三樹書房
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第5回 日本のカーデザインの変遷と展望(前編)
昭和から平成へ。1960~1980年代のカーデザインの変遷を考える
2020.3. 4

カーデザインには、その時代の社会の在り方、家族の在り方などが大きく影響しているものだ。社会背景によって、自動車に求められるデザインも変化していく。今回から2回にわたり、日本のカーデザインの変遷について、私が思うところを述べてみたいと思う。
まず今回は1960年代から80年代。戦後日本に本格的なモータリゼーションの時代が到来した昭和30年代後半から、元号が平成になるまで、つまり「昭和」のカーデザインに焦点を当て、各年代ごとに、日本のカーデザインの特徴と変化を述べていく。
そして次回(最終回)では、1990年代以降、つまり平成・令和のデザインの特徴と、今後の方向性などを考察して連載の締めくくりとしたい。

話題が少し自動車から離れるが、まずは都市交通インフラの整備についてみてみよう。
東京オリンピックの開催を数か月後に控えた現在、JR東海では、リニアモーターカー方式である中央新幹線の整備を促進し、大阪までの全線開業を当初の予定より早めることを目指して建設を推進しているという。リニア中央新幹線が開業すれば、日本の鉄道網の高速化はさらに進むことになる。オリンピックの開催も都市交通のインフラのジャンプアップも国を挙げての大事業であり、日本国民にとって便利で楽しい未来を予感させることでもある。
今から50年以上前、1964年の東京オリンピックの開催時にも、これと似た状況があった。オリンピックというビッグイベントにあわせて東海道新幹線や東京モノレールが開業したのである。また、このときは鉄道だけでなく、道路の整備も飛躍的に進んだ。戦後間もないころの日本はまだ道路網が行きわたらず、また未舗装の劣悪な状態の道路も少なくなかった。しかし高度成長期を迎えた1960年代以降、盛んに道路建設が行われ、全国に高水準の道路整備が行き渡るようになった。さらに東名高速など高速自動車国道の建設も進んでいく。東京の首都高速道路も東京オリンピック開催前の1962年に一部開通している。これは日本初の都市高速道路である。また1965年(昭和40年)には、名神高速道路の名古屋 - 阪神地区間の全線(小牧IC - 西宮IC、193.9 km)が完成するなど、その後も高速道路網はほぼ全国に整備されていった。鉄道も道路も、高速移動時代の到来である。
それに伴い、1960年代後半頃からマイカーの普及が本格化し、日本の道路を走る自動車の台数が大幅に増加することになる。日本のモータリゼーションの急激な発達は、こうした、高度経済成長期の下での高速化を目指した交通網の整備が大きく影響して成し遂げられたものである。乗用車の保有台数は1971年(昭和46年)には1000万台に達した。

このような背景の中、1960年代には、日本の自動車産業も目覚ましい進化を遂げている。そして1960年代のカーデザインは、第4回でも書いたように、"ジャパニーズオリジナルデザインの創世期"であり、日本独自の個性豊かな素晴らしいデザインを多く創出した。
それは、デザインの様式が確立されていない時代の個性であるともいえるだろう。現在のカーデザインはアメリカや欧州のセグメントやカテゴリーによるライフスタイルをベースにした様式が基本となっているが、当時は"セダン"が自家用自動車であり、トラックやバンは、業務用の車であった。
乗用車も普通車と小型車の間に車幅の規制があり、税制上区分されていた。当時の日本ではまだ、大きなものは贅沢である、という考えが根底にあったのかもしれない。
そんな社会に対応し、日本ではミニマル(最小限)な自動車が作られていたが、それらはまた、日本独自の個性的なデザインを身に纏っていた。
また当時の日本では諸外国のクルマを見てデザインを学んだデザイナーが活躍していた。特に欧州のオースチンや、アメリカの豊かな造形を参考にしていたようだ。
英国のオースチンは、日産自動車がライセンス生産をしていたので、デザインを確認するチャンスが日本のメーカーのデザイナーにあっただろう。また当時の日本人は、豊かなアメリカの生活にあこがれていたので、トヨタやプリンス自動車などがアメリカ車のデザインからアイデアを得ていたことも想像できる。当時の富士重工(SUBARU)では、百瀬晋六が、フランスのシトロエンの独自技術に大変興味を抱き、輸入して研究していた。SUBARU1000や、FF-1の機構やデザインには、当時のフランス車の影響があったと思われる。このことは、SUBARUの前身会社である中島飛行機が最初にフランス人航空技師からたくさんの事柄を学んだ歴史も関係あるのかもしれない。

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1966年発売のSUBARU1000


1970年代は、大気汚染問題が深刻化した時代であった。北米のマスキー法(大気浄化法改正法)が発令され、自動車メーカーにとっては、厳しい排ガス規制との戦いが始まった。
環境対応と性能やデザインが相反する困難な時代である。
しかし、日本のメーカーは、このピンチをチャンスに変え、日本車は続々と海外に進出していく。日本の質実剛健なクルマづくりがもたらした功績である。
世界で初めてマスキー法をクリアしたのが、ホンダシビック(初代)で採用された『CVCC(複合渦流調速燃焼方式)』であった。シビックは、FFのコンパクトハッチバックカーであり、全世界にシビックの名を知らしめた。
日産は、やはりFFのチェリーを発売。若者を中心に人気を博した。
スバルは、オンロードのAWD、レオーネを発売。
各メーカーで、現代につながる技術革新が図られた時代であった。しかしながらデザイン面は......残念なことに、アメリカ車に影響されてどんどん装飾過多になり、60年代のスマートなデザインは姿を消したという印象である。

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左:ホンダシビック CVCC DX(1973年)と右:スバルレオーネ(1971年)


ボディが大きくなってきたことも、デザインの特徴のひとつだ。各社とも排気規制をクリアすることに技術の配分を集中させたため、シャシー等の新規設計が間に合わなかったのかもしれない。60年代のミニマルな車の小さなシャシーを流用しながら、ボディだけ力強いアメリカ車のデザインを模した大胆な造形を施して、それをコンパクト化して乗せていた。さらに、タイヤサイズも小さかったため、多くの車のタイヤが、ボディの大きさやホイールアーチデザインに負けて奥まった配置で、結果、上半身はマッチョだが、下半身はすぼまったアンバランスなデザインが生まれていた。
いっぽう、欧州ではスポーツカーが多く創出された時代であった。日本でもたくさんのカー雑誌が発刊されて海外のスポーツカーの情報がもたらされ、小学生から大人まで巻き込んだ、"スーパーカーブーム"が訪れた。
さらには、1976年から自動車レースの最高峰のF1が日本でも開催され(F1世界選手権インジャパン)、多くの自動車ファンは歓喜した。最終戦であった日本では、フェラーリのニキ・ラウダと、マクラーレンフォードのジェームス・ハントの、タイトル争いの決着の場となった。結果、マリオ・アンドレッティが日本で優勝、ニキ・ラウダはリタイヤ、3位のジェームス・ハントが、1976年の個人タイトルを手中に収めた。これをきっかけに、日本でもF1が認知されることになり、続く1980年代後半からFIブームが熱を帯びることになった。
このように自動車の文化が熱を帯びる中で、日本の大衆車も、次の時代に向けて水面下で技術を磨いていたのである。各社難しい排ガス規制を乗り越え、また、愉しい夢のある車づくりを始める1980年代に繋がって行く"冬の時代"であった。

1980年代の日本は「バブル」の好景気の時代。カップルのデートカーとしてスペシャリティカーが多数生まれ、デザインでも日本国内オンリーのデザインの進化が顕著に進んだ時代である。トヨタソアラやホンダプレリュード、いすゞピアッツァなどのスペシャリティカーが多数創出された。
デザインの特徴は、いわば"角の時代"。シャープな直線的デザインがトレンドであった。そのエポックメーキングなデザインだと思われるのは1980年発売の、マツダFFファミリア(5代目)である。この車はカーオブザイヤーにも輝く秀逸なデザインであった。目の覚めるような真っ赤な訴求色。直線基調のBOXYデザインはシンプルな面と線で構成され、大きなグラスエリアで視界が良く運転しやすいデザインは、若者、特に女性に人気を博した。若者の中でもサーファーがこの車のシンプルなイメージを引っ張り、訪れたレジャーブームの先駆けになったと言える。70年代の装飾過多のぶくぶく肥ったデザインに飽きていた人々に対して、このBOXYデザインはとても新鮮で時代感を感じた。
さらに、1981年にはホンダからCITYが発売され、ユニークなCMの効果もあって、若者を中心に人気をつかんだ。荷室に入るバイクのモトコンポも、ユニークなコンセプトで度胆を抜かれた。この商品からは愉しい時間を共有できるライフスタイルの提案がなされたのだと思っている。日産もブルーバードやシルビア・ガゼールなどにも魅力的なデザインを創造した。

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左から:マツダ5代目ファミリアハッチバック(1980年)、ホンダシティに収納されたモトコンポ(1981年)、日産シルビアクーペ1800(1987年)


バンパーが鉄から樹脂化され、ノーズコーンと呼ばれる一体形のフロントデザインが可能になったのも、80年代である。これがカーデザインの自由度を向上させ、飛躍的に良いデザインができるようになったと思う。デザインの劇的な変化の時代である。
1984年には、グッドデザイン賞の大賞を、自動車デザインとして初めてワンダーCIVICが獲得する。次いで1988年に、日産シルビアが大賞となった。(その後、大賞は1994年のVOLVOエステート、2006年三菱I-Miev、2008年にトヨタiQが獲得している)
80年代はさらに、自動車の高性能化が進んだ時代でもある。各社とも70年代の排ガス規制をクリアし、自動車開発を次の時代へと進めていた。エンジンはターボ(過給機)を付けて大きなパワーを出し、それを象徴するデザインも大きな進歩を遂げた時代なのである。
スポーツカーでは本来の「愉しさ」へと原点回帰が図られるいっぽう、280馬力の自主規制値が出されたため、各社スポーツカー(スポーティカー)がこぞって280馬力を出して競合していた。キャブレターからインジェクションに吸気系のシステムが変わり、馬力コントロールを効かせることができたのも要因のひとつであった。中でも日産自動車が開発したZ32型フェアレディ、R32型スカイラインGT-Rなどが280馬力を誇ったモンスターの代表格だろう。デザインも迫力があり、生き生きとしていた。70年代の規制で抑えられたデザインから、大きく脱皮を図った時代である。
マツダの "ユーノスロードスター"も1989年の発売で、2019年に30周年を祝った。80年代は、60年代に市場から消滅したかと思われたオープンカーがより幅広い層の人々が愉しめるようになったのである。90年代に向けて、自動車のさらなる発展に大きな期待がもたれた時代であった。

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左:日産R32スカイラインGT-R、右:ユーノスロードスター(ともに1989年)

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執筆者プロフィール

1962年(昭和37年)、埼玉県生まれ。
富士重工業株式会社(現在のSUBARU)に入社、デザイン部配属。1991~94年、SRDカリフォルニアスタジオに駐在し、帰国後3代目レガシィのエクステリアデザインリーダー、2代目インプレッサのデザイン開発リーダーを務め、2001年~2007年は先行開発主査、量産車主査を歴任。2011年商品開発企画部部長兼務デザイン担当部長(先行開発責任者)となり、2013年デザイン部長就任。2014年のジュネーブショーカー『SUBARU VIZIV‐IIコンセプト』から、SUBARUのデザインフィロソフィ『DYNAMIC×SOLID(躍動感と塊感の融合)』を発表した。
三樹書房『SUBARU DESIGN』(著者:御堀直嗣)は、石井が御堀のインタビューを受けてまとめられたもので、本書に記載されている450点の写真については、石井が厳選して、それぞれの写真に自らコメントを書いている。

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