2016年12月アーカイブ

 姑だけでなく小姑との関係も悩みの種。現代でもネットでは小姑は「コトメ」と呼ばれ、さまざまな悩みが綴られています。コトメ、響きは小姑よりもかわいいのですが......。人間関係のトラブルは根本的に変わっていないのかもしれません。
 江戸時代は「小姑一人は鬼千匹」という言葉があり、姑よりえげつないいじめをすると恐れられていました。姑についての川柳も残っています。
「小姑は嫁の悪事の見付番」
常に監視していてちょっとでも粗相をしたら言いつける、NSA(アメリカの諜報機関)の通信傍受やギフハブ(ASKAが盗聴されていたらしい団体)以上に油断できません。
「千疋よりも壱疋に嫁こまり」
鬼千匹よりも小姑一人に手こずる嫁。一番怖いのは人間です。
「姑のいざに小しうとこざをつけ」
合わせて「いざこざ」。気が休まらない家庭の空気が伝わります。
「小姑が嫁の目の下の瘤に成り」
目の上のタンコブよりも邪魔な目の下のコブ。
「姑女の発句小姑脇を付け」
俳諧用語を取り入れている知的な川柳です。姑と小姑の絶妙な連係プレイで、圧力に負けそうです。
「小姑も見やう見真似にいびるなり」
「いぶすより焚き付けるのがにくいなり」
家庭内の暇つぶしのようにいじめています。でも、処世術に長けた嫁は小姑をうまく立てられます。
「小姑に世事で片袖縫まける」
縫い物をする時にわざと小姑よりも下手なフリをして相手をいい気分にさせます。
「小姑へ嫁のきしゃごがやつ当たり」
でも、ふとした時に本音が出ます。きしゃご(貝殻のおはじき)の遊びをしている時に、つい激しく小姑のおはじきをはじき飛ばしてしまったり......。おはじきというのがほほえましく、現代のネットに悪口を書き込むとかよりも精神衛生上良さそうです。
 そんな嫁についていつも案じているのは実家の母。「里の母」と呼ばれます。
「衣類までまめでいるかと母の文」
娘に元気かどうか手紙で尋ねながら、衣類についてもそれとなく聞く母。重要な財産である衣装の安否を探っています。高価な着物など相手の家に取られていないかと......。洋服ではちょっと考えられない価値感です。嫁のブランドの古着を売り飛ばしてもせいぜい1000円位にしかなりません。
「里の母封を切ったを聞きかじり」
姑が勝手に手紙の封を開けるという噂を風の便りに聞いて、憤る里の母。
 でも、そんな気苦労も初孫誕生の知らせに、一時的に紛らわされます。
「国の母生まれた文を抱きあるき」
孫が産まれたのを知らせる手紙を孫のように抱いて喜ぶ里の母。
「里の親産んだ方より気くたびれ」
「あばあばに又立ち帰る里の母」
「里の母来ては小便しかけられ」
家を訪ねて帰ろうとしても、孫のかわいさに引き戻されます。おしっこをかけられても嬉しいです。
「花嫁のみやげは里へ生き如来」
そして孫は生き如来のように崇められるのです。でも、そうやって喜んでいたのもつかの間。心の底にはまだ沸々と黒い感情が......。
「賀の祝ひ目出度も無い嫁の里」
姑の長寿の祝いを意地でもしない嫁の実家。さらに怖い本音は......。
「賀の餅を馬鹿馬鹿しいと里で食ひ」
姑の長寿の餅を「けっ」とか言いながらバカにして食べている様子。内心は早く死ねばいいと思っているようです。
「我に成って死ぬまで行かぬ嫁の里」
姑側もそんなネガティブな念波を感じ、嫁の実家には近づこうとしません。
「赤ひ名を黒くしたがる嫁の里」
この川柳にはぞっとしました。お墓参りをする人はご存知だと思いますが、既に亡くなった人は黒い文字で、その伴侶などまだ生きている人は隣に赤い文字で名前が彫られています。その姑の赤い名前を早く黒にしたいと願っている嫁の実家。呪いの川柳です。いつかはその念は通じ、姑が天に召されます。
「里の母三百年も待つおもひ」
「うす墨の玉章里で安堵也」
「朱が墨に成ったで祝ふ嫁の里」
三百年も待ち望んだ感じですが、ついに姑が亡くなり、うす墨で書かれた喪の手紙にホッとする里の母。もはやお祝いモードです。
「里の母くんねぶったらしけこむ気」
「法事から初めて泊まる里の母」
そしてやっと娘の嫁ぎ先を堂々と訪問できます。小姑と姑にやられていた娘も、ついに形勢逆転です。女のバトルは死ぬまで続くのでしょうか......。
 当時、死後四十九日には牡丹餅を作って親類や縁者に配る風習がありました。嬉々として姑の四十九日の牡丹餅を作る里の母。
「牡丹餅の手伝いに来る里の母」
読んでいて突っ込みたくなるくらい、喜びすぎです。
「ぼたもちをいさぎよく喰ふ嫁の里」
「うれしさにぼた餅を喰ふ嫁の里」
「ぼた餅を笑って喰って叱られる」
 まるで牡丹餅祭りのようですが、江戸時代の人は感情表現が素直だったのかもしれません。心の内に恨みや怒りを抱え続けるよりも、牡丹餅でパーッと発散するくらいが心身の健康に良さそうです。

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29、「傾城道中双録(※録は実際は女偏) 大磯 見立吉原五十三対 尾張屋 ゑにし」溪斎英泉 文政8年(1825)頃

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 この「傾城(情)道中双録(※録は実際は女偏)」というシリーズは、東海道の五十三の宿場と出発点である日本橋、終着地である京を含めた五十五ヵ所に、吉原の遊女を振り分けて描いている。
 島田髷に三枚櫛、そして左右併せて16本の簪を挿しているのは、尾張屋の遊女「えにし」である。豪華な打掛の背中全体に描かれているのは、大きく羽根を広げた孔雀で、大きな黒い足と、何かを捉えたような顔つきが印象的である。着物は更紗模様のような三枚重ねで、裾の吹きが厚くなっている。前に結んでいる帯には大きな牡丹が付いている。たぶん染たり織ったりしたものでなく、アップリケのように後で貼り付けたものであろう。牡丹が浮き上がって立体的に見えている。このような衣裳に負けないような美人なのであろうが、惜しいことに着物の襟で口元が隠れていて確認できない。

30、「浮世姿 梅屋敷」一筆庵英泉 天保後期(1830~1844)

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 瓢箪形の中にある梅屋敷というのは、亀戸村にあった梅屋敷のことである。江戸時代地主喜右エ門が庭に梅を植えて、梅屋敷、あるいは清香庵ともいった。江戸から明治時代にかけて名所の一つだった。その園内に、竜が臥したように枝がたれて地中に入り、またはなれて幹となる梅の名木があった。かつて水戸光圀が臥竜梅がりようばいと命名したと伝えられていたが、明治43年、水害で枯れてついに廃園となったらしい。
 大きな橘の紋がついた着物、中着は桜模様を着ているのは芸者といったところか。帯は縞模様に椿が描かれている。左手で着物の褄をとっているが、臥竜梅が満開のところをみるとまだまだ寒い時期であろう。長い布を頭に巻きつけ、口元を手拭で縛って御高祖頭巾おこそずきんのようにして、寒さをしのいでいるが、足元は素足に高下駄である。芸者の分限(身分の程度)といったものを示しているのだろう。江戸時代の女性たちは意外と、雪の降る中でも、富裕な商家の妻女や、御殿女中、子供などを除いて、素足で歩いているのを見かける。寒さに強かったということだろうか。見等がつかない。


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