第15回 「傾城道中双録(※録は実際は女偏) 大磯 見立吉原五十三対 尾張屋 ゑにし」溪斎英泉/「浮世姿 梅屋敷」一筆庵英泉

29、「傾城道中双録(※録は実際は女偏) 大磯 見立吉原五十三対 尾張屋 ゑにし」溪斎英泉 文政8年(1825)頃

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 この「傾城(情)道中双録(※録は実際は女偏)」というシリーズは、東海道の五十三の宿場と出発点である日本橋、終着地である京を含めた五十五ヵ所に、吉原の遊女を振り分けて描いている。
 島田髷に三枚櫛、そして左右併せて16本の簪を挿しているのは、尾張屋の遊女「えにし」である。豪華な打掛の背中全体に描かれているのは、大きく羽根を広げた孔雀で、大きな黒い足と、何かを捉えたような顔つきが印象的である。着物は更紗模様のような三枚重ねで、裾の吹きが厚くなっている。前に結んでいる帯には大きな牡丹が付いている。たぶん染たり織ったりしたものでなく、アップリケのように後で貼り付けたものであろう。牡丹が浮き上がって立体的に見えている。このような衣裳に負けないような美人なのであろうが、惜しいことに着物の襟で口元が隠れていて確認できない。

30、「浮世姿 梅屋敷」一筆庵英泉 天保後期(1830~1844)

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 瓢箪形の中にある梅屋敷というのは、亀戸村にあった梅屋敷のことである。江戸時代地主喜右エ門が庭に梅を植えて、梅屋敷、あるいは清香庵ともいった。江戸から明治時代にかけて名所の一つだった。その園内に、竜が臥したように枝がたれて地中に入り、またはなれて幹となる梅の名木があった。かつて水戸光圀が臥竜梅がりようばいと命名したと伝えられていたが、明治43年、水害で枯れてついに廃園となったらしい。
 大きな橘の紋がついた着物、中着は桜模様を着ているのは芸者といったところか。帯は縞模様に椿が描かれている。左手で着物の褄をとっているが、臥竜梅が満開のところをみるとまだまだ寒い時期であろう。長い布を頭に巻きつけ、口元を手拭で縛って御高祖頭巾おこそずきんのようにして、寒さをしのいでいるが、足元は素足に高下駄である。芸者の分限(身分の程度)といったものを示しているのだろう。江戸時代の女性たちは意外と、雪の降る中でも、富裕な商家の妻女や、御殿女中、子供などを除いて、素足で歩いているのを見かける。寒さに強かったということだろうか。見等がつかない。


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