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第12回 2020年代 国産車「デザイン第7ステージ」
【最終編】これからの日本車のデザインに望むこと
2022.1. 20

日本の自動車のデザインと歴史について12回にわたってみつめ直してきた。1890年頃から自動車産業が始まる50年間の黎明期は、戦争で明け暮れていた時代であった。この1900年代前半で自動車製造法案ができたせいか日本の自動車会社のほとんどがこの時期に誕生している。


こちらで表の拡大を見ることが出来ます。

国策として国民車構想が掲げられ、スバル360、マツダR360のような軽自動車や三菱500やパブリカのような1000㏄ クラスの乗用車を誕生したばかりの自動車会社が、自国の力でなんとか自動車をつくろうと競い合っていた。


スバル360(1958年)


マツダR360(1960年)


三菱500(1960年)


トヨタ・パブリカ(1961年)

その頃、アメリカでは、巨大化した自動車にテールフィンが生えてその技術力と、自動車産業がつくる新世界を謳歌していた。日本では、いざなぎ景気で1964年東京オリンピック開催と好景気に支えられ、海外から様々な自動車のつくり方を学び、自動車製造業の基礎ができ上がっていった。また、戦後、乗用車国産化のために正式に発行こそされなかったが、先ほど述べた国民車構想の果たした役割は大きく、1965年に名神高速道路が開通し、サニーやカローラが発売され「マイカー元年」と呼ばれた。私はデザイン屋として「日本車デザイン元年」と呼んでいる。


ダットサン・サニー(1966年)


トヨタ・カローラ(1966年)

そして、1967年には314,6万台を生産しドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国になり、1968年には生産台数408,6万台で乗用車の生産台数(205,6万台)が商用車を上回り、大衆車に物足らなくなった人々がハイオーナーセダンを求め、国民総中流の世界へ突入していった。デザインも海外のカロッツェリアを起用しヨーロピアンテースト満載のおしゃれなクルマ達が街に溢れた。そして70年代は、自動車産業にとっては危機的なオイルショック、排ガス規制、安全対策に見舞われ生死をさまよったが、80年代には、低く長いアメリカンテーストのスペシャリティーカーが大流行し、ヨーロピアンテーストにアメリカンテーストが入り乱れたが、徐々に日本独特のサイズや嗜好が定着していった。
今になって思えば、街乗りの乗用車には、1955年頃試案された当時の通産省が国民車構想(350cc~500cc、4人乗り、最高速度100Km/h、車重400kg以下、価格25万円以下)のクルマがちょうどよいのではないか。数年前だったか、このくらいのサイズで高速道路走行なし、最高速度80Km/hくらいのものを経済産業省からか、国土交通省から提案されたような記憶がある。日本の自動車産業は生き残るために、アメリカの市場に向けてひたすら車両サイズを大きくしてきた。今でも米国に足を向けて寝ることができないほどお世話になっている。ほとんどの日本の自動車会社、いや世界中の自動車会社がカリフォルニアにデザイン研究所を設けているほど米国市場は重要な市場である。米国の広大な土地に自動車は欠かせない存在で、自動車なしの生活は考えられない。そして今では、中国もその広大な国土に高速道路網を張り巡らせ、世界第1位の自動車生産国になっている。
欧州、米国、中国の三大市場と日本市場の前に、エネルギー問題、高密度な都市化などの問題が存在している。
そして、数年前フランクフルトのモーターショーでメルセデスベンツ社が唱えたキーワード「CASE」Connected(つながるクルマ)、Autonomous(自動運転車/オートノマス カー)、Shared(自動車の共有化)、Electric(電気自動車)などを始めとして、世界中の自動車会社が生き残りをかけて、これらの課題に取り組んでいる。環境に優しく、事故がなくなる取り組みは素晴らしいことだ。自動運転までできなくてもいい、ぶつからないクルマになるだけでほとんどの事故はなくなるだろう。
1日も早く、「ぶつからないクルマ」をつくるべきである。私は、自動車という乗り物は自分で運転して楽しむものだと思っているので、個人的な意見であるが、自動運転ではその楽しさが味わえないのではないかと感じている。自動運転を否定しているわけではなく、バス、トラック、タクシーのようないわゆる商用車などは、1日も早く自動運転にすべきだと思う。
私が尊敬するデザイナーの水戸岡鋭治氏は、JR九州で展開している鉄道のコンセプトを、「目的地に行くための鉄道から、移動を楽しむ鉄道」に作り替えた。自動車がそこまで進化すればいうことはないが、それだけの楽しめるスペースを確保できるのだろうか。当然だが鉄道のようにはできない。では、クルマで移動する楽しみをどう演出するか。もはや一般道で運転を楽しむことが可能なのだろうか、私が言うまでもなく決して楽しいと言えるものではなくなっている。しかし、もし「ぶつからないクルマ」であったら、一般道でも運転が楽しめるのではないだろうか。
では「ぶつからないクルマ」ができたらどうなるか。まず、曖昧な人間の視覚情報、確認ミス、操作ミスなどが発生してもクルマがカバーしてくれるので、安心して走ることに集中できる。疲れた帰り道で、自分で運転するのがつらい場合は自動運転に切り替えると、クルマが安全に我が家まで運んでくれる。
つまり、手動運転と自動運転を切り替えることができ、手動運転時の操作ミスをクルマがカバーしてくれ、ぶつからない。こんなクルマをつくって欲しい。今言われているレベル5の自動運転以外は自動運転と言わずに、「運転支援システム」レベル1~4と言ってほしい。そう考えると「自動車」という言葉もおかしい。どこが自動車なのだろうか。「自動」ではなく「人」が運転して動かしている「手動車」とではないだろうか。おそらくオートモービルをそのまま日本語に置き換えただけなのだろう。追いつけ追い越せで、先進国を追いかけてきたが、今や自動車生産台数で世界ベスト3に入る自動車会社を持つ国として新しい自動車のコンセプトを構築し、貴族社会の落し子として生まれたオートモービルを一般庶民のコモディティーではなく、生活をエンジョイするための愛車としての価値をいま一度日本文化の伝統でフィルターをかけて構築し直し、世界をリードして欲しい。日本には里山文化として、地産地消で快適な生活があった。いま私たちが使っている道具をこの里山文化に置き直してみると、移動の考え方がガラリと変わりカーボンニュートラルが実現できそうな気がしてならない。


ベンツ・モートルワーゲン(1886年/ドイツ)


パナール(1918年/フランス)


ロールス・ロイス・シルバーゴースト(1907年/イギリス)


T型フォード(1908年/アメリカ)


トヨタ・プリウス(1997年/日本)

トヨタ自動車では、ウーブンシティーなる移動革命を目指した実験都市を模索しているようだが今後の成り行きが楽しみだ。日本の産業の歴史のなかで、繊維産業、造船、オーディオ、カメラ、時計、家電、モーターサイクルなど世界を席巻し、良いものをつくってきた産業が多々あるが、生産量では世界1位になっても世界一魅力のある商品とは言ってもらえていないように思う。それらの商品は、今どうなっているのだろうか微妙な立場にいる、間もなく製鉄においても、脱炭素社会の中で生き残りをかけた戦いが始まっている。自動車産業も例外ではない。自動車産業はドイツでガソリン自動車が誕生し、フランス、イギリスで発展し、アメリカで大衆化され、日本でエコ化され、各国の技術とともに発展してきたが、エネルギー、鉄鋼、樹脂などなどカーボンニュートラルを目指し、私達が生活している地球の持続可能で革新的なモノづくりを目指す時代がすでに訪れている。CO2排出量ゼロを目指すと、自動車を構成している鉄板は今の技術ではとても高価なモノになってしまう。そして、脱炭素社会などと言い出すと、樹脂製品も使えなくなってしまう。自動車を構成している殆どの材料が、使えなくなってしまう。材料革命でも起こさない限り、今、自動車と言われている乗り物は、作れなくなってしまう。
今回、多少乱暴かと思ったが日本での自動車誕生から10年ごとに区切って振り返って見たが、ほとんどのステージでオイルショックや大震災、バブル崩壊、リーマンショックなど、自動車産業にとってアゲンストな現象に振り回されて来た。しかし、日本の自動車産業はそれらをバネに成長し世界をリードする位置まできた。そして今また、自動車産業に限らず、私たち生活者がその健全な生活を脅かすような、エネルギー問題、環境問題に直面している。


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今回、三樹書房から「日本車のデザインの歴史と変遷」について書いてみては、というお題をいただいた。正直どこまで書けるか不安であったが、デザインを切り口に黎明期から今日までの流れを書いてみると、様々なものが浮かび上がってきた。あまりにも素晴らしい日本車たちが多いため、個々のクルマ達の細部にわたるデザインの構成や手法については触れることができなかったが、時代背景の変化とともに、自動車文化と車種の移り変わりをいかに先読みし、時代をリードしていこうとする各社の戦略とデザイン思考が切っても切れない重要な関係であることを改めて確認できたように思える。
世の中を形成するリード産業に携わるデザイナーがなすべきことは何なのか、これからのモノづくりは従来の延長線上に無いことだけは理解できるが、では、どちらに向かうべきなのか。
ゴーギャンは「我々はどこから来たのか? 我々は何者なのか? 我々はどこへ行くのか?」と言っているが、「自動車はどこから来たのか? 自動車は何者か? 自動車はどこへ行くのか?」
また、美術家の横尾忠則氏が絵画展のテーマを「GENKYO(原郷)」と言っているが、100年に一度の大変革を迫られている自動車も原郷に立ち返って「あるべき姿」を再考すべく、まずは「原郷」からスタートして新価値想像を試みてはいかがだろうか。
「今日の常識、明日の非常識。明日の常識、今日の非常識」これはデザイナーに与えられた最も重要な思考かも知れない。


参考資料:トヨタ博物館/webCG/三樹書房/グランプリ出版
写真:トヨタ博物館/三樹書房/グランプリ出版
表作成:木村デザイン研究所

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第3回 デザインとは(前編)

第2回 自動車会社でのデザイナーの役割(後編)

第1回 自動車会社でのデザイナーの役割(前編)

執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

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