江戸女子力

 尼僧という存在には妙に心惹かれるものがあります。過去世、尼僧だったと言われて嬉しかったこともあります。でも、一言に尼僧といってもジャンルがいくつもあって、中には微妙な尼僧も......。知った時衝撃だったのが「屁負い比丘尼」です。『大辞林』から引用します。

「科負い比丘尼」
昔、良家の妻女に近侍しその罪を身代わりに負った比丘尼。娘が放屁したときなどに、なりかわってその科を負うので屁(へ)負い比丘尼ともいう。

身分が高い女性がおならの音を発してしまうのは一大事です。そんな時、傍らの尼僧が「今のは私です!」と申告。尼さんのおならなら、霊妙でありがたいものに感じられる......かもしれません。しかし冷静に考えてバレバレです。
 絵や歌の才能を披露する尼さんたちもいました。女子クリエイターや歌手の元祖です。


「絵解き比丘尼」
歌を歌いながら地獄・極楽の絵解きをし、また特に許されて仏法をも勧めて歩いた尼僧。江戸初期の頃から次第に堕落して、後には一種の遊女となった。歌比丘尼。勧進比丘尼。

「歌比丘尼」
歌念仏やはやり歌などを歌い、施し物を求めた尼。のちには売春する者も現れた。

「勧進比丘尼」
地獄・極楽などの絵巻を見せて絵解きをしたり、浄土和讃を歌ったりして勧進しつつ諸国を巡った比丘尼。のちには一種の売春婦に堕落した。歌比丘尼。

「熊野比丘尼」
近世,熊野三山に詣でて行をし、その帰途、熊野牛王の誓紙を売り歩いた尼僧。はやり唄などを唄い、物乞いをして歩いたため、歌比丘尼ともいわれた。のちには売春もするようになった。

 尼僧たちの様子がおかしい、というか皆最終的には遊女になっています。自分の表現に限界を感じてしまったのでしょうか。また、最初からコスプレだけの安易な尼僧も......。

「浮世比丘尼」
江戸時代、天和(1681~1684)から元禄(1688~1704)頃にかけていた尼僧姿の売春婦。
 
「伊勢比丘尼」
伊勢寺の勧進と称して尼の姿をした遊女。

 江戸時代になると、多くの尼僧は遊女の道に......。上記以外にも鉢比丘尼、船比丘尼なども体を売っていた尼僧の流派だそうです。尼僧という存在感のエロさは、いつの時代も変わらないのでしょうか。ちなみに現代は、剃髪の女性が相手をするデリヘルがあったようです......。

 『江戸艶笑小咄と川柳』(西尾涼翁著)は、様々な職業や人種にまつわる艶話や川柳が紹介されている素敵な本です。この中にも比丘尼、尼僧にまつわる川柳が紹介されていました。
 
「二十にはなるやならずに尼になり」
二十歳そこそこで夫と死別したのか、何か事情を感じさせる尼さんについての句です。
「まだ髱(たぼ)のある気で探るにわか尼」
髪の後ろ、うなじの上に張り出している部分が髱です。剃髪したあとも、まだ髱があるような感覚で触ろうとしてしまう新人の尼さんです。
「お比丘人ひとの欲しがる顔があり」
剃髪しても美人なのは本物です。むしろ美しさが際立ち、世の男性を惑わしてしまいそうです。思い出したのは室町時代の慧春尼の伝説。とても美しい女性で出家したいと言っても家族に反対されていたのですが、焼火箸で自分の顔を焼いて出家の覚悟を見せて、ついに許されたそうです。美しい顔を自ら捨てることで、修行の道に入られました。慧春尼さまくらいになると、全ての煩悩からは解き放たれていることでしょう。
 いっぽう江戸時代の尼僧たちの事情は......。
「尼のつれづれ懺悔してお聞かせな」
尼僧たちのガールズトーク。娑婆での思い出や武勇伝を語り合っているのでしょうか。お寺でも、経験値の高い尼僧が主導権を握りそうです。
「つれづれなるままに尼寺二本入れ」
雅な言葉でさらっと自慰行為について綴っています。このように自然な流れで行為に及んでいたのでしょう。尼僧も人間です。
「尼寺へ極内で売る小間物屋」
出入りの張形業者がいたケースも。さすがにどうかと思います。
尼僧がひとり遊びに興じるのは、そもそも男子禁制だから。
「尼寺の門へ虚無僧入られず」
「虚無僧」は、バチ当たりなことに男根の隠語だそうです。虚無僧が男性器に見えるなんて欲求不満の末期症状です。
 「尼寺は女の花の散る所」
尼寺では、もう女の花は咲かせる機会はないと自認して、禁欲的に生きるのが良さそうです。後世の日本の平和のためにもよろしくお願いします。
 尼僧の川柳には女の業がうずまいていました。自分の過去世もあやぶまれます......。

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参考文献:『江戸艶笑小咄と川柳』(西尾涼翁著・太平書屋版)


 

 江戸時代は現代よりも懇ろに死者を弔っていたようです。「百年忌」という法事までありました。百年も経てば、冥土の先祖もとっくに生まれ変わっていなくなっていると思われますが......しかし先祖を大切にする気持ちが江戸時代の繁栄の礎となっていたのかもしれません。今、百年忌を調べると、名をなした文学者とか高名な僧職者くらいしか行われていないようです。いっぽう江戸時代は......
 
「百年あとに泣いた日に魚類也」
 
「百年忌では、精進料理ではなく魚や鳥も食べられたそうで、どちらかというとおめでたい宴会だったようです。子孫が続いていることへの感謝の法事でしょうか。
 
「百年忌うわさに聞いた人ばかり」
「百年忌仏の知らぬ顔ばかり」
 
 しかし故人を知っている人はほとんどいない状況です。
 
「百年忌目出たくひとり泣いた人」
 
 もしかして当時で百歳いっている人がいたのでしょうか。人生五十年と言われた当時としてはかなりの長老です。
 
「百年忌客に魔のさす猫を出し」
「百年忌歌舞の菩薩を呼びにやり」
 
 しゃれた表現ですが、芸者さんも呼ばれることがあったとか。百年忌、かなりお金がかかりそうで、それなりに財力のある一族しかできなかったのではないでしょうか。
 お金がかかるといえば、泣き手を頼む風習もありました。テクニックや報酬によって、一升泣き、二升泣き、五升泣きとランクがわかれました。
 
「薄暗い所に座る二升泣」
「もう一升また泣声に念が入り」
「五升泣き目ぶちはただれ咽ははれ」
米や味噌など謝礼の量によって、泣き方を調節していました。現代の日本ではなくなった職業ですが、中国や韓国などでは存在しているようです。お葬式が盛り上がって、号泣する人が多いほど、死者もこれだけ惜しまれていたと充実感で成仏できそうです。

 よく、潮の満ち引きと人間の生死が関連づけられていますが、信憑性はさておき、当時もそのような説が広まっていたようです。
 
「あげ潮は笑顔引潮泣きッ面」
江戸時代の人は自然と一体感を保ちながら生活していたのでしょう。

「引潮は水さし潮は湯の盥」
 
 末期の水のための水差しと、産湯を使うたらい。生と死の交錯を厳粛に受け止めている川柳です。こちらの句は「誕生」の項でも取り上げたので、死と生がループしている感じです。
 
 そして江戸時代は人生五十年と言われていました。
「人間は穴から穴が五十年」
「盥から盥の間が五十年」
 
 参道を通って生まれる穴から、墓穴まで、産湯のタライから湯灌のタライまでが五十年。乳幼児死亡率が高いからゆえの平均寿命五十年かと思っていましたが、この句を読むと実際に五十歳くらいが寿命だったようです。
 江戸時代の絵など見ているとお年寄りの姿が少なくて、若い人ばかりの印象だったのですが、それは五十歳が平均寿命だからかもしれません。享楽的で平和で勢いがあって楽しそうなのは、江戸時代が若者の国だったから? アラフォーあたりからもうおじいさん、おばあさんの域だと思うと軽いショックです。高齢化していく日本は、江戸時代とは全く別の光景になるのでしょう。寿命が長いからといって漫然と生きているのではなく、ご先祖に恥ずかしくないよう、長老だらけの日本として、叡智を深めていきたいです。

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 江戸時代の平均寿命を考えると、当時のおじいさん、おばあさんはいったい何歳になるのか、もしかしたら4.50代かもしれない、という気もしてきます。自分も江戸時代だったらおばあさん......きっと今と時間の流れ方が違うんだと思いたいところです。
 『春画で読む江戸の性愛』(白倉敬彦著・洋泉社)を拝読すると、そこには年齢を感じさせないほどお盛んな老女の姿が生き生きと描かれていました。
 若い男が夜這したら、間違えておばあさんの部屋に入ってしまったというシチュエーションが当時あったようです。「好色土用干」には、逃げようとする若い男を両足でホールドして逃がすまいとする老女の絵が描かれています。髪は白髪まじりで、お腹には何重にもしわが。困っている若い男性と対照的に、目尻が下がっていてエロ目の老嬢。
 若い役者を買う老女もいたそうです。経済力と生命力がありあまっているのでしょうか。
「色ばばあしみしんじつにかわゆがり」
 という川柳には、若い男子を心底かわいがる「色ばばあ」が描かれています。現代でも、何十歳も下のダンサーを寵愛する女性歌手とかたまにいますが、当時は今のような高機能のコスメや整形もなかったので、老女はかなり年齢感がにじみ出ていたと拝察されます。
 「ばあさまの汁けで孫にもりをさせ」
 という句もありました。あまりにも性的におさかんな老女は、そのエネルギーを孫のお守りで発散させた方が良い、という......。色気ではなく「汁け」と表現しているのに、あきれている感じが出ています。
「おばばへこへこの気があるでむづかしい」
という句の「へこへこ」というのは腰を動かす擬態語でしょうか。老いてもまだ性欲がある様子を書いた句です。おばあさんになって能動的に腰を動かせるなんて、江戸時代の女性のスタミナはすごいです。
 夫に先立たれると、老女は性エネルギーを持て余しがちですが、老夫婦の場合はどうなのでしょう。
 「うらやんで爺を起こすしうとばば」
 という句は、隣の部屋でおっぱじめた若夫婦に触発される姑の姿を描いています。「艶本色見種」によると、その後、老女の夫は思うように持続せず、「若い時、五晩続けたことを思い出さしやれ」と老女は欲求不満をにじませていたようです。老夫婦の性を充実させるためには、滋養強壮の薬や性具がマストでした。
 本の中では、江戸時代のシニアのセックスの必殺技が紹介されていました。「さしまくら」という小咄本で図入りで紹介されているとのこと。男性側は「陰茎によりを掛ける」、ねじってあてがいます。女性は直前に、茶碗を裏返してカポッと性器に当ててねじります。そうすると中の圧力が高まってバキューム力が出るのでしょう。そして合体すると、ねじった男性器が戻る力でドリルのように侵入という、涙ぐましいテクニックです。準備の段階で萎えてしまいそうですが......。あきらめないで夫婦生活を持続させようとする努力はすばらしいです。後世の参考にさせていただきます。

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参考文献:『春画で読む江戸の性愛』(白倉敬彦著・洋泉社)

 忙しい日常をリセットするために銭湯やスパに行くのは今も昔も変わりありません。江戸時代の人は頻繁に銭湯に行っていました。そこで垣間みられる女の人生について『江戸の女たちの湯浴みー川柳にみる沐浴文化ー』(渡辺信一郎著・新潮選書)を参考に、ご紹介させていただきます。
 江戸時代というと混浴のイメージがありますが、享保末年(1730年頃)に専用の女湯ができるまでは、実際に「入り込み湯」と呼ばれる混浴状態でした。「入り込み湯」、何かいろんなものが入り込んできそうな、貞操の危険を感じる名称です。
「入り込みは抜き身蛤ごったなり」
江戸時代の人が好きな性器の例え川柳です。ちなみに男性の共通観念的には、蜆は幼女、蛤は若い女、赤貝は年増、と擬貝化されていたそうです。いつの時代も男性の観察眼(&妄想力)はあなどれません。
「猿猴にあきれて娘湯を上がり」
 若い娘が入り込み湯に入ったら、四方八方からテナガザルのように伸びてきた男の手。夜などはかなり風紀が乱れていたようで、痴漢行為も多発していました。
 混浴といえば、去年霧島で行った温泉が、つい立ての奥が混浴スペースになっていました。女性は一応バスタオルを巻いて入っていましたが、女性客を待ち伏せする男性がメガネをかけて長時間浸かっていて、これが噂に聞くワニかと感慨深かったです。つい立ての向こうに行く勇気はありませんでしたが......。
 江戸時代でも混浴は風紀が乱れるとして、寛政の改革で「混浴禁止令」が発令されました。しばらくは守られましたが、十年後位からまた、入り込み湯が復活して混浴文化は脈々と受け継がれました。
 女湯、男湯とわかれてからも、銭湯は一種のカオス状態でした。
 「湯屋の喧嘩滑ったの転んだの」
 体を洗う糠袋で滑って転んだとか、桶や場所の取り合いとかで喧嘩に発展することも......。
 「女湯の喧嘩片手でつかみ合い」
 全裸なので一応片手で股間を隠しながらつかみ合い、という人間として最低限の節度を保っています。
 ちなみに体を洗う糠袋は古くなった浴衣などの布を利用して作り、中には主に米糠を入れました。米糠より赤小豆の粉や緑豆の粉の方が美容に良いと言われていたり、蛇骨石の粉とか、白檀とか江戸の女子は美容効果の高いブレンドを研究していました。
「糠袋よっ程顔を長くする」
顔をまんべんなく磨くため、伸ばしている様子です。美を磨く女性の姿は時々お見苦しいです。
「糠袋切れるほど擦る頬っぺた」
汚れを取るために擦り切れそうなほどこすっている女性。誰が観察しているのかという疑問も浮上しますが......。
 ちなみに女湯には結構のぞきも出たようです。
「女湯の障子は不慮な度々破損」
道に面している銭湯の障子が時々破れている、という川柳。障子なんてのぞいてくれと言っているような、女としては頼りない構造です。 
「女湯を覗く拍子になにか踏み」
視界には女湯しか入っていないので足元への注意がおろそかになり、犬のフンを踏むこともあったようです。
 番台の男性や、洗い場の湯汲みの男性の視線も油断できませんでした。
「あの嫁は毛沢山だと湯汲み言い」
と、勝手にアンダーヘアを品評する人も......。
しかし楽しいことばかりではありません。
「女湯の番ン褌が早く切れ」
勃起しすぎて褌が破れてしまう......というスポーツ新聞のギャグ漫画になりそうな場面です。さすがにこれはネタだと思われます。
「女湯の湯番とうとう気虚になり」
と、興奮しっ放しで、神経衰弱気味になる人もいました。羨ましい身分に対する男の嫉妬も表れている川柳です。
「女湯の番をしたなら久米即死」
久米仙人は、川で洗濯している女性の白いふくらはぎを見て落下し、神通力を失ったと伝えられています。そんな仙人が女湯の番をしたらショックで即死するんじゃないか、というこれもまたギャグセンスがすばらしい川柳です。
 銭湯はネタの宝庫です。おならについての川柳もありました。
「屁の玉を目前に見る風呂の中」
「湯の中の放屁背筋を逆上がり」
と、句にすると下世話なテーマも詩的に見えてきます。おならの泡が背中を伝って上がってくる様子をとらえた川柳にはゾクゾクしました。
「湧いて来たなどとおならを掻き回し」
現代でもありそうなごまかし方です。
 喧嘩や桶の争奪戦、のぞきにおなら、と人間の業がうずまく江戸の銭湯。
「女湯で世上の垢を擦り合い」
と、心身の汚れを落としているのか、それともまた邪気にまみれているのかわかりませんが、カルマに引き寄せられて人々が集い、運命共同体のような一体感を得られる場所だったのでしょう。

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参考文献:『江戸の女たちの湯浴みー川柳にみる沐浴文化ー』(渡辺信一郎著・新潮選書) 
  

 女性の人生は生理のバイオリズムとともにあります。江戸時代の女子の生理事情はどうだったのでしょう。今回は『江戸の女たちの月華考』(渡辺信一郎著・葉文館出版)という、生理をテーマにした一冊から川柳を引用し、江戸女子のあの日の過ごし方に思いを巡らせます。
 
 「七日にて済めばめでたき汚れ也」
 江戸時代の日本人はお盛んだったので、生理の七日間は禁欲を強いられる、という感覚だったようです。男女の間で、今はダメとか、もう開けたとか、それとなく知らせて終わったらめでたく合体という、現代の性欲減退した日本人からすると異国の話のようです。
「月の内たった七日をぶっつくさ」
「ぶっつくさ」はぶつぶつ言う、の意味です。「ぶつくさ」の原型でしょうか。女性側の気持ちだと思ったら、どうやら男性の思いを綴った川柳のようです。
「七日斗(なぬかばか)なんのこったと女房言い」
奥さんの意見としては、毎晩性生活に励んでいるのだから七日くらい休ませて、という......。夫は悶々とする七日間です。江戸時代の人のバイタリティに驚かされます。
 ところで、生理用品はどういうものを使っていたのでしょう。高分子ポリマー吸収体的なものはない時代ですが、ケミカルではないオーガニックなものを使っていたので体に負担が少なそうです。
「嫁紐と半紙二枚こそと出し」
和紙や半紙を重ねて折りたたみ、紐を通して脇腹のあたりで結ぶ、というのが基本のスタイルでした。奥さんがそっと生理用セットを出しているのを好奇心旺盛な夫が盗み見ている情景です。庶民は「浅草紙」という安くて品質の悪い紙を使っていました。
「乗り初めに駒の手綱を母伝授」
月経は「馬」という隠語でも呼ばれていました。半紙のたたみ方、紐の付け方を娘に教える母の姿。行程が多くて難しそうです。
「血が出ると毛を三本抜く馬鹿娘」
当時、鼻血が出たら後頭部の毛を三本抜くと止まる、というおまじないが信じられていました。予期せぬ出血で慌てた若い娘が毛を三本抜いたけれど止まらなかった、という句です。
「女同士お客と言えば通用し」
 江戸時代は生理を「お客」とも呼んでいました。夫に体を求められた妻が、お客だと言って穏便に断ったり、女同士の会話では「お客なの」で通じ合ったり、さり気なくて良い言葉です。
「あれさまだ汚れているとふりつける」
早く夫婦の営みがしたくてたまらない夫に対し、まだ汚れるからダメ、と軽くいなす妻。
「御亭主は六日のあたりで願って見」
奥さんが生理になって我慢し続け、六日目だけどなんとかお願いします、と懇願する亭主。セックスレスという言葉とは無縁で、かまわずいたしてしまう場合も多かったようです。
「湯に入って来なよ私が罰になる」
 月経は穢れで行為後には体を清めないと罰が当たると信じられていました。終わった後、女性がお清めを薦めています。お風呂で済むのなら気軽にできます。
 十五夜にお月見団子を作る時は、月経中の女性は穢れているので団子作りには関われないという暗黙のルールもありました。
「お丸めなハイ私は私は」
 団子を丸めるように姑に言われて、恥ずかしそうに「私は私は......」と生理をほのめかすお嫁さん。そして結局
「姑に月見挽かせる気の毒さ」
と、お姑さんが団子を作る流れになりました。老体に鞭打って石臼を挽くお姑さん。月見団子の風習がなくなって良かったのかもしれません......。
「月々に女の休む日はあれど」
 江戸時代の女性は働き者でしたが、生理の七日間は重労働からは身を引いていました。現代は生理休暇はあっても、ほとんどの人は使わず、ふだんと変わらず働きまくっている女性が多いのではないでしょうか。バイオリズムに逆らわず、休むときはちゃんと休むことが大切だと江戸時代の先人に教えられたようです。体を大切にすれば内側からパワーがわいてきて、性生活を含めて充実しそうです。

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参考文献:『江戸の女たちの月華考』(渡辺信一郎著・葉文館出版)
 
 
 
 

 なぜかお葬式にまつわる川柳は食べ物絡みが多いです。あの世に行く人に対し、自分たちは生きていると実感しようとしているかのように。
「一と七日持仏くいものだらけ也」
初七日は、たくさんの食べ物を仏様にお供えします。まだ現世の感覚が残っているから、お供えものも嬉しいことでしょう。用意されるのは、豆腐、煮豆、芋、昆布、天ぷら、漬物、葛のあんかけなど。さらにおいしそうな川柳が並びます。
「油揚にこぶは村での大法事」
「安法事芋に衣をかけて出し」
芋の天ぷらについての川柳ですが、「法事」と「衣」は縁語、というテクニックを使いながら、安い芋の天ぷらに文句を言っているという、頭が良くてイヤミっぽい句です。
「六弥太に久助かけて安法事」
豆腐に吉野葛をかけた風流な一皿に見えて、これも安法事への一言でした。結構クレーマー川柳が多いです。
そういえば父も親戚のお葬式で、料理が冷めているとか文句を言っていました。悲しみを紛らわすための憎まれ口だったと信じています......。
 江戸時代の法事は音楽の生演奏もあったりでにぎやかでした。
「蝉丸を取巻て居るいい法事」
と、琵琶法師が演奏することも。
「吹く叩くひっかくならす大法事」
裕福な家のお葬式でしょうか、豪華な楽隊が出演しているようです。現代もこのくらいやってくれれば、法事の気の重さも軽くなるのですが......。
 亡くなって四十九日目には、牡丹餅を作り、法事などでふるまう風習がありました。牡丹餅には、あんこを使ったものもあり、小豆は邪気を祓うと言われています。それが法事に使われるいわれでしょうか。
「涙片手にすり子木でこづくなり」
牡丹餅をついている様子を描いた句です。
「もうさうかのうと牡丹餅ぶちまける」
もう四十九日か、と感慨にふけりながら紙の包みを開きます。
「ぼたもちで思ひ出すのは他人なり」
「ぼたもちに他人砂糖の小言也」
砂糖が足りない......というまたクレーム系です。
「大黒は五十にたらぬ餅を食ひ」
大黒というのはお寺の和尚さんの妻を表しているそうで、五十に足らない、つまり四十九日の牡丹餅を食べている、という川柳。お寺の奥さんにもなると、牡丹餅、またか......という思いになります。
「牡丹餅をつくと魂魄どっか行き」
四十九日に牡丹餅をお供えされて、亡くなった人の魂もいよいよこの世と決別し、冥土の旅へ......。五十日目は精進落としで、魚など生ものを食べたり、おこわを作って配る地方もあります。
「こわめしもうれいの時は素顔なり」
「こわめしも無地にふかすはあはれなり」
「強飯に塩のないのはあはれ也」
この場合のおこわの具はなしか、もしくは黒豆のみだそうでストイックです。
「こわめしにほくろのあるはあはれなり」
「こわめしに目玉を入て涙ぐみ」
黒豆を、ほくろや目玉になぞらえています。故人の死を悼み、泣きながら牡丹餅やおこわを作って、でも結局おいしくいただいて、生きていくための栄養源とする。そんな人間のタフさを感じる川柳です。何があっても、食欲があるうちは大丈夫だよ、と故人や先祖も上からほほえんでくれていることでしょう。

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 江戸時代は、お医者さんが往診し、家族に囲まれて家で最期を迎える、というパターンが多かったようです。病院の延命治療もなく、短く太く生きたのではないでしょうか。
「医者衆は辞世をほめて立たれたり」
と、辞世の句を遺して大往生する人もいたようです。かっこいい死に方で、戦国武将ではたまに聞きますが、病死で辞世の句、とはなかなかできない芸当です。
「代脈がちと見直した晩に死に」
一瞬回復したようになってから亡くなる、というのは江戸時代にもあった現象なのでしょうか。
「死金」という単語は、今では、使わないままの預金を指したりしますが、当時は、死のために備える支度金のことを「死金」と言いました。
「死金をおっかなそうに分けて取り」
「死金がたまり過たで死かねる」
死金が惜しくなって死ねなくなった、そんな延命効果も......。
 死んでも死にきれないのは、人間関係の確執がある場合。嫁が姑の死を看取るシーンはちょっと怖いです。
「看病をひとりねめねめ往生し」
お嫁さんをにらみながら死んでゆく姑さん。にらむくらい気力があるならまだ長生きしそうですが......。
「しうとばば白くにらむがいとま乞」
「目が黒いうち」は生き生きしている表情を示しますが、反対に白くなっていくのは死を表します。こちらもにらみながら死んでいく姿です。成仏させるのにも苦労しそうです。
「嫁が出す水はりのけて目をふさぎ」
嫁の世話を断固として拒絶する姑。病院だったら他の人に任せられますが、家庭内往生では不本意ながら嫁の手を借りないわけにはいきません。
「死水を嫁にとられる残念さ」
結局、死んだら拒否することもできず、嫁に末期の水を口に入れられることに......。
「仕合わせな嫁梅干しを桶につめ」
梅干しは老婆の比喩で、桶は当時のお棺という、これもまたゾクゾクする川柳です。もっと川柳とは笑えるものだと思っていましたが、死という話題になるとホラー味も帯びてきます。
「段々にお鉢のはまる枕飯」
お椀にご飯を盛った「枕飯」にお箸を立てたものを死者にお供えする風習もありました。
「枕飯からもふこわく嫁は炊き」
生きている時は姑のご飯は柔らかく炊いていたのを、亡くなったとたん固めに焚く嫁。四十九日くらいまでは霊の好みに合わせた方が良さそうですが......。
「ぬけがらの魔よけの魂のせておき」
武士の魂=刀で、刀をちょっと鞘から抜いて遺体の上に置くという魔よけの風習がありました。現代には失われてしまった風習で、魔よけがない丸腰状態で大丈夫か不安になります。
「さかさまに親が屏風を立るなり」
逆さにした屏風で囲うという習わしもありました。この川柳は、お子さんが先に亡くなった逆縁の「さかさ」という意味ともかけている切ない句です。和服の合わせが逆さまだったり死者にまつわることは「さかさごと」と言われます。現代だと、亡くなったはずの人が服を裏表に着ていた、という怪談も聞いたことがありました。あまり風流じゃないですが......。
「極楽のひゃうとく和尚付けてくれ」
「表徳」はペンネームの意味。極楽でも通じるかっこいい戒名を付けてほしい、とリクエストしています。
 お葬式の時は、家の戸口に青い鬼簾(細い竹で編んだ忌中用のすだれ)に、忌中札を付けました。
「鬼簾涙のかかる忌中札」
「鬼の目に泪と見へる忌中札」
「二字書た札は寂しいかけすだれ」
鬼すだれについて検索したら、飲食店用の通販サイトがヒット。現代では伊達巻きを作る時に使われているようです。
「すまぬ事母の湯灌は寺でする」
納棺前に死者を清める「湯灌」。裕福な持ち家のある家庭でないと家では湯灌ではない制度があり、一般人はお寺の湯灌場を使っていました。助け合いの精神は死に装束にも。経帷子は何人もの人が分担して縫い上げていたそうです。
「片袖を足す振り袖は人のもの」
皆がひと針ひと針塗ってくれている......この人情味だけで成仏できます。
「神棚に目張外へは札を張り」
死者が出た家では神棚に紙を張る風習も。細かいところにまで気をつかっています。
 死者には三途の川の渡し賃の六道銭を入れた袋を持たせ、お棺に入れてお寺に運び、お坊さんの読経ののち、土葬もしくは火葬にします。死出の旅は孤独です。
「西国は連立て行く旅でなし」
江戸時代のお葬式は、焼き場まで葬列を組んで歩く大がかりなものでした。提灯、香呂、紙垂、幡、天蓋、位牌、棺、などを持った人々に続いて、施主や会葬者がついて歩きます。
「御簾をかかげると先ず出る香呂持」
「脇差のない裃がぞうろぞろ」
施主は裃姿です。武士でなくても、武士コスプレができる機会でもあります。
「施主はみなぶたれたやうな頭で来」
髪を乱雑に束ねてるのは慣れていない装束のせいでしょうか。
「若松を紙でこさへる気のどくさ」
結構お金がかかりそうな江戸時代のお葬式。松葉のかわりに簡易的に紙の花を用いる場合も。
「編笠も外から透くはあはれ也」
使い捨ての目の荒い編笠でしょうか。しかし専用に作るだけでもちゃんとしています。
「人数で買ふ丸綿はあはれ也」
女性は綿帽子をかぶります。ちなみに当時の喪服は白だったので、綿帽子とコーディネイトすると天使のようで、死者も安らぎそうです。
 参列者はお葬式用に粗末な草履を履いて、墓場から戻る時はその場に捨てていく風習がありました。
「寺町に捨た草履の哀也」
「葬礼に足袋を捨てぬは得手かっ手」
多分、ケガレを家に持ち込まないという思想なのでしょう。足袋まで捨てる、ケガレに対して敏感な人もいました。現代では軽く塩をまくくらいで祓えているのか、ちょっと心配になってきます。靴下くらい捨てた方が良いのかもしれません。
焼香の手順は今と同じようです。
「焼香のしょはなに出るは目をはらし」
違うのは和尚さんが最後に強い口調で「喝!」と叫ぶという段取り。これで死者はハッとして死んだことを自覚できます。急に叫ばれて参列者は寿命が縮まりかねません。
「引導はとんと死人をしかるやう」
お棺を埋める穴堀職人は淡々と仕事します。
「愁傷のてい御座なく候穴堀」
「裃で穴を覗くは身内なり」
別れ難く、近親者はその穴をのぞきこみます。
ところで、遺体を火葬する職業を「隠亡」と言いました。以下は、不穏すぎる一句。
「隠ン坊はやたらに人を焼て食」
「食う」というのは「生計を立てる」という比喩的表現ですよね。まさか本当に死者を......? 江戸時代にカニバリズムはないですよね。
「うまさうだなどと焼き場で気の強さ」
でも、この句によると死者を焼く匂いをうまそうだと言い出す人もいたそうで(このしろという魚を焼く匂いに似ているとか)、もしかしたら、と思ってしまいます。
「しわいやつあわれな酒にばかり酔ひ」
お葬式のふるまい酒に酔っぱらう人の牧歌的な句で、お茶を濁したいです。
 忌中の時は髪型も決まっていました。女性は「草たばね」という簡易的な島田髷にしていました。
「強飯の竹の皮まで草たばね」
「目に露をもって萎れる草たばね」
暖簾や屏風、葬列に死装束に髪型と、江戸時代のお葬式は、念入りに手間ひまかけて行っていて、死者を悼む気持ちが伝わってきます。こんなに丁寧に送られたら成仏率も高そう......と思ったら、形見分けでえげつない欲が露呈することもあり、死者も油断できません。
「泣き泣きもよい方をとる形見分け」
「泪はらってねめ廻すかたみ分け」
「わっわっと泣いてかたみを持て行き」
「しっかりと来るとなき出す形見分け」
「形見分け泣き出すやつがたんと取」
派手に泣きながら、死者への思いをアピールして、いい物をもらおうとする人々。
「形見分け始て嫁の欲がられ」
「形見分けうらみつらみのはじめ也」
「小姑が手をつけさせぬ形見分け」
形見分けシリーズの句は多いです。形見分けでわだかまりが生まれることも多かったようです。
「香典の穴をうめろと形見分け」
「百両を淋しくほどく形見分け」
「垢つきばかりうき物ハ記念わけ」
金額が少ないとか、ショボいものしかないとか、内心不満を抱く人も。「垢つきばかり......」の句は、百人一首の「暁ばかり浮きものはなし」という素敵な句にかけていますが、下流感がみなぎっています。
「形見分けはやまり過ぎて取り返し」
最初選んだものよりも後でいいものを発見し、交換したい、というセコい句もありました。
「形見分け以後はいんしん不通也」
物をもらった後、音信不通になる人も。形見分けでしみったれた人間の本性が露になります。
「白い手が出やうとおどす形見分け」
欲張りすぎると、死者の祟りがある、と脅すという最終手段です。結局ホラーな結末になってしまいました。でも、近親者や親しい人なら、幽霊でも側にいてほしい、と思うのが人の常。形見分けで参列者がエキサイトするのを、死者はきっと嬉しさ半分で見守っていることでしょう。

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 姑、小姑ときて次は老後の項目。「生老病死」の「病」にまつわる川柳が「江戸女の一生」にはほとんど収められていませんが、江戸時代の人は穏やかな老衰が多かったのでしょうか? 少なくとも現代のように病院でチューブだらけで最期を迎える、ということはなかったと思われます。施設に入るのではなく、隣近所の人がさり気なく面倒を見てくれていたのでしょう。江戸時代の病気について調べたら、当時の主な病気を番付風にまとめていた資料がありました。「疱瘡」(天然痘)「五疳」(五臓のバランスの乱れ)「中風」(脳血管障害の後遺症)「癪」(疼痛を伴う内臓疾患)など「逆上」(のぼせ)......。東洋医学の用語だからか、漢方薬で何とかなるような印象があります。病気を深刻にとらえすぎず、自然に任せられそうです。
 そして迎えた女の老境。当時の呼び名で「女」「おんな」は若い女を表し、「嫗」「をんな」は年を取った女を表すとのこと。今なら何歳でも強引に女子と言い切ってしまいますが......。「婆」よりは「嫗」の方が字面的にソフトで嬉しいです。
 老嬢についての川柳も残っています。
「御迎いの来るのを隠居は待って居る」
と、枯れて侘しさ漂う句や、
「今は昔に成りにけり婆々の色咄」
と、まだ武勇伝が忘れられない老女の句も。以前、図書館で老女が、友人の女性に対し「結婚のとき、略奪したから泥棒猫って言われたのよ!」と自慢しているシーンに遭遇したことがありました。何歳になっても女は女。一見、色恋とは無縁そうな穏やかなおばあさんでも、そのような話題を振ったら喜んで話してくれるかもしれません。
 年を重ねると「賀寿」といって長寿のお祝いをしました。六十歳は還暦、七十歳は古希、七十七歳は喜寿、八十八歳は米寿、九十九歳は白寿。今にも伝わる伝統です。長寿のお祝いにお持ちを準備しました。本人が紅で「寿」と書いて隣近所に配ったり、元気な人は餅をついたりしました。
「老いの坂峠は餅の名所也」
「賀の餅を腰も強いとほめて食ひ」
餅の粘り気に尽きせぬ体力が現れています。
「餅の礼大きく耳のそばで言ひ」
耳が遠くなって、餅の礼は大きな声でないと聞こえません。
「三十八年いきのびて筆をとり」
当時は人生五十年と言われていたので、そこから三十八年生き延びて八十八歳。
「門松を八十八度通りぬけ」
風流な川柳です。
「米の餅さて極楽にほど近し」
「老の晴れ米を三つに噛みくだき」
考えてみたらお祝いの餅や米を食べられる歯がまだあるのはすごいことです。歯が長く残った人ほど長生きできていたのでしょうか。徳川家康は入れ歯をしていたという記録がありますが、庶民には手が届かないものだったことでしょう。
続いて、九十歳までくると、本人も長生きに飽きてくるようです。
「あつらへ向きの往生は八十九」
「もうよいと薬をのまぬ八十九」
「九十の賀おととし程はよろこばず」
そして九十九歳までくると、珍しい域です。
「九十九で死んで一年惜しがられ」
「九十九もなんぞ書かせてみたい年」
白寿は米寿に比べてそんなに決まったしきたりはなかったようです。その年まで長生きする例が少なかったのでしょう。
夫婦ともに長生きすることを「とも白髪」や「もろ白髪」といいました。
「もろ白髪迄はあぶなき女房也」
まだ妻は女を捨てていないという句です。健康で長生きする秘けつは女をあきらめないことでしょうか。
「古来稀なるおどり子は七十余」
「高野六十さてつづいて薬研掘」
踊り子、つまり芸者さんが七十すぎだったという川柳。「薬研掘」も踊り子が多かったので、芸者さんを表します。
「七十にしてなりふりにのりをこへ」
「論語」の一節にかけて、七十歳を超えて身なりにかまわなくなった、という句もあります。
 また、何歳になっても春を売るつわものの女性もいました。
「稲光り夜たかの皺を一寸見せ」
「提灯が二十四文の皺を見る」
「小作りな夜鷹六十迄島田」
男性目線でしょうか、当時の人も女性のシワを厳しくチェックしていました。六、七十で体を使って働くのは大変なことです。
 ところで当時、八十歳以上の高齢者に慰労の意味で「鳩杖」という杖が贈られる風習があり、長寿のシンボルとなっていました。
「鳩の枝豆は豆腐で食ふばかり」
鳩とはいえ、柔らかい豆腐しか食べられないというシニカルな句です。
「鳩杖を突いても止まぬ豆いじり」
これは語感通り、卑猥な内容の句でした。おじいさんも性欲は尽きません。
「さかさ事ばあ様九十だに達者」
十九歳は女の厄年。その反対の九十歳のおばあさんはピンピンしています。その年まで生きれば厄年も何も超越しています。
 江戸幕府では、長寿を祝って、お年寄りを表彰したり米や現金をプレゼントしたりしていました。現代では、100歳を迎える人にお祝いの銀の杯が贈呈されていたのが、厚生労働省が高齢者の増加に伴い経費を節約するため、純銀から銀メッキにしたという世知辛いニュースが。でも年を重ねたことの価値は、そんな記念品では換算できず、何よりも本人の魂に経験値として刻印されているのだと思います。

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 姑だけでなく小姑との関係も悩みの種。現代でもネットでは小姑は「コトメ」と呼ばれ、さまざまな悩みが綴られています。コトメ、響きは小姑よりもかわいいのですが......。人間関係のトラブルは根本的に変わっていないのかもしれません。
 江戸時代は「小姑一人は鬼千匹」という言葉があり、姑よりえげつないいじめをすると恐れられていました。姑についての川柳も残っています。
「小姑は嫁の悪事の見付番」
常に監視していてちょっとでも粗相をしたら言いつける、NSA(アメリカの諜報機関)の通信傍受やギフハブ(ASKAが盗聴されていたらしい団体)以上に油断できません。
「千疋よりも壱疋に嫁こまり」
鬼千匹よりも小姑一人に手こずる嫁。一番怖いのは人間です。
「姑のいざに小しうとこざをつけ」
合わせて「いざこざ」。気が休まらない家庭の空気が伝わります。
「小姑が嫁の目の下の瘤に成り」
目の上のタンコブよりも邪魔な目の下のコブ。
「姑女の発句小姑脇を付け」
俳諧用語を取り入れている知的な川柳です。姑と小姑の絶妙な連係プレイで、圧力に負けそうです。
「小姑も見やう見真似にいびるなり」
「いぶすより焚き付けるのがにくいなり」
家庭内の暇つぶしのようにいじめています。でも、処世術に長けた嫁は小姑をうまく立てられます。
「小姑に世事で片袖縫まける」
縫い物をする時にわざと小姑よりも下手なフリをして相手をいい気分にさせます。
「小姑へ嫁のきしゃごがやつ当たり」
でも、ふとした時に本音が出ます。きしゃご(貝殻のおはじき)の遊びをしている時に、つい激しく小姑のおはじきをはじき飛ばしてしまったり......。おはじきというのがほほえましく、現代のネットに悪口を書き込むとかよりも精神衛生上良さそうです。
 そんな嫁についていつも案じているのは実家の母。「里の母」と呼ばれます。
「衣類までまめでいるかと母の文」
娘に元気かどうか手紙で尋ねながら、衣類についてもそれとなく聞く母。重要な財産である衣装の安否を探っています。高価な着物など相手の家に取られていないかと......。洋服ではちょっと考えられない価値感です。嫁のブランドの古着を売り飛ばしてもせいぜい1000円位にしかなりません。
「里の母封を切ったを聞きかじり」
姑が勝手に手紙の封を開けるという噂を風の便りに聞いて、憤る里の母。
 でも、そんな気苦労も初孫誕生の知らせに、一時的に紛らわされます。
「国の母生まれた文を抱きあるき」
孫が産まれたのを知らせる手紙を孫のように抱いて喜ぶ里の母。
「里の親産んだ方より気くたびれ」
「あばあばに又立ち帰る里の母」
「里の母来ては小便しかけられ」
家を訪ねて帰ろうとしても、孫のかわいさに引き戻されます。おしっこをかけられても嬉しいです。
「花嫁のみやげは里へ生き如来」
そして孫は生き如来のように崇められるのです。でも、そうやって喜んでいたのもつかの間。心の底にはまだ沸々と黒い感情が......。
「賀の祝ひ目出度も無い嫁の里」
姑の長寿の祝いを意地でもしない嫁の実家。さらに怖い本音は......。
「賀の餅を馬鹿馬鹿しいと里で食ひ」
姑の長寿の餅を「けっ」とか言いながらバカにして食べている様子。内心は早く死ねばいいと思っているようです。
「我に成って死ぬまで行かぬ嫁の里」
姑側もそんなネガティブな念波を感じ、嫁の実家には近づこうとしません。
「赤ひ名を黒くしたがる嫁の里」
この川柳にはぞっとしました。お墓参りをする人はご存知だと思いますが、既に亡くなった人は黒い文字で、その伴侶などまだ生きている人は隣に赤い文字で名前が彫られています。その姑の赤い名前を早く黒にしたいと願っている嫁の実家。呪いの川柳です。いつかはその念は通じ、姑が天に召されます。
「里の母三百年も待つおもひ」
「うす墨の玉章里で安堵也」
「朱が墨に成ったで祝ふ嫁の里」
三百年も待ち望んだ感じですが、ついに姑が亡くなり、うす墨で書かれた喪の手紙にホッとする里の母。もはやお祝いモードです。
「里の母くんねぶったらしけこむ気」
「法事から初めて泊まる里の母」
そしてやっと娘の嫁ぎ先を堂々と訪問できます。小姑と姑にやられていた娘も、ついに形勢逆転です。女のバトルは死ぬまで続くのでしょうか......。
 当時、死後四十九日には牡丹餅を作って親類や縁者に配る風習がありました。嬉々として姑の四十九日の牡丹餅を作る里の母。
「牡丹餅の手伝いに来る里の母」
読んでいて突っ込みたくなるくらい、喜びすぎです。
「ぼたもちをいさぎよく喰ふ嫁の里」
「うれしさにぼた餅を喰ふ嫁の里」
「ぼた餅を笑って喰って叱られる」
 まるで牡丹餅祭りのようですが、江戸時代の人は感情表現が素直だったのかもしれません。心の内に恨みや怒りを抱え続けるよりも、牡丹餅でパーッと発散するくらいが心身の健康に良さそうです。

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 嫁姑の関係は今も昔も緊張感が漂います。女が家に入って「嫁」、女が古いで「姑」と、それぞれのしんどさを表したような漢字も良くない影響を及ぼしているように思いますが......。嫁姑に関する川柳もたくさんあります。
「末ながくいびる盃ばばあさし」
 結婚式から既に予兆がありました。末永くお幸せに、というべき式で末永くいびることを心に誓う姑......。
 一緒に暮らし始めると生活リズムも違います。お年寄りの方が早く起きてしまうので、まだ寝ている嫁は怠けているという空気に。
「三夫婦の内だんだんに夜が明ける」
「もっと寝てござれに嫁は消えたがり」
夜の夫婦生活の気配も姑にバレバレです。「もっと遅くまで寝ていてもいいのに」とイヤミっぽく言われると、恥ずかしさで身の置きどころがありません。
「気に入れば気に入ったとて気に入らず」
息子が嫁を気に入るのがとにかく気に入らない姑。毎日あら探しの目でチェックします。
「手間取った髪を姑はじろじろ見」
「ふんばりのように磨くと姑いひ」
念入りにお化粧している姿にも苛立つ姑。「ふんばり」は女郎とか売女という意味だそうです。今でいう「ビッチ」みたいなディスりでしょうか。
「まきこまれたと噺す姑ばば」
そんなお化粧上手な嫁に息子がすっかり取り込まれたと嘆きます。
「お嫁子様に聞きなよと姑すね」
そして、嫁に取られたことですねる姑。ちょっとかわいいですが、嫁とがんばって張り合おうとしても肉体的にはガタがきています。
「姑ばば咳と一所に一つひり」
「よめん女やゆるさっしゃいと三つひり」
「しうとめの屁を笑ふのも安大事」
なぜか姑のおならシリーズの川柳が豊作で、特殊なマニアがおられるのでしょうか。一人で勝手に放屁しているだけならまだしも、
「あんまりないびりやう姑女屁をかづけ」
「屁をなするとはあんまりな嫁いびり」
と、自分のおならを嫁になすりつける姑もいるようです。
「本の親なら嫁の屁をかぶるとこ」
実の両親なら、娘の屁を自分が出したフリをするところ......と、江戸時代の人はおならについて考えすぎではないでしょうか。当時の食事は食物繊維が多くて出やすかったのかもしれません。
「嫁の屁を地雷火ほどに姑触れ」
万一嫁が本当におならしてしまったら、姑は鬼の首でも取ったかのように大騒ぎします。でもこういうバトルなら、最後は二人笑って仲良くなれそうです。
「姑の日なたぼっこはうちを向き」
「花嫁のおちどをじろりじろりと見」
こちらは陰湿に、嫁を厳しい目でじっと監視している句です。
「猫の目によくにた顔に嫁くろう」
常に姑の視線を感じています。唯一解放されるのは、「看経(かんきん)」、姑が仏壇を礼拝し読経している時だけです。
「かんきんの間うれしき顔弐つ」
「魚と水尻目にかけておかんきん」
魚と水は仲の良い例えで、若夫婦を表しています。
「かんきんの間々にうしろむく」
しかし途中でこっちを向く場合もあり、油断できません。
「かんきんがすむと居ずまい嫁直し」
「かんきんをそこそこにしてとっ〆る」
若夫婦のリア充な雰囲気が許し難いのか、後ろを向いて読経する姑も。仏壇にお尻を向けてしまって良いのでしょうか......。ここまでくるとギャグの域です。
「しうとばばうしろ向き向きかんきんし」
「御詠歌のかなきり声が嫁いぢり」
浄土真宗の御詠歌で鍛えた声で嫁を叱ったりするのでしょうか。
「嫁に火をすり仏に数珠をすり」
「抹香をひねり嫁もひってる」
「火をする」「ひねる」とか何をするのか不明ながらも拷問チックな響きで恐ろしいです。まだ屁をひっている方が平和です。
「たのしみは嫁をいびると寺参り」
「いびりてを沢山よせる談義僧」
いびりて=姑世代が集まる、お寺の説法タイム。
「お講義も聞きたし嫁もいびりたし」
「談義場で嫁の仕打ちを交易し」
姑世代同士、嫁の悪口で盛り上がります。嫁の愚痴は女同士共感するためのコミュニケーションだったのでしょう。
「談義場のくしゃみ戻て嫁をねめ」
噂されているのを察し、くしゃみをする嫁。悪い予感しかしません。
「川施餓鬼お経がすむと嫁のこと」
お寺の儀式が終わると、やっと嫁いびりの時間になります。
それにしても、お寺に通ったり読経したり、仏さまへの信仰が厚いのに、女の業が全く軽くなりません。ふつう読経やお参りで心が軽くなり浄化されるはずですが......・
「羽根をつく年かと姑初小言」
お正月から、羽根つきをする嫁にお小言。
「もつれ糸おへなくなると嫁に遣り」
糸がもつれて絡まったのでお嫁さんに押し付けます。
「針みぞの時ばかお糸お糸也」
針に穴が通りにくい(老眼?)ので、その時だけ嫁に呼びかけます。
「嫁にたのまぬ針めどのむずかしさ」
もっと険悪だと針仕事すら頼みません。
「線香を立て立て先の嫁をほめ」
さらにホラーな展開です。前の嫁をいびり殺しておきながら、表面的にはホメてみせる姑。
「しうとめの遺言去ってしまへなり」
遺言で嫁への憎しみを吐露。やはり当時は狭い家で始終顔を合わせてならないとならないので、確執も悪化してしまう一方なのでしょう。
「憎そうに盛りやったのふと姑婆」
体調が悪くなると、嫁に毒を盛られたと被害妄想に......。
ただこれらの川柳では姑がヒールというか悪役度が強調されすぎているようです。対して、嫁の句はけなげで同情を誘います。このような川柳は、男性が作者の場合、年増より若い女に肩入れしている、ということなのでしょうか。ちょっと複雑です。
「長い目でごらふじませと嫁は言ひ」
長い目でご覧ください、と静かに耐える嫁。
「美しく堪忍袋嫁は縫ひ」
「三疋の猿を心に嫁ハ飼ひ」
見ざる、聞かざる、言わざる、心にインナー猿がいて、姑をやりすごしています。賢明なお嫁さんです。
いっぽう、孫は目に入れても痛くない姑。
「初孫はかわゆし産だ奴にくし」
「孫が出来たら喰いさうなおばばさま」
「孫をあやしあやし嫁をにらみつけ」
孫をかわいがりながらも、嫁はにらむという......憎しみと愛が交錯しています。
「嫁手がら鍾馗で鬼の角がおれ」
「初孫の力姑の角を折り」
孫の存在で、姑の角は折れて、ハッピーエンドという場合も。
少ないながらも、嫁姑の関係性が良好な川柳もありました。
「物さしを嫁になげるはうつくしひ」
当時は「物差しを手渡しすると仲が悪くなる」という迷信があったようです。投げて渡すのは、相手と仲が良い証拠です。
「手を出さっせへと物さし姑出し」
わざわざ物さしを手渡ししようとする好戦的な姑もいるというのに......。
「我が嫁の時を忘れぬいい姑」
「糸車仲よく廻す嫁姑」
「仲のよい嫁はお経をよみならい」
ピースフルな光景が目に浮かびます。
「いい姑朝寝の嫁を掃き残し」
若夫婦の夜の生活にも理解を示しています。
など、良い句はただ素晴らしいですが、やはり川柳としてのおもしろさということになると、不仲の句の方が印象に残ります。これも人間の業でしょうか......。嫁姑バトルは一種の娯楽だったのかもしれません。

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著者について

辛酸なめ子(しんさんなめこ)。東京都千代田区生まれ、埼玉育ち。漫画家、コラムニスト。武蔵野美術大学短期大学部デザイン学科卒。様々な事象を鋭い観察眼で取材。執筆活動の合間にテレビ、ラジオにも出演。週刊文春をはじめ多様な媒体で連載をもつ。著書に『女子校育ち』(ちくまプリマー新書)『女子の国はいつも内戦』(河出書房新社)『女の人生すごろく』(マガジンハウス)『なめ単』(朝日新聞出版)など多数。