第120回 M項-11「マーキュリー」(米)

2023年6月27日

フォードグループの中級車「マーキュリー」の誕生は1939年で比較的遅い。1930年代のはじめ、3大メーカーの1つ「GM」のラインナップは上から「キャディラック」「ラサール」「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」「シボレー」ときめ細かく、もう1つの「クライスラー」もその下に「デソート」「ダッジ」「プリムス」と、中間を埋める車種を用意していたが、「フォード」だけは高級車「リンカーン」と大衆車「フォード」のみという、販売政策上きわめて不自然な体制だった。1930年で見ると、一番安いリンカーンが4500ドル、一番高いフォードが650ドルで、その中間には何も無いのだから、いかに変則的だったかが理解されよう。1936年、小型廉価版の「リンカーン・ゼファー」が約1300ドルで発売され、やっとGMの「ビュイック」に対抗できるシリーズが誕生した。しかし、この中級車市場は「ビュイック」「オールズモビル」「ポンティアック」「デソート」「ダッジ」の他にも「ナッシュ」「ハドソン」「スチュードベーカー」「パッカード」など数多くの競争相手がひしめいていた激戦区だったから、その中に投入すべく企画されたのがフォードの兄貴分「マーキュリー」だった。(「ゼファー」無きあとはリンカーンの弟分と立場が変わった)そんな経緯から誕生した「マーキュリー」なので、多くの車名が吸収合併の歴史を示す創業者の名前に由来しているのと違って、商業の神様「マーキュリー」からとったものだ。

(参考39-1ab)1939 Mercury Eight 4dr Town Sedan

発売当初「フォード」の兄貴分として誕生したから、戦後見慣れたお尻の丸いフォードと同じように見えるが、ホイールベースで4インチ、全長で10インチ長くなっており、全く同じものではない。

(参考39-1c)1939 Mercury Eight (発売当初のパンフレット)

(参考39-1de)1939 Mercury Eight 4dr Town Sedan

(参考39-1fg)1939 Mercury Eight Sport Convertible

発売された1939年(昭14)は、外車輸入が禁止された時期で、わが国では1台確認されただけらしい。戦後僕が写真を撮り始めてからも一度も見る機会は無かったので資料から転用させていただいた。

(参考40-1a)1940 Mercury Eight Club Convertible

(参考41-1a)1942 Mercury Eight 4dr Town Sedan 

(参考42-1a)1942 Mercury Eight 4dr Town Sedan

第2次大戦中の自動車メーカーは1942年で乗用車の製造は中止され、以後は軍用車や兵器工場となったので、この時期の車に出会ったことはない。

(参考46-1a)1946 Mercury Eight 2dr Sedan

戦後いち早く製造を再開したが、戦前最後の1942年型のグリルを手直ししただけのようだ。

(写真46-2a)1946 Mercury Eight 2dr Sedan Coupe  (1959年 丸の内)

復活第1号となった1946年型には6種のタイプが用意され、クローズド・ボディは「4ドア・タウン・セダン」、「4ドア・セダン」と、この「2ドア・セダン・クーペ」だった。ナンバープレートは旧式の「横1列」で1万番代なので一般自家用車だ。(3万番代なら在日外国人、4万番代なら官公庁)方向指示期は腕木式で、僕らは子供のころ「アポロ」と商品名で呼んでいたものだ。

 (写真46-3abc)1946 Mercury Eight 2dr Club Convertible  (1961-11 立川市内)

1940年代の車を見つける一つの方法として考え付いたのが、一般のアメリカ人家族が生活しているエリア行ったらどうかという事だった。新車を買う余裕が無い庶民階級なら古い車を大事に使っている筈だと見込みを付けた。 立川で見つけた「E」ナンバーのこの車はまさしくそんな車の一台で、都心部ではめったに見られないオープンカーだった。車齢は15年程度だが、車検制度のないアメリカでは自己責任に任せられているから、あまり状態は良くなかった。

(参考47-1a)1947-48 Mercury Eight 4dr Town Sedan

「マーキュリー」は誕生した1939年以来、基本的ボディスタイルに変更はなく、細かい装飾の変化でモデルイヤーを塗り替えてきた。特に1947年と48年については外見上の差異が無く各種資料でも一括処理されている。翌1949年には戦後型が登場するのでそちらに力をそがれていたのかもしれない。1946年と47-48年型の違いはラジエターグリルの枠がクロームメッキされた事、ボンネットサイドのクロームラインが短くなり、その先端に「MERCURY」の文字が入った事が識別点だ。

(写真47-2abc)1947-48 Mercury Eight 4dr Town Sedan  (1962年 横浜市内)

この車は3種のセダンの中で一番大きい「タウン・セダン」で、6窓(シックス・ライト)仕様だ。非常に良いコンディションで「オリジナリティー」がしっかり保たれている。しかし何故かこの車は「右ハンドル」だ。自動車生産国で左側通行は「イギリス」と「オーストラリア」だが「イギリス・フォード」は完全に独自モデルを生産しているので対象外。「フォード・オーストラリア」も50年代はイギリス・フォード系に変わったが、それ以前には米国モデルのフォード(右ハンドル)を造っていた可能性は高い。唯、「マーキュリー」も造っていたかは不明。

(参考49-1a)1949 Mercury Eight 4dr Sport Sedan

1949年はアメリカ自動車のデザインに革命を起こした年と言われる。それは「フラッシュ・サイド」或いは「フル・ワイズ」と呼ばれ、ボディからフェンダーラインを消し去って従来の常識を破ったものだった。一般にはそれは「フォード」が最初としてイメージされているが、姉妹車の「マーキュリー」もフロント・フェンダーの名残は残しつつも、ボディは「フルワイズ」となった。車幅一杯が利用できるから、室内が広く使えるようになったのが大きなメリットだ。(このスタイルは「カイザー/フレーザー」や「パッカード」では1948年から使用されていたが、販売数が少なく一般に広く知られることはなかった)

(写真49-2ab)1949 Mercury Eight 4dr Sport Sedan   (1960年 赤坂溜池/日英自動車横)

1946年から芽生えたラジエター・グリルのパターンが徐々に進化してこの年完成、「丸」をイメージしたモダンなデザインは、この後「マーキュリー」のシンボルとして何年もグリルを飾った。

(写真49-3a~d)1949 Mercury Eight 2dr 6-Pass. Coupe  (1961年横浜・元町商店街)

誕生したときは「フォード」の兄貴分として登場したが、戦後は「リンカーン」の弟分に昇格していた。その証拠はこのボディで、この年の「リンカーン」と同じ型でプレスされたものだ。(リンカーンの上級モデル「コスモポリタン」は別型)この場所は今から60年前の横浜・元町商店街で、今では一流ブランドとなったバッグメーカーも普通の「かばん屋」さんだった。

(写真49-4a~f)1949 Mercury Eight Coupe(改)  (1998-01 フロリダ州オーランド市)

 2ドアの「マーキュリー」はアメリカのカスタムカー・マニアの間では人気があり、改造車のベースとして使われた例を幾つかみている。写真はその一例で、フロリダのオーランド市内で開かれたローカル・イベントで見つけたものだ。

(参考50-1a)1950 Mercury Eight 4dr Sport Sedan

グリルのデザインは基本的には49年のものと変わらず、中央部のメッキ部分が、大きくなった両端の方向指示灯と繋がったのでグリルが横幅一杯になった印象を与える。

(写真51-1a) 1951 Mercury Eight 4dr Sport Sedan  (1959年 静岡県庁駐車場)

この場所は静岡県庁の駐車場だ。この車は正面写真しか無いのになぜ「4ドア・スポーツ・セダン」と判定したかというと、開いた後ドアに三角窓が付いているからだ。

・僕が地方の静岡市に住んでいながら、最新のアメリカ車を次々と撮影できた原因の一つは、静岡籍の「た」ナンバー(官公庁公用車)の種類の多さによるものだ。僕のアルバムから該当するものを数えたら、1946~59年型は17種45台が見つかった。当時発売されていたアメリカ車は19種で、「オールズモビル」と「ナッシュ」以外はすべて網羅されていた。お役所で車を購入を決定する部署に車好きの偉いさんが居た違いない、と僕は思っている。当時既に市内には「メルセデス・ベンツ」の姿も見られたが、「た」ナンバーのヨーロッパ車は1台も見られなかった。

(写真51-2a~d)1951 Mercury Eight 4dr Sport Sedan (1961-08 横浜駅前)

場所は今から62年前の横浜駅前だ。駅舎は1928年建築された3代目で、戦災を経て原型に復旧されているが、周辺には高層建築もなく開発はまだ進んでいない。この車はちょっと汚れてはいるが、前項の静岡県庁のピカピカの車と全く同じモデルだ。

(写真51-34ab)1951 Mercury Eight 2dr Sport Coupe  (1962-04 立川市内)

この年は5つの車種があり、その中に2ドアの「モンテレー・クーペ」と「スポーツ・クーペ」があったが、写真の車は後部ドアの大きさから後者と認定した。

(写真52-01a)1952 Mercury Custom 4dr Sedan   (1959年 静岡市内県庁前)

この年は「フル・モデルチェンジ」の年に当たり、この後しばらくアメリカ車の主流となる「バンパー・グリル」が顕著にみられるデザインとなった。アメリカ車は毎年モデルチェンジをしているが、実際は光物の変化でお茶を濁すマイナーチェンジで2~3年は繋いでいるのが実情だった。写真の車は塗装が「黒」なので、グリルの下半分がバンパーの一部という事が良く判る。

(写真52-2abc)1952 Mercury Custom 2dr Sedan (1962-04 立川市内)

1952年からは、これまで「車名」だった「モンテリー」が、「シリーズ名」に昇格し、「カスタム」と合わせて8つのモデルが用意された。「カスタム」には2種の2ドアがあるが、「スポーツ・クーペ」はハードトップで、窓枠のある写真の車は「2ドア・セダン」と判定した。オーバーライダーはオプションのようだ。

(写真53-1a)1953 Mercury Montererey Special Custom Coupe  (1962-04 立川市内)

この年はマイナーチェンジに当たり、グリルとバンパーの関係は変わっていないが、オーバーライダーが砲弾型になった。

(写真53-2abc)1953 Mercury Custom 4dr Sedan (1962-04 渋谷駅付近)

4ドアセダンは「モンテレー」「カスタム」双方にあり、全く見分けがつかない。僅かな相違点はリアフェンダーの3本のメッキラインの下が黒いので「カスタム」としたが、これが決め手かは自信がない。この場所は、首都高3号線で東名に向かい渋谷駅を超えて少し進んだ辺りで、高速道路建設のため用地買収が終わり青空駐車場となっていた60年も昔の姿だ。

(写真53-3abc)1953 Mercury Custom Sport Sedan  (1998-01 フロリダ州オーランド市)

ローカルイベントは土曜日に近所のスーパーの駐車場で開く2~30台集まる小規模なものだったが、当時フロリダで絵の研修中だった息子がローカル新聞で見つけて連れて行ってくれたものだ。ただ集まって見せ合うだけのようなイベントだが、殆どのオーナーが若い時から乗り続けてきたと思われるそれなりの年齢者で、ワンオーナーの可能性が高い。

(写真54-1ab)1954 Mercury Custom Sport Coupe (1990-07 アメリカン・ドリームカー・フェア/幕張)   

1950年代のアメリカ車は、とてつもなく派手な装いで世界のスタイリングをリードしてきた。そんな車を中心に40台余りがアメリカっで買い集められ、幕張メッセで展示・販売された。

(写真55-1abc)1955 Mercury Montclair Coupe  (1962-04 渋谷駅付近)

GMでは1953年のキャディラックで試行し、54年はビユイックにも採用したフロントウインドのパノラミック化が、55年にはマーキュリーにも採用された。曲がるとき窓枠が視界を遮らないからすごく効果的なアイデアと思うが、その後いつの間にか消え去ってしまったのは残念だ。場所は渋谷駅西口付近で2枚目の右上には山手線の電車が確認できる。(1枚目の右端のおじさんは、今用足しが終わった所の様です。)

(写真55-1ab)1955-Mercury Custom Station Wagon  (1958年 静岡市内)

静岡市内で撮影した1枚で後方は静岡県庁、右手が市役所、左手が消防署/朝日新聞社だ。塗装も派手になり、各社2トーンは当たり前、写真の車は「ステーション・ワゴン」だが3トーンに塗分けられている。今回の「マーキュリー」の殆どが「モノクロ写真」という事は、対象となった車が撮影当時は現役で、街中で撮影されたものだからだ。

(参考56-1a)1956 Mercury Custom 4dr Sedan

アメリカ車は殆どもれなく撮影しているが、56年型については一度も出会わなかったので、穴を埋めるためインターネットから転用させていただいた。

(写真57-1a)1957 Mercury Montclaior 4dr Sedan    (1959-04 銀座6丁目)

この場所は銀座並木通りで、後方で交差するのが交詢社通り、奥に見えるのが一世を風靡した銀座を代表する「キャバレー・モンテカルロ」だ。(1988年ディスコクラブ「エム・カルロ」となった) 僕としては珍しく周りの風景が沢山入っている写真だ。

(写真57-2a~e)1957 Mercury Monterery 4dr Sedan   (1959年 静岡市内)

この車は静岡市内で撮影したものだが、東京ナンバーだ。この当時はまだ「東名高速道路」は出来ておらず、「国道1号線」が東京―大阪間を結ぶ唯一の幹線だったから、「名古屋」「静岡」は中間の休憩地点として頃合いの位置にあった。国道から数百メートル外れれば、市内でも有名な老舗旅館「中島屋」のグリルがあり、昼食のため立ち寄る車が多かった。具合が良い事にその隣が僕の勤務する「銀行」だったから、昼休みに外に出ると珍しい車に出会え、その中に県外の車が混じっていたと言う訳だ。(この写真は中島屋の100メートル程先に停車していたものを撮影。)

(写真57-3ab)1957 Mercury Monterery 2da Sedan (1990-07 アメリカン・ドリームカー・フェアー/幕張)

前出1954年型と同じく、幕張メッセで開かれた「アメリカン・ドリームカー・フェア」に展示された車だ。1957年はアメリカ車に「四つ目」が現れたが、この年はまだ「2つ目」が主流で、「四つ目」はオプション扱いのようだ。

(写真57-4ab)1957 Mercury Turnpike Cruise Convertible  (2017-10 日本自動車博物館)

この年最上位に四ツ目を標準装備とした「ターンパイク・クルーザー」シリーズが設定された。名前の通り「高速度道路を楽々とクルージング」することを目的とした車で、希望する巡航速度を自動的に設定で来るシステムが搭載されていた。この車と同じ「コンバーチブル」は「インディ500」のペースカーとして使用された。

(写真58-1ab)1958 Mercury Parklame 4dr Phaeton Sedan (1963-03 横浜市/山下公園付近)

フォード・グループはこの年からマーキュリーの下に新車種「エドセル」を誕生させ、マーキュリーは高級化が進んだ。シリーズは上から「パーク レーン」「モントクレアー」「モンテレー」「メダリスト」があり、モデルは22種まで増えた。この年から大型アメリカ車の殆どは「四ツ目」が標準となった。

(写真58-2ab)1958 Mercury Monteclair 4dr Phaeton Sedan   (1959-11 港区・虎ノ門付近)

停まっている場所はアメリカ大使館のすぐ近くで、ナンバープレートからどこかの国の「大使の車」の車だから、多分公用で訪問中だろうと推定したが、それにしても来訪者用の駐車場はないの?

(写真59-1a)1959 Mercury Park Lane 4dr Hardtop Cruiser (1961年 港区・一之橋付近)

この年はマイナーチェンジの年だが、グリルのデザインは大きく変わった。マーキュリーとしては過去にその片鱗を何処にも見つけることができない「突然変異」で、むしろ前年の「ビュイック」から変化したような感じだ。左に東京タワーが見えるが、その下を右に走れば「赤羽橋」で、そこを右に曲がり、麻布方面に向かって真っ直ぐ来た所がここ「一之橋」だ。

(写真60-1a)1961 Mercury Monterery 4dr Sedan (1960年 港区・虎ノ門/ニューエムパイア・モータース)

前年のグリル・デザインはやはり「突然変異」だったようで、翌60年には以前と同じモチーフが復活した。アメリカ車のグリルには、パッと見て車名が判るような伝統的な特徴を取り込んでいるものが多かった。

(参考61-1a)1961 Mercury Monterey Convertible

グリルのデザインは殆ど変わりない。 .

(写真62-1abc)1962 Mercury Monterey Custom 4dr Sedan (1962-04 港区・一之橋付近)

1949年から続いたマーキュリーを象徴する「丸く湾曲した縦線の連続」するグリルはこの年が最後となった。モダンな自動車と似つかわしくない「昭和の香りがする」修理工場だが、このあたりの修理工場はいずこも大同小異だった。昭和の香りがするのは当たり前で、撮影した昭和37年は「昭和の真っただ中」です。

(写真67-1a)1967 Mercury Park Lane Brougham 4dr Sedan (1966-11 東京オートショー)

(写真68-1a)1968 Mercury Park Lane Brougham 4dr Sedan (1967-11 東京オートショー)

(写真70-1a~d)1970 Mercury Marquis Brougham 4dr Sedan (1969-11 東京オートショー)

最後にまとめて紹介するのは、すっかりイメージが変わって堂々たる大型高級車になったその後のマーキュリーだ。

  <クーガー>   

1954年「GM」ではアメリカで唯一のスポーツカーと言われる「コルベット」を発売した。翌年フォードも負けずと「サンダーバード」を登場させた。初期の「コルベット」は性能を伴わず見掛け倒しで売れなかった。一方「サンダーバード」は1955~57の3年間は小型で引き締まったスポーツカーらしいボディを持っていたが、58年以降はボディが大型化され「ラグジュラリー・カー」に性格が変わってしまった。反対に「コルベット」はV8エンジンで強化し本格的なスポーツカーとなっていった。その後しばらくフォードにはスポーティな車は存在しなかったが、1964年の若者向けのスポーティ・カー「マスタング」が爆発的ヒットした。2匹目のドジョウを狙って1967年発売されたのが「マーキュリー・クーガー」で、「マスタング」と「サンダーバード」の中間的性格、装備が与えられた。アメリカの池にはドジョウが沢山いるようで、初年度150,893台と2度目の大ヒットとなった。

(写真67-1abc)1967 Mercury Couger GT Hardtop  (1967-06 第4回日本GP/富士スピードウエイ)

誕生時は明らかに「マーキュリー」のシリーズの一つとして扱われていた。その証拠はボンネットとトランクに「マーキュリー」のバッジがあり、グリルの縦線のモチーフもマーキュリーの一員であることを示している。ヘッドライトはグリルの裏側に収納され、グリルのデザインはすっきりしている。2ドアハードトップだが5人乗りなのでキャビンが大きく、サイドビューではスポーティさにやや欠ける。

(写真67-2a)1967 Mercury Couger Hardtop   (1966-11東京オートショー/晴海)

(写真68-1a)1968 Mercury Couger Hardtop   (1967-11 東京オートショー/晴海)

オートショーで撮影した2枚の写真は発売初年度の年1967年と翌68年型だが、全く違いはない。デザインの完成度が高かった所為もあるが、同じスタイルを続けることで「クーガー」イメージを定着させた功績は大きい。

(写真69-1a)1969 Mercury Couger RX-7 Convertible  (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

3年目はグリルのパターンを縦から横に変えてみた。それだけで印象は全く変わって「クーガー」らしく無くなった。

(写真70-1a~d)1970 Mercury Couger RX-7 Hardtop   (1969-11 東京オートショー/晴海)

という事で再び伝統を踏襲した縦パターンに戻したのがこれだ。前年からボンネットとリアフェンダーのバッジは「クーガー」に変わっている。

(写真74-1a)1974 Mercury Couger RX-7 2dr Sedan   (1977-01 外車ショー/晴海)

1972年からは従来の「ミッドサイズ・スポーティカー」からキャラクターを「大型ラグジュアリーカー」にシフトした。一つの象徴はグリルが縦型のクラシカルな物に代わって、高級感を狙っている。この年は4ドア版の「ブルーアム」もあった。

<コメット>

コンパクトカーの歴史は、1960年「ビッグ3」が同時に110インチ弱のホイールベースを持つ車を発表して幕を開けたとされているが、その時フォード社だけは「ファルコン」と同じ109.5インチのホイールベースを持つ「マーキュリー・コメット」も登場させている。広いアメリカとは言え、小型車が存在しなかった訳ではなく、戦前は「アメリカン・バンタム」(オースチンセブン)や「クロスレー」があった。戦後は1950年「ナッシュ・ランブラー」、51年「ヘンリーJ」「ウイリス・エアロ」、53年「ハドソン・ジェット」など、100~105インチのホイールベースを持つ車が出現したが、数年で姿を消してしまったのはまだ世間一般にその需要が無かったためだろう。調べてみると1958年を境に「VW」「オペル」「トヨペット」「ダットサン」など海外の小型車の輸入が活発化し始め、アメリカ人に小型車の良さが浸透し始めた結果が、コンパクトカーを生み出す底流となったと思われる。

(写真60-1a~e)1960 Mercury Comet 4dr Sedan   (1962年 港区・虎ノ門付近)

発売されたばかりの新車を見つけるのに一番の場所はここだ。ここは「虎ノ門病院」と「商船三井ビル」の間の通りで、アメリカ大使館のすぐ近くだから発売された「青ナンバー」が真っ先に登場する場所だ。グリルのモチーフはスタンダード・サイズの「マーキュリー」と同じだ。

(写真61-1abc)1961 Mercury Comet 4dr Sedan    (1961-01 港区・虎ノ門/ニューエムパイア・モータース)

虎ノ門の交差点に近い大通りに面して「ニューエムパイア・モータース」はあった。看板もあるように「フォード系」で、英国の「コンサル」も扱う。発売3年目で一寸気分を変えてグリル・パターンを縦から横に変えてみた。

(写真62-1a)1962 Mercury Comet Custom 4dr Sedan   (1962-05 世田谷区・二子玉川園/輸入外車ショー)

しかし、やっぱりマーキュリー系の縦パターンに戻したのがこれだ。

(写真63-1a)1963 Mercury Comet 4dr Sedan  (1965年 港区・虎ノ門/ニューエムパイア・モータース)

「フォード・ファルコン」と同じボディを持ち、ラジエターで「マーキュリー・コメット」らしさを出してきたが、「ファルコン」に合わせたこの年はそれが感じられない。ここまでに登場した「マーキュリー・コメット」は全て「青ナンバー」でアメリカ大使館の車だ。

(写真65-1a~e)1965 Mercury Caliente 4dr Sedan   (1966-05  渋谷区・表参道近)

今までは「フォード・ファルコン」の姉妹車だったが、縦四ツ目でシャープなエッジを強調したボディは、明らかにフルサイズ(123インチ)のフォードから受け継いだものだ。見た目では大きくなった様に感じるが、ホイール・ベースは114インチで変わってはいない。

(写真65-2abc)1965 Mercury Cyclon 2dr Hardtop   (1966-05 港区・虎ノ門付近)

大使館では毎年事務的に新規購入を決めているだろうから、個人のようにあれこれ選択をすることはないと思うが、4種ある「コメット」の中からどんな基準で最上位の「サイクロン」を選んだのだろうか。2ドアしかなく値段も一番高い。

(写真66-1a)1966 Mercury Comet Caliente 4dr Sedan  (1966-06 渋谷区・原宿表参道)

「マーキュリー・デビジョン」における「コメット」の存在価値はますます高くなり、この年は「202」「カプリ」「カリエンテ」「サイクロン」「サイクロンGT/GTA」と5つのシリーズが設定されている。この車もアメリカ大使館の車と思われるが、フルサイズかと思われるほど大きく見える。

(写真66-1b)1966 Mercury Comet Cyclone 2dr Hardtop (1965-11 東京オートショー/晴海)

(写真66-1c)1966 Mercury Comet Caliente 2dr Hardtop (1965-11 東京オートショー/晴海)

(写真67-1a)1967 Mercury Comet Cyclone 2dr Hardtop(1966-11 東京オートショー)

(写真67-1b)1967 Mercury Comet Caliente 4dr Sedan  (1966-11 東京オートショー/晴海)

「コメット・シリーズ」はマーキュリーの中堅として定着し、1977年まで製造が続けられた。

   ―― 次回からは大物「メルセデス・ベンツ」に取り掛かる予定です ――

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