三樹書房
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第6回 1950年代~1960年代 国産車「デザイン第1ステージ」
2021.7. 6

1950年代の初期の自動車会社では、一部の会社を除き社外デザイナーに頼ることが多く、社内でのデザイン作業といっても、数少ないデザイナーが生産技術との橋渡しのような仕事を行なっていたに過ぎなかった。この期間を「デザイン第1ステージ」と呼ぶこととしよう。
1949年(昭和24年)にGHQによる自動車の生産制限が解除されたものの、日本の自動車製造技術は欧米から20年以上遅れていると言われていた。国内メーカー各社はトヨタ自動車の他に、中島飛行機と立川飛行機という航空メーカーの系譜であるプリンス自動車工業の独自路線を除き、日産とオースチン(A40)、日野とルノー(4CV)、いすゞとルーツ(ヒルマン)など、海外車両のノックダウン生産を行い先進国の技術を学びながら、技術の蓄積を始めた。それから5年後の1954年、東京の日比谷公園で、第1回全日本自動車ショウが開催された。

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日産オースチンA40(1953年)          

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日野ルノー(1957年)

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ヒルマンミンクス(1954年)

当時、一般家庭の「3種の神器」は電気冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビとされていた時代で、1965年(昭和40年)の「3C」のカー、クーラー、カラーテレビの到来まで、いわゆるマイカーは庶民にとっては、程遠い存在であった。しかし、この第1回の全日本自動車ショウには254社が参加し、展示車両も267台を揃えた。だが、ほとんどがトラックとオートバイで、乗用車はたった17台しかなかった。それでも10日間の会期中に54万7000人の来場者を集め、当時の日本社会ではいかに多くの人々が自動車に興味を持っていたかがうかがえた。
いっぽう海外では、その約20年も前にプレス技術の進歩によって3次局面の流れるような美しいボディーが成型できるようになり、クライスラーのエアフローが生まれていた。

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クライスラー・エアフロー(1934年)

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トヨタAA型(1936年)

トヨタのAA型の研究材料となったのは有名な話だが、この時期フォードは、GMに大きく水をあけられなんとか挽回しようと、1949年フォードのストリームドデザインと呼ばれるボディーサイドがフェンダーと一体となり流れるような局面のデザインをつくり上げ、現在のクルマのようにボディー形状のベースとなるようなエポックメイクな出来事が起こっていた。当時のデザインは、このような先進国の製造技術とともに、その形状も自動車の常識として取り入れられていった。

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1949年フォードのストリームドデザイン

このような背景の中、1955年(昭和30年)、当時の通産省が国民車構想(350CC ~500CC、4人乗り、最高速度100Km/h、車重400kg以下、価格25万円以下)が試案され、スズライト(1955年)、スバル360(1958年)、三菱500(1960年)、マツダR360(1960年)などが生産された。後に、ダイハツ、ホンダも参入する。

ここで、国産車構想にチャレンジしたクルマたちのデザインについて、順番に見てみることとする。まず、スズライトが1955年に発売された。当時の他社の車両レイアウトがRRのパッケージであったが、スズライトだけはFFであった。ドイツのロイトを参考にデザインされたと言われているが、ライトバン、ピックアップを同時につくるためにはFFでなければならなかったのではないか。サイズは2,990mm×1,295mm×1,400mm(当時の軽自動車規格サイズは3,000mm×1,300mm×2,000mm以下)であったが、水平に伸びたフロントフェンダーや丁寧なつくりのメッキグリル、立派なフードクレストマークなど先進国で見られる大型のクルマのように立派で、しかもタイヤは、当時、最小径だったと言われたダットサンの履いていたものと同じだった。ボディーサイズに対して大きなタイヤが四隅に配置され、キャビンを支えているためか、写真で見るととても大きなサイズのクルマに見える。

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スズライト(1955年)

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ロイト(1955年)

そして、1958年スバル360(2,995mm×1,295mm×1,335mm)が誕生した。デザインは社外デザイナーの佐々木達三氏が担当したことは有名な話である。設計陣からハードポイントの木製の芯を渡され、それに油土を盛り付け造形した。フロントフェンダーからリヤーフェンダーにかけてボディーサイドを優雅に流れるキャラクターラインは、3,000mm弱の全長を窮屈に見せないとてもエレガントな造形で、佐々木氏の造形力の高さを物語っている。これも車重385Kgという驚異的な軽量ボディーを実現するために0.6~0.7mm位の薄い鉄板で安定したサーフェースを保障するための機能を備えた、まさに工業デザインの極みといえる形状である。そして、フードはアルミを使用し、絞りの難しさを考慮した見切りで、破綻のない形状を設定している点もみごととしか言いようがない。ルーフもGFRPを使用し、リヤーウインドーはアクリルを使用するなど、エンジニアとデザイナーが密にコミュニケーションを取りながらつくり上げられた様子がよく伝わってくる。

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スバル360(1958年)

そして、戦後、新三菱が三菱グループの中で小型自動車を担当することになり、最初に手がけられたのが国民車構想を受け、1960年に発売された三菱500と名付けられたプロジェクトで、デザインは当時社内デザイナーであった二村正孝氏が担当された。これがなかなかユニークで、調べれば調べるほど、不思議なことが出てくる。当初は軽自動車枠でプロジェクトがスタートしたが、その頃のヨーロッパでフィアット500が大人気で、500ccでいこうと変更になり、サイズもひと回り大きくし、全長で140mm、全幅で90mmサイズアップしてまとめたという。今でいうサイドビューは"やじろべえ"のように、フロントからベルトライン、リヤーフェンダーへとみごとにバランスをとっている。フードやフロントフェンダーは上面がフラットで、今では当たり前だが当時としては斬新な造形である。ただ、よく調べるとフードは開閉しない、理由はよくわからないが部品点数を少なくしての原価低減か、それとも軽量化やボディー強度のためだろうか。グリル部分を引き出しスペアータイヤが収納されているのもユニークである。

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三菱500(1960年)

1960年登場のマツダR360。こちらも国民車構想を受けてスタートしたプロジェクトで、当時のマツダのデザインを担当していた、社外プロダクトデザイナーの小杉二郎氏によって進められた。非常にバランスよくまとめられたプロポーションで未来的な造形は、いま見ても大変好感が持てる。2,900mm×1,290mm×1,290mmで車重は395kgと当時の軽自動車規格に収まって4人乗りとしているが、リヤシートは小さく、子供がやっと座れるくらいの今でいう「2+2」であった。やはり規格の400kgというのは、各社かなり厳しい重量制限だったのだろう。その後軽自動車規格はどんどん変更されていった。

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マツダR360(1960年)

軽自動車特集ではないが、ここまで書いたら、後発のダイハツ・フェロー、ホンダN360にも触れておこう。

1966年に発売されたダイハツ・フェローは、2,990mm×1,285mm×1,350mmと当時の軽自動車規格をクリアーし、四角いがっしりした形状はとても丈夫そうに見える。立派なクォーターピラーはトランクの開口を確保するために、バットレスでアウターヒンジを設けることによって使いやすさを増している。何より、デザインで忘れてはならないのは、四角いボディー形状に合わせて国産初の角形ヘッドランプであった。

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ダイハツ・フェロー(1966年)

そしてこのダイハツ・フェローの後、1967年、軽自動車最後発でホンダらしい走りのN360が発売された。最高速度115Km という走りを強調したモデルで、何を隠そう私も高校3年生の最後の春休みに軽免許を取って、峠の山道を駆け回って楽しんだことを思い出す。リヤービューミラーは振動して後方があまり見えなかったのは、今でも忘れられない。デザインでは、今思えばボンネットのサイド見切りは、当時としてはよくトライしたなと感心する。見切りの隙間をコントロールするのが難しく、私が社内デザイナーのサラリーマン時代は、絶対、採用してもらえなかったアイテムだった。

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ホンダN360(1967年)
 
国民車構想の軽自動車規格を受けて、各社それぞれのポテンシャルを十分発揮し、庶民でも手に入れることのできる4輪車の開発に力を注いだ。次回に触れることにするが、トヨタ自動車も通産省の考えとほぼ同じ構想の車両を考えていたようで、FFで試作車もつくっていた。その結論がFRを採用したパブリカという名前の示すように、パブリックカーとして発売されている。

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トヨタ・パブリカ(1961年)

戦後、乗用車国産化のために正式に発行こそされなかったが、この国民車構想の果たした役割は大きく、1967年には314,6万台を生産し、ドイツを抜いて世界第2位の自動車生産国になり、1968年には生産台数408,6万台で乗用車の生産台数(205,6万台)が商用車を上回った。このような急成長を続ける日本の自動車メーカーを、海外のメーカーたちは黙って見ているわけがなかった。1965年に完成車の輸入自由化、そして、1971年自動車産業の資本の自由化を迎え国際競争力の強化に迫られ、1966年、日産のプリンスとの合併を始めに、トヨタ、富士重工、日野、ダイハツのグループが形成され、三菱といすゞは資本の自由化とともに外資と手を結び、1971年三菱とクライスラー、いすゞとGMという提携が行われた。この間も、日本車は、追いつけ追い越せで、デザインにおいても先進国から様々なものを学びながらポテンシャルを蓄えていったのである。

写真:トヨタ博物館/三樹書房/グランプリ出版 
参考文献:一般社団法人日本自動車工業会サイト

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執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

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