三樹書房
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designhistory
第7回 1960年代 国産車「デザイン第2ステージ」
60年代デザイン学びの時代 海外留学・研修・カロッツエリアに外注
2021.8. 3

前回でも触れたが、1954年東京日比谷で第1回全日本自動車ショウが開催され、乗用車はたった17台しかなかったが、それでも10日間の会期中に54万7000人の来場者を集め、日本社会でも多くの人々が自動車に興味を持つこととなった。
そしてトヨタからは1955年にトヨペット・クラウンが発売され、同年日産自動車からは佐藤章蔵氏の手によってデザインされたダットサン110が発売され乗用車人気に拍車がかかった。

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トヨペット・クラウン(1955年)

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ダットサン110(1955年)

クラウン(4,285mm×1,680mm×1,525mm)は、どちらかというと米国車的なおおらかな見え方で、ダットサン(3,860mm×1,466mm×1,540mm)は欧州車のオースチンA50ケンブリッジサルーンのような佇まいで幅を抑えたスリムな見え方であった。

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オースチンA50ケンブリッジサルーン(1955年)

どちらも日本の環境に合わせた素晴らしいバランスのデザインだった。そして1957年、その間の車種として投入されたのがトヨペット・コロナ(3,912mm×1,470mm×1,555mm)で、1500ccの排気量でコロコロしたフォルムをしていたのでダルマコロナと呼ばれていた。後にブルーバードとコロナでBC戦争といわれる車両に発展していく。

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トヨペット・コロナ(1957年)

この時期の米国の自動車産業は繁栄期といってもいいほどで、日本ではスバル360が生まれた頃であるが、米国では、GMのハーリー・アール氏が空飛ぶ乗り物に憧れ、空を飛ぶわけでもないのにシボレーインパラには大きな翼が、キャデラック62には立派な垂直尾翼が生え、テールフィンの全盛期が訪れていた。

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シボレー・インパラコンパーチブル(1959年)

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キャデラック62コンパーチブル(1959年)

米国の生産技術のレベルの高さには今さらながら驚かされるが、生産技術だけではなくそのデザイン手法においても、試行錯誤中の日本の工業デザイナーには大変な衝撃であったに違いない。全長5メートルを超える巨大な乗用車に対して、戦後から立ち上がりつつあった日本の庶民が手に入れることのできる3メートル以下のクルマと比べるまでもなく、大人と子供以上の差があったことは認めざるを得ない。
しかし、日本でも1958年から始まった通産省やJETROによる「産業意匠改善研究員制度」で、デザイン手法を学ぶために海外のアートセンタースクールへ留学生を派遣させたり、海外から講師を招いたり、たくさんの画材やデザイン画のハイライトレンダリングのような表現テクニックやモデリング材料のインダストリアルクレー、製作道具などが紹介されたことは、日本の自動車産業の発展やメーカー従業員の見聞を広げる意味でも功績は大きかったといえる。それ以降、海外留学が盛んになり、欧米から様々な技術を習得していった。
このように50年代後半から60年代にかけては、海外からデザインのあらゆる考え方、プロセス、テクニック、画材などが輸入された時代で、デザインにおいても欧米に追いつけ追い越せの発展期で、デザインは単に自動車をつくるための手法だけでなく、生活者の新たなライフスタイルの提案など、車両コンセプトに関わる研究も始められていった。
第1ステージでは、まだ暗中模索でいかにちゃんと走れるクルマをつくるかが中心であったが、第2ステージでは、前述のように、積極的に欧米の知識を取り入れていった時代で、欧州のデザイン事務所に車両デザインを委託し、ヨーロッパの文化やテイストそのものを海外のデザイナーから吸収しようと、日本の会社組織も力を入れるようになった。
前回も少し触れたが、1967年には314,6万台を生産し、戦後わずか22年でドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国になった。1965 年から1970年頃まで「いざなぎ景気」が続き、国内の自動車産業は成長を続け、欧米が中心であった自動車産業界の仲間入りを果たした。
1965年には名神高速道路が全面開通され好景気の中、翌年には日産のダットサン・サニーとトヨタ・カローラが発売され、マイカー元年と呼ばれた。

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ダットサン・サニー(1966年)

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トヨタ・カローラ(1966年)

4月に車名を一般公募し、名付けられ発売されたダットサン・サニー(3,820mm×1,445mm×1,345mm)が1000cc、そして半年遅れの11月、100ccの排気量の差を「ちょっと嬉しい」とうたったトヨタ・カローラ(3,845mm×1,485mm×1,380mm)が1100ccで発売され、競い合っていた。この二つのデザインは、欧米車の香りがかなり薄れ、日本車としてのオリジナリティーが見え始め、「日本車デザイン元年」のクルマといってもいいかもしれない。フードとフロントフェンダーが一体化され、グリルヘッドランプも同一面状に構成され日本車としてのコンパクトさが、窮屈な印象ではなく日本の街並みに上手く溶け込むよう表現されていた。
この頃、米国ではテールフィンが消え始め、平らで四角く真っ直ぐ伸びやかな造形で室内サイズを犠牲にすることなくフォードファルコンはコンパクト化(といっても全長4,597mmもあったが、フェアレーンが5,436mmもあったときのことを思うと画期的であった)に成功し、シボレーをも凌駕するほどの販売台数で、小型化に拍車をかけていた。このような米国車と、欧州車のコンパクトなクルマづくりの「いいとこ取り」をし、日本の文化に受け入れられるようなテイストで、サニーの近代的な面作りと、カローラのコンパクトなサイズに練り込まれた面作りは、一般庶民の潜在意識の中に存在する両側面の好みを端的に表した、もので、まさにそれぞれの企業が想定しているユーザー像そのものの表現といっていいだろう。1950年代末期から始まった欧米からの学びが、社内のデザイン組織に蓄積され、デザインプロセス、テクニックや画材など、表現技術とクルマに対する考え方などが企業内で定着し始めた証拠だと思われる。
1968年「いざなぎ景気」の真っ只中で、日本国民一億総中流といわれる好景気に、中流らしい車格、ハイオーナーカーとして同年4月にニッサン・ローレル(4,350mm× 1,605mm× 1,405mm/1.8L)が、その年10月トヨタ・コロナマークⅡ(4,295mm× 1,610mm× 1,405mm/1.9L)が発売された。

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ニッサン・ローレル(1968年)

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トヨタ・コロナマークⅡ(1968年)

1966年8月に日産とプリンスが合併し、開発中のローレルはプリンスの村山工場で開発することになり、1963年後半から始められていたローレルの開発が設計者ともども移管することになった。
日産デザインを牽引してきた佐藤章蔵氏が1959年に退社することになったため、イタリアのピニンファリーナにデザインを委託した2代目ダットサン・ブルーバード410(3,995mm×1,490mm×1,415mm)は、リヤのフェンダーが下がったスタイルが不評で販売不振となって、3代目ブルーバード510(4,120mm×1,560mm×1,410mm)の開発が早まることとなった。

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ダットサン・ブルーバード410(1963年)

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ダットサン・ブルーバード510(1967年)

そのため、「ローレルの部品や図面を流用した」とデザイナーの澁谷邦男氏が「ローレル発売50周年記念講演」で語っている。どおりでブルーバード510とデザインが似ていると思っていたが、社内事情でこうなったのなら何となく納得ができる。個人的には「気品」のあるローレルのデザインも、510の「スーパーソニックライン」のデザインも近代的な爽やかさを持っているところがとても好きだ。かたやアッパーミドルクラスのゆとりある大人の雰囲気を醸し出しているマークⅡも、このクラスにジャストフィットした雰囲気を持ち、日本のモータリーゼーションを牽引するに相応しいデザインだった。
ちなみに、当時、いわゆるBC戦争といわれた3代目トヨペット・コロナ(RT40)(4,110mm×1,550mm×1,420mm)は、1960年トリノ工科大学に留学していた八重樫守氏(後のトヨタデザイン部長)が帰国後にデザインしたもので、ボディーサイドをアローラインというテーマを使うことによって軽快さとミドルクラスらしさをバランス良くまとめ、留学の成果をいかんなく発揮していた。

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トヨペット・コロナ〈RT40〉(1964年)

ここまで社内でデザインされたものを中心に述べてきたが、60年代から70年代にかけてはたくさんの車種が、イタリアンカロッツェリアにデザイン委託されていた。先ほどの日産のダットサン・ブルーバード410型や、1965年10月発売の2代目セドリック(4,690mm×1,690mm×1,455mm)はどちらもピニンファリーナに委託され、1966年8月発売のマツダ・ルーチェ(4,370mm×1,630mm×1,410mm)は当時ベルトーネに所属していたジウジアーロがデザインした。

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ニッサン・セドリック(1965年)

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マツダ・ルーチェ(1966年)

また、いすゞから1967年11月に発売されたフローリアン(4,250x1,600x1,445)〈カロッツェリア・ギアにデザイン委託されているが、ジウジアーロがデザインしたとは思えない。量産のためにプレスができるように修正したのか?〉、1968年12月発売の117クーペ(4,280x1,600x1,320)が、カロッツェリア・ギアのジウジアーロによってデザインされている(オリジナルはとてもじゃないが量産できるような形状ではない)。

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いすゞフローリアン(1967年)

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いすゞ117クーペ(1968年)

1964年発売のダイハツ・コンパーノバンはヴィニャーレのデザインで、キャビンと車両後半をダイハツ社内でデザインしたコンパーノ・ベルリーナ(3,800mm×1,445mm×1,410mm)、そして、1964年発売の日野コンテッサ1300(4,150mm×1,530mm×1,340mm)、コンテッサ・クーペはミケロッティによってデザインされた。その他、表面には出てこないがイメージだけのデザイン委託で、社内デザイナーによってまとめられたものもたくさんあるだろう。このように1960年代は、海外から人や文化などデザインの様々な作法を吸収する「学びの時代」であった。

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コンパーノ・ベルリーナ(1963年)

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日野コンテッサ1300(1964年)


参考資料:トヨタ75年史/日産ヘリテージコレクション/自動車ガイドブック/webCG/研究論文「トヨタ自動車のデザイン組織とデザイン手法の変遷」
写真:トヨタ博物館/日産ヘリジテージコレクション/日産自動車/マツダ/三樹書房

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執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

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