第26回 江戸時代の嫁姑問題

 嫁姑の関係は今も昔も緊張感が漂います。女が家に入って「嫁」、女が古いで「姑」と、それぞれのしんどさを表したような漢字も良くない影響を及ぼしているように思いますが......。嫁姑に関する川柳もたくさんあります。
「末ながくいびる盃ばばあさし」
 結婚式から既に予兆がありました。末永くお幸せに、というべき式で末永くいびることを心に誓う姑......。
 一緒に暮らし始めると生活リズムも違います。お年寄りの方が早く起きてしまうので、まだ寝ている嫁は怠けているという空気に。
「三夫婦の内だんだんに夜が明ける」
「もっと寝てござれに嫁は消えたがり」
夜の夫婦生活の気配も姑にバレバレです。「もっと遅くまで寝ていてもいいのに」とイヤミっぽく言われると、恥ずかしさで身の置きどころがありません。
「気に入れば気に入ったとて気に入らず」
息子が嫁を気に入るのがとにかく気に入らない姑。毎日あら探しの目でチェックします。
「手間取った髪を姑はじろじろ見」
「ふんばりのように磨くと姑いひ」
念入りにお化粧している姿にも苛立つ姑。「ふんばり」は女郎とか売女という意味だそうです。今でいう「ビッチ」みたいなディスりでしょうか。
「まきこまれたと噺す姑ばば」
そんなお化粧上手な嫁に息子がすっかり取り込まれたと嘆きます。
「お嫁子様に聞きなよと姑すね」
そして、嫁に取られたことですねる姑。ちょっとかわいいですが、嫁とがんばって張り合おうとしても肉体的にはガタがきています。
「姑ばば咳と一所に一つひり」
「よめん女やゆるさっしゃいと三つひり」
「しうとめの屁を笑ふのも安大事」
なぜか姑のおならシリーズの川柳が豊作で、特殊なマニアがおられるのでしょうか。一人で勝手に放屁しているだけならまだしも、
「あんまりないびりやう姑女屁をかづけ」
「屁をなするとはあんまりな嫁いびり」
と、自分のおならを嫁になすりつける姑もいるようです。
「本の親なら嫁の屁をかぶるとこ」
実の両親なら、娘の屁を自分が出したフリをするところ......と、江戸時代の人はおならについて考えすぎではないでしょうか。当時の食事は食物繊維が多くて出やすかったのかもしれません。
「嫁の屁を地雷火ほどに姑触れ」
万一嫁が本当におならしてしまったら、姑は鬼の首でも取ったかのように大騒ぎします。でもこういうバトルなら、最後は二人笑って仲良くなれそうです。
「姑の日なたぼっこはうちを向き」
「花嫁のおちどをじろりじろりと見」
こちらは陰湿に、嫁を厳しい目でじっと監視している句です。
「猫の目によくにた顔に嫁くろう」
常に姑の視線を感じています。唯一解放されるのは、「看経(かんきん)」、姑が仏壇を礼拝し読経している時だけです。
「かんきんの間うれしき顔弐つ」
「魚と水尻目にかけておかんきん」
魚と水は仲の良い例えで、若夫婦を表しています。
「かんきんの間々にうしろむく」
しかし途中でこっちを向く場合もあり、油断できません。
「かんきんがすむと居ずまい嫁直し」
「かんきんをそこそこにしてとっ〆る」
若夫婦のリア充な雰囲気が許し難いのか、後ろを向いて読経する姑も。仏壇にお尻を向けてしまって良いのでしょうか......。ここまでくるとギャグの域です。
「しうとばばうしろ向き向きかんきんし」
「御詠歌のかなきり声が嫁いぢり」
浄土真宗の御詠歌で鍛えた声で嫁を叱ったりするのでしょうか。
「嫁に火をすり仏に数珠をすり」
「抹香をひねり嫁もひってる」
「火をする」「ひねる」とか何をするのか不明ながらも拷問チックな響きで恐ろしいです。まだ屁をひっている方が平和です。
「たのしみは嫁をいびると寺参り」
「いびりてを沢山よせる談義僧」
いびりて=姑世代が集まる、お寺の説法タイム。
「お講義も聞きたし嫁もいびりたし」
「談義場で嫁の仕打ちを交易し」
姑世代同士、嫁の悪口で盛り上がります。嫁の愚痴は女同士共感するためのコミュニケーションだったのでしょう。
「談義場のくしゃみ戻て嫁をねめ」
噂されているのを察し、くしゃみをする嫁。悪い予感しかしません。
「川施餓鬼お経がすむと嫁のこと」
お寺の儀式が終わると、やっと嫁いびりの時間になります。
それにしても、お寺に通ったり読経したり、仏さまへの信仰が厚いのに、女の業が全く軽くなりません。ふつう読経やお参りで心が軽くなり浄化されるはずですが......・
「羽根をつく年かと姑初小言」
お正月から、羽根つきをする嫁にお小言。
「もつれ糸おへなくなると嫁に遣り」
糸がもつれて絡まったのでお嫁さんに押し付けます。
「針みぞの時ばかお糸お糸也」
針に穴が通りにくい(老眼?)ので、その時だけ嫁に呼びかけます。
「嫁にたのまぬ針めどのむずかしさ」
もっと険悪だと針仕事すら頼みません。
「線香を立て立て先の嫁をほめ」
さらにホラーな展開です。前の嫁をいびり殺しておきながら、表面的にはホメてみせる姑。
「しうとめの遺言去ってしまへなり」
遺言で嫁への憎しみを吐露。やはり当時は狭い家で始終顔を合わせてならないとならないので、確執も悪化してしまう一方なのでしょう。
「憎そうに盛りやったのふと姑婆」
体調が悪くなると、嫁に毒を盛られたと被害妄想に......。
ただこれらの川柳では姑がヒールというか悪役度が強調されすぎているようです。対して、嫁の句はけなげで同情を誘います。このような川柳は、男性が作者の場合、年増より若い女に肩入れしている、ということなのでしょうか。ちょっと複雑です。
「長い目でごらふじませと嫁は言ひ」
長い目でご覧ください、と静かに耐える嫁。
「美しく堪忍袋嫁は縫ひ」
「三疋の猿を心に嫁ハ飼ひ」
見ざる、聞かざる、言わざる、心にインナー猿がいて、姑をやりすごしています。賢明なお嫁さんです。
いっぽう、孫は目に入れても痛くない姑。
「初孫はかわゆし産だ奴にくし」
「孫が出来たら喰いさうなおばばさま」
「孫をあやしあやし嫁をにらみつけ」
孫をかわいがりながらも、嫁はにらむという......憎しみと愛が交錯しています。
「嫁手がら鍾馗で鬼の角がおれ」
「初孫の力姑の角を折り」
孫の存在で、姑の角は折れて、ハッピーエンドという場合も。
少ないながらも、嫁姑の関係性が良好な川柳もありました。
「物さしを嫁になげるはうつくしひ」
当時は「物差しを手渡しすると仲が悪くなる」という迷信があったようです。投げて渡すのは、相手と仲が良い証拠です。
「手を出さっせへと物さし姑出し」
わざわざ物さしを手渡ししようとする好戦的な姑もいるというのに......。
「我が嫁の時を忘れぬいい姑」
「糸車仲よく廻す嫁姑」
「仲のよい嫁はお経をよみならい」
ピースフルな光景が目に浮かびます。
「いい姑朝寝の嫁を掃き残し」
若夫婦の夜の生活にも理解を示しています。
など、良い句はただ素晴らしいですが、やはり川柳としてのおもしろさということになると、不仲の句の方が印象に残ります。これも人間の業でしょうか......。嫁姑バトルは一種の娯楽だったのかもしれません。

20161124edo26.jpeg