三樹書房
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第2回  <ボクのパソコンには「お宝が一杯!」>(その2・東京編)
2011.12.26

① 1964年(昭和34)秋、僕は東京に転勤になった。勤務先は東京タワーが真正面に見える三田の電車通り(現桜田通り)で、都電の停留所「慶応義塾前」近くにあった。この通りは「国道1号」で高速道路が出来るまでは、都心から「五反田」「第2京浜」を經て羽田、横浜方面へ向かう主要道路だったから、随分とめずらしい車がここを通った。

(写真1)昭和34年(1959)JR田町駅品川寄りの「札の辻」交差点より桜田通り方面を望む。東京タワーは昨年完成したばかり。

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特に貴重だったのは宮内庁が所管する「御料車」で、国賓が来日された際、羽田へお出迎えの車は必ずここを通ることになる。当日は朝から警官が50m置き位に立っているので通過予定時刻を確認しておいて、その時間になると一寸表に出てパチリとやっていた訳だ。ノンストップでやって来るので予定時刻は極めて正確だった。当時、御料車はベンツ4台、キャディラック、デムラー、ロールスロイス・シルバーレイス/ファンタムⅤの5種8台があった筈で、全く外に出なかったキャディラック以外はみなこの通りで見ることが出来た。

(写真2)ビユイックの先導車、前後2輌づつのサイドカーに護られて進む御料車のロールスロイス・シルバーレイス<皇8>。サイドカーは舟が左右反対に付いているのに注目。昭和34年 勤務先の前で。

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② この通りを東京タワーへ向かって300メートル行くと赤羽橋の交差点で、左に曲がればこの先約1キロにわたって中之橋、一の橋、鳥居坂下と続き、板金、幌内張りなど専門技術を持つ修理工場が軒を連ねていた。当時は路上駐車が禁止されていなかったから、修理待ちの車は当然のように、前の道路に並べられていた。だから僕は昼休みになると自転車でぐるっと一回り獲物を探して歩き、その結果数々の珍車と巡り会えた訳だ。
 
(写真3)幌内張、鈑金、塗装の看板を掲げ、前の道路に車を停めてある典型的な整備工場。車はジャガーXK120 ロードスター。中之橋付近(港区森元町)にて。

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③ そして土曜日の午後には一寸離れた虎ノ門・赤坂溜池方面や、六本木付近に足をのばし鵜の目、鷹の目で写真を撮りまくった。虎ノ門の角には「ニューエンパイア・モータース」(フォード)があり、その裏の虎ノ門病院の前の道路には隣のアメリカ大使館関係と思われる最新モデルをはじめ、主にアメリカ車が多数見られた。虎ノ門から赤坂見附にかけては外車デーラーのショウルームが軒を連ねており「日本自動車」(フィアット)は裏通りに廻ると何か獲物があった。「日英自動車」もショールームの新車より、外に止まっている車や金網越しに見える修理予定の車に興味を惹かれた。1960年当時、赤坂山王ホテルは進駐軍(駐留軍?)に接収されており「日本人立ち入り禁止」の看板がある為、道路沿いの駐車場に珍しい車を見付けても遠くから望遠レンズで撮るしかなく、勿論後ろ姿は見ることが出来なかった。地下鉄「赤坂見附駅」の裏通りに「三和自動車」(ポルシェ)と「伊藤忠」(ヒルマンなどルーツ系)の事務所がありここでも珍しい車を撮っている。左に曲がって青山通りに出ると右手豊川稲荷の手前に「日仏自動車」(シトロエン)の修理工場があり、その斜め向えの「新東洋企業」(ジャガー)の修理工場で僕ははじめてEタイプを見て感動した記憶が蘇る。
 
(写真4)ニューエンパイアー・モータースは虎ノ門の交差点にあり三角形の敷地だった。フォードのデイラーだがコルベットも停っていたリした。溜池方面への巡回コースの出発点だったから必ず立ち寄る重要な場所だった。車は米軍ナンバーの最新型フォード。(1960年10月))

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④ 土曜日のもう一つのコースは六本木で、「東京ミッドタウン」になる前、「防衛庁」だった場所は、僕が写真を撮っていた当時はまだ米軍に接収されており、道の反対側の「現・国立新美術館」(元東大生産技術研究所)も含めて「ハーディ・バラック」と呼ばれていた。当然この周りには外車が一杯で良い猟場だった。
 
(写真5)今六本木7丁目となっているミッドタウンの向え側は、当時は「麻布龍土町」という洒落た名前で、この道を境に反対側は赤坂と呼ばれる区域だった。車は1957 VWタイプⅠ・カブリオレ(1960年防衛庁前)

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⑤ 土曜日の仕事帰りに東京駅で降りて、「丸の内」界隈を歩いたこともあったが、期待したほどの成果が無かった。それは土曜日の午後のビジネス街は仕事中では無かったからだろう。

(写真6)この辺り一体は赤煉瓦の英国風建物が連なり俗に「一丁ロンドン」と呼ばれて、ビジネスの中心となった場所だったが、今は再建された1棟を残すのみとなった。車はジャガーXK120 フィックスドヘッド・クーペ。

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銀座通りは今も昔も、何時行っても、必ずと言って良いほど高級車や、洒落た車に出逢うリッチな街だから成果は多かった。

(写真7)1973年 銀座・交詢社通り。銀座の項ではキャバレー・ソワール/モンテカルロなどをバックにした高級車や数々のスポーツカーなど紹介したい物が一杯ある中、敢えて時代を反映したミニスカートのお嬢さんが写っているこの写真を選んだ。車はロータス・ヨーロッパ。

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⑥ 羽田空港は電車とバスを乗り継いで何回も行った。当時「成田空港」はまだ無かったから、羽田が「東京国際空港」として海外からの渡航者は全て此処に到着した。その頃はまだ1ドル360円の時代で海外旅行なんぞは庶民にとっては夢のまた夢で、利用する人はそれなりの「偉い人」だから送迎の車もそれなりに立派な車が多かった(因みにその頃の僕の給料は1万円そこそこだったがハワイ旅行が40万円近くしたらしい)最新の車、特に大使館の「外」マークが多く見られた。
 
(写真8)羽田で撮った車は沢山あるが最新型の大使用から40年代の貴重なモノまである中で偶然見付けた珍しい車を選んだ。車はポーランド製の最新型ワルシャワM20で、勿論日本には大使館のこの1台しか無かった筈だ。

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⑦ 少し離れたところでは立川と横浜がある。その頃中央線沿線(中野・阿佐ヶ谷)に住んでいたので立川にも何回か行った。「昭和記念公園」になった場所は当時はまだ「立川飛行場」で米軍の輸送機が多数見られた。自動車に関しては「E」や「Y」ナンバーの駐留軍人・軍属が所有する車が多く、都内で見かける公式な車に較べると、かなり草臥(くたび)れた40年代の車や、2ドアのパーソナルカーなどに生活臭が感じられ、まだ行ったことの無かったアメリカの生活がそこに有るように思えた。

(写真9)駅前のデパートの屋上からは飛行場の全貌が見えた。近くで撮ったこの写真は当時最新型の大型輸送機「ダグラスC124cグローブマスター・マークⅡ」と思われる。

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(写真10)1962年 場所は立川米軍基地の「ゲート1」を出た所でのスナップで後の看板が面白い。駐留軍要員を対象にした金融業者は英語の看板まである。車は1951年型ハドソン・コモドア。

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⑧ 横浜も何回も行った場所だ。桜木町迄電車で行って大桟橋・山下公園周辺を廻った事もあるが、行動範囲が限られてしまうので、何回かは環状7号経由で中野からバイクで飛ばした。ただ土地不案内で何処に素敵な車が居るのかが、いまいち分かって居なかったから、それ程の成果はえられなかった。

(写真11)横浜にはキング、クイーン、ジャック、と呼ばれる3つの塔を持つ歴史的建造物がある。写真の遠景には横浜税関のクイーンの塔が見え、正面には旧英国領事館がみえる。横浜は今でも歴史と共にある街だ。車は1960年型ポンティアック・スターチーフ。1961年3月 横浜市内。

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⑨ いろんな場所に行ってみたが結局ベストは「表参道」だっただろうか。通りの周りにびっしりと駐車しているから珍しい車が沢山いる。周りの景色が良いから写真映りも最高。と言っても今若者が憧れるファッションやブランドの街とは違い静かな街だった。東洋趣味の骨董店や子供連れでキディランドへ来る家族連れの外人が乗ってくる車がボクの目当てだった。そしてここは何時も期待を裏切らなかったから、一番回数も多い懐かしい場所だ。この場所も程なく駐車禁止となってしまい、路上で良い車に出逢える機会がどんどん少なくなってしまった。

(写真12)写真は昭和41年撮影したもので、中央分離帯はまだ無い。車の数はかなり多く、むしろ今より渋滞は酷かったようにおもう。表参道から明治通り、原宿駅方面を望む。

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 (写真13)道の向う側に見えるのは、大正15年に日本初の近代アパートとして建てられた「同潤会青山アパート」の一部で、現在は「表参道ヒルズ」に変身し、その端に1部屋だけ復元保存されている。車はシトロエン11CV。

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タイトルに「お宝が一杯」と書いたからには、何処でどんな車と出会ったかを書きたかったが、フィルム50本迄書き出して諦めた。車名を書き連ねるだけでも、予定のスペースが足りなくなってしまうからだ。次回は写真集出版に際して監修者の高島さんと写真の選定をした時の事をお伝えするつもりです。

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執筆者プロフィール

1934年(昭和9年)静岡生まれ。1953年県立静岡高等学校卒業後、金融機関に勤務。中学2年生の時に写真に興味を持ち、自動車の写真を撮り始めて以来独学で研究を重ね、1952年ライカタイプの「キヤノンⅢ型」を手始めに、「コンタックスⅡa」、「アサヒペンタックスAP型」など機種は変わっても一眼レフを愛用し、自動車ひとすじに50年あまり撮影しつづけている。撮影技術だけでなく機材や暗室処理にも関心を持ち、1953年(昭和28年)1月には戦後初の国産カラーフィルム「さくら天然色フィルム」(リバーサル)による作品を残している。著書に約1万3000余コマのモノクロフィルムからまとめた『60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ編】』『同【アメリカ車編】』『同【日本車・珍車編】』『浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録』(いずれも三樹書房)がある。

関連書籍
浅井貞彦写真集 ダットサン 歴代のモデルたちとその記録
60年代 街角で見たクルマたち【ヨーロッパ車編】
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