第128回 M項-19「マーサー」「メッサーシュミット」「メトロポリタン」「ミカサ」他

2024年2月27日

1955 Messerschmitt 200 Super

  02)<マーサー>(米)

(写真02-1abc)1912 Mercer Raceabout (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

「マーサー」は1910年から25年まで存在したアメリカ車だが、早くに消滅してしまったから、今では知名度は殆どない。しかしこの車は「スタッツ・ベアキャット」と共に、当時の若者にとっては憧れのスポーツカーで、現代の「フェラーリ」や「ポルシェ」のような存在だった。写真の車には走るために必要な物しか付いていない。当時レースに出るときは不要なものを取り外して身軽になっていたが、この車は最初からなにも付いていなかったのだ。それが若者にとっては、また格好良かったのだろう。殆どの出版物では「レースアバウト」と紹介されるだけだったが、調べてみると1911~13は「モデル35」で4気筒5リッター 34hp 最高時速112km/hだった。この会社は自動車の街「デトロイト」ではなくニューヨークに近い「ニュージャージー」に在ったが、所在地「マーサー郡」が社名(車名)となった。4~6人乗りのツアラーやリムジンも造っていたが、全く知られていない。しかし看板の「レースアバウト」モデルは会社が幕を閉じる1925年まで造られていた。

(写真02-2a)1913 Mercer Raceabout  (1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)

この車は1971年アメリカからやって来た「ハーラーズ・コレクション」の1台で、海外旅行など夢のまた夢だった時代、クラシックカーに出会える貴重な機会だった。

  03)<メッサ-シュミット>(独)

(参考003-0ab)Messerschmitt Bf109(Me 109)     (第2次世界大戦 戦闘機)

「メッサーシュミット」と聞けば、第2次世界大戦当時小学生だった僕は、日本の同盟国ドイツの花形戦闘機が頭に浮かぶ。バトル・オブ・ブリテンで英国の「スピット・ファイヤー」を相手に戦った、日本の「ゼロ戦」と並ぶ第2次大戦の初期に登場した名機だ。しかし敗戦国となったドイツは飛行機の製造は禁止された。日本も同じで、「隼」を生んだ中島飛行機は「ラビット」、「ゼロ戦」を生んだ三菱重工は「シルバー・ピジョン」と言う最小限度「エンジン」の付いたスクーターと言うで乗り物で、面目を保ってきた。ドイツの場合2輪の「スクーター」は発生せず、代わって「3輪」の乗り物が誕生した。

(参考03-1)1948-51 Fend Flitzer

それは元々飛行機の開発に関わっていた技術者「フリッツ・フェンド」が、戦後の暗中模索時代に、戦傷によって両足を失った人達のために開発した1人乗り3輪車「Fend Flitzer」で、38ccと98ccの2種が用意され、後者は時速60キロまで可能だった。この車を「メッサーシュミット」に売り込み」誕生したのが「KR175」となった。

(写真03-1a~d)1954 Messerschmit KR175         (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)

「メッサーシュミット」は何回も撮影しているので沢山種類があるように感じていたが、調べてみたら「KR175」(1953-55)、「KR200」(1955-76)の2種しかなかった。ドイツ博物館にも当然この車は展示されていた。この車の中身がよく見えるクリアー・キャビン仕様だった。それぞれの生産台数は約15,000台、約41,200台だった。

(写真031-efg)1954 Messerschmit KR175   (2017-12 Mega Web トヨタ/お台場)

トヨタ自動車がお台場で開いた展示会の一部で、前項と全く同じもののカブリオレ仕様だ。「KR175」の特徴はフロントウインドウが小さく、フロントフェンダーに切り欠きが無い。

(写真03-2abc)1955 Messerschmit KR200   (1959-05 静岡市追手町/県庁前)

最初に見たのは静岡にいた昭和34年の事で、今考えれば静岡市と言うところはいろいろな珍しい車が結構たくさん見られた街だった。1955年からは排気量が191ccに増え、「KR 200」となった。1957年からは「FMR」製となりバッジが変わるので、この車はそれまでに造られた初期型と推定される。

(写真03-2def)1957 FMR Messerschmitt KR200  (1970-04 CCCJコンクール/東京プリンスホテル)

1956年から航空機の製造が許可されると、メッサーシュミット社はマイクロカーを製造する必要が無くなった。そこで製造施設そっくり売却することになり、引き受けた「フリッツ・フェンド」は新会社を設立して製造を継続した。会社名は「Fahrzeug-und Maschinenbau GmbH Regensburg」(レーゲンスブルグの車両と機械工学会社)略称「F.M.R.」となった。それ以降製造された車はバッジが「FMR」となっている。「KR200」はフロント・ウインドが大きくなり、フロント・フェンダーに切り欠きが付いた。左リアの排熱孔に丸い穴が追加されたのが識別点だ。「KR175」ではバックが出来なかったが「KR200」は可能となった。しかしバックギアが付いたのではなく、2サイクル・エンジンを逆回転させることで後退するので、バックの最高速度も時速90キロ?

(写真03-2gh)1957 FMR Messerschmitt KR200    (1960-04 銀座付近)

この車の最大の特徴は2つのへッドライトが顔に見えて表情が角度によって変わるところだ。この車の場合は一寸伏目がちだ。

(写真03-2i~l)1956 FMR Messerschmit KR200       (1961年/新橋付近)

これは「ハードトップ」仕様だが、透明のプラスチックで蓋をされたコクピットは、温室以上の暑さだった事だろう。

(写真03-2m~p)1959 FMR Messerschmitt KR200 (1966-07 日英自動車裏/赤坂溜池)

この網の向こうは」日英自動車の駐車場で、時々珍しい車が入っているので、何回も覗きに行ったところだ。

(写真03-2qr) 1959 FMR Messerschmitt KR200    (1979-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

乗車定員は2名で前後に乗ることになる。前から見ると本当に一杯一杯だ。

(写真03-3a~d)1957 Messerschmitt KR201 (2008-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)

1957年にはロードスター・モデル「KR201」が発売されたが、数は少なく希少モデルだ。跳ね上げた枠にはキャンバスが付いているが、これを外せば完全な「ロードスター」になる。この乗り込み方は、「戦闘機」と同じ感じだが、意外と楽そうだ。

(写真03-4a~d)1955 Messerschmitt KR200 Super (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)

1955年「メッサーシュミット」は速度記録に挑戦した。それは「250cc未満の3輪車による24時間平均速度」と言う耐久性が問われるもので、8月29日から30日にかけてホッケンハイムで 行われ、見事「103km/h」で世界記録を達成し、同時に22の国際速度記録も破っている。ドイツ博物館に展示されているこの車は、見るからに速そうな流線型だ。

(写真03-4e~i)1955 Messerschmitt KR200 Super(Reprika)(旧車天国/お台場)

日本のイベントに現れたこの車は、案内板にも書かれているように「レプリカ」だが、全く同じに仕上げられている。

(参考03-5a~g)1959 FMR Tg500

この車には「メッサーシュミット」の名前は何処にも入っていないから、厳密にいえばこの項に登場する車ではないかもしれない。「KR175」と「KR200」が誕生したのは「メッサーシュミット」時代で、それを基に「FMR」が生産し販売していたが、「Tg 500」は1958年誕生した全くのニューモデルで「KR200」の発展型ではあるが、あくまでも「FMR」の製品という事だからだ。しかし何処から見ても、誰が見ても「メッサーシュミット」の仲間であることには間違えない。僕は残念ながら「Tg500」には1度も出会っていないので、インターネットの力を借りてご紹介する。後ろ1輪の「3輪」から「4輪」に進化し、エンジンは空冷2サイクル2気筒494ccで、リバース・ギアが装備された。一般には「Tg500」ではなく「タイガー500」と呼ばれることが多いようだが、「タイガー」の名前はドイツの兵器製造業者「クルップ社」がトラックのため登録済みで正規に使用できなかったのでタイガーを連想する「Tg」となったようだ。

  (04)<メトロポリタン>(米/英)

「メトロポリタン」は「ナッシュ」が海外のメーカーに依頼して製造し、アメリカ国内で販売した小型車で、アメリカ車なのか輸入車なのかの判断に迷う車だ。この車の説明をするためには、可成り回り道をしなければならない。「ナッシュ」はアメリカの独立メーカーの1つだがその歴史は古く、創立者トーマス・ジェフリー」は1879年から「ランブラー」と言う名の自転車を造っており、1902年最初に造った自動車にもその名前を付けたが、1914年車名は「ランブラー」から「ジェフリー」に変更していた。1916年、当時GM の社長だった「チャールズ W・ナッシュ」は、前社長「デュラント」の復帰をきっかけにGMを退陣し、その後ジェフリー社を買収して社長となり、車名は「ジェフリー」から「ナッシュ」に変わった。1937年社長「ナッシュ」は引退し「ジョージ W・メイソン」が引き継いだ。そのメイソンの頭には「ビッグ3」とは異なった市場にこそ「独立メーカー」としての販路が存在するとの想いがあり、1950年「ナッシュ」のラインアップに「ランブラー」と名付けたホイールベース100インチの小型車を登場させた。これが「メトロポリタン」の元祖となる車だ。1953年イタリアのデザイナー「ピニン・ファリナ」の手が加えられスマートとなった「フルサイズ・ナッシュ」のスタイルが、殆どそのまま「メトロポリタン」に引き継がれた。1954年「ナッシュ」は「ハドソン」と合併し「アメリカン・モータース」(AMC) となり、車名はフルサイズも含め「ランブラー」に統一された。この間1953年に「メトロポリタン」は誕生した。新規格の車をゼロから造るためには初期投資費用が掛かり過ぎる所から、それなりの設備を持ったところに委託する方向で海外のメーカー「フアット」や「トライアンフ」とも交渉したが、1952年10月最終的に「フィシャー&ラドー」(後年オースチンが買収)が車体を、「オースチン」が機械と組み立てを担当することで合意しスタートを切った。

(参考04-0a1~3) 1949 Mash NXⅠ(ランブラーのプロトタイプ)

以前からセカンドカーとしての「小型車」に強い関心を持っていた「ナッシュ」では、1949年実現の第1歩として「NXI」(Nash Experimental International)と名付けた実験車を完成させた。「ランブラー」の原型となる車だ。大きいほど良いというアメリカの自動車社会において、初めて試みられる小型車だが、外見の特徴は「フルサイズ」の特徴をそのまま残し、少しでも違和感を減らす努力が感じられる。ドア1つ分切り詰めた感じの2ドアだった。(参考にフルサイズ「アンバサダー」の写真を添付した)

(参考04-0b1)1950 Nash Rambler Convertible Landau

1950年アメリカ車初の「小型車」が発売となった。「ビッグ3」が一斉に小型車を発売する10年も前の話だ。車には「ランブラー」と言う創立者が最初に名付けた名前が付けられた。エンジンは 水冷 直列6気筒2827ccホイールベース100インチ(2,540mm)、 写真はランブラーが発売された際の最初の広告媒体で、「世界で最高にスマートで最も安全なコンバーチブルだ」と書かれている。発売時はトップだけがオープンとなり窓枠が残る「コンバーチブル・ランドウ」と「ステーションワゴン」の2種だけだった。

 (写真04-0bc) 1952  Nash Rambler Hardtop Coupe (1962-04 東京タワー付近/港区)

写真の車は1952年型だが1950年型と変わっていない。唯51年以降車種は増え、この車は「ハードトップ・クーペ」だが、他に「コンバーチブル」(ランドウタイプは無くなった)、「ステーションワゴン」「クラブ・セダン」「カントリー・クラブ」があった。

(写真04-0def)1954 Nash Rambler Country Club hardtop Coupe by pininfalina (1962-05港区・一之橋)

1953年には最初のモデルチェンジが行われ「ピニン・ファリナ」の手が加えられた結果、全体に引き締まった感じだ。結果的にはこのスタイルが「メトロポリタン」に大きな影響を与えた(母体となった)と考えられる。

(写真04-1abc)1949 Nash NXI/1951 Nash NKI/1953 Nash NKI

1枚目は「ランブラー」のプロトタイプとされる1949「NXI」、2枚目な「メトロポリタン」のプロトタイプ1951「NKI」。1949「NXI」は「ランブラー」よりもむしろ「メトロポリタン」に近いので、これを基に「メトロポリタン」の発想が生まれたのだろうか。3枚目は市販のため完成した「NKI Custom」で、バッジを付け替えてから販売された。

(写真04-2ab)1954 Nash-Metropolitann Convertible   (2015-08 厚木・レストラン・グッゲンハイム)

1953年10月イギリスのオースチン工場で生産が始まった。ホイールベースは「ランブラー」の100インチより更に短い85インチ(2,159 mm)で、エンジンは「A40」で使われていた4気筒1200ccが転用された。社内では「ベビー・ナッシュ」と呼ばれていたが、正式には「NKI Custom」(Nash-Kelvinator International)となる予定だった。しかし発売の2ケ月前、急遽「メトロポリタン」と名前が変更され、既に完成していた車はプレートを付け替えなければならなかったという。1954年3月から発売が開始された「シリーズ1」は、54年だけで約1万3千台以上売れ、当初予定の1万台を大きく超えた。初期型にはサイドモールが無い。

(写真04-3abc)1954 Hudson-Metroporitan Convertible  (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア) 

1954年5月「ナッシュ」と「ハドソン」は合併し「アメリカン・モーター・カーズ」(AMC)を設立した。それに伴って旧「ハドソン」でも「メトロポリタン」を販売ルートに乗せた。合併会社の通例で、当分は旧組織を意識するので一本化は難しく、バッジは「ハドソン」だった。

(写真04-4abc)1958 Nash-Metroporitan 1500 Coupe (1959-06 静岡市内)

僕が最初に見た「メトロポリタン」はこの車だった。グリルが横バーから細い格子に変り、ボンネットにあった空気取り込み口は廃止された。後部のトランクはリアシートから出し入れするため開口部はない。バッジはまだ「ナッシュ」だ。

(写真04-5abc)1959 Metroporitan 1500 Convertible   (1961-05 横浜市内・住友銀行横)

1958年エンジンが「オースチンA50」用の1500cc に変り「メトロポリタン1500」となった。バッジは初めて共通の「M」一文字のものとなり、トランクは外部から出し入れが可能となった。

(写真04-6abc)1959 Metropolitan 1500 Convertible  (1989-01 TACSミーティング/明治公園)

バッジもホイールキャップも「M」マークが入った統一「メトロポリタン」だ。

(写真04-7abc)1959 Metroporitan 1500 Coupe (2015-08 厚木・レストラン・グッゲンハイム)

この車はイベントでも1959年と登録しておりリアウインドも1枚でトランクもあり、特徴は合致しているが、バッジは何故か「ナッシュ」が付いている。

  (05)<ミカサ>(日)

この車を造った「岡村製作所」は日本中の何処のオフィスや事務所でも、机やキャビネットなどが必ず見つかる程、事務用品の大手メーかーとして知られているが、この会社もルーツはご多分に漏れず旧「日本飛行機」という、「九四式水偵」や、「瑞雲」など双フローとの水上機を造った飛行機メーカーで、その社員たちが板金加工の技術を生かして米軍向けのスチール家具の製造で基盤を固めた。設立当初から技術顧問として参加していた「山名正夫」は海軍航空技術廠(空技廠)で「彗星」「銀河」を設計したこの道の権威だった。創業は1945年(昭20)10月という事は終戦2か月後の事で、翌年「株式会社岡村製作所」となった。社名は会社の所在地が横浜市磯子区岡村町だったことに由来する。動くものを造りたいという「飛行機屋」の欲望は、中島の「ラビット」や、三菱の「シルバーピジョン」に刺激され、参考にイタリアからスクーターを輸入したが、本体よりもそれについていた「トルクコンバーター」(流体クラッチ)の魅力に取りつかれてしまった。第2事業部として専門に研究開発を重ねた結果、1952年からは国鉄のディーゼル機関車やガソリンカーなどの車両に採用された他、数多くの産業機械に用いられ、後年「マツダR360」にも採用されている。「ミカサ」は1957年5月から60年3月の3年間に約500台が造られた。

・「ミカサ」のネーミングの由来は、海軍出身者の集まりと言えば当然行きつく先は戦艦「三笠」しかない。日本海海戦で連合艦隊司令長官「東郷元帥」が指揮をとった旗艦「三笠」だ。(SCG24号にはスタッフの夫人が「三笠宮妃殿下」のご学友であったことに因んだ命名)、とあったが戦後とはいえ軽々しくそんな恐れ多いことは出来なかった筈で、宮内庁の許可だって必要なくらいの大変なことだから、この説には賛同できない。蛇足ながら歌手「笠置シズ子」は初めは「三笠静子」と名乗っていたが、昭和10年、昭和天皇の末弟が「三笠宮」となられると、恐れ多いからと「笠置シズ子」に改名した程のものだった)  

(写真05-0)「ミカサ」の雑誌広告

「ミカサ」には「サービスカー マークⅠ」(デリバリー・バン)、「サービスカー マークⅡ」(トラック)、「ツーリング」(スポーツタイプ)の3種があった。「前輪駆動」「強制空冷水平対向2気筒」と聞けば想像通り「シトロエン2CV」がお手本で、独特のプレスホイールはそっくり頂きだった。「マークⅡ」については1度も見たことはないが薄い鉄板を波形加工した手法もシトロエン譲りだ。それにしても「ミカサ」は広告を出すほど売れた形跡はなく、最大のお得意さんは「岡村製作所」だったようだ。

(写真05-1a~e)1957 Mikasa Mk1    (1958-04 静岡市両替町/岡村製作所営業所前)

静岡市内に「岡村製作所」の営業所があり、その前には神奈川ナンバーと静岡ナンバーの2台が良く停まっていた。いずれも「静岡営業所」と書かれていたから、1台は本社から貸し出されたものだろう。

(参考05-1de)1957 Mikasa Mk1      (1959-05 静岡市内・駿府公園(駿府城跡)

この写真は静岡市内で撮影したものだが、何処にも「岡村製作所」の名前は入っていないので、もしかすると数少ない一般購入者の車かもしれない。

(写真05-2a)1960 Mikasa Touring  (1959-11 第6回東京モーターショー/晴海)

下から見ると「水平対向2気筒」が良く判る。

(写真05-2bc)1959-60 Mikasa Touring        (1959-06 静岡駅前)

珍しく街中を人を乗せて走っている「ツーリング」の写真だ。

(写真05-2de)1959-60 Mikasa Touring    (1960年 港区内)

「ツーリング」は僅か10台程度しか造られなかったから、街中で出会ったという事はラッキーだった。当時日本には本物の「スポーツカー」は存在せず、「ダットサン・スポーツDC-3」(1952) も名ばかりだったから、見た目ではずっとスポーツカーらしかった。しかし名前を「スポ-ツ」から「ツーリング」に変えて発売したのは、その性能を知り尽くした結果で、賢明な選択だった。トルクコンバーターの付いたスポーツカーでは、素早い加速は望めないからだ。エンジンは空冷 水平対向2気筒OHV4サイクル585cc 18hp 前輪駆動 最高速度90km/hだった。

  (06)<ミラー>(米)

「ミラー」は1920年代から30年代にかけて、アメリカで唯一の「本格的レーシングカー」を造ったメーカーだ。活躍の場が主に「インディ500」だった事や、「市販車」を造らなかった事、戦後姿を消してしまった事などから日本での知名度は殆どない。創立者は「ハリー・アーメニアス・ミラー」で1875年ドイツ系移民の子としてウィスコンシン州で生まれた。1895年からはロスアンゼルスに住み自転車店に勤務、1899年からはサンタモニカで自転車店を開いた。その後あちこちに移り、いろいろ転職を続け、1907年市販の「オールズモビル」を改造して「ヴァンダービルト・カップ」用のレーシング・マシーンを作り上げ、メカニックとしてレースの世界に足を踏み込んだ。その直後、「ミラー気化器」を設立し気化器と燃料ポンプの生産を始めたが、これが高性能でレース仲間の評判となる。このころミラーの工場長は、後年ライバルとなる「フレッド・オッフェンハウザー」が務めていた。1915年持ち込まれた「プジョーL56」エンジンの改良をきっかけに、翌16年には4気筒5リッター16バルブのオリジナル・エンジンを造り上げ、当時の有名ドライバー「バーニー・オールドフィールド」の手で数々のダートトラック記録を樹立し、最高速度172kn/hとその実力を示した。1917年には航空機エンジン「ブガッティ・キングU16」(デューセンバーグがライセンス生産した)の気化器と燃料ポンプに採用されるほど製品の評価は高かった。1920年8気筒5リッターのレーシングエンジンが造られ、このエンジンを積んだ車が249km/hを記録している。1921年には「ミラー」の直列8気筒3リッターエンジンを搭載した「デューセンバーグ」が「インディ500」で7位となり、「ミラー」と「インディ」の長い歴史が始まった。翌年「デューセンバーグ」が優勝し「ミラー」のエンジンに初優勝をもたらした。1923年ルール改正で助手が不要となったためボディはシングルシーターと変わり、排気量は2リッターと変更された。この年から「ミラー」は本腰を入れて「インディ」参加を図り、シャシーも自製する完全なメーカーとなった。この年11台が参戦し1~4位を独占した。その後24、25、27年は「デューセンバーグ」にトップは譲るも、26年から34年まで優勝を独占した。1935年からは「オッフェンハウザー」(オッフィー)が独立して参戦すると、次第に主役の座を脅かされ、38年以降は優勝していない。戦後も参戦したが48年の28位を最後に姿を消した。(その後の「インディ」のエンジンは「オッフィ」一辺倒の時代が続いた)

(写真06-1abc)1923 Miller 122 2.0 Litre  (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

1923年「ミラー」が初めて造ったレーシングカーで、「122」はキュービックインチで、排気量「2リッター」を表す。正面から見ると極端に細身で、シングルシーターの利点を十分に生かされている。

(写真06-2abc)1924 Miller 122 2.0 Litre   (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「ラジエターグリル」と「ホイールカバー」が変わっている他は23年型と変わっていない。

(写真06-3abc)1926 Miller 91 1.5 ℓ S/C (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

1926年からは排気量が1500ccに下げられた。「91」は立法インチ表示で、1490ccに相当する。前年からは「スーパーチャージャー」が導入されたが、エンジンの後部に横向きに収納されており、外からは見えない。

・写真の車は前項の車と外観も③番の番号も同じなので、同じ車ではないかと確認した結果、右側面に赤いラインが入っており、ペブルビーチの車と数日違いで撮影しているので別の車だ。年式についてもプログラムで確認している。

(参考6-3de)1926 Miller 90 1,5ℓ FWD

この年から「ミラー」に「フロント・ドライブ」が登場した。

(写真06-4a~g)1928 Miller 91‘The Derby Miller’  (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)

プロペラにどんな意味があるのかは判らないが、この車は8気筒1.5 ℓエンジンを持つ「フロント・ドライブ」の車だ。「モントレー」と「ブルックランズ」で150マイル近い記録を残し、1935年以来「Eクラス」の記録保持者となっている。この車は他の車と違って排気が「左出し」となっている。

(写真06-5abc)1930 Miller‘Boyle Valve Special’  (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

⑭番の白い車は1930年の「インディ」リストでは「ミラー・エンジン」を積んだ「FWD」の「Coleman」となっている。(写真参照) この車は「FWD」ではなく、排気も「右出し」なので別の車のようだが、詳細は不明。

(写真06-6ab)1932 Miller FWD V8 4.2Litre  (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

V8 4.2 ℓ 350hpの大型エンジンは1932年から37年まで「インディ」に投入されたが34年の9位が最高成績だった。この車も「FWD」で、V8エンジンのため、ラジエター・グリルの幅が従来の較べて広くなっている。

  (07)<ミネルバ>(ベルギー)

日本人の大部分は「ベルギー」と聞いて連想するのは「チョコレート」や「ワッフル」だろうか。昔造っていた超高級車「ミネルバ」と答える人が居たら相当な自動車通だ。「ミネルバ」は自動車に関して言えば1902年から1938年まで存在したベルギーの自動車メーカーだ。創立者はオランダ人「シルヴァン・デ・ヨング」(1868~1928)で、1897年には自転車の製造を始め、1900年にはその自転車に付ける補助エンジンを造り出した。(本田宗一郎が最初に造った「バタバタ」と言われた補助エンジン付き自転車と同じ構造だ)このエンジンは好評で「イギリス」「フランス」「ドイツ」「オランダ」「オーストリア」の他、世界中に輸出された。1902年からは自動車生産を始め、最初の車「ミネルベット」は木製シャシーに4気筒6馬力のエンジン積んだ小型車だった。「ミネルバ」が超高級車と言われるようになるきっかけは、1908年「ナイト・エンジン」のライセンスを取得した事だった。「ナイト・エンジン」とは「ダブル・スリーブ・バルブ・エンジン」の事で、アメリカ人「チャールズ・ナイト」が考案したのでこう呼ばれる。バルブの開閉をスリーブの摺動によって行うため打音が無く静粛性で優れているので高級車に向いており、以後「ミネルバ」に採用されている。ミネルバの顧客には「ベルギー国王」「スエーデン国王」「ノルウエー国王」の他「ヘンリー・フォード」もあった。1920年代から30年代にかけ高級車は順調に生産されて来たが、1930年の世界恐慌は超高級車への風当たりか強く、多くのメーカーが消えていった。「ミネルバ」も例外ではなく、1934年「インペリア」と合併「ミネルバ・インペリアス」となったが、1938年他社に買収され消滅した。昭和の初め日本でも大型の「ミネルバ」を見たという記録はあるが、写真は残っていない。

(写真07-1ab)1906 Minerva Model K40 Tourer (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

車の製造を始めてまだ4年目だが、既に堂々とした高級感あふれるツアラーだ。ラジエターグリルの特徴は既に完成している。エンジンにはまだ「ナイト・エンジン」は採用されていない。

(写真07-2ab)1912 Mineruva 14hp Victoria Tourer (1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)

後席だけに幌を持つ「ビクトリア・ツアラー」と呼ばれる洒落たボディの車だ。すでにかなりの速度で走る事が出来る筈だから風を孕んだ時の抵抗も心配だが、それよりなにより後ろに吹っ飛ばされないのが不思議だ。金具類が全て「金メッキ」されているがこの位の風格のある車には相応しいものだ。エンジンは既に「ナイト・スリーブ」に変っている。

(写真07-3ab)1925 Minerva 30CV TypeAC Town Cabriolet    (2007-04 トヨタ自動車博物館)

6気筒5.3リッターの「タイプAC」は1920年から造られた「ミネルバ」最上位の車で、30CVは課税馬力を表す。「タウン・カブリオレ」は馬車時代の名残を残した形式で、運転席(馭者台)には屋根が無い。

(写真07-3c)1927 Minerva 30CV TypeAC Sedan by LeBaron   (1998-08 ブルックス・オークション)

この当時高級車のボディは専門のボディメーが架装した。この車は有名な「ル・バロン」の手で7人乗り「セダン・リムジン」に仕立て上げられている。1998年この車はブルックスのオークションで約80,000ドルで落札されている。

(写真07-4a)1928 Minerva AF Ostruk All Weather Cabriolet  (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

残念ながら「AF」については資料が無く詳細は不明。

(写真07-5a)1928 Minerva AK D’leteren Freres Berlina   (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

ペブルビーチの展示会は「コンクール・デレガンス」と銘打っている通り毎年出展車は評価を受ける。一見古臭く、見栄えのしないこの車がこの年のトップ賞を獲得した。僕も大した車ではないと思ったからこの写真1枚しか撮っていなかったが、実はこの車は全くのオリジナル状態で塗装も当時のままだったところが評価されてようだ。古い車は磨いては駄目のようだ。

(写真07-5b)1928 Minerva AK Saouchik Torpedo (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

1927年からは30CVが 5.3リッターから6リッターに変り、タイプ「AK」となった。横の人と較べると可成り大きい車だったことが判る。

(写真07-5c)1929 Minerva AK Hibbard & Darrin Town Car (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

この車も「タウンカー」と呼ばれる運転席に屋根が無いタイプだがこちらは客室が完全な箱型だ。この場合運転席の屋根が脱着式の場合もある。客席のシートはモケット張りだが、運転席は皮張りというのが決まり事となっている。

(写真07-5d)1929 Minerva AK Labouedete Faux Cabriolet(1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「AK」シリーズは「ミネルバ」の大型豪華者の中で最も成功したモデルで数も多く、いろいろなタイプが造られた。この車は見た目「カブリオレ」だが、幌は固定式で開閉できない。だから形式名が「Faux Cabriolet」(偽のカブリオレ)となっている。

(写真07-6ab)1928 Minerva AM Derliam Cabriolet   (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「AK」が1927年誕生したので「AM」がそれより後の車だろうと推定するが、資料が全く見つからず排気量や課税馬力は不明。

(写真07-7a)1930 Minerva AL D’leteren Freres Coupe  (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

(写真07-7bc)1931 Minerva AL VandenPlas Coupe Chauffeur(1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

1930年からは、直列8気筒6.6リッターの「AL」(32CV)が登場した。そのエンジンがこれで、すっきりした中にも気品が感じられる。

(写真07-8abc)1932 Minerva AKS 32CV Coupe (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)

最後に登場するのは、この豪華なシャシーに贅沢な「2シーター・クーペ」だ。前オーナーは「クロスターフラウ」(ドイツの薬用酒)の社長と説明されていた。トランクの場所は「ランブル・シート」らしいが、取っ手の位置から推定すると前ヒンジで背もたれにはならない。(後ろ向きに座るか?)下に小さいトランクが有るが大きな荷物は入らないから、左右のフェンダーに「巨大な箱」が付いている。個性的ではあるがクーペの軽快なスタイルには大きなマイナスだ。

  (08)<ミラージュ>(仏)

「ミラージュ」と言う車は英国に在る「JWオートモティヴ・エンジニアリング」が造ったレーシングカーだが、実質は「フォードGT40」をそのまま引き継いだ後継車だ。従って、その歴史は「フォードGT40」から始めなければならない。発端はアメリカのフォード本社が、「ル・マン」での優勝を狙って、常勝「フェラーリ」を買収しようとして失敗した1963年から始まった。止む無く自前で車を造るため、イギリスの「ローラ」に協力を求め、新たに設立した「フォード・アドバンス・ビークルズ」(FAV)で「ローラ・マーク6」をベースとして造り上げたのが「GT40」となった。「FAV」はフォード本社の体制見直しで1966年末で解散し、解雇された「ジョン・ワイヤー」は旧知の「ジョン・ウィルメント」と共同で「FAV」を買い取り1967年「JWオートモティヴ・エンジニアリング」(JWA)を設立した。因みに社名の「JW」は創業者2人の頭文字が偶然同じだったことに起因する。1967年独立した「JWA」は「ガルフ石油」の資金援助を受け、「GT40」をベースにした「ミラージュM1」を開発し「ル・マン」の予備テスト・デイに「フォードGT」として試走したが本番では出走していない。

(写真08-0a)1965 Ford GT40 MkⅠ

(写真08-1a~f)1967 Mirage M1  (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

「MⅠ」は「ミラージュ」と命名された最初の車だが、実質「フォードT40」と瓜二つだ。(参考に写真を添付した)この年「スパ・フランコルシャン1000キロ」で優勝している。

(写真08-2a)1972 Gulf-Mirage M6   (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

1972年「グループ6」のレギュレーションが「3リッター」に変更されたので、「ミラージュ」では、デチューンした「コスワースDFVフォミュラー1エンジン」を搭載した「「M6」を開発し、最初の一台は3月の「セブリング12時間」に間に合った。2台目以降はシーズン中に順次完成し合計では5台造られ、6戦戦ったが、「グレン耐久6時間」の3位が最高で、その他4位が2回のみで結果は残せなかった。5台中4台は翌年の「GR7」に生まれ変わった。

(写真08-3abc)1973 Mirage-Ford GR7  フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

1973年の「ミラージュ・フォードGR7」は全8戦に参戦しスパ・フランコルシャン1000キロ」で1-2を獲得した他、4位2回、5位3回を獲得し、年間ランキングでは4位となっている。

(参考08-4ab)1975 Gulf Mirage GR8

「ミラージュ」が姿を消す前、最後のひと花を咲かせた車が「GR8」だ。世界的不況や、スポンサー「ガルフ石油」の都合もあり本来は前年で会社を解散するところだったが、体制を大幅に縮小し「ル・マン」1本に絞っての参戦だった。前年の「GR7」3台は売却され、新たな「BR8」の開発資金に充当され2台のマシーンが完成した。レースの結果は⑪番(デレック・ベル/ジャッキー・イクス組)が優勝、⑩番が3位に入賞した。

  (09)<水野三輪車>(日)

(写真09-1a~f)1937 Mizuni Three-Wheeler    (2012-04 トヨタ自動車博物館)

日本では昭和の初めころから、昭和30年代の半ばころまでトラックの仲間に「オート3輪」と呼ばれる、前1輪の3輪トラックが存在していた。(前2輪は存在しなかった)4輪トラックに比べて価格も安く、狭い道でも小回りが利くため、日本にはぴったりの乗り物だった。その中で1つだけ仲間とは全く違った構造を持ったのが写真の「水野式自動3輪車」だ。写真で見ても判るように、前輪周りが無暗と騒がしい。それもその筈で、前輪に走るための動力装置一式がはめ込まれているからだ。エンジンは水冷 単気筒500cc 4サイクルで、燃料タンクと共に右側に、トランスミッションは左側に配置されており、かなりの重量が駆動輪である前輪にかかるためソリッド・タイヤが使われた。1937年には362台が造られたと記録されている。

・この車については僕の記憶の中にかすかに残っていることがある。静岡市内である大きな鉄工所の経理を担当していた父が、普段は電車で通勤していたが、ある日現場の人が運転するオート3輪の助手席に乗って帰って来た。4歳か5歳だった僕の印象は「足が機械に食いつかれそうで怖かった」と思った事だった。

 

 (10)<モナコ>(伊)

(写真10-1abc)1935 Monaco-Trossi    (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

飛行機に車を付けたような、奇妙なこの車は「グランプリ・レーサー」として造られた。特徴あるエンジンは2重星型 空冷16気筒3982cc 250hpで、「フィアット」製だというから、飛行機用からの転用かもしれない。これを造ろうと思いついたのはアルゼンチン生まれでトリノに移住してきた「アウグスト・モナコ」(1903~97)で、それまでに小型のレースカーを成功させていたが、大型のグランプリカーを造る野望を持っていた。フィアットに認められその支援でエンジンを手に入れたが、テストの段階で多くの問題が発生しフィアットは支援を打ち切ることになり、新たに手を組んだのがアルファロメオのドライバーとして既に実績を上げていた「カルロ・フェリーチェ・トロッシ伯爵」(1908~49)で、資金面の支援を受けることになった。1935年7月車は完成し「イタリアGP」の為のテスト・デイでデビューした。モンッア・サーキットで240km/hを記録し、「イタリアGP」にエントリーはしたものの、同時にこの車の決定的な問題点が明らかになった。一つは深刻なオーバーヒートで、加熱によってスパーク・プラグが破壊される事態が発生した事、もう一つは操縦性で、見た通りの頭でっかちだからフロント75%、リア25%の重量配分は極端なアンダーステアで、レースではあまり危険という事で出走は取消された。 斬新なアイデアではあったが「失敗作」であった。

                                                                                                                                                                 

  (11)<モレッティ>(伊)

復刻版「ミッレミリア」では毎回初めて聞く名前の小型スポーツカーが参加して来る。どれもイタリア製だ。これは「フィアット」がベースとなる車を提供してくれるからで、好みのボディを造って適度にチューンすればローカルレースには参加できるから、個人単位の「メーカー」が多発するわけだ。僕が初めて「モレッティ」を見たのは1962年で、このころは既に「フィアット」ベースのメーカーに変っていたから多くの小規模メーカと同列に見ていたが、「モレッティ」は歴史のある立派な自動車メーカーだった。1925年「ジョバンニ・モレッティ」が創業しオートバイ製造から始まった。1930年代にはオートバイエンジンを利用した小型4輪車を始め、小型トラックや商業車で成功した。戦時中ガソリンが不足していた時代には電気自動車も製造した。戦後1946年から造られたのが「チタ」(Cita)で、これが「600」「750」と発展して「ベルリーナ」「クーペ」「エステート」「タクシー」から「レーシングカー」まで多くのバリエーションが生まれた。しかし1950年代半ばになると、「モレッティ」の半額で売る「フィアット600」が出現すると、とても対抗できず、自社製を諦め、「メーカー」から「カロセリア」に転身し、「フィアット・ベース」に気の利いたボディを造る会社となった。

(参考11-0a)1948 Moretti Cita 350

(参考11-0b)1952 Moretti 600 Giardinetta

この2枚の写真はモレッティが自前の車を造っていた当時の証拠写真だ。「Cita」の排気量は僅か350ccだったから、日本の初期の軽自動車(360cc)並みだった。

(写真11-1a~d)1954 Moretti 750 Sport (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)

「モレッティ」が「フィアットベース」で車を造るようになったのが何時なのか資料からは確認できなかったが、多分1959 年ころと推定した。この車は年代から「モレッティ」製のスポーツカーだ。

(写真11-1efg)1954 Moretti 750 Special Spider  (1994-11 京都ホテル前のミーティング)

1954年型のこの車は1956年の「ル・マン24時間」に参戦した車だ。この年「モレッティ」は㊼、㊽の2台が出走したが㊼(この車)はイグニッション・トラブルで23周でリタイヤしている。すべてが「モレッティ」製で「Moretti-Torino」と刻まれたエンジンは 水冷4気筒 DOHC 747cc 71hp/7000rpm 最高速度145kn/hだった。

(写真11-1h)1954 Moretti 750 Special Spider (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)

3台造られたこの車の2台目も日本にあった。均整の取れたスタイルには破綻がないのだが、ドライバーと較べると如何に小さいかが判る。ホイールベースは1880mmで、日本でおなじみの「ホンダS600」が2000mmだから120mmも短い。イタリア・スポーツカーの通例として、ボディが浅くドライバーの上半身がむき出しだ。

(写真(11-1ij) 1954 Moretti 750 Sport Zagato  (2010-07 東京コンクール・デレガンス/お台場潮風公園)

楕円の上に出っ張りがある「凸型」のラジエター・グリルは、1950年代の「モレッティ」の顔だ。ベースは4人乗りの「ベルリーナ」だが、「ザガート」が手を加えた事で「スポルト」の名前が付けられたようだ。

(写真11-2ab)1954 Moretti 1200 Sport Vignale Spyder (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

「モレッティ」が1950年代にすべてを自製した車は「チタ350」「600」「750」1200」「1500」で、それ以降は「フィアット・モレッティ」となる。この車は「1200」を「ヴィニアーレ」が手掛けたスパイダーだ。

(写真11-3ab)1956 Moretti 1500 Sport    (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)

この車は「モレッティ」が造った最大の排気量を持つ車だ。ドアの後ろにバッジが付いているので、どこかのカロセリアが手掛けたかと思ったが、バッジは「モレッティ」の物なのでこのボディは自前のようだ。

(写真11-4abc)1962 Moretti 1100 Coupe    (1962-05 輸入外車ショー/二子玉川園)

この車は僕が初めて見た「モレッティ」で、既にベースは「フィアット」に変っている。ベースとなったのは1960-62年の「1100」(ヌオーヴァ・ミッレチェント)で、その変身ぶりをご覧いただきたい。

(写真11-5ab)1968 Moretti Sportiva(Fiat 850)  (1995-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

この車のベースは「フィアット850クーペ」で後ろ姿には可成り面影が残っている。しかも、「Moretti-Fiat 850」とはっきり素性を表示している。

 

  (12)<モスクビッチ>(ソ連)

ソ連は戦前から自動車生産国ではあったが、乗用車については「GAZ A」(1932 フォードA)、「GAZ M-1」(1936 フォードB)、「KIM-10」(1940 フォード・プリフェクト)、「ZIS 110」(1945 パッカード180)、「ZIM」(1948 キャディラック)など、いずれも既存の車をそっくりそのまま組み立てたもので、独自の設計で造られたものではなかった。

(参考12-0a)1938-40 Opel Kadett Special

(参考12-0b) 初代Moskvich 400

「モスクビッチ」については、第2次大戦後、ソ連の管理下に入った「東ドイツ」にあった「オペル・カデット」の工場を賠償の名目でそっくりモスクワ近郊に運び、1940「カデット」を初代「モスクビッチ400」として生産した。

(写真12-1ab) 1965 Moskvich 408    (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

写真の「408」はその3代目となる車で、50年代後半に世界的に流行した「テールフィン」が付いているのは輸出を意識したものだろうか。

―― 次回はマツダの予定です ――

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