第122回 M項-13「メルセデス-ベンツ・2」(独) 合併後その1 (1926~32)

2023年8月27日

1928 Mercedes Benz 720 SSK

「メルセデス・ベンツ」が自動車の始祖「ダイムラー(メルセデス)」と「ベンツ」の合併によって現代に至っている事は、誰もが知っている歴史であり、「高級車」と言えば誰もがイメージするのも「ベンツ」だ。合併前のダイムラー社は1902年に車の名前を武骨な「ダイムラー」から、響きの良い「メルセデス」に変えたが、会社の名前はそのままだから、合併後の新社名は「ダイムラー・ベンツ」となっている。

・1919年第1次世界大戦で敗戦した後のドイツは、民主主義の「ワイマール共和国」(1919-33)が誕生し、重い賠償と、ハイパー・インフレの中でも工業化は進み、戦争が終わった解放感もあってか、困窮の中でも世間には活気があった。ドイツの1920年代は日本の戦後、昭和20年代と同じ環境ではなかったかと、そんな雰囲気を体験した僕は推測する。自動車に関して言えば「軍需生産」のため拡大された設備を生かすため、大衆車を量産する必要があり、その受け皿として、戦後新たに誕生した中産階級の存在が自動車大衆化に大きく貢献した。こんな状況の中で「ダイムラー社」と「ベンツ社」が合併を発表した。両社ともに「世界最古」のメーカーであり、「市場」でも「レース」でも無二のライバルでもあるこの2社の合併は、元銀行員だった僕は2001年の「三井住友銀行」の誕生を連想してしまう。既にリタイヤして関係は切れていた僕だが、古い歴史を持つ財閥系で、経済界でも有力な存在であり、市場でも全くのライバル同士は「水と油」の存在と思っていたからだ。

・両社とも戦前は手造りによる超高級車を造り、その注文主として上流社会の富豪が多く存在したが、戦後はその数も減り高級車と言ってもセミカスタムの量産車に変わっていった。そんな中で「オペル」ではアメリカ式の量産システムを採用し、コストダウンを図っていた。危機感を感じたのは「ベンツ」で合併による量産化を図るべく、相手探しをしたと思うが、当時それなりの数を生産していたメーカー「アドラー」「アウディ」「ハノマーク」「ハンザ」「ホルヒ」「マイバッハ」などいずれも3桁程度の生産能力で、結局ライバル「ダイムラー(メルセデス)」に行きついたものと思われる。1924年から合併を前提とした持ち株の交換が始まり、1926年6月、「ダイムラー6」対「ベンツ3.46」で合併が成立し「ダイムラー・ベンツ社」が誕生した。

(参考01-1a)1924-26 Mercedes 15/70/100 PS →1926-29 Mercedes Benz Type 400

合併直後は、新型車が完成するまでは旧社時代の車の名前を変えて販売した。1922年「ダイムラー社」の技術部長に就任していた「フェルディナンド・ポルシェ」は、前任者「パウル・ダイムラー」が残した「スーパー・チャージャー」付きエンジンの改良を手掛け、1923年完成した「2ℓ 120hp」のレーシングカーは「タルガ・フローリオ」と「コッパ・フローリオ」の双方を獲得し、その実力を世間に示した。この技術をツーリングカーにも応用したのが写真の車で排気量は3920ccだった。型式の数字は「課税馬力/実馬力/SC稼働馬力」を表している。合併時をまたいで製造されたダイムラー側の1台で合併後は「タイプ400」と名前を変えた。

(参考01-2a)1924-26 Mercedes 24/100/140 PS →1926-29 Mercedes Benz Type 630

前項と同時に開発された一回り大きいこの車(6246cc)が、「24/110/160 PS モデルK」を経て「Sシリーズ」に繋がるスポーツカーの始祖となる車だ。

(写真01-2bc)1926 Mercedes Benz 24/100/140 PS Roadster (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館/シュトゥットガルト)

合併時のトップ・スターは一番格好良い「ロードスター」が博物館には展示されていた。このシリーズは寿命が長く、合併後も生産が続けられ名前が変わって1929年まで造られた。

 

(写真01-3ab) 1926 Mercedes 24/110/160 PS Model K Landaulet (2003-03 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

ここの展示物の解説にはいつも悩まされる。元々は車好きの大金持ち「シュルンプ兄弟」が金に飽かせて世界中のクラシックカーを買いあさったものだったが、事業に失敗し国外へ脱出した後、一時「労働組合」が管理し、その後「国立自動車博物館」となった。現在のスタッフは多分国から派遣された「公務員」で、特に車に詳しくはないだろうから5000円位した分厚いカタログは間違えだらけだ。出版物としては「労働組合管理時代」に発行された写真集があり、こちらの方がまだ信用できる。車の横の案内には「1928 Mercedes Brnz 600」となっているが、写真集では「1926 Mercedes K 24/110/160 PS Landaulet」とあり、こちらを採用した。

(参考02-1a) 1912-26 Benz 10/30 PS →1926-27 Mercedes Benz 10/35 PS

(参考02-1b)1921-26 Benz 16/50 PS →1926-27 Mercedes Benz 16/50 PS

一方「ベンツ」側の合併前後の状況を見ると、「1570cc」「2080cc」「3560cc」「4700cc」の4種は1921年、「7050ccc」は1923年で製造中止、合併を模索していた1923~24年は「10/30 PS (2610cc)」、「11/40PS (2860cc)」、「16/50 PS (4160cc)」の3種しかなかった。しかも「11/40 PS」は1925年で製造中止となり、合併後も生き残ったのは「10/ 30 PS」と「16/50 PS」の2種に絞られた。1921年から多くの車種が製造中止に追い込まれた事実は販売不振の結果で、当然財政状況の悪化からどこかと合併せざるを得なかったことが伺える。

(参考03-1a)1926-29 Mercedes Benz 8/38 PS Limousine4Turen

「メルセデス・ベンツ」は合併後造られた車には「W01」から始まる「工場指定番号」(Werksbezeichung)が振られている。「W01」は「5/25 PS」という記録は残っているが手元の資料からは映像は確認できなかった。しかしその次に造られた「8/32 PS」には番号が振られておらず、しかも量産されているので、幻の「5/25 PS」はこの車のプロトタイプで、実質の「W01」は「8/32 PS」と見て良いのではないかと推定した。

(写真03-2a~e)1927 Mercedes Benz 8/38 PS (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

合併後初の自前の車は6気筒1988ccのエコノミーを重点に造られた車で、狙い通り1,425台、4,788台、3,922台、369台、4年間で10,504台と、当時としては可成りの台数が販売された。その購入者は戦後台頭した中産階級層で大型車の20,000マルクに対して7,000マルク程度で購入できた。シンプルだが好感の持てるスタイルだ。

(参考03-3ab)1929-33 Mercedes Benz 8/38 PS Stuttgart 200 (W02)

(W02)の記号は「8/38 PS」の後期型「Stuttgart 200」(1988cc)に与えられた。このシリーズには一回り大きい「10/50PS 260」(2581cc)も併売された。

(参考04-1a)1926-27 Mercedes Benz 12/55 PS Type300初期型 (W03)

「12/55 PS」は「300」系シリーズの初代モデルで、この後1933年まで中型車としてベンツを支えた重要なモデルだ。初期型のエンジンは6気筒2968cc 55 PS。

・(W03)となったこの車は1926年から製造されていたので、29年からの(W02)よりも前に着手していたのではないかと思うのだが、番号は後になっているので必ずしも年代順ではないようだ。

(写真04-1bcd)1927 Mercedes Benz 12/55 PS Type300 後期型 (W04) Pullman Limousine (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

1927-28年に造られた後期型「12/55 PS」Type300は、名称は同じだが、排気量が3030ccとなり(W04)となった。博物館ではなぜか大型バスと並べて展示されていたが、実用性が高そうな無難なスタイルだ。

(参考04-2a)1929   Mercedes Benz 12/55 PS Type 320 (W04) Cabriolet4Turen

(参考05-1a)1929-30 Mercedes Benz 14/60 PS Type Mannheim350 (W05) Pullman Limousine

(参考05-1b)1929   Mercedes Benz 14/60 PS Type Mannheim 350 (W09) Cabriolet C

(参考05-1c)1931-33 Mercedes Benz 15/75 PS Type Mannheim 370S (WS10) Sport-Cabriolet

「300」シリーズは300(W03)、320(W04)、350(W05)、350(W09)、370(W10)と次々と進化し、排気量も2968ccから始まり3663ccまで拡大した。この間、主力となったのはもちろん実用性の高い「リムジン」が中心だったが、写真は次の「Sシリ-ズ」をイメージしてスポーティで格好良いものを選んでしまった。

<Sシリーズ>

「フェルディナンド・ポルシェ」が手掛けた戦前のベンツを代表するスポーツカーが「Sシリーズ」だ。1926年から32年までに「S」(680S)、「SS」(710SS)、「SSK」(720SSK)、「SSKL」(720SSKL)と4つのモデルが存在したが、徐々に開発、進化したのではなく、用途に応じて同時進行している。

(参考06-1a)1926-27 Mercedes Benz 26/120/180 PS Modell 680S (W06) Tourenwagen

「680S」のエンジンは98×100mm 6789cc で、排気量による課税馬力は「26」と同じだが、標準の「120/180PS」(26台)に対して、圧縮比を上げた強化版「170/225PS」(138台)と「190/250PS」(2台)が存在する。ただし外見からは全く判別できない。

(写真06-2bcd)1927 Mercedes Benz Type S 680S (W06) Tourer (1964-10ベンツ・モーターショー/ヤナセ)

僕が最初に見た「Sタイプ」がこの車だ。その時の印象は正直言って「期待外れ」だった。ただのでっかい車に見えた。それは僕に知識が無かったためで、スポーツカーといえば「MG」しかイメージ出来なかったので、もっとスポーティなものを想像していたからだ。この当時のスポーツカーは「ベントレー」にしても長大なボディを持ったツーリングカーが当たり前だった。しかしイメージダウンの要因には・ヘッドライトが小ぶりで、塗装もチョコレート色で地味だったせいもある。

(写真06-1e~g)1927 Mercedes Benz Type S  680S (W06) Tourer  (1978-01東京プリンスホテル)

次に見たのはこの車で、この時は正直「ドッキリ」した。これぞ本物と思った。確かにドイツからやってきたばかりの本物だった。サイズもヤナセで見たものと同じだが雰囲気が違っていた。

(写真06-1hij)1927 Mercedes Benz Type S 680S (W06) Rennsport (1997-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

1927年には「Sタイプ」の初期型「26/120/180PS」しか 造っていないから、1927年製なら初期型と特定できる。ミッレ・ミリアではこの時点で既に70年も経っている国宝級のこれらの時代物の車を3日にわたってMille-Miglia(1000マイル=1600キロ)も走らせるのだが、当時の頑丈の車はびくともしない。

(写真06-2k~p)1928 Mercedes Benz 26/120/180 PS 680 Type S Tourenwagen(W06) (2008-01 メルセデス・ベンツ・ミュージアム)

ベンツ博物館に展示されているこの車は流石に完璧で、非の打ちどころはない。そのうえここの照明は素晴らしく写真の仕上がりも見栄えがする。

(写真06-2a)1928 Mercedes Benz 680 S  (1994-05ブレシア/ミッレミリア)

(写真06-2b)1928 Mercedes Benz 680 S Rennsport (2000-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

(写真06-2c)1928 Mercedes Benz 680 S Rennsport  (1997-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

1928~30年の後期型は圧縮比を上げた強化版「26/170/225PS」で、ミッレ・ミリアはこんな車が続々と参加して来る。

(写真06-2d~g)1928 Mercedes Benz 680 S    (1997-05 ブレシア・ドーモ広場/ミッレ・ミリア)

「ビットリア広場」で車検を終わった車は、「ブレシア」の街中の広場、道路、いたるところに停めて、飲んだり食べたり、おしゃべりをしながら夕方のスタート時間を待つ。

(写真06-2h) 1928 Mercedes Benz 680 S      (2001-05 サンマリノ/ミッレ・ミリア)

ここはコースの途中「サンマリノ」で、急な坂を上って折り返すヘアピンカーブの難所だ。「ベンツ」や「ベントレー」など20年代の長尺のツーリングカーは1回でカーブが回り切れず、重いハンドルで切り返しに格闘する。大きいハンドルに麻縄がしっかりと巻かれている必要性はこういう時のためだ。

(写真06-3abc)1928 Mercedes Benz 680 S (36/220)  (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)

この車は正体がはっきりしない車だ。案内による型式「36/220」と、排気量「6789cc」製造期間「1927~30」の関係だが、「36/220」という車は手元の資料からは確認できなかった。この排気量だと課税馬力は「26」の筈だ。(イギリス基準の表示かもしれない)排気量から「680 S」と同じエンジンだが「680S」の出力は120,170,190PSで220PSまで強化されたものはない。スーパー・チャージャーについては説明がない(付いていない?)が、出力が過給時の物としても一致するものは無い。

(写真06-4a~d)1928 Mercedes Benz 700 SS 27/140/200 PS  (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)

ここから車は「SS」タイプとなる。「SS」は「スーパー・スポーツ」の略である。このシリーズの排気量は7068.5ccで 4つのグレードがあり、1927-28「27/140/200PS(700 SS)」、1928-30「27/160/200 PS(710 SS)」、1928-34「27/170/ 225 PS(710 SS)」、1929-30「27/180/250 PS(719 SS)」となるが外見からは見分けは付かない。

・ドイツ博物館のこの車は重厚な感じの車で、著名な政治家の注文によるもの。

(写真06-4efg)1929 Mercedes Benz 710 SS (1997-05 ブレシア・ビットリア広場/ミッレ・ミリア)

車検場の「ビットリア広場」だ。入場制限があるようだが何となく入れてしまう雰囲気で、ご覧のようにごった返している。(僕も潜り込んだ一人だが・・)

(写真06-5a~g)1928 Mercedes Benz 27/170/225 PS 720 Type SSK (W06Ⅲ) (2008-01 メルセデス・ベンツ博物館)

ここから「SSK」に入る。追加された「K」はドイツ語の「Kurz」(短い)でショート・シャシーを表す。ホイールベースがそれまでの3400mmから450mm短くなって2950mmとなったが、それでも3メートル近いのでイメージするショート・シャシーではなく立派な大型車だ。

(写真06-5h~l)1929 Mercedes Benz 720 SSK (1971-03 ハーラーズ・コレクション/晴海)

1971年(昭和46)アメリカから大量のオールドカーがやってきて展示会が開かれた。「ハーラーズ・コレクション」と呼ばれるもので、ネバダ州のリノでホテルとカジノを経営するウイリアム・F・ハーラー氏の個人的なコレクションということだ。1400台を超える中から30台が選ばれ来日した。特に目を引いたのは2台の「ブガッティ(ロワイアル、T50)」、「デューセンバーグSJ・スピードスター」、「ロールス・ロイス・ファンタムⅢ」など、今まで日本では見ることの出来なかった幻の車が入っていた事だ。「ベンツSSK」もその1台で、既に写真で名前だけは知っていた。前後のオーバーハングが全くないので真横から見たとき、もう少し後ろにも張り出しがあった方がバランス良いのにと思った印象が残っている。

・黒いマント(大正から昭和の初めの男性用コートで「インバネス」といった)をまとって車の前に立ち尽くしているのは、日本クラシックカークラブ(C.C.C.J.)の会長「浜徳太郎氏」で、確か当時体調を崩されていたようにお聞きしていた。

(写真06-5mn)1929 Mercedes Benz 720 SSK (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

(写真06-5 op)1929 Mercedes Benz 720 SSK (20010-07 フェスティバル・オブ・スピード)

毎年6月ころ開催される「フェスティバル・オブ・スピード」は英国の「マーチ卿」が開催する世界的にも著名なイベントだ。所有する広大な領地には「ゴルフ場」「飛行場」「サーキット・コース」「広大な駐車場」などが点在する。今回のイベントは展示だけではなく「山岳レース・コース」を全力で疾走する姿が見られるので、「SSK」がアクセルを一杯に踏み込んだ時スーパーチャージャーが作動して発する「キーン」という叫び声も 聞く事が出来た。(写真はピッとからスタート地点へ向かう途中で、レース・コースではない)

(写真06-5 q~v)1929 Mercedes Benz 27/170/225 PS 720 SSK (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード

「ルドルフ・カラツィオラ」は歴史上の名ドライバーだが、1923年から52年まで、ダイムラーがレース活動を中止していた一部の期間を除いて、ドライバー生活のほとんどを「メルセデス・ベンツ」で活躍した。「S」「SS」「SSK」は彼によって輝かしい成果を上げることが出来たといっても過言ではない。特にショート・ホールベースの「SSK」は山岳コース向けだから、これを駆って1930-31年と2年続けてヨーロッパの「山岳レース・チャンピオン」となった。当時ドイツのレーシングカーは殆どが「白」だったのに、この車が「赤い」のは何故か。

・古い記憶なのでこの車の事か確かではないが、イタリアで山岳レースの場合、観客は遥か下から駆け上ってくる車が「赤」ならイタリア車と思って大歓声で応援するので「赤」に塗った車があったと、何かで読んだ記憶がある。

(写真06-6a~d)1928 Mercedes Benz 720 SSK   (1994-05 ブレシア車検場/ミッレ・ミリア)

「ビットリア広場」の車検場へ向かう車と、車検が終わって出ていく車。出ていく車の正面に見える横に白い線の入った建物は郵便局で、1927年「ミッレ・ミリア」が始まった第1回の時から約70年く変わっていない。

(写真06-6ef)1928 Mercedes Benz 720 SSK  (2001-05  ブレシア/ミッレ・ミリア

この車は「SSK」としては珍しく2シーターではない。色も地味でバンパーなども付いているので、スポーツカーとしてではなく、普段は実用車として使われているのではないか。

 

(写真06-6g~i)1929 Mercedes Benz 720 SSK (1994-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

「SSK」は2シーターだから3メートルのホイールベースの3分の2はボンネットだ。

(写真06-6j)1929 Merceders Benz 720 SSK  (2000-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

ツールボックスなどが付いて決して軽快なスポーツか―のイメージではないが、当時はこれがスポーツカーの標準的な姿で、これでも2シーターだ。

(写真06-6k)1929 Mercedes Benz 720 SSK  (2001-05 フータ峠/ミッレ・ミリア)

このシリーズの車には、ナンバープレートに「素性」を暗示する記号を入れているものが多い。この車も「720」と「SSK」を示す番号が使われている。この車に1か所納得できない点が有るのにお気付きだろうか。この車は6気筒だから排気管は通常3本にまとめられる筈だが、この車は4本見えるのだ。

(写真06-6l~n)1929 Mercedes Benz 720 SSK(推定)(2002-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)

またまた判らない車だ。案内版から「タンデム スポーツ」「38/250SS」「1929」「ドイツ」「6気筒」「7065cc」「140/230 CV」「200km/h」の情報が読み取れる。排気量は「SS」「SSK」共通だが、「タンデム(2シーター)」という事は「SSK」の可能性が高い。「38/250SS」というモデルは存在しないが、「SSK」には「27/180/250PS 720 SSK」と似通ったモデルがある。「140/230CV」はフランスでの課税評価かもしれないが不明。

(写真    06-6op)1932 Mercedes Benz SSK (1928 S改) (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ) 

この車は「タイプS」として1932年プラハに納入されたが3か月後事故を起こし、「SS」のエンジンが緊急納入された。この機会に別のシャシーに取り換え2人乗りのスポーツ・コンバーチブルに生まれ変わったと説明されている。

(写真06-6q~s)1930 Mercedes Benz 27/170/225 PS 720 SSK (1994-05 ブレシア車検場/ミッレ・ミリア)

ナンバープレートには「S-SK 730」とあるが730というモデルはなくこの車は「720」である。最もシンプルで、これぞ「SSK」と思わせるこのスタイルは、次に登場する「Gozzy」という「SSK」のレプリカを造る際お手本となったモデルだ。

(写真06-7abc)1981 Gozzy SS (1930 Mercedes Benz 27/170/225 PS 720 SSK Replica)  (1981-01 TACS ミーティング/神宮外苑・絵画館前)

この車の見た目で本物と違うのはスリー・ポインテッド・スターではない「マスコット」と現代風シールドビームの「ヘッドライト」だけだ。中身は280Sから転用したSOHC 6気筒2.7ℓエンジンとギアボックス、油圧式のブレーキシステムで、現代の車並みに安易に高速かつ安全なドライブが楽しめるが、シャシー、ボディはオリジナルを忠実に復元しており、「レプリカ」というよりは「複製」である。ガレージ伊太利屋の林良至氏がイギリスの「Church Green Engineering」という工房に依頼し、何台か生産し市販をはじめた1号車がこの車だ。(前項の車と良く見較べてて下さい)

(参考06-8ab)1929-32 Mercedes Benz Modell 720 SSKL 27/240/300 PS (W06RS)

最後は究極の「SSKL」が登場する。追加される「L」はドイツ語の「Leicht」(軽い)という意味で、何故軽いかというと、シャシーのあらゆるところに可能な限り「軽め穴」をあけ軽量化を図ったからだ。資料によれば「SSK」の1700kgに対して1500kgと200kgも軽くなっている。全部で7台造られたが、残された写真を見ると穴のあけ方には個体差があったようだ。

(写真6-8c~f)1930 Mercedes Benz 720 SSKL     (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)

完全にストリップダウンしたこの車は軽量化した効果を最大限生かしている。シャシーの前半分に軽め穴が無いのは前項参資料のベア・シャシーの車と同じだ。 

         

(写真06-8g~j)1929 Merecedes Benz 720 SSKL (1997-05 ブレシア/ミッレ・ミリア)

この車も信じ難いが「SSKL」だ。何処から見ても軽量化を妨げる重そうなものが一杯付いているが、その陰からちらりと覗くシャシーには明らかに「軽め穴」が見える。そんなに色々付けたかったなら「SSK」でも良かったんじゃなかったの?って言いたい。

  ―「Sシリーズ」中心の20年代が終わり、次回の30年代は元御料車のベンツも登場します ―

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