かかあめが細工だと出す似た鰹」
上流の家では新鮮な鰹を刺身で出すところ、庶民の家では煮付けにアレンジ。
「かかあの月見宿六はさへぬ面」
妻が生理中で夫ががっかり、というあられもない内容。かかあに対応する夫の呼び名は宿六でした。「宿のろくでなし」の略ですが、どこか愛情も感じられます。今の、夫を粗大ごみとか呼ぶのよりもずっと......。
「山の神気に入る女おこぜにて」
「山の神」とは崇めているようですが、実は当時は「かかあ」よりも低い呼び名でした。口うるさくて恐い妻、がこう呼ばれます。この句は、おこぜ似で不細工な下女を置きたがる(夫の浮気防止のため)妻の本音について綴られています。
「山の神団子を投げる月見過ぎ」
吉原など遊郭で遊んできた夫に、月見団子を投げつける妻。団子なんて当たっても痛くないし、結構優しい抗議に思えます。
「山の神日々にあきれる御神託」
日々、夫のあら探しで小言ばかりいう妻。御神託というとありがたいものに聞こえますが、弱い立場で揶揄&卑下する夫のいじましさが漂っている句。
町家の庶民の家でも妻は「かみさま」と呼ばれました。
「かみさまぢゃ出来ぬと逃げる初鰹」
鰹売りの商人は、値切りテクが巧みなかみさんから逃げるように場所を移動。江戸時代から主婦は倹約上手でした。
「かみさまをいくらも寄せる柏餅」
「かみさまが留守だとてんやわんや也」
一家の家計や雑事をこなしながらも楽しそうに生活する、タフでしっかりした妻の姿が現れています。「かみさま」「山の神」といった妻の表現には、人間の中に根源の神の存在を見いだしているようで、そう呼ぶことで夫婦関係がうまくいきそうです。相手を神仏扱いしてありがたがるのは、夫婦円満の秘訣です。

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