第121回 M項-12「メルセデス-ベンツ・1」(独) 創生期~合併まで (1895~1925)

2023年7月27日

(00)1923 Benz 10/30HP

日本では「メルセデス・ベンツ」を呼ぶときに、フルネームで呼ぶ人は殆どなく「ベンツ」が一般的だが、欧米では「メルセデス」が一般的な呼び名と言われる。この「ベンツ」という名前はわが国では「ロールス・ロイス」と並んで高級車の代名詞として良く登場するが、ヨーロッパでは、もちろん高級車という認識はあるが、庶民から見ればタクシーにも多用され、特に高級車扱いではなく普通の車と受け止められているようだ。

・今回は創成期から合併までを対象としたが、「ダイムラー」については「Mベース」第50回 D項-3 「ダイムラー」(https://www.mikipress.com/m-base-archive/2017/01/50daimalrd.html)にて詳記してあるので、そちらをご参照ください。

<ベンツ>

(写真00-0) Karl Benz (1844~1929)

後に合併する「ダイムラー」と「ベンツ」はシュトゥットガルトとマンハイムという僅か150キロと離れていない所で、ほぼ同時にガソリンエンジンの開発をし、エンジンの付いた乗り物を発明したのは不思議な因縁だ。カール・ベンツは1844年11月25日、ドイツ南西部にある扇状都市として有名な「カ-ルスルーエ」の近郊のミュルブルクで生まれた。先祖代々「鍛冶屋」で「町長」を務めてきたというから、物造りの血筋は先祖から受け継いだものだろう。父親の「ハンス・ゲオルグ・ベンツ」も鍛冶屋を継いだが、当時最先端の鉄道に目を向けカールスルーエ鉄道で花形の「機関士」となっていたが、カールが誕生する4ヵ月前に病死し、カールは母親の手で育てられた。学校では「数学」「科学」「機械工学」を得意とし、19歳で「数学」と「機関設計」の学位を得て「カールスルーエ・ポリテクニクム」を卒業し、そのまま「カールスルーエ機械工場」に就職するも労働条件が悪く2年で退職した。1971年には友人と共同出資でマンハイムに工場を買ったが、早々に友人が手を引いてしまい、止む無く残りの半分も買い取った。その資金は資産家の娘で後に結婚する「ベルタ」の父の援助によるものだった。この工場では「ブリキ工作用の工具」を製造したが、成績は上がらず、あわや倒産かと追い詰められ会社経営から手を引き、内燃機関の研究に専念することになった。丁度その頃「オットー」が4サイクル・エンジンの特許を取得したばかりだったので、「ベンツ」はそれとは別の「2サイクル」を開発することにした。2サイクル・エンジンの原理についての特許は1878年「デューガルド・クラーク」がすでに取得していたが、シリンダーとは別に「混合器圧縮気筒」が必要で実用には程遠いものだった。「ベンツ」は混合気を送り込む前に新鮮な空気で燃焼ガスを掃気する、後年「スカベンジングエア方式」と言われるシステムの開発に先鞭をつけた。この改良によって2サイクル・エンジンが実用品となり、「ベンツ」は「2サイクルの父」となった。1882年10月、この2サイクル・エンジンを製造するための新会社「ガスモトーレンファブリーク・マンハイム」を設立したが、共同経営者「エミール・ビューラー」と意見が合わず3か月ほどで会社を去る。翌1883年10月1日 4人の中間を募り、再び新会社「ベンツ&C.ライニッシェ・ガスモトーレンファブリーク・イン・マンハイム」を設立すると、各種2サイクル・エンジンを製造し好評を博す。1884年「4サイクル・エンジン」の特許が解除されそうな気配となり、「ベンツ」も2サイクルを捨てて4サイクルに乗り換えたのは何故だろう。理論上は毎回爆発する2サイクルのほうが効率が良い筈だが、当時の2サイクル・エンジンはまだ据え置き型で、当時構想中だった自動車には不向きだと判断したのだろうか。

・「ダイムラー」は自分の発明したエンジンをあらゆる分野で利用することを考え、「2輪車」「4輪車」「人力鉄道」「モーターボート」「飛行船」「ストリート・カー」「機関車」「消防ポンプ」が博物館に展示されていた。一方の「ベンツ」は対照的でエンジンはひたすら「自動車」のための動力としか考えていなかった。かくして1886年誕生したのが3輪車「ベンツ・パテント・モートルヴァーゲン」だった。

(写真01-1ab)1886 Benz Patent Motor Wagen

この銅版画は世界で最初に長距離ドライブをしたとされるベンツ夫人ベルタと2人の息子が、実家のある町まで約100キロドライブした際のエピソードで、燃料を購入するため「薬局」に立ち寄った事を示している。説明には「モータリゼーションの長期的な成功を収めるためには、修理工場やガソリンスタンドなどを含む新しいインフラが必要だ」と書かれている。

(写真01-2a)1886 Benz 3輪車     (1964-10 ベンツ・モーターショー/ 芝浦ヤナセ)

僕が初めて「ベンツ3輪車」を見たのは1964年〈昭39〉で、芝浦にあった「ヤナセ」の「ベンツ・モーターショー」だった。この時は案内板にもあるように「ベンツ3輪車」とあるのみで、まだ「パテント・モートルヴァーゲン」という正式名称は使われていなかった。そしてどこにも「レプリカ」とは表示されていなかったから、「あの歴史的な車が目の前にある!」と素直に感動して見入ったものだ。勿論レプリカの存在は全く知らなかった。

(写真01-3a)1886 Benz Patent Car (三輪車Replica)    (1968-11 東京オートショー/晴海)

国内で2度目に登場したのが4年後1968年のオートショーで、「ベンツ・パテント・カー」として紹介されていた。会場で「レプリカ」の表示があったとは確認していないが、雑誌では「レプリカ」とされていた。

(写真01-4a)1886 Benz 自動車一号車  (2001-08 河口湖自動車博物館)

ここでは「ベンツ自動車一号車」として扱われていた。

(写真01-5a)1886 Benz Patent Motor Wagen(Replica)  (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)

英国の博物館にもしっかり収蔵されていた。表示も正確だった。  

(写真01-6a)1886 Benz Patent Motor Wagen(Replica)  (2008-01 VWミュージアム/ヴォルフスブルグ)

当然ドイツのVW博物館にも自動車の歴史の一環として展示されていた。今に「レプリカ」の数は量産された市販車より多くなりそうだ。

(写真01-7a)1886 Benz Patent Motor Wagen(Replica)  (2001-01 メルセデス・ベンツ・ミュージアム)

こちらは本家本元の「メルセデス・ベンツ博物館」だが、誠に残念なことにここに展示されている車も「レプリカ」だ。その理由はこの後明らかにする。

(写真01-8a~h)1886 Benz Patent Motor Wagen(Replica) (2007-04、2008-11/ トヨタ自動車博物館)

他のレプリカがすべて稼働するかは不明だが、流石トヨタが所有している車は人を載せてデモ走行が可能だ。ドッ、ドッと回るエンジンで水平に置かれたフライホイールは縦置きにした場合ジャイロ効果の影響を懸念した為と言われる。エンジンは4サイクル水平単気筒984cc 0.89hp/400rpmで、最高時速は15キロだった。

・カール・ベンツが「2サイクル・エンジン」の開発に功績があったため、このエンジンを2サイクルと勘違いした記事もあるが誤りだ。

(写真01-9a~g)1886 Benz Patent Motor Wagen (Original) (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)

世界中にばら撒かれている「レプリカ・パテント・モートル・ヴァーゲン」のオリジナルはここにあった。ここは「国立ドイツ博物館・自動車館」で、ここに展示されている車こそ貴重な「オリジナル」で、1906年カール・ベンツ自身が運転して博物館に乗り付け、そのまま寄贈したと伝えられている。と言う訳で、流石のダイムラー・ベンツ社でも返してとは言えず、泣く泣く「レプリカ」を展示していると言う訳だ。

・余談だが「国立ドイツ博物館」の収蔵品は膨大な量があり鉄道・自動車は別館になっていた。それと知らず我々一行は「本館」でチケットを購入して中に入ったが自動車が見当らず、係の人に聞いて間違えに気付き入場料を返してもらった苦い経験がある。

(参考01-10ab)1888 Benz Patent Motor Wagen (市販車カタログ)

「パテント・モートル・ヴァーゲン」は車輪を木製に変え、エンジンにもカバーを付けて生産車として市販を図ったが、その際造られたがこのカタログだ。

(参考01-11a)1888 Benz Patennto Motor Wagen

この車は車輪が木製となっており「レプリカ」ではない。市販車に至るまでに造られた試作車ではないかと思われる。前に1人分の座席を設け3人乗りを試みたようだが、着座姿勢に無理があったのか市販車には採用されなかった。

(写真02-1ab)1893 Benz Victoria (2003-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

ベンツ最初の4輪車がこの「ヴィクトリア」だ。最初の「パテント・ヴァーゲン」が3輪車だったのは、当時まだ前輪の操舵方法が確立していなかったからで、1886年のダイムラー初の4輪車は馬車時代と同じ車軸ごと回転する方式で、ダイムラーは1889年でも自転車の前輪を2つ並べたような物だった。一方ベンツは1991年新しい操舵方式の開発に着手し、1893年キングピン方式による「前輪操向装置」の特許を取得した。これを最初に採用してのが「ヴィクトリア」で、エンジンは2920cc 5hp/700rpm最高速度は時速25キロと可成り実用的になった。不思議なことに「メルセデス・ベンツ博物館」にはこの歴史的な車の展示はなかった。

(写真03-1a~c)1893 Benz Vis-a-Vis (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館/シュトゥットガルト)

「ヴィクトリア」と同じ1893年製とされる「ヴィザヴィ」は、「メルセデス・ベンツ博物館」に展示されており、ベンツ初の4輪車として扱われ「キングピン」による新システムの操舵装置についても説明されていた。シャシーは「ヴィクトリア」とほぼ変わりなく、エンジンは1726cc 3hp/450rpm最高速度は時速18キロだった。

(参考03-2ab)1894、95 Benz Vis-à-vis

「Vis-a-Vis」はドイツ語では「向き合う」という意味で、シートの配列から命名されている。

・初期の4輪車の運転席は中央にあり、必要に応じてシートが増設されたが、前席が後向きに座ったのは馬車時代の名残だろう。後席はスペースをとって前向きに座るか、運転席と背中合わせで後ろ向きに座るかの2通りがあった。

(写真04-1ab)1894 Benz Vero     (2007-04 トヨタ博物館/名古屋)

「ヴィザヴィ」に続いて1894年に登場したのが小型車「ヴェロ」だ。車体の構造は「ヴィクトリア」や「ヴィザヴィ」と同じだが可成り小型で、全長2357mm、ホイールベースは僅か1330mmしかなく、初代の「スバル360」でさえ全長2990mm、ホイールベース1800mmあったから、いかに小さかったか想像されたい。エンジンは1045cc 1.5hp/450rpm 初期の水平に置かれたフライホイールは縦置きに変り、プーリーとベルトによる2段変速機構で 最高速度は21キロとなった。

(参考04-2a)1893 Benz Vero

「ヴェロ」は現代で言えば軽自動車に相当する小型車だが、写真で見るだけではその大きさが実感できないので、参考に人の乗った写真をご覧いただきたい。乗っている女性はカ-ル・ベンツの娘「クララ」とあった。

・この車の年式に関して資料には「1983」とあったのでそれに従った。一般には1984年から発売されたとされているので符合しないが、乗っているのがベンツの娘なので1893年製の試作段階の車かもしれない。

(写真04-3abc)1894 Benz Motor Velociped    (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

「メルセデス・ベンツ博物館」に「ヴェロ」が展示されていないと思っていたら、一般に知られている通称ではなく、こちらではフルネームの「ヴェロシペード」と表示されていた車がそれだった。本来はこちらが正式名だろうが、どの資料を見てもこの車が「ヴェロ」として扱われているのは、通称がいつの間にか定着してしまったという事だろう。

(写真04-4a)1896 Benz Vero Phaeton (2003-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

乳母車のような幌は向かい風だったら後ろに進んでしまいそうだ。絶対速度が遅い時代の発想で、フロントガラスが出現する以前は幌を上げれば皆こんな形だった。

(写真04-5a)1898 Benz Vero   (2001-08 河口湖自動車博物館/原田信雄コレクション)

この車の前に積んでいるのは燃料タンクだろうか、冷却水だろうか。皮のベルトで固定してある。

(写真04-6a)1898 Benz Vero 3HP  (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)

「ヴェロ」は「ドイツ」だけでなく「フランス」や「アメリカ」でも販売された。可成り評判が良かったと見えて長期間にわたって生産が続けられ1898年までに(1902年説もあり)約1200台も造られた世界初の大規模生産された車だった。

(写真06-1a~c)1895 Benz Omnibus (2008-01 メルセデス博物館/シュトゥットガルト)

1895年ベンツは世界初の「バス」を2台製造し、動力付き乗り物による地方公共交通機関の到来の口火を切った。ドイツ西部のジーガーランドで運航を開始したが降り続く雨のため道路が通行不能となり、数週間で運航中止となってしまった。

・ドライバーの位置は低いが、これに馬をつなげば西部劇の「駅馬車」そっくりだ。基本的なシート配列は変わらず、室内には向き合って6人が座り運転席に2名、合計8人乗りだ。エンジンは2651cc 5ps/600rpm で最高速度は時速 20キロだった。 .

(参考06-2ab)1895 Benz Omunibus/Eight-seater Phaeton

バスのボディを取り去ってしまえばご覧のとおり。かなり窮屈です。

(参考07-1ab)1997 Benz Doa-a-Dos/Engine

ベンツが新しいことを始めれば全て「世界初の」と肩書が付いてしまうが、「ドサド」のために用意されたエンジンは「世界初の」水平対向ピストンを持ったエンジンだった。2気筒 1728cc 5ps/940rpm で最高時速は35キロまで上がっている。

(写真07-2a~d)1899 Benz Dos-a-Dos (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館/シュトゥットガルト)

初期のベンツの車名には、「座席の配列」を表しているものがいくつかある。この「ドサド」もその一つだが、「Dos-a-Dos」はスペイン語の「2対2」という意味で、背中合わせという意味は含まれてはいないようだが、説明には「この車の名前は“乗客が背中合わせに座る”ことに由来する」とあった。実際に座ったらどうなるか古い資料から参考に展示した。

(写真08-1abc)1901 Benz Ideal        (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)

写真の車は1901年製だが、「アイデアル」が誕生したのは1899年で旧世代の産物である。この車は大ヒットした小型車「ヴェロ」の後継車と位置付けられているが一回り大きい。技術的には特に進歩はしていないが「堅牢」で信頼性は高かった。一見フロントエンジンのように見えるが、ボンネットの中には床下にあるラジエター・コイルのための水タンクが入っている。

(写真09-1a~d)1900 Benz 14PS Rennwagen (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

1800年代の末には自動車によるレースが始まっている。速く走るために持てる最新技術の全てをつぎ込んで造られたのがこの車だが、ベンツは「ヴィクトリア」で4輪車の主流となった誇りが捨てきれず、相変わらず旧式のシャシーのままだった。2気筒水平対向エンジンをリアに搭載しているレイアウトも、旧態然としたものだ。エンジンの冷却に付いては初期の自動車の抱える重大な問題で、様々な方法が試みられたが、この車の場合はフィンの付いた冷却水のパイプを車の前面にむき出しで並べている。

(参考10-1ab) 1903 Benz Parsival

「ヴィクトリア」「ヴェロ」で4輪自動車の「スタンダード」を自負していた「ベンツ」に対して、「ダイムラー」は遅れを取り戻すべく開発を重ね、1900年には「メルセデス35 HP」を発表、「フロントエンジン」「シャフトドライブ」という以後100年以上スタンダードとなる自動車のレイアウトを完成させた。ベンツが優勢を保っていた1899年の生産台数は572台、翌1900年は603台と文字通り当時世界最大のメーカーだったが、ダイムラーが新世代の「メルセデス35 HP」を発表した1901年には385台と激減してしまった。この結果は旧態然とした車にあると見抜いた共同経営者の「ユリウス・ガンス」は、旧型車にこだわる「カール・ベンツ」の意に逆らって、主任設計者の「ゲオルグ・ディール」に新世代の「フロントエンジン車」の設計を命じ、1902年完成を見たが満足できるものではなかった。焦った「ガンス」は「ディール」を差し置いてフランスから設計者「マリウス・バルバー」をスカウトし社内に2つの設計チームが生まれた。こんなごたごたがあった末、両者が合体して新しく生まれたのがこの車「パルジファル」で、ベンツの危機を救う事が出来た。一連のこの流れが、自分の預かり知らぬところで進行して行くのは「カール・ベンツ」にとっては自分の存在価値に関わる問題で、1903年4月、会社を去るが、翌年夏には復帰を果たしている。

・この車は「ベンツ」社にとっては近代化の扉を開いた記念すべきモデルだと思うが、「メルセデス・ベンツ博物館」には展示されていなかった。「ダイムラー・ベンツ」社にとって記念すべき最初のフロントエンジン車は1900年の「メルセデス35 HP」が展示されていた。

(写真11-1abc)1905 Benz 18ps Doppelphaeton      (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

ようやく「自動車」らしい形をした車が登場した。創成期から1904年頃までは、馬車時代の名残を残す「第1世代」で自動車の分類では「ベテラン・カー」と呼ばれ、馬車に動力を付けた乗り物に過ぎなかった。1900年を境に、現代の感覚で「自動車」と認識できる乗り物に進化してきた。次の「第2世代」は1916年頃までで、エドワード七世の統治時代と重なるため「エドワーディアン」と呼ばれる。この車はベンツ初の近代車「パルジファル」の後継車で、成功を収めた「メルセデス」に対抗するため造られた。

(写真12-1ab)1908 Benz Grand Prix Rennwagen      (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

1908年ベンツは国際的なモーター・スポーツの活動を強化し、「フランスGP」には新開発したこの車を投入し、優勝した「メルセデス」に次いで「2位」「3位」「7位」となり、3台が完走した唯一のチームとなった。その他、ロシアのレースで優勝、アメリカでも2位に入賞するなど大活躍した。

(写真12-1a~e)1909 Benz 200PS Rennwagen ” Blitzen-Benz”  (2008-01メルセデス・ベンツ博物館)

ベンツのレーシングカーの中で「最も有名」で「最も輝かしい記録」持っているのがこの「ブリッツエン・ベンツ」(稲妻)だ。このモンスター・マシーンは4気筒OHV 21,504cc 200hp/1600rpm という巨大なエンジンを持つレーシングカーだが、それよりも速度記録車としての数々の記録を残したことで有名だ。手始めは1909年11月9日「ブルックランズ」でフライング・キロメーター202.6km/hを記録し、時速200キロの壁を突破した最初の車となり、同時に「陸上絶対速度記録ホルダー」となった。翌1910年には「デイトナ・ビーチ」でフライング・マイル211.4km/hと更に記録を更新した。その後1911年4月23日には同じ「デイトナ・ビーチ」で228.1km/hを出したが、当時の世界記録を管轄する「ACF」から認定されず、この記録は「アメリカ記録」として1919年まで残された。全部で6台造られ2台が現存する。

 (参考13-1a~e)1909 Benz 20/35ps Landaulet      (2008-01メルセデス・ベンツ博物館)

モデル名「20/35」について説明されている。当時の一般的な慣行として最初の20は課税馬力、後ろの35は実馬力で、1課税馬力は排気量16立方インチに相当するとある。この車はボディの後ろ半分が幌となっており、ランドウ・ジョイントによって開閉が可能だ。一部が開くだけなので「ランドウ」ではなく「ランドウレット」となる。

(写真14-1a~d)1912 Benz 14/30hp Touren Wagen (2007-04、2011-11/トヨタ博物館、神宮外苑)

「ブリッツエン・ベンツ」の活躍はベンツ車の人気を復活させ、第1次世界大戦の始まる1914年までに大小取り交ぜて多くのタイプが造られたが、その一つが水冷 直立4気筒Lヘッド3500cc 35hp/1500rpmのエンジンを持つこの車で、全体のプロポーションはすっかり完成している。電気式ヘッドライトを持ち、効率の良いこの車のラジエターは「他車にも影響を与えた」と説明されている。ボンネット内の配列も納得できるが、運転席で気が付いたのは「ハンドル」が付いて以来、すべての車が「右ハンドル」という事だ。

(写真15-1abc)1913 Benz 200 Hornsted 18.8 Litre (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

レーサーだった「L.G.ホルンステッド」は1913年、伝説の車「ブリッツエン・ベンツ」を改造した車をブルックランズ・サーキットに持ち込みフライング・ハーフ・マイル(113.8km/h)、同じく1キロメートル(118.4km/h)の2つの速度記録を樹立した。この車は最近完成したその車の正確なレプリカである。

(写真16-1a~d)1915 Benz 14/35HP       (2008-01シュパイヤー科学技術館/ドイツ)-

この車で興味深い特徴はラジエターのデザインで、これまで車のラジエターはフラットだったが、この車は「尖った」(折れ曲がった)ラジエターを備えた最初の車の一つだ。6人の乗客を乗せ、最高速度は85km/hに達した。 .

それにしても驚くのはドイツの工業生産能力で、第1次世界大戦は既に1914年7月から始まっている戦時下にも拘らず、自動車の開発は続けられていたようだ。最も「飛行機」にしろ「戦車」(まだ水タンクと偽称していた)にしろ 生産を脅かすほどの数は造られていなかっただろう。

(写真17-1ab)1918 Benz GR  Coupe Chauffeur  (2003-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

第1次世界大戦は1918年11月ドイツの敗戦によって終結した。戦後いち早く市場に登場したのは大戦中に開発した4気筒1540ccの小型車「6/18HP」だった。写真の車はそれより大きいだけでなく、運転席に窓のない洒落たボディが用意されている。これは「ド・ヴィル」というタイプで馬車時代の伝統を守った超高級車のもので、基本的には御者席(ドライバー)は屋根も窓もない。ご主人様は後の「クローズ・ボディ」に収まるのだが、後ろの箱の形状によって「クーペ・ド・ヴィル」以下「セダンカ」「セダン」「リムジン」と変わる。それにしても

戦争に負けた国が、負けたその年にこんな車を造るとは、そして買う人がいるとは、車社会の歴史と伝統の厚さに改めて脱帽。

・一方、日本が戦争に負けたのは昭和20年8月だが、その2か月前の6月、我が家はB29の空襲で焼失した。当時の我が家唯一の運送手段は「乳母車」で、現代のベビーカーと違い4輪に籐で編んだ大きなカゴ付きだったから、荷物や布団を積んで、空襲の焼夷弾を避け近くの学校へ避難した。僕は11才「国民学校」5年生になったばかりだった。我が家が自動車を持てたのは、それから33年後の1978年だった。

(写真18-1a~d)1923 Benz 10/30ps (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館/シュトゥットガルト)

写真の車は1923年型だが、「10/30」は1921年から合併後の1926年まで造られた戦後のベンツを支えた傑作車だ。1921年に発売された当時ベンツ・シリーズの中では最小の車だったが、1920年代の典型的な実用車だった。ここに展示されているセダンの他に、オープン・トップのツーリングカー、配送車、パトカー、救急車から霊柩車まであった。

(参考19-02a)1921 Benz 10/30hp Sports

「10/30hp」にはいろいろなバリエーションがあると書いたが、こんな車を見つけてしまったので追加した。性能、戦績は全く不明だが、次に登場する画期的なスポーツか「トロッペン・」に繋ぐ役目は果たしたと思われる。

(参考20-1a~d)1923 Benz Tropfenwagen

最後に登場するのが、当時とすれば誰も試みなかった新しいアイデアが満載されたレーシングカーだ。まず名前の基となった「水滴型」流線型のボディは、流体力学の権威「エドムンド・ルンプラー」教授の協力を得て造られたもので、空気抵抗は極限まで減少して居る。レイアウトはドライバーの後にエンジンが収まる「ミッド・エンジン」で、シャシー・フレームには「軽め穴」が多数あけられている。サスペンションは4輪独立で、後輪はカンチレバーリーフで釣ったスイングアクセル、にインボード・ブレーキを装備し、12年後の1934年鮮烈デビューした「アウトウニオン・Pヴァーゲン」はこの車に大きな影響を受けている。エンジンは1922年から制定された「2リッター・650kg」のフォミュラーに合わせた水冷 直列6気筒DOHC 1997cc(65×100nn) 90hp/5000rp、最高速度は185キロだった。画期的なスペックを持ったこの車の最大の泣き所はこのエンジンで、その非力さから、レースでは結果が残せず、モンザの「ヨーロッパGP」で4位,5位となったのが唯一の結果だった。1,2位となった「フィアット」、3位となった「ミラー」は既にスーパーチャージャーを装備しており圧倒的な力の差があった。

-後年「アウトウニオン」でポルシェが「Pヴァーゲン」の制作に携わった時、経営面でポルシェを助けた「アドルフ・ローゼンベルガー」はアマチュア・レーサーとして「トロッフェンヴァーゲン」を操縦した経験があり、その進化系「Pヴァーゲン」には特別の思い入れがあったのだろう。また「レース監督兼テストドライバー」として、ダイムラー社からスカウトされた「ヴィリー・ヴァルプ」は、かつて、「トロッフェンヴァーゲン」でレースをしていた経験を買われ、ミッドシップエンジンという特殊なドライブテクニックを必要とするテスト・ドライバーに選ばれた。

(参考20-2ab)1923-25 Benz Tropfenwagen sports-type 2seater

フェンダーとヘッドライトを付けた「スポーツカー」仕様も造られ主に「ヴィリー・ヴァルプ」のドライブでマイナーレースで活躍した。

――次回は1925年合併して「メルセデス・ベンツ」となってから1944年(戦前最後)まで――

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