三樹書房
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designhistory
第8回 1970年代~1980年代 国産車「デザイン第3ステージ」
オイルショックに始まる排ガス規制・FMVSSなど安全基準、技術課題山盛りのクルマを美的昇華するためデザイナー苦難の70年代
非日常の車を求めデザイナーの真価を問われる80年代
2021.9. 7

1960年代後半から70年代にかけて、日本のスーパーカーブームは忘れられない。ランボルギーニカウンタックやフェラーリ512BB、ロータスヨーロッパなど人気を博し、子供達から大人まで、スーパーカーの虜になった。

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そして、1964年頃から米国で大変人気を博していたフォードマスタング、シボレーカマロ、ダッジチャレンジャーなどのスペシャルティーカーに注目し、先月も触れたが、日本では1968年いすゞ117クーペ、1970年に発売されたトヨタ・セリカやカリーナH/Tが人気を博していた。

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フォードマスタング(1964年)

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いすゞ117クーペ(1968年)

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トヨタ・セリカ(1970年)

マツダがコスモAPを大ヒットさせ、それらと年代が前後するが、日産がシルビアを、ホンダがプレリュードを、三菱がギャランGTOを投入した。

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マツダ・コスモAP(1975年)

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日産シルビア(1966年)

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ホンダ・プレリュード(1978年)

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三菱ギャランGTO(1971年)

何を隠そうこの私もこんなかっこいいクルマをデザインしたくてウズウズしていた一人で、スーパーカー、スペシャルティーカーブームの真っ只中の1973年4月、当時のトヨタ自動車工業株式会社にデザイナーとして入社した。
半年間は当時の教育部で、社会人、そしてトヨタマンとなるための教育を受け、真夏の一番暑い時にディーラーでの販売実習があり、テリトリーを一軒一軒飛び込みでご挨拶をしてカタログを置いて回る。優しく付き合って下さる方、けんもほろろに追い払いにかかる人、様々であった。しかし、何度か訪問しているうちに「クルマを買い替えようと思うんだが家の車の査定してくれないか」など、声をかけていただけるようになってくる。営業所に飛んで帰ってベテランのセールスマンの方と一緒に手続きを進める。今までの暑くて苦しかった苦労が吹っ飛び、嬉しかった。そして1ヵ月が過ぎ、自動車販売の苦労や喜びを自ら経験し、その大切さを知ったことで、かっこいいデザインをしないと買っていただけない、頑張らねばと重圧を感じながら、愛知県の本社に戻ってきた。
今度は工場での生産実習に入る。筆者の実習場所は、今は無きスチールバンパーの表面仕上げ工程で、バンパーにメッキ処理をする前の研磨である。大きな面は機械が研磨してくれる。だが、コーナーの細部は人がバンパーを担いでバフに押し付け、一本ずつ磨く。夜勤の朝方眠くなってウトウトすると、バフにバンパーが持って行かれ、地面にすごい音と共に叩き付けられる。ハッと目が醒めるが時すでに遅く、班長が飛んで来て無事を確認してくれる。もっと作りやすいバンパーのデザインをしないと大変だ。そんなことを考える余裕もなく1ヵ月の工場実習が終わり、デザイン部でカーデザイナーとなるための基本教育を受け、入社後、半年間の長かった教育期間を終え、やっと正社員となる。正社員になると、車内販売でクルマを買うことができる。もちろん新入社員の給料で買えるわけもなく、親に借金をしてカリーナH/Tを購入した。

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1973年、当時のトヨタ・カリーナH/Tと筆者

丸4ヘッドランプの精悍な顔つき、バットレスのスポーティーなクォーターピラー、しかもそんなに目立つことなく、普通の中のちょっとオシャレな雰囲気、本人は当時のカリーナのCMに出ていた俳優の千葉真一さんになったつもりであった。しかし、喜びもつかの間、1973年(昭和48年)にはオイルショックで、ガソリン価格が急騰し、日曜日は、ガソリンスタンドが休みとなった。どこかにドライブに行きたくても行けない。我が愛車は、寮の駐車場に置いたままになってしまった。 
自動車の保有者人口が年々増加するとともに交通事故死亡者が増加し、1970年(昭和45年)には交通事故で年間死亡者が史上最悪の1万6765人となっていた。交通渋滞の問題も発生し、当時「交通戦争」という言葉も生まれた。500人乗りのジャンボジェットが毎月3機近く墜落する計算になる。今から思えばとんでも無いことが起こっていたのである。米国の連邦自動車安全基準(FMVSS)の衝突安全規制の5マイルバンパーや乗員保護規制などが実施され、さらに、1970年にはアメリカで厳しい基準を定めたマスキー法が制定。そして、オイルショックの三重苦、自動車製造が続けられるかどうかの崖っぷちで、まさに自動車苦難の時代が始まろうとしていた。
その頃、私は外形デザインの高級スペシャリティーカーチームに配属され、世の中をリードする人達がオフタイムにプライベートを楽しめるような高級パーソナルクーペのデザインを担当することになった。とは言っても、大きな方向のデザインはでき上がっており、すでに外形線図を描くステージになっていた。何が何だか右も左も分からない状態で、私は原図台の周りをウロウロとしているだけだった。皆、黙々と原図台の上を這いずり回ったり、側面、平面、正背面図の"島"を飛び回ったりしながら図面を描いていた。デザイナーってこんなことまでするんだ、と驚いていたがそんなことを言っている場合ではなく、新入社員の私の仕事はその先輩たちの鉛筆の芯を削って尖らせ、図面を描きやすくすることである。何本鉛筆の芯を削ったかは覚えていないが芯削りだけは上手くなった。
そのうち、「今やっている仕事は、全てやらなくていい。何もしなくていいから自分の席でおとなしくしていなさい」そんな指示がプロジェクトチームに出た。プロジェクトが休止になったのである。私の勝手な想像だが、安全基準、排気ガス規制、そしてオイルショックの三重苦で全く新しいプロジェクトに手を出している余裕など無いとトップは判断したのだろう。配属されたばかりの新入社員には想像もつかない出来事だった。今から思えばスタートも早いが、止めるのも早い。この徹底したマネージメントはさすがとしか言いようがない。
マスキー法などの厳しい排ガス規制に対応するために、ホンダは1973年に初代「CIVIC CVCC」を発売。米国自動車技術者協会(SAE)AUTOMOTIVE ENGINEERING誌から「20世紀優秀技術車 70年代版」を受賞し、CVCCエンジンで排気ガス規制をクリアして世界に衝撃を与えた。デザインもオーバーハングを切り詰めた2ボックスで、私が高校3年生の時に乗っていたN360を思わせる台型スタイルでとても好感が持てた。
日本のメーカー各社は、この米国のマスキー法と衝突安全規制を何とか乗り切り、一命を取り留めた。

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ホンダ・シビック(1975年)

ただ、デザイナーの悩みはこれからだ。マスキー法をクリアするためにエンジンルームには補機部品がたくさん付き、ボンネットは膨れ上がった。そして、米国輸出をするクルマは、衝突安全規制をクリアするために、とてつもなく大きなバンパーが必要になった。これらをいかに違和感なく美的に昇華させるかというデザイナーの苦難が始まった。例えば、1973年に発売されたトヨタ・セリカリフトバックを見ても、写真右のマイナーチェンジモデルではスマートなボンネットが盛り上がり、そして、巨大なバンパーが付けられている。筆者はこのようなマイナーチェンジは担当したことはないが、担当デザイナーはさぞかし大変であったろう。そして、圧倒的に燃費の良い日本の小型車は、世界中で販売を伸ばしていった。

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排ガス規制も一段落し、各メーカーは新ジャンルの開発に乗り出した。1980年代に向けて、止まっていた市場開拓のための新しい価値の創造が始まり、デザイナーの活躍に期待が集中した。70年代後半の排ガス規制、オイルショックによるガソリン代高騰により従来のような走る楽しみが減少しスポーティーさが失われ、新しいライフスタイルの提案や高級感を求めるハイソカーブームへと変化し、非日常を求める新ジャンルの車両開発に拍車がかかっていった。
そして、1973年10月、米国の最先端自動車デザインの研究をするために、トヨタ自動車はヨーロッパやGMデザインを経験したデイビッド・J・ストラリー氏をデザインマネージャーに迎えて、キャルティ・デザイン・リサーチが世界の自動車会社に先立って、自動車ライフスタイルの先端文化を形成していたカリフォルニアに設立された。単に出張ベースでデザインの調査や研究をするのではなく、デザイナーが実際に現地で生活し、その空気感を肌で感じることで新しいライフスタイルの研究に拍車をかけた。

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キャルティ・デザイン・リサーチ(1973年/カリフォルニア州ニューポートビーチ)

その後、1979年日産自動車がサンディエゴにGMからトム・センプル氏(後にNDIの社長に就任)を迎えてデザイン研究所を設立。その他の日本各社、ヨーロッパ勢、韓国勢、最後はご本家米国のビック3までこの地にデザイン研究所を設立している。1970年から80年代は、デザイナー自身が海外で生活しながら学ぶ、そんな時代でもあった。

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日産デザインアメリカのロビー(1982年/カリフォルニア州サンディエゴ)


そして、販売台数で、日本車は、アメリカ市場で販売を伸ばし、1980年(昭和55年)には、日本の自動車生産台数が世界ナンバー1となり、アメリカとの間に貿易摩擦を引き起こすに至った。
片や、80年代後半からのバブル期はデザイナーにとって腕を試された時代でもあった。トヨタ、日産は昔から多チャンネル化で、デザイナー達はそれぞれの販売店の商品をいかに魅力的にするかに力が注いだ。1988年のハイソカーブームに乗ってマークⅡ、チェイサー、クレスタが誕生した。

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トヨタ・マークⅡ(1988年)

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トヨタ・チェイサー(1988年)

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トヨタ・クレスタ(1988年)

ライフスタイル、ライフステージの差以外の性能差はつけてはいけないという条件のなかで、販売店の3店のどのお店に行ってもうちの商品の方が魅力的だという特徴を出すようにデザインしなければならなかった。苦労の甲斐があって、当時は、どの販売店に行ってもウチのマークⅡが一番良い、ウチのチェイサーのデザインが一番だ、ウチのクレスタが最も良いと言ってもらい、デザイナーとして本望としか言いようがない。幅広いユーザーの生活により近いものづくり、今流に言うとデザイン思考の開発手法がすでに実施されていた。個性の強いデザイナーが揃っていたのかもしれないが、それぞれの販売店からも感謝された。
もちろん、日産も多チャンネル化でシルビア、セドリック、グロリア、や16年ぶりに復活したスカイラインGT-R(1989年)、従来のラインナップにはない新しい顧客獲得のために開発されたシーマ(1988年)、Be-1(1987)年、パオ(1989年 ) 、フィガロ(1991年)などが登場。

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日産セドリック(1987年)

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日産スカイラインGT-R(1989年)

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日産シーマ(1988年)

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日産Be-1(1987年)

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ホンダは3チャンネル化、ホンダ・プレリュード(1987年)、NSX(1990年)、ビート(1991年)と走りを強調したスタイルで走りの喜びを回帰させる名車が投入され、

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ホンダ・プレリュード(1987年)

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ホンダ・NSX(1990年)

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ホンダ・ビート(1991年)

マツダは5チャンネル化で、ユーノス・ロードスター(1989年)、ユーノス・コスモ(1990年)と新しいライフスタイルを提案、他にも三菱ギャラン(1987年)、スバルレガシィ(1989年)、カリーナED(1985年)などが新ジャンルを開拓し、ハイソカーの頂点を目指したトヨタ・ソアラ(1986年)そして極めつけが世界のナンバーワンセダンを目指したトヨタ・セルシオ(1989年)と、1980年代は、たくさんの名車が誕生したのである。

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ユーノス・ロードスター(1989年)

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ユーノス・コスモ(1990年)

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トヨタ・カリーナED(1985年)

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トヨタ・ソアラ(1981年)

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トヨタ・セルシオ(1989年)

参考資料:トヨタ博物館/Gazoo マガジン/トヨタ自動車75年史/日産ヘリテージコレクション
写真:トヨタ博物館/日産ヘリテージコレクション/三樹書房

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川崎重工業株式会社 創業者、川崎正蔵氏がオリジナルで発案したリバーマークを皆さんのご協力のもと、川崎重工技術の総意を集めたバイクNinja H2のマークのためにリファインし立体化しました

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執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

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