2014年12月アーカイブ

 今回は、引き続き『川柳江戸 女の一生』から、江戸時代の育児の様子が垣間みられる川柳を紹介いたします。育児は未経験ですが、周りの友人知人からは、とにかく睡眠時間がなくなるとか、手伝わない夫への憎しみがわいてくるとか、壮絶な話を伝え聞きます。
 比べて、江戸時代の川柳は意外にも牧歌的でした。例えば......
 「添乳してついせんたくが夢になり」
 授乳中、お母さんがつい居眠りして洗濯できなくても大丈夫、誰かがやってくれる感が伝わってきます。
 当時は祖父母や乳母も同居していたりして、育児の負担が母親1人にかかってこなかったのでしょう。皆で子どもに愛情を注いで大切に育てていたのです。
 江戸時代よりも前の安土桃山時代、日本に来たフランス人宣教師ルイス・フロイスが、「これほど子どもを可愛がる国民を見たことがない」と驚いたくらい、実は世界的にも子煩悩な日本人。「子はかすがい」「子宝」などの、子どもを珍重する言葉もあります。川柳にもその風潮が表れていました。
「叩かれず赤子の顔の蚊のにくさ」
 赤ちゃんの頬の血はいかにもおいしそうで、蚊が吸いたくなるのもしかたないですが......。寝ている赤ちゃんを起こせずにただ見守るしかない親のもどかしさが伝わる句です。
「蠅が来ていやいやをする昼寝の子」
 という句も。蚊に比べて赤ちゃんの拒否感が強いのが伝わってきます。
 当時はやはり住居の機密性が低かったのか、蚊や蠅対策に蚊帳を使うご家庭が多かったようです。「枕蚊帳」「ほろがや」という名称で、蛇腹状なので関西では「芋虫と」呼ばれていたとか。図を見ると結構おしゃれなデザインでした。
「ほろがやで小さな夢を押かぶせ」
「よく寝れバねるとてのぞくまぐらがや」
 蚊帳に入れて大切な赤ちゃんを守っている様子が伝わってきます。赤ちゃんを優先するあまり、父親はないがしろに......。
「寝かす子をあやして亭主叱られる」
「手のひらへ赤子をのせて叱られる」
「軽々と赤子をだいて叱られる」
 結局何をしても叱られるようです。
「きんたまをけられ抱き寝をよしにする」
と、赤ちゃんにまで蹴られてしまうお父さん。
「屁をひった子をこわそうにだいて来る」
うんちしそうな赤ちゃんを、どうしていいかわからずに抱いて来る江戸時代のお父さん。姿が目に浮かびます。
 こわごわといえば、寝ているスキに赤ちゃんの髪を切るのも一苦労でした。
「抱きかへる内剃刀を研ぎ直し」
「二日かかってようようと子のあたま」
「右の乳で寝かすきのふの剃りのこし」
「ねたばをあわすそのそばにすうやすや」
「ねたばをあわす」は「寝刃を合わす」と書き、切れ味の鈍くなった刃を研ぐことを意味します。「寝刃」という単語と赤ちゃんが寝ている様子をかけたさりげなくアカデミックな句。ちなみに現代では、赤ちゃん専用の散髪バサミを使い、ケープを着せ、おもちゃやアプリなどを見せて注意をそらせながら手早くカットする方法が推奨されています。物が増えただけ複雑になっています。
 当時も今も変わらないのは子煩悩の心。直球にこの単語を使った句も多いです。
「手をうってお出お出と子ぼんのふ」
「ねぶってて顔を預ける子ぼんのふ」
「子ぼんのふ小判をもたせてこまる也」
「子煩悩首さしのべて打たれたり」
 何をやっても、顔をいじっても首を打たれても、お金を取られても赤ちゃんはかわいいのです。当時から日本では、かわいいは正義、だったのでしょう。
「二人してあんよ上手とぶらさげる」
「寝て居ても団扇の動く親心」
「子が出来て川の字なりに寝る夫婦」
「権蔵をはいた千鳥の愛らしさ」
 権蔵とは、草履を表しています。それにしても何でしょう、川柳に漂うこの幸せ感。平成の日本では、サラリーマン川柳、シルバー川柳などぼやきや愚痴を綴った句が多いのに、江戸時代の川柳には不平不満がほとんど見られません。自分たちの祖先が保っていたピースフルな精神状態は、きっと遺伝子のどこかに残されているはずだと信じたいです。

20141225【第3回】あやしことばedo3.jpg
   
 

 江戸時代の化粧は、いったいどのようなものだったのか。当時の文献類などを調べる方法などいくつかあるだろうが、ここでは、見て読み解く楽しみと、新しい発見がある浮世絵から始めてみよう。

 まず、浮世絵を見る前に、江戸時代の化粧について簡単に説明したい。現代の化粧と違って意外とシンプルで、色にすれば口紅の赤、白粉の白、お歯黒、眉剃り・眉作りの黒の三色が中心であった。中でも、女性が一番気になったのは白粉化粧であろう。色白が美人の第一条件だったからである。いかに色が白くなるか、いかに色を白く見せるかが重要で、浮世絵の美人画でも、白粉化粧をしているところは結構多い。今回紹介する溪斎英泉の美人画もその一つである。

1、「はつ雪」溪斎英泉  文化12年~天保13年 (太田記念美術館蔵)

浮世絵で見る江戸の化粧第1回の1溪斎英泉.jpg
 溪斎英泉が活躍した文化・文政頃(1804~1830)の化粧の流行は、笹色紅と、白粉の美艶仙女香であろうか。今回紹介する溪斎英泉の「はつ雪」は、白粉の白さと、雪の白さをかけているのだろう。雪の中、二匹の子犬がこま絵に描かれている。傘をさしているのは、若い娘で島田髷に手拭を被り、その手拭の端を噛んでいる。よく見ると、下唇は流行の笹色紅になっている。笹色紅は、紅花から作られた紅を濃くつけると、グリーン色に発色したので、笹色紅といわれたのである。島田髷には、大きな八重裏桜が付いた鼈甲風の簪が挿してある。着物は「上下対蝶菱」の模様に、帯は「丸に三つ並び杵」模様である。手拭を被っているので、最下級の遊女である夜鷹だろうか、と考えたが、着物も黒くないので、考えすぎかもしれない。
こま絵の脇を見ると白粉の美艶仙女香の発売元・坂本氏の「美艶仙女香といふ坂本氏のせいする白粉の名だかきに美人をよせて」と書かれたあとに、東西菴南北が「はつ雪や 美人のはきの 又白し」と書いている。美艶仙女香というのは、寛政頃活躍した歌舞伎の名女形だった瀬川菊之丞の俳名「仙女」から名付けたもので、京橋南傳馬町三丁目の稲荷新道にあった坂本氏から発売された白粉である。当時の白粉は、鉛白粉と水銀白粉があったが、一般的には鉛白粉が使われた。水銀白粉は、軽粉(けいふん)ともいわれ、白粉よりむしろ薬(虱取りや梅毒など)として使われたのである。一方、鉛白粉は、つき、のり、のびがよかったので、広く愛用されていた。
 「はつ雪や美人のはきの又白し」と書かれているのは、「美人の脛のまた白し」ということで、美人の脛や股の白さをいっているだろう。
ところで、脛の白さというと、「久米の仙人」を思い出す。吉野川の岸辺で洗濯をしている若い女性の白い脛(膝から下、くるぶしから上の部分)に見惚れ、神通力を失って墜落した、という話である。そして、脛だけでなく内ももにまで白粉を塗ったという話が、安永四年(1775)、恋川春町の『春遊機嫌袋』はつ湯にある。〔裏町のお内儀、初湯に出かけるとて、八丈のかわりじまに金しもん、両ごくおりのはばひろをしめかけ、内ももまでおしろいをぬりかけ、そと八文字にあるきかけらるれば、通りの人あれを見やれ、とほうもねゑ白いことの、...ともの調市きもをつぶし、うろつくひやうしに石にけつまずいて、内議の裾へばったり、内ぎ「ふりかへって、長松や今のはなんだ、長松「アイわたしが、けつまずいてころびました、内ぎ「ム、おれはまた仙人かとおもった...〕まさか、久米の仙人が落ちてくる筈はなく、自分の内ももの白さを自慢したかった、という話であろう。いかに色白に拘っていたか、という一例である。


2、「今風化粧鏡 合わせ鏡」   五渡亭国貞  文政6年(1823)頃 (太田記念美術館蔵)

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 溪斎英泉が「はつ雪」で描いたと同じ美艶仙女香が書かれている国貞の美人画である。合わせ鏡で白粉をつけた襟足を見ているところ。江戸時代の白粉化粧は顔は勿論のこと、首、胸、襟足まで塗った。白粉は合わせ鏡の下に描かれている美艶仙女香であろう。江戸時代の白粉化粧で、基本的な美しさは色白であったが、特徴的なものは、富士額と襟足の燕の尾かもしれない。つまり、額が富士山のような形であること、そして襟足が燕の尾のようになっていて、首が長く見えることが美しい、としたのである。
 襟足の美しさを強調した浮世絵は、国貞以前の歌麿の「襟粧い」にも見ることができる。長く伸びた襟足の美しさが特に際立っている。たぶん、髪型の髱の部分が後ろに突き出るようになり、着物の襟を抜くようになった江戸時代後期の流行であろう。
 合わせ鏡の中の美人の襟足は、燕の尾のようにすっとは伸びてはいないが、それでもきれいな襟足になっている。
 文化10年(1813)に出された総合美容読本の『都風俗化粧伝』に、「首筋のみじかきをながく立ちのびて見する伝」には、<首筋を長く立ちのびて見する伝は、肩を窄め、押しさぐるがごとくにし、顔はすこし俯(うつむ)く心持らにし、襟は少し退襟(ぬきえり)にして下へさげ、髪の結いようは、髷を高くすべし。首筋は髪際(はえぎわ)を少しそり上げ、化粧は髪際へふきこみ白粉をし、その上へ常のごとくけしょうを高くすべし。髪際の足も三本あしなるがよき也>と書かれている。つまり首の短いのを長く見せる方法として、長い襟足の美しさを挙げているのである。

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 そして、三本あしとあるのが、襟足の化粧法で、江戸時代末期の風俗について書いた『守貞謾稿』に、その流行の様子が詳しく書かれている。「...京坂ハ白粉ヲ濃クシ額際及頸ヲモ際立テヌル江戸モ先年ハ如此今ハ際立ト幽ト十人ニ五人宛ナラン頸ヲ際立ヌルニハ二本足三本足ト云形アリ江戸ニテハ二本ヲ一本足ト云三本ヲ二本ト云京坂ハ淡粧ノ人モ際立ヌル」とある。『守貞謾稿』の図をみればわかるが、京坂は襟足を数え、江戸は襟足の間の襟首を数えている。京坂と江戸では、襟足の形に好みの違いはあるかもしれないが、生え際を修正し、襟足を美しく見せる化粧であった。


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