第111回 M項-2「マセラティ・1」(伊)

2022年9月27日

(写真00-1)五男マリオがデザインしたマセラティのシンボルマーク

第1部「創立からマセラティ兄弟が去るまで」

「マセラティ社」は大勢の兄弟が支えあって成り立っていた事はよく知られているが、長男カルロ(1881)、次男ビンド(1883)、3男(夭折)、4男アルフィエーリ(1887)、5男マリオ(1890)、6男エットーレ(1894)、7男エルネスト(1898)の6人兄弟で、長男カルロと末弟エルネストの年の差は17歳あった。その中で5男マリオだけは自動車に興味を示さず画家を目指して美術学校へ進んだ。(後年ボローニャ市の紋章「海神ネプチューン」が持つ三叉矛(トライデント)をテーマにマセラティのシンボルマークをデザインする。)

<第1期 長兄カルロの目覚め>

少年時代のカルロは近くの町の自転車工場ではたらいていたが、1897年独学で勉強して単気筒4サイクルエンジンを設計・制作し、強化した自転車に取り付けて通勤に使っていたが、これが評判となり地元の貴族の後援を受けて「カルカーノ」と名付けて市販を始めた。1900年19歳の時にはモーターサイクル・レースで数々の優勝を飾った。

(写真01-1)自作の「カルカーノ」をテストする長男カルロ・マセラティ

・1901年、後援者が手を引くと、カルロは兼ねてから興味を持っていたトリノのフィアットへ入社し2輪から4輪に転身する。自分でエンジンを造ってしまう位だからメカの知識は十分あり、2輪でのレース経験も生かし、程なくテスト部門の責任者となる。本人はレースで走りたい希望を持っていたがフィアットで走った記録はない。2年後イソッタ・フラスキーニ社から技術顧問兼テストドライバーとして招聘され、この機会に16歳になっていた4男アルフィエーリもイソッタ・フラスキーニに入社させる。しばらく経って次男ビンド、6男エットーレも入社したが、カルロは1907年ビアンキ社からレーシング・ドライバーとして招かれ移籍する。レース活動を始めたが、車の性能があまりにも低く勝負にならないため、1年でジュニオール社に移りレーシングカーの開発を続ける。しかし1911年病に倒れ、30歳の若さでこの世を去ってしまった。

(写真01-2ab)1913 Isotta Fraschini 1M Racer   (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

   <第2期 四男アルフィエーリが「マセラティ社」を作る>

兄カルロがビアンキを去った後も、弟の3兄弟はイソッタ・フラスキーニに残り、中でもアルフィエーリはワークス・ドライバーとして活躍していたが、1911年会社の勧めで弟のエットーレと共にアルゼンチンに渡りブエノスアイレスの工場で2年働く。その間もイソッタの部品で造った車で地元レースに参加していた。1913年イタリアに戻ったが翌1914年イソッタ・フラスキーニ社を辞し、ボローニャに兄弟の会社「株式会社アルフィエーリ・マセラティ製造所」(Societa Anonima Officina Alfieri Maserati)を作り独立した。アルフィエーリ27歳、「マセラティ社」の誕生である。弟のエットーレとエルネストは新会社に参加したが、兄のビンドはイソッタ社に残り参加しなかった。

(写真02-1)4男アルフィエーリ・マセラティ(1987~1933)

 新社屋と創業当時の4兄弟(左から6男エットーレ、次男ビンド、7男エルネスト、4男アルフェリ)

   <マセラティ社 プラグ製造で軌道に乗る>

新会社の主な仕事はイソッタ・フラスキーニ製の車をレース用にチューンする事だったが、折悪しくこの年6月に第1次世界大戦が始まり、自動車レースどころでは無い社会情勢のなか、アルフィエーリとエットーレが軍に召集され新会社は休業状態となる。兵役を終えたアルフィエーリは軍事産業で需要の安定したスパー・プラグに目をつけ、ミラノで製造を開始する。1919年にはボローニャにも工場を開設し、以後マセラティ社の安定資金源となる。

   <1920年 レース活動再開>

マセラティ社のプラグ「カンデーリ・マセラティ」は好評で、航空機だけでなく自動車にも広く使われ経営が安定すると、再び本来の「イソッタ・フラスキーニ」のチューニング・ショップとしての活動が始まる。1920年から22年にかけて活躍した車は、イソッタの4気筒 6.3リッター・エンジンとあるが、当時は「Tipo8」(1919-24)の8気筒5.9リッターしかない筈なので、まさか航空機用ではないだろうが資料不足で不明。とにかく数々の優勝で注目を集め、数社から誘いを受けた中で、アルフィエーリは「ディアット社」の4気筒3リッター車を選び、DOHC化したレーシングカーに仕立てる。1922年モンザで開かれたグランプリでは自らの操縦でクラス優勝(総合3位)したほか、アオスタでも優勝した。23~24年も「20S」「3Litori」に乗り「ディアット・チーム」で7回優勝している。

(写真02-3)1924 Diatto 20S (ソフト帽を被っている3人がマセラティ兄弟で、右からエットーレ、アルフィエーリ、エルネスト)

   <マセラティ 1号車誕生>

1925年、ディアット社は全く新しいGPカー造りをマセラティに託した。2リッター直列8気筒 DOHC スーパーチャージャー付きのその車は、モンザのイタリアGPに間に合わせるべく夜を日に継いで作業を進め、当時の有名ドライバー「エミリオ・マテラッシ-」の操縦で出走するもレース初期にスーパーチャージャーが破損しリタイアとなった。財政的に苦しい状況にあったディアット社はこの段階でレース活動を断念する。しかしこの結果「ディアット2ℓ GPカー」はそのまま「マセラティ」に譲渡され、これを翌26年の1.5ℓフォミュラーに合わせて改造し、はじめて「マセラティ」の名が付いた車が誕生することになった。形式名は製造年から「ティーポ26」と名付けられた。

(写真02-4)1926 Maserati Tipo26 (マセラティ1号車)

   <ティーポ26の活躍>

「ティーポ26」はアルフィエーリの操縦で1926年4月のタルガ・フローリオでデビューした。フォーミュラ・リブレの中で不利な1.5リッターながら山岳コース540Kmを走り切り、クラス優勝(総合9位)の成績を得た。6月ボローニャで行われたスピード・トライアルでは末弟のエルネストの操縦でフライング・キロメーター167.5Km/hで優勝、エルネストもドライバーとしての才能を見せ始めた。9月のイタリアGP(モンツァ)では、2台ともリタイアに終わった。1927年にはエンジンを1975ccに拡大した「ティーポ26B」となり、総合優勝6回、クラス優勝6回とめざましい結果を残し、一気にマセラティ強し!とマニアの注目を集めた。その結果これらを市販することになり、ここで初めてマセラティは「自動車メーカー」となった。そしてこの車を買ったプライベート・ドライバーたちがローカルレースで大活躍しマセラティはますます人気を高めることになる。   

(写真02-5)1926 Maserati Tipo26  デビュー戦「タルガ・フローリオ」でクラス優勝した「ティーポ26」で、ドライバーはアルフェーリ。

   <1930年 マセラティ圧勝>

「ティーポ26」は26B、26R、26Mと年々進化を続けたが、1928年には「26B」の直8 1980.5cc エンジンを2基組み合わせたV16 3691cc 280hpのエンジンを持つ「ティーポV4」が登場した。1930年にはこの「V4」と「26M」(8C2500)で数々の優勝をさらったが、特に緒戦のトリポリGPでの「V4」の優勝は、今までの小排気量の「クラス優勝」に甘んじでいたマセラティにとっては記念すべき初の「総合優勝」だった。そしてこの年はメーカーとして「コンストラクターズ・チャンピオン」にも輝いた。しかしこの年の活躍は、ライバル「アルファ・ロメオ」に火をつけてしまい、翌年には戦前最大の傑作とも言われる「ティーポB」(P3)と「8C 2300モンツァ」の出現によりマセラティから優勝は遠退いてしまった。

(写真02-7)1926 Maserati 26B

(写真02-8ab)1928 Maserati V4  /Twin V8 Engine

(写真02-9ab)1930 Maserati 26M(8C 2500)

(写真02-9ab)1930 Maserati 8C 2000 (2002-01 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

   <第3期 マセラティ 大国柱を失う>

長兄カルロ亡き後、マセラティをリードしてきた四男のアルフィエーリは1927年のコッパ・メッシナで事故を起こし骨折と腎臓摘出という重傷を負ったが2か月後には復帰し、その後も経営者、設計者、ドライバーとして多忙な日々を過ごしてきた。しかし1932年1月、5年前の事故で摘出した腎臓の残りの一つに機能障害が起こり手術の甲斐もなく3月に44歳でこの世を去ってしまった。後継体制はそれまで兄弟とは距離を置き30年近くイソッタ社に勤めていた次男の「ビンド」が合流して名目上の社長となり、実質上のイニシャチーブは、「アルフィエーリ」から全てを受け継いでいた末弟の「エルネスト」が切り回す事となった。兄弟の中での自動車に対する情熱やセンスにはかなり温度差があったようだ。

(写真03-1)末弟(七男)エルネスト・マセラティ

(写真03-3a~e)1932 Maserati 8C 3000 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

(写真03-4abc)1933 Maserati 8C 3000 (2001-05 ミッレ・ミリア/サンマリノ)

(写真03-5abc)1933 Maserati 8CM (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

(写真03-6a~e)1933 Maserati 8CM Whitney Straight (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

   <第4期 マセラティ オルシに買収される>

プライベーターへのボワチュレットの売れ行きは好調とはいえ絶対量が少なく、膨大な資金を擁するGPレースには外部からの資金援助が不可欠で、結果1936年出資者ジノ・ロベールが名目上の社長となる。新たに開発された「6CM」が好評だったのと、GPレースから撤退したことで資金繰りも安定した1937年のこと、この会社に目を付けた企業家があった。モデナのアドルフ・オルシと云う人物で、製鉄、工作機械、農業機械、電気機器、など各分野の会社を傘下に持つ野心家で、動機はマセラティのスパークプラグ部門「カンデッリ・マセラティ」を手に入れることだったが、レースでのマセラティの名声の利用価値を含めそっくり買収することで話し合いは進められた。条件として3兄弟は特別待遇の社員として自動車の設計・製作の責任者として仕事が続けられる、ということは経済的な問題から解放され自由に車造りに専念できると思い込んで買収を承諾した。

(写真04-1a~e)1933 Maserati 4CS 1100  ( 2001-05  ミッレミリア/サンマリノ、ブレシア)

(写真04-2ab) 1932 Maserati 4CM 1500           (2000-05 モナコ)

(写真04-3a~e) 1938 Maserati 6CM 1500     (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

   <第5期 マセラティ兄弟「O.S.C.A.」を立ち上げる>

オルシの支配下にはいった1938年、マセラティは「8C TF」で再びGPレースに復帰した。採算にシビアな企業家オルシがレース活動に積極的とは考えられないが、この年イタリア車に有利なフォーミュラに変更されたGPレースで、上昇のドイツ勢に一泡吹かせようと当時のファシスト政権からの要請で実現したのではないかと推定する。買収時の条件に「設計・制作の責任者として」とあったが、経営権が移った会社には「自由に」という文字は無かっただろう。「レーシングカー」一筋のマセラティに対して、オルシ側は「マセラティ」のネームバリュで大量に売る「高性能ツーリング・スポーツ」の開発を求め、次第に意見が対立するようになる。しかし兄弟は「売却後10年間はマセラティで働くこと」という条件を忠実の守り、10年後の1947年に至ってオルシの支配下から離れて独立し、ボローニャに「O.S.C.A.」(Officine Speciaizzate Costruzione Autimobili)を設立する。(「オスカ」については今後「O項」で取り上げるので今回は除外)

(写真05-1a~f)1939 Maserati 8C TF Boyle Valve Special (20190-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

   ――— 次回は 第2部「兄弟が去った後のマセラティ」の予定です ―――

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