三樹書房
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60s
第13回  神戸モンテミリア
2012.11.27


 前回で終了した筈の「シリーズ」ですが、積み残した「神戸モンテミリア」にはあまりにも「名車」「珍車」がたくさん写っており、このまま没にしてしまうのは忍びなく延長して頂きました。

 本家イタリアの「ミッレミリア」は1927年から57年まで実施され、北イタリアのブレシアからローマ往復 1000マイル(Mille Miglia)1600キロを走り抜けた公道レースで、コースレコードは1955メルセデス300SLRのモス/ジェンキンス組が出した10時間07分48秒(平均158km/h)、山越えを含む一般道でのことだから想像を絶する速さだった。
 「モンテミリア」はこれに倣って1985年神戸で企画されたクラシックカー・イベントで、参加車は基本的には本場のレースに参加した車に準じた車種に限定、第1回は六甲山ホテルに集合し「六甲モンテミリア」として実施されたが僕は見ていない。
 第2回からはベネチアのサンマルコ広場に似せたといわれる神戸ポートアイランド市民広場に会場が変わり、エキゾチックな雰囲気に、会場を埋め尽くす真っ赤なイタリア車の群れは当時としては最高のイベントだった。特に東京中心に行動していた僕にとっては関西地区の未知なる名車に出会えるのは絶対見逃せない貴重な機会だった。第2回から第5回までに撮った1257枚から抜き出した候補は、イタリア(12)、イギリス(14)、ドイツ(3)、フランス(3)、日本(1)、合計33車種、131モデルも有り、イタリア以外は思い切って全部カットして、その中から厳選してもまだ50枚を超えてしまった。更に比較的見る機会が多そうなものを泣く泣く切り捨ててやっと20枚までそぎ落とした結果が今回のクルマ達である。


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(00) 全体が真っ赤に埋め尽くされた「神戸ポートアイランド市民広場」はイタリア車の宝庫(1987-10-10)


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(01) 1929 Alfa Romeo 6C 1500 SS
1920年代後半から30年代のアルファロメオを代表するのが「6C」と「8C」の各シリーズで、6Cシリーズは1927年から32年までの1500/1750がある。1500は大別して「ノルマーレ」「スポルト」「スペル・スポルト」の3グレードがあり「ツーリング」や「ザガート」のボディを載せているから、写真の「SS」はDOHCのホットバージョンだが荒々しさはなく上品で美しい。

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(02-1) 1953 Fiat-Zagato 750 MM Berlinetta
イタリアにはフィアットと言う恰好なエンジン、シャシーを供給してくれるメーカーが存在しているお蔭で、戦前からそれを使って魅力的なボディを載せた車が沢山あった。ザガートはその中でも最も名の知れたトップメーカーで、量産車のデザインを担当するほどの大手だが、前年発売されたフィアット600をベースにした「ザガート」の「750」は「アバルト・チューン」がよく知られている。一方写真の車はノーマルのフィアットにザガート・ボディを載せたものだが、1952年のミッレミリア出走リストによると「750GTクラス」にこれと同じ車が10台も出走しており写真で確認出来た#2313は15時間48分58秒で75位の結果を残している。


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(02-2) 1971 Fiat 500 Gamini by Vignale
ヴィニアーレが造った 一見クラシカルな外見をもつこの車は、「ガミーニ」(お転婆娘)と名付けられたように、どちらかと言うとレジャーカーで、同じ500ベースで「カロッセリア・ギア」が造った「ジョリー・カー」と近い性格のクルマだ。この剽軽な顔立ちは結構愛好者が多かったようで2001年ミッレミリア観戦の際フータ峠でも見かけたし、国内でも他に白い車を見ている。


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(03-1) 1967 Fiat Abarth OT 1300 Coupe
アバルトのOTシリーズには「フィアット850」の「ベルリネッタ」と「クーペ」をベースにした2種類があり、どちらもボディは原型のままで、それと判るアバルトの装飾が施されている。(OT1000スパイダーは例外)殆どが850のエンジンからチューンアップし「OT1000」となっているが、写真の「OT1300/124 クーペ」はその名前からも判るようにエンジンは「フィアット124」のもので、それをひと回り小型な「フィアット850クーペ」のボディに詰め込んだアバルト伝統の作品だ。


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(03-2) 1958 Fiat Abarth 700 Record Monza Zagato/ 1963 Abarth-Simca 1300 Bialbero
今回アバルトの候補としてピックアップした対象は695-SSから1300-SPまで21枚もあった。アバルトの割り振りは2コマと決めていたので少しでも効率の良いようにと2台写っている写真を選んだ。右は「700レコルト・モンザ」でこのシリーズは1958年から60年までに「750 」「850」「700」「800」と4種の排気量の車を送り出した。本人申告の1958 年は「750」しか造られなかった年だが、写真の車が「750」ではなく「700」であることはテールのバッジで別途確認済みで、僕の手元資料では「700」は1960年のみとなっており年式には疑問が残る。左は「シムカ・アバルト1300」で、フィアットと深い仲のアバルトもたまにはフランス娘にもちょっと色目を使ったようだ。といってもベースの「シムカ1000」はボクシーなスタイルだったから、流れるようなボディは自社製で、使われたのは高度にチューニングされたエンジンだけで、4速のギアボックスも一部には使われたが、6速のアバルト製が多用された。僕は1966年、第3回日本GP予選で雨の中を疾走する姿を写真に捉えている。 


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(04-1) 1953 Alfa Romeo 3000 CM Spider
この車のルーツは1952年1900のレーシング・スポーツ・バージョンとして造られた「ティーポ1900 C52」で、横に大きく張り出した平たいボディが「空飛ぶ円盤」の様に見える所から「ディスコ・ヴォランテ」の名前で知られている車だ。その車はルマンの出場を目指してテストを続けたが、総合優勝を狙うには力不足として開発は中止された。しかし、翌1953年「ティーポ6C 3000 CM」として復活、この年のミッレミリアで、終盤トップに立ったファンジオの車が優勝かと見えたが、右前輪の操舵不能でスローダウン、フェラーリに優勝を譲り2位でゴールインした。オリジナルの「ディスコ・ヴォランテ」はコロンボ、サッタ両技師とカロッセリア・ツーリングの協議で生み出されたスタイルだが、「3000 CM」はあまり有名ではない「コッリ」と言う小さな工房で造られた。アルファ・ミュージアムや、ラグナ・セカで僕が見た車達は皆とても綺麗な状態だが、レース時の写真は継ぎ貼りだらけでお世辞にもカッコいいとは言えない。


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(04-2) 1968 Alfa Romeo Tipo33 Stradale
アルファロメオも候補としては18枚選定したが割り当ては3コマしか取れなかったのでクラシックカーから1枚、スーパースポーツから2 枚を選び、「SZ」「TZ」をはじめ比較的イベントでも見る機会の多いものは涙を呑んで全てカットした。写真の「ストラダーレ」は1967年から69 年にかけて18台しか造られなかった希少価値の高い車で、アルファロメオが満を持して登場させた戦後初のレーシング・スポーツ(グループ6スポーツ・プロトタイプ)「ティーポ33/2」のロードバージョンとして誕生した。流れるように美しいスタイルのデザインはスカリオーネで、1963年の東京モーターショーで見た「プリンス1900スプリント」もイメージとしては似ていたなぁと改めて思い出した。「ティーポ33/2」(2リッターV8) はこの後「T33/3」(3リッターV8)、「T33/4」(4リッターCanAm)、「T33 TT12」(3リッターH12)と進化しながら1977年までアルファロメオのレース活動の主力として活動を続けた。


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(05-1) 1953 Maserati A6GCS
マセラティは1930年代からレース界で活躍しているイタリアの名門であることはご存じの通り。しかし1937年、車名はそのままで会社の経営は「Orsi」に買収され、創立者のマセラティ兄弟は10年契約で技術者として開発を続けたが、戦後間もなくの1947年にはその期限が切れて「マセラティ社」を去る事になり「オスカ社」を設立した。兄弟が最後に残していったのが「直6 SOHC 1488ccエンジン」で、1947年これを使って「A6-1500」ツーリング・スポーツが誕生し、その発展型2リッターエンジンでF2レースを戦う一方、デチューンしたエンジンを使って造られたのが「A6 GCS」シリーズで50年代前半スポーツカー・レースで大活躍した。「A6 GCS」は1947年デビューした四角いグリルの中央に一つだけヘッドライトがある初期型と、1953年からは写真の後期型に分かれる。この車は50台造られて一般に市販され、プライベーターをサポートした。1954年には「2リッター・スポーツカー」クラスでチャンピオンを取っているが、レースで戦えるポテンシャルを持ちながら圧縮比を低く抑え、市販ガソリンの使用が可能だった。

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(05-2) 1966 Maserati Mistral Coupe
1950年代後半のレーシング・スポーツを代表する「300S」も対象に挙げたがスタイルがオーソドックスで、比較的良く知られているので「没」。それに代わって、カタチの面白い「ミストラル」に登場してもらった。僕は国内でクーペとスパイダーを1台ずつしか見ていないので、日本では珍しいのではないかと思っているが、1963年から70年まで長期間にわたって950台近く生産されている。それまでのグリルの存在感が強いロードカーに較べると「フルア」がデザインした「ミストラル」は次世代のスーパーカーを予測させる当時としてはモダンな雰囲気が人気の一端を担っていたかも知れない。もう一つは同時に発売された「セブリング」より100ミリ短い2400ミリのホイルベースもスタイルと相まってスポーティなハンドリングが期待出来たと想像される。


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(06-1) 1957 Lancia Appia GTE Zagato/1961 Lancia Flaminia Sport Zagato
「すべての道はローマに通ず」と云う言葉は「ランチャ」の為に造られたわけではないが、「アウレリア」「アッピア」「フラミニア」「フラヴィア」「フルヴィア」と聞き覚えのある名前はすべてローマへ続く街道の名前が付いている。「アッピア」は1950年デビューした大傑作「アウレリア」の弟分として、一回り小型にした姿で1953年登場した。第2世代の1955-59年は初代のプレーン・バックから段付きのノッチ・バックに変り、第3世代の1960-63年は横長グリルに変った。写真左は「ザガート」が手掛けた「GTEクーペ」で、この他に「ピニンファリナ」「ヴィオッティ」「ヴィニアーレ」のカロセリアによるスペシャル・バージョンがある。


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(06-2) 1966 Lancia Flavia 1.8 Pininfalina Coupe
最初にハッキリさせておく必要があるのは、紛らわしい名前の事だ。上から「フラミニア」「フラヴィア」「フルヴィア」とあり、写真の車は中間の「フラヴィア」だ。このシリーズはランチャ初の前輪駆動で1960年水平対向4気筒1.5リッターのベルリーナでスタートし、翌1961年のトリノ・ショーで「ピニンファリナ」から 写真の「1.8リッタークーペ」が発表された。1962年には「ザガート・スポルト・クーペ」と「ヴィニアーレ・コンバーチブル」が誕生し、格好な素材にカロッツェリア三つ巴の競演となった。「ピニンファリナ」はクーペながら4人乗りの大きなキャビンを持つがバランスの良さでそれを感じさせないのは見事だ。


<フェラーリのこと>
エンゾ・フェラーリ自身は戦前からアルファロメオに「跳ね馬」を付けてレース活動をしていたが、「フェラーリ」の名がついた車は1947年5月12日イタリアのピアチェンザのレースに登場した1.5リッター「125S」が最初である。「166C No0C1/010I」のシャシー・ナンバーを持つ車が現存するが僕は写真を撮っていない。V12 SOHC 1496.7cc SC付きエンジンでフェンダー付きのスパイダーだった。この時以来フェラーリは殆ど12気筒という時代が続いたから、1気筒あたりの排気量が型式名として使われた。「125S」は125×12=1500ccとなり、そのあと活躍した「166」は2リッター、「250」は3リッター、「375」は4.5リッター、「410スーパーアメリカ」は5リッターという具合である。フェラーリ初期を代表するのは「166」シリーズで、1997年イタリアのミッレミリアでは大阪から参加した「166/212」を撮影しているが、残念ながらモンテミリアでその車を見ることは出来なかった。次は「250」シリーズで、長いフェラーリの歴史の中でこれ程バラエティに富んだ内容の濃いシリーズはない。と言う訳で数あるフェラーリの候補の中から代表して「250」シリーズのみを選択した。僕のパソコンの区分けでは「250」だけでも28項目に分かれているくらい種類が多い。今回はその中からモンテミリアで捉えた個性のある6台を紹介する。(人気モデルの中で「250 GT TdF」「250 GTO」はモンテミリアでは見ることが出来なかった)

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(07-1) 1953 Ferrari 250 MM
初期のフェラーリ250を代表するのがこの「MM」で、ピニンファリナの製品番号「PF-597」を持つ傑作だ。
同時期の同じように大きな開口部を持つ作品は、何れも豪華さを狙って開口部がクロームで縁取りされていたが、写真の車は余計な飾り付けがなくいかにも精悍に見える。


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(07-2) 1955 Ferrari 250 GT Competizione Pininfalina Berlinetta
写真の車は「PF-681」の製品番号を持ち、明らかに前項の「250MM」の影響を受け、と云うよりは少しマイルドに手直しして、より洗練された形で生まれ変わった。しかしライトより前に突き出したノーズの開口部にはレーシングカーの精悍さも感じさせる優れたデザインだ。


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(07-3) 1956 Ferrari 250 GT Boano Coupe
この車の原型は1956年ジュネーブ・ショーに展示されたピニンファリナ製の「250GT クーペ」(PF-657bis)で、生産は1954年ファリナから独立した新興の「カロセリア・ボアノ」が担当した。今までの丸みが中心のデザインから、平面とエッジの効いたデザインは当時の目には新鮮に映った。「ボアノ・クーペ」は約90台造られたが、1957年フェリーチェマリオ・ボアノがフィアットのスタイリング責任者として招かれ、会社は娘婿のエジオ・エッレナが引き継いで「カロセリア・エレナ」となり「250GT」はそのまま製造が続けられた。このあとは厳密には「エレナ・クーペ」と呼び、外見的にはそれまでやや低めだったルーフが普通の高さになり三角窓が無くなった。しかし一般には「ボアノ/エレナ・クーペ」とひとまとめで呼ばれることが多い。


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(07-4) 1957 Ferrari 250 TR Spider
この車を造るとき候補に挙がったエンジンは3つあった。(1)コロンボ系(Tipo125)、(2)ランプレディ系(Tipo100)、(3)ヤーノ系(Tipo130)である。(3)はDOHCで既に5リッターまで成長し、縮小幅が大きく構造も複雑という事で除外され、(2)は(1)に比べてボアが18ミリ大きくエンジン全体では10センチも長くそれだけ重くなるので、残った(1)コロンボ系を選び、完成したエンジンは「Tipo128 LM」と名付けられた。車名の「テスタロッサ」とは直訳すればイタリア語で「赤い頭」だが、このエンジンのカムカバーが赤く塗られていたという簡単な理由からである。「テスタロッサ」と言えば脇が抉れて特異な形をした「ポンツーン」型を思い浮かべるが、これは前輪ブレーキの冷却効果を狙ったものだった。しかし空力的に高速での安定を欠く所から1958年途中からワークスでは使用せず、プライベートチーム向けの市販型のみとなった。


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(07-5) 1962 Ferrari 250 GT SWB Berlinetta
「SWB」の正式名は「Short Wheelbase Berlinetta」で、その名の通り2400ミリのホイルベースは今までより200ミリ短縮された。その狙いは旧来のパワーに頼る走りから、総合的な運動性能を向上させるという、近代的な発想転換に基づいて一つの時代を築いた傑作車だ。この当時はまだレース用の車に乗ってサーキットに行き、レースが終わったらそれに乗って帰る、ということが出来る時代だったから、おなじ「SWB」でも目的に応じてレース専用のホットチューンから、レースはしないロードバージョンまで性能は個体ごとに違ったらしい。「ピニンファリナ」のデザインで1960年から62年までに「スカリエッティ」で170台が製造された。


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(07-6) 1964 Ferrari 250 LM Pininfarina Berlinetta
1963年のルマンで1台のフェラーリが優勝した。それは「250TR/61」の発展型シャシーに「SWB」と同じ2400ミリのホイルベースで、コロンボ系の3リッターV12エンジンを「ミッドシップ」に積んだ「250P」だった。その年秋のパリ・サロンでこれにちなんで「250 LMベルリネッタ」と名付けて発表と同時に発売された。1号車は1964年2月デイトナでレースデビューをし、この時は看板通り250 (3ℓ)エンジンだった。しかしその後275 (3.3ℓ)に換装され、2号車以降も最初から275エンジンを積み、実質「275LM」だが何故か車名は「250LM」のままだった。1965年のルマンではルイジ・キネッティのNARTからエントリーした「250 LM」がグレゴリー/リンドのドライブで優勝している。ロードバージョンも含め32台が造られた。


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(08-1) 1966 ASA 1000 GT Coupe
この車が1961年のトリノ・ショーでデビューした時は「フェラリーナ1000 GT」だった。名前からも判るように実質はフェラーリが開発した4気筒の小型クーペで、「12気筒以外はフェラーリに非ず」という風潮の中でフェラーリの名も跳ね馬も使えず、ベルトーネデザインのこの車を造るためミラノに工場が造られた。Autocostruzioni S.A.(自動車製作株式会社)の社名の頭文字から「ASA1000 GT」と名付けられた。


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(09-1) 1965 OSCA 1600 GT2 Zagato
「OSCA」は「Officine Specializate Construzione Automobili Fratelli Maserati」(マセラティ兄弟特殊自動車製作所)の略。1948年から67年まで存在したメーカーで、兄弟は名門「マセラティ」の生みの親として知られる。最初のスポーツカーMT4は1949年SOHC 4気筒1100ccでスタートした。その後オスカの4気筒エンジンはDOHCに発展し、レースのクラスに合わせ749cc、1092cc、1491cc、が用意され、レギュレーションが変更されると993cc、1568cc、1995ccと対応した。オスカ車の目的は基本的には「レースで勝つこと」にあったから大部分は軽量なオープン2シーターだったが、「1600 GT」は「フィッソーレ」「ボネスキ」「ツーリング」「ミケロッティ」「ヴィニアーレ」とイタリアの名だたるカロセリアが競作する素材だったらしく数々の豪華なクーペが誕生した。中でも最も魅力的なのは「ザガート」の作品で、写真の車はスタンダード・モデルの「1600 GT2」だがヘッドライトにカバーのある「1600 GTS」もあった。 


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(10-1) 1947 Stanguellini 1100 Sport  
スタンゲリーニの歴史は古く、1879年機械製造を始め、1899年フィアットの販売代理店となり、1925年には「スクアドラ・スタンゲリーニ」を結成してレース活動をつづける。そして1930年代後半にはフィアットベースの750と1100が造られている。数あるイタリアの中小メーカーに中でもかなりの多くの車を生み出しているブランドで、写真の車もフィアット1100がベースとなっている。標準的なグリルは「おにぎり型」でそれが横長になった時には「富士山型」と様々に表情が変わる。僕の中では「クジラが笑った顔」とイメージしている。しかし、写真の車は上に突起がないオーソドックスな四角いグリルで、スタンゲリーニとしては逆に変わり種の部類でこの車以外に同じタイプは見ていない。

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(12-1) 雨上がりの神戸ポートアイランド市民広場・第5回モンテミリア(1989-10-14)
(左)1967 Ferrari 275 GTB/4 N.A.R.T. Spider、 (右) 1965 275 GTB Berlinetta

          ーEND-

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執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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