第127回 M項-18「マクラーレン」(英)

2024年1月27日

この名前を聞けば1980年代後半から90年代初めにかけて「ホンダ・エンジン」を積んだ赤/白の「マールボロー・カラー」のF1カーと「アイルトン・セナ」の圧倒的強さを思い出す。「フェラーリ」や「メルセデス」など市販車メーカーと違って、「クーパー」「ブラバム」「マクラーレン」は「フォミュラー・カー」が主力のコンストラクターとして知られていた。創立者は曾祖父の代にスコットランドから移民したニュージーランド人「ブルース・レズリー・マクラーレン」(1937~70)で、ガソリンスタンドと修理工場を経営する父がチューンアップした「オースチン7」に乗ってローカルレースで優勝したのをきっかけにレースにのめり込んでいった。21歳の時イギリスへ留学する奨学金のかかったレースで優勝し、レースの本場イギリスでは「F2」に参戦して腕を磨いた。1958年8月の「ドイツGP」は参加台数が少なく「F1」「F2」混合でレースが行われたが、「ブルース・マクラーレン」は「クーパー」から「T45 1.5 ℓ F2」のマシ‐ンに乗って参戦し、「F1」を含む26台中「総合5位」(F2では1位)を獲得している。因みに「クーパー」のF1マシーンは同じ「T45」のシャシーに2.2 ℓエンジンを搭載したものだった。「クーパー・チーム」には1958年から65年まで在籍しT44,T45,T51,T53 T55, T58, T60, T66,T73,T77と乗り継ぎ、その間に優勝3回、2位7回、3位10回と実績を上げている。

・1959年からは「F1」に昇格し、最終戦「アメリカGP」で初優勝、22才104日は最年少記録として43年間破られなかった。 .

(参考00-1abc)1957 Cooper T43 F2 /1958 Cooper T45 F1

この時乗った車は「クーパーT45 1.5 ℓ F2」だったが、この時期の「クーパー」は同じシャシーにエンジンの排気量の違いで「F1」「F2」を使い分けていたので写真では見分けがつかない。

(参考(00-2a) 1962 Cooper T60 F1

写真は第1戦「オランダGP」で⑥番は「ブルース・マクラーレン」の車だ。第2戦「モナコGP」では,この車で「優勝」している。

<マクラーレン、コンストラクターとなる>

「クーパー・チーム」には1965年まで在籍したが、1957年のミドシップの成功と言うアドバンテージを武器に新規開発には保守的なチームの姿勢に疑問を感じていた「マクラーレン」は、1963年仲間と共に「ブルース・マクラーレン・モーターレーシング」と言うプライベート・チームを立ち上げ、クーパーのマシーンで参戦し64年には「タスマンシリーズ」のチャンピオンとなっている。

・1966年「クーパー」から独立し、自らマシ‐ンを製造する「コンストラクター」としてスタートを切った。(コンストラクターと言うのは「メルセデス」や「フェラーリ」のようにエンジン/シャシーをすべて自社で完成させるのではなく、「シャシ-」のみの開発を行い、エンジンは別途に調達する、「シャシー製造メーカー」をいう)

(参考01-1a)1966 McLaren-Ford M2B

マクラーレンとして始めてF1 にデビューしたのがこの車「M2B」で、1966年5月の開幕戦「モナコGP」だった。②番のブルース・マクラーレンは予選10位で決勝に臨んだが、9周目にオイル漏れでリタイアした。このレースには21台がエントリーしたが、決勝で完走したのは僅か4台だった。余談だが、このレースでは映画「グランプリ」の撮影が行われ、「マクラーレン」は三船敏郎が演じる日本チーム「ヤムラ」のマシーンとして登場している。

(写真01-4~d)1969 McLaren-Cosworth M7C  (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

前年の1968年第4戦「ベルギーGP」で「M7A」がF1初優勝しており、69年も「M7A」を中心にレースが、行なわれた。「メキシコGP」では「デニス・ハルム」が優勝したが、「M7C」で参戦を予定した「ブルース・マクラーレン」はエンジン不調でスタート出来なかった。しかし年間を通した成績では11戦中8回入賞し、2位1回,3位2回,4位2回,5位3回と26点を獲得し、ドライバーズ・チャンピオン・シップでは3位となっている。空力に対する試行錯誤の時代でフロントの高い位置にもウィングが付いているのは珍しい。

(写真01-5ab)1969 McLaren-Ford M9A (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

この車はF1としては珍しい「4輪駆動」だが、レースでの結果は残っていない。

(写真06-1a)1970 McLaren M8D (Can-Am) (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

1970年は「マクラーレン・チーム」にとっては大きなショックを受けることになった。6月2日グウドウッド・サーキットでCan-Am用「M8D」をテスト中、マシントラブルが原因で起きたクラッシュで御大「ブルース・マクラーレン」が死亡してしまった。32才だった。(写真は事故を起こした車と同型車)

(写真01-6b)1970 McLaren-Cosworth DFV M14A(1998-08 ブルックス・オークション/カリフォルニア)

「ブルース・マクラーレン」亡き後も、チーム運営は「テディ・メイヤー」によって引継がれ、F1をはじめ Can-Am、インディなど各種レースには従来通り参戦を続けた。「F1」ではニューモデル「M14A」が投入され「デニス。ハルム」が2位1回、3位3回、4位3回で27ポイント獲得してランキング4位に入った。

(写真01-11abc)1973 McLaren-Cosworth DFV M23     (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

第3戦「アフリカGP」からくさび型のニューマシン「M23」が投入され、デニス・ハルムは初めて「ポール・ポジション」を獲得した。この年からお馴染みの赤白「マールボロ・カラー」が長く続くことになる。

(写真01-19ab)1980 McLaren-Ford-Cosworth DFV M29C (2001-05 モンツァ・サーキット/イタリア)

「Ford・Cosworth DFVエンジン」は 1968年「M7A」から採用され、83年「MP4/1C」まで 15年間マクラーレンの心臓として働き続けた。V8 DOHC 4バルブ 2993cc  F1通算155回(全メーカー合計)の優勝を上げたレーシングエンジンの傑作だ。「DFV」は「Double Four Valve」の頭文字から付いた略称だ。

(写真01-25ab)1985 McLaren-TAG MP4/2B       (1998-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

・全く新しい「カーボンファイバー/モノコック」ボディは「ジョン・バーナード」の設計により1981年デビューし、「MP4」シリーズがスタートした。「MP4」は「Marlboro Project 4」の略とされ、マールボロとの契約終了後は「McLaren Project 4」と読み替えられている。「MP4/1」は「イギリスGP」で4年ぶりに優勝し、戦闘力を取り戻した。

・翌82年には「MP4/1B」となり、ドライバーに「ニキ・ラウダ」を得て「4勝」を挙げた。

・1983年シャシーは「MP4/1C」となったが、無過給3ℓの「フォードDFVエンジン」は、1.5ℓのターボ・エンジンに追い上げられ、第2戦「アメリカGP」での1勝に留まり、「モナコGP」では予選落ちだった。無過給3ℓDFVエンジンに見切りをつけた「マクラーレン」は、共同オーナー「マンスール・オジェ」の投資グループ「TAG」(Techniques d’Avant Garde)からの資金援助を受け、「ポルシェ」にターボエンジンの開発を依頼し、完成したのが「TAGポルシェTTE PO1」(1409cc V6 ターボ)だった。このエンジンを搭載した「MP4/2E」は83年シーズン12戦から投入されたが最終15戦で11位となった以外完走できなかった。

・しかし1984年には見違えるような変身を見せ、以後ぶっちぎりの強さを見せ付けた。新設計の「P4/2」シャシーに、「アラン・プロスト」「ニキ・ラウダ」の2人の名ドライバーを得て、何と16戦中12回優勝、その内訳は「プロスト」7勝、「ラウダ」5勝だった。

・写真の車はその翌年1985年の「MP4/2B」で①番はニキ・ラウダの車だ。車両規定合わせてボディの付属品など一部を修正しただけで前年の「MP4/2」がそのまま使われている。従って栄光ある「MP4/2」は現存しない。「マクラーレン」は2年連続して「コンストラクターズ・チャンピオン」を獲得、「アラン・プロスト」も「ドライバーズ・チャンピオン」となったが、昨年ほどの勢いはなく、特に「ニキ・ラウダ」は優勝1回,4位1回,5位1回,リタイヤ13回と不振で,シーズン後引退を声明した。この年「ウイリアムス」と組んだ「ホンダ」が登場している。

(写真01-27a~d)1988 McLaren-Honda MP4/4    (2010-7 ビューリー博物館/イギリス)

1988年いよいよ「マクラーレン-ホンダ」の黄金期を迎える。新設計の「MP4/4」に「ホンダRA168 E」(1.5 ℓV6ターボ)エンジンを搭載し、⑪アラン・プロスト、⑫アイルトン・セナと最強のドライバーを揃えた結果は、予想にたがわず、16戦15勝と他を寄せ付けないほぼ「完全優勝」だった。優勝を逃した「イタリアGP」も終盤までトップを走っていた「セナ」が周回遅れと接触しリタイア(完走扱い10位)した為だった。15勝の内訳は「セナ」8勝、「プロスト」7勝だったが、1、2フィニッシュも10回を数えた。写真⑪番はプロストの車。

(写真01-27efg)1988 McLaren-Honda MP4/4  (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)

⑫番は「アイルトン・セナの車で、グッドウッドで撮影したものだが、ボディを外し、頑丈そうな「モノコックシャシー」がむき出しになっている珍しい姿だ。

(写真01-27hij)1988 McLaren MP4/4  (2019-10 東京モーターショー/東京ビッグサイト)

前項と同じ「セナ」の車で、この年「ドライバーズ・チャンピオン」となった車だ。

(写真01-28ab)1989 McLaren-Honda MP4/5 (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)

前年でターボエンジンが廃止され、1989年からは「自然吸気3500cc以下」とレギュレーションが変更されそれに対応するため新たに開発されたホンダエンジンが「RA109E」(水冷V10 DOHC 4バルブ3498cc 600ps/12,000rpm)だった。車番は前年のチャンピオン「セナ」が①番、「プロスト」が②番を与えられた。年間の結果しては「セナ」優勝6回,2位1回(60ポイント)、「プロスト」優勝4回,2位6回(76ポイント)チームとしては16戦10勝(1,2フィニッシュ4回)で、前年を下回るとはいえ「コンストラクターズ」「ドライバーズ」の両タイトル獲得し好調だった。しかし「セナ」と「プロスト」はチームメイト同士でチャンピオンを競り合うため無理な追越しが重なり亀裂が生じていた。最終戦の一つ前「日本GP」を向かえた時、両者の得点差は6点で「セナ」が優勝して9点を獲得すれば逆転もありうる関係だった。この状態でレースはスタートし、残り6周となった47周目、ウイングを寝かせてストレートで稼ぐセッティングの「プロストに対して、ハンドリング優先の「セナ」は、130Rのシケインでブレーキを遅らせプロストのインに飛び込んだ。すかさずプロストもインに切り込み両者は接触し停車した。プロストはそのままリタイヤしたが、セナはコースマーシャルの助けを借りレースに復帰するもこの時シケインを通過して居なかった。最終的にはトップでゴールしたが、プロストの抗議で審議した結果「レギュレーション違反」(シケイン不通過→押し掛け)で失格となった。最終戦でセナがリタイヤしため「プロスト」のチャンピオンが決定したが、プロストはマクラーレンを去りフェラーリへ移籍した。

(写真01-29abc)1992 McLaren MP4/7  (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)

・1990年から「プロスト」の後には「ゲルハルト・ベルガー」が加入した。

・1991年からは新エンジンが投入された。「ホンダRA121E」(水冷75°V12 DOHC 4バルブ3497cc 650ps)で、この勢いをもらった「セナ」が開幕4連勝を含む7勝(2位3回3位2回)96ポイントでチャンピオンとなったが、中盤以降「ウイリアムス」の「ナイジェル・マンセル」が猛烈な追い上げを見せ5勝をあげている。

・1992年は写真の車で、第3戦「ブラジルGP」から投入された「MP4/7A」は「セミ・オートマ」と「ドライブ・バイ・ワイヤ」(コンピュータ制御によるアクセルシステム)をF1史上初めて採用したハイテク・マシーンだった。しかしこの年の「ウイリアムズ」勢は圧倒的に速く、「ナイジェル・マンセル」は開幕5連勝含む9勝(2位3回,あと4回はリタイヤ)を挙げ108ポイントでチャンピオンとなり、2位も「ウイリアムズ」の「リカルド・パトローゼ」(56ポイント)が入った。後年名ドライバ-となる「ミハエル・シューマッハ」がデビュー戦でいきなり優勝してランキング3位(53ポイント)に入っている。一方「セナ」は優勝3回(2位1回,3位3回)で50ポイントの4位、「ベルガー」は優勝2回(2位2回,3位回)で49ポイントの5位だった。優勝したレースも「ウイリアムズ」のトラブルやリタイヤの隙を突いたもので、戦闘力では歯が立たなかった。「ホンダ」はこの年をもって第2期F1活動から撤退することを公表していた。

(写真01-39ab)1998 McLaren-Mercedes MP4-13  (2010-07 ビューリー博物館/英国)

・1993年「ホンダ・エンジン」を失った「マクラーレン」はカスタマー仕様の「フォードコスワースHB」を搭載した。(ワークス仕様は「ベネトン」が独占していた)

・1994年にはV10「プジョーA6」エンジンに変わったが信頼性が低く、この年は1勝も出来ず、1年限りで契約は打ち切られた。

・1995年エンジンは「メルセデスFO110」に変るも、優勝無し。

・1996年エンジンは変わらず、ドライバーは「ミカ・ハッキネン」「デビッド・クルサード」体制となり2001年まで続く。この年も最高位は3位どまりで優勝無し。「マールボロ」とのスポンサー契約が打ち切られ、赤白カラーはこの年が見納めとなった。

・1997年、新たなスポンサーにはドイツのタバコ会社「West」(ヴェスト)を獲得した。レース結果は「クルサード」2勝、「ハッキネン」1勝(初優勝)だった。エンジン自体は強力だがトラブルが多かった。

・1998年は写真の車で「Westカラー」に変身した。「エイドリアン・ニューウエイ」が加入して開発した「MP4-13」は、一気に戦闘力を高めたマシーンとなった。「ブレーキ・ステアリング・システム」を搭載し、開幕戦でいきなり3位以下を周回遅れにして1-2フィニッシュし他を圧倒したが、「フェラーリ」からの抗議でこのシステムは使用禁止されてしまった。その仕組みは「旋回時内側の後輪にブレーキをかける」と言うもので、その結果頭が回りやすくなるという事のようだ。(僕個人の解釈では、戦車が方向転換する時に左右のキャタビラの速さを変えて頭を振る原理と似ているかな)禁止された第2戦以降も「マクラーレン」の早さは変わらず、「ハッキネン」は①②⑤⑥⑩⑪⑮⑯戦で万遍なく優勝を重ね、8勝して100ポイントを獲得しチャンピオンとなったが、「フェラーリ」の「シューマッハ」の追い上げも厳しく③⑦⑧⑨⑫⑭とマクラーレンが優勝しなかったレースの全てを1人で優勝し6勝をあげている。

(写真-01-41a)1999 McLaren-Mercedes MP4-14    (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)

「MP4-14」は速いが信頼性が低い車だった。「ハッキネン」は16戦中11回ポール・ポジションを獲得しながら、決勝ではマシントラブルで5回リタイヤし、優勝に繋がったのは5回しかなかった。ライバル「シューマッハ」は第8戦でクラッシュし骨折で戦線から離脱したが、「フェラーリ」の2番手だった「エディ・アーバイン」が、しぶとく得点を重ね、第9戦、第10戦で優勝しポイントリーダーとなっていた。最終戦「日本GP」で「ハッキネン」が優勝し、4ポイント差をひっくり返してチャンピオンとなった。

(写真01-43a)2001 McLalen-Mercedes MP4-16    (2001-10 東京モーターショー/幕張)

(写真01-44a)2001 McLaren-Mercedes MP4-16    (2002-02 レトロモビル/パリ)

レギュレーションの変更に合わせ「MP4-16」は完全に新設計されたマシーンとなった。「クルサード」は優勝2回65ポイントでランキング2位、「ハッキネン」は優勝2回37ポイントで、ランキング5位に留まったが、チャンピオンとなった「シューマッハ」は優勝9回で123ポイントと大量得点で、シューマッハ時代が始まった。

「ミカ・ハッキネンン」はこの年限りでF1を引退した。 .

(写真01-46ab)2006 McLaren-Mercedes PM4-21    (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)

エンジンのレギュレーションが変更され「V8 2.4 ℓ」となったので、マクラーレンでは「メルセデスFO 108S」に変わったが、新エンジンの熟成が進まず戦闘力はいまいちで2位止まりで優勝は無し。

(写真01-47abc)2009 McLaren PM4-24      (2009-11 東京モーターショー/ビッグサイト)

「ロン・デニス」はこの年チーム代表から退き、市販車部門「マクラーレン・オートモーティブ」の会長に就任した。F1のチーム名は「ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス」と変わっており、ドライバーは「ルイス・ハミルトン」と「ヘイキ・コバライネン」で、「ハミルトン」が優勝2回、2位1回、3位2回で49ポイントを獲得しランキング5位となった。

(写真01-48a~d)2016 McLaren-Honda MP4-31 (2017-01 東京オートサロン/幕張)

・2015年「ホンダ」がF1に復帰し「RA615H」(V6 1.6 ℓターボ)が登場した。

・2016年もエンジンは変わらないが、まだ力は発揮出来ず、最高5位止まりだった。

 

<ストリート・バージョン F1 GTR

国際レース「F1」に因んだスーパーカー「F1」は、それまでレーシングカー一筋のコンストラクター「マクラーレン」が初めて手掛けた「ロードカー」で、1992年から98年までに106台が造られた。内訳は「プロトタイプ」5台、「ノーマル・タイプ」64台、「GTR」(レーシングモデル)28台、「LM」6台、「GT」3台だった。ドライバーを中央に置いた3シーターで、ドアは斜め上方に跳ね上がる「バタフライ・ドア」、「F1レーシングカー」と同じ軽量、強固なカーボンファイバー製のシャシーに搭載するエンジンは、当時 F1レースで提携していた「ホンダ」に12気筒の開発を打診したが不調に終わり、最終的には、かつて「ブラバム」時代の同僚で現在「BMW」に所属している「パウル・ロシェ」の手で造られた。エンジンは、「S70/2」(60°V12 DOHC 48バルブ6064cc 627ps/7400rpm) で、全長約60センチとコンパクトに纏められ、断熱材として16gの金箔が使われている。加速性能はすざましいものがあり0~100キロ 3.2秒、最高速度は1998年ドイツで記録された時速386.4キロ(往復平均)だったが、復路では時速391キロを出している。

(写真01-50abc)1995 McLaren F1 GTR   (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド

写真の車はレーシング仕様の「F1 GTR」で、1995年「ルマン4時間レース」に初参加で初優勝した車だ。マクラーレンとしては当初6台の参加予定だったが、日本の「上野クリニック」をスポンサーに1台追加された。車を新しく作る余裕が無かったので、走行可能だったプロトタイプ「01R」をレース仕様に仕立てての参加だった。他の6台はプライベート・チームだったが「国際開発チーム」(上野クリニック)は現地でのマネージメントは「マクラーレン」が行ったので、実質「ファクトリー」と変わらなかった。ドライバーは「J.J.レート」「ヤニック・ダルマス」「関谷正徳」の三人で、関谷は日本人初の「ルマン・ウイナー」となった。「マクラーレン」は圧倒的に強く、2位はポルシェ935」に譲ったが、①③④⑤と上位を独占した。

(写真01-50def) 1995 McLaren F1 GTR   (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド

この車のオーナーは「ニック・メイソン」と書かれていた。この人はイギリスのロックバンド「ピンク・フロイド」のドラマーが本業だが、自動車好きでフェラーリのコレクターとしても知られている。それだけでなく自らハンドルを握って「ルマン」に出場、1979年⑱位、1980年㉒位で完走している。

(写真01-50ghi)1995 McLaren F1 GTR  (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

(写真01-51a~d)1997 McLaren F1 GTR   (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド

1997年型は空力を考慮しボディの前後が延ばされ、「ロング・テイル」と呼ばれる。ドアは「メルセデス」のガルウイングと較べると、前方へ大きく跳ね上がり、センター・シートへの乗り込みを助けている。

(写真01-52ab)1995 Mclaren F1    (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

リアにウイングの無い「ノーマル・バージョン」のロードカーだが、時速300キロは余裕だ。

(写真01-52c~f)1993~98 McLaren F1    (2016-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)

この車の年式に付いては、公式プログラムでも「1993~」と表示され特定されていなかった。リア・ウイングが無くノーマルのロードバージョンと思われる。発売当時でも1億円を超えていた価格だが、2021年アメリカで行われたオークションでは約22億5千万円で落札されたとのことだ。

   <2000年以降の市販車>

スーパーカー「F1」以後、小規模ながら「ロードカー」も市販する「マクラーレン」の、最近の車を参考に掲載した。特に解説は付けませんので進化をご覧ください。

(写真11-1a~f)2011-McLaren MP4-12C   (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

(写真15-1a~e)2015 McLaren P1       (2015-10 東京モーターショー/ビッグサイト)

(写真16-1abc)2017 McLaren 570 GT   (2016-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

(写真19-1a~e)2013 McLaren MP4-12C GT-3   (2019-01 東京オートサロン/幕張メッセ)

(写真19-1f~i)2019 McLaren MP4-12C Spider  (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)         

(写真19-2a~e)2019 McLaren 720S Spider    (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

(写真19-3a~d)2020 McLaren Senna    (2019-10 東京モーターショー/ビッグサイト)

(写真20-1abc)2020 McLaren 570 S     (2020-01 東京オートサロン/幕張)

(写真20-2abc)2020 McLaren 675 LT  (2020-01 東京オートサロン/幕張)

(写真20-3ab)2020 McLaren 720S   (2020-01 東京オートサロン/幕張)

(写真20-4a~d)2020 McLaren GT   (2020-01 東京オートサロン/幕張)

(写真20-5abc)2020 McLaren 720 S  (2020-01 東京オートサロン/幕張

―― 次回は「マーサー」「メッサーシュミット」「ミネルバ」他の予定です ――

 (お詫び・前回予告した車種で「マクラーレン」以外は次回なりました。)

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