三樹書房
トップページヘ
design
第4回 日本人デザイナー、佐々木達三、佐藤章蔵を考察する
2019.11.25

第4回となる今回は、日本のモータリゼーションの黎明期に活躍した二人の日本人デザイナー、佐々木達三と佐藤章蔵について述べていきたい。お二人とも我々の大先輩であるが文章上、敬称を略することをお許しいただきたい。
佐々木達三の代表作は、「スバル360」「初代スバルサンバー」「ラビットスクーター」 等であり、一方佐藤章蔵の代表作は「ダットサン110」「初代ブルーバード310」「トヨタスポーツ800」等である。二人が手掛けたどのデザインも日本の美学が織り込まれた、他に類のないオリジナリティ溢れる作品であることが、先に挙げた車名を見るだけでわかる。
二人の生み出したデザインに共通していることは、何もお手本がなかった時代に、自動車デザインの本質を突き詰め、虚飾を廃し、シンプルであるが非常に存在感と魅力を有するデザインを生み出したことである。
その理由は、二人の目線の先に、当時の日本の顧客がシッカリと見えていたからだと考える。
1950年後半~60年代、すでにアメリカでは、オートマチックトランスミッションは当たり前で、エアコンまで有する大型の自動車がフリーウェイを走り回っていた。しかし、戦争で負けた貧しい日本はやっと復興を目指して立ち上がったばかりで、家庭には三種の神器と言われる、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が普及し始めたところであった。
この昭和の時代、まずは"モノ"が価値であり、生活を豊かにしてくれたのだと思う。冷蔵庫や洗濯機、炊飯器でお母さんが大変な家事から解放され、テレビから流れる映画やドラマ、音楽やお笑い番組を見ながら、家族には団らんの時間と笑顔があふれた。
そんな家族が、次に欲しいと思った"モノ"が、皆で自由に移動できる"自動車"である。
しかし、当時日本に存在した自動車はアメリカからの輸入車か、建築ラッシュの街中を走り回るトラックばかりであった。まだまだ、一般の家庭で"移動手段の価値"を手に入れるのはハードルが高く、自家用車はほんの一握りの裕福な家庭しか持つことが出来ない"高級品"であった。
そんな時代の中、二人のデザイナーに与えられたミッションが、『国民車構想』に適う自動車を創造することであった。当時の一般的な顧客に、安価に提供できる自動車をつくることが条件となる。
昭和31年、佐々木達三は、富士重工(現在のスバル)から、国民車構想を実現させる小さい軽自動車のデザインを依頼された。チーフエンジニアは、中島飛行機でボディ設計をしていた百瀬晋六(日本自動車殿堂入り)。そして彼が率いる開発チームと一緒に、無駄を極限まで排除した"スバル360"が企画され生み出される。このミッションで最も大切なのが、ボディを大幅に軽量化させるために百瀬が考えた、航空機の技術を使った"モノコック構造"の実現であった。当時の国産車はトラックが主流であり、ボディ構造は梯子フレームにキャビンや荷台を架装する構造。これに対してモノコックはボディ全体で強度を確保するシェル構造で、その中でもスバル360は軽量化を極限まで行うために、使用する鉄板をできる限り薄くしたいと百瀬が構想を企画した。この紙のように薄い鉄板に強度を持たせるため生み出されたアイデアは、卵の殻のような球面を使ったデザインであった。自然の中の原理原則から必然のデザインを導き出したのである。ボディシェルを全て球面で構成して出来るデザインは、図面で表現するのが大変難しい立体である。それを佐々木は、"かつら粘土"や"石膏"を使って、原寸モデルを自らの手で削り立体にしていった。クラフトを得意としていた佐々木達三ならではの手法であった。
生み出された"スバル360"は、老若男女誰にでも親しみや愛着の湧く、非常に個性的なデザインとなった。そして、昭和の時代を代表する名車として今なお愛される、超ロングライフデザインとなっているのである。

ishii04-01.jpg

ishii04-02.jpg
百瀬晋六に渡された中子(上左)をもとに、佐々木達三が作成した初期スケールモデル(上中)とフルサイズクレイモデル(上左)。下が完成したスバル360。


これに対して、佐藤章蔵は、水彩画で自動車デザインを展開していた。
東京帝国大学を卒業して日産自動車にエンジニアとして入社。水彩画を得意としていたことが役員に認められて初代造形課長になったという、異色の経歴の持ち主である。
エンジニアなので、クルマの部品構成やレイアウトを熟知したうえでデザインを実行していた。またボディデザインにおいても、3次元の面構成を論理的に考え、それを見事な水彩画に描いていたので、完成するモデルはスケッチの通りであった。
『デザインは文化を描くもの。デザイナーは文化に対してどう責任をとるかを考える。』 これは、佐藤章蔵のことばである。
当時デザイン指導を仰いだ日産の方は、佐藤章蔵のデザインを『極めてシンプルで面の自然の変化で造形し、洗練されていて細部まで熟慮されたデザイン』と評している。
当時、アメリカでは、イメージ優先で、航空機のイメージでテールフィンデザインが盛んに行われていた。あのメルセデスもその影響を受けて採用していた時代にあって、佐々木達三や佐藤章蔵のデザインは、クルマの本質をとらえ、何よりも日本のお客様を見据えたものになっていたことが強く伺われる。そこに迷いは見つからない。
その後、佐藤章蔵は、身体をこわし日産を退社するが、その後トヨタの「パブリカスポーツ」のデザインをする。1962年の第9回全日本自動車ショウ(東京モーターショー)に参考出品されたモデルは、キャビンが航空機のようにスライド式のグラスキャノピーになっており、さらに、当時の空気力学の粋を集めたボディデザインは極めて優れた空力性能を有していた。これはトヨタの開発責任者が、かつて立川飛行機でキ94を設計したエンジニアである長谷川龍雄(日本自動車殿堂入り)だったことも大きく影響していると思われる。このパブリカスポーツは、後に名車「トヨタスポーツ800」へと発展していく。

ishii04-03.jpg

ishii04-04.jpg
1962年の東京モーターショーに出品されたスライド式キャノピーのパブリカスポーツ。上の2点は佐藤章蔵によるパブリカスポーツのアイデアスケッチ。


日本の自動車産業の黎明期、自動車会社はエンジンとシャーシを造り、車体は外注というのが一般的な方法であったが、国内の需要が高まり車種が増えるに従い、自動車会社内でボディの設計やデザインを行うことが効率的であったため、独立したデザイン部署が生まれた。しかし当初においては設計部の中にある、"係"や"課"であったが、顧客にとってデザインの重要性が認められ、デザインの仕事の地位が向上、今では本部にまで成長したメーカーもある。

昭和30年国民車構想が通産省から出され、31年に富士重工業からデザインを依頼された佐々木達三が"スバル360"をデザインしている時、スバルにも『デザイン係』が存在し、当時、佐々木が群馬(伊勢崎)に常駐してデザイン係と共に原寸モデルの作業を進めていた。昭和31年に1か月で1/5モデルを作成。それを原寸大に引き伸ばしてモデルを作成したことは前述した通りである。昔も今も、自動車デザインは一人では出来ない。インハウスデザイナー(社内デザイナーのこと)も、共同作業することで佐々木から"モノ造りの精神"を受け継ぎ成長した。それが、その後に登場するR2やスバル1000、ff1に活かされている。
そして佐藤章蔵も、メーカーのインハウスデザイナーとして、日産デザインの礎を築いた。
今なお二人のデザイナーの功績は、日本自動車メーカーのインハウスデザインの独立と成長に脈々と息づいている。

このページのトップヘ
BACK NUMBER
執筆者プロフィール

1962年(昭和37年)、埼玉県生まれ。
富士重工業株式会社(現在のSUBARU)に入社、デザイン部配属。1991~94年、SRDカリフォルニアスタジオに駐在し、帰国後3代目レガシィのエクステリアデザインリーダー、2代目インプレッサのデザイン開発リーダーを務め、2001年~2007年は先行開発主査、量産車主査を歴任。2011年商品開発企画部部長兼務デザイン担当部長(先行開発責任者)となり、2013年デザイン部長就任。2014年のジュネーブショーカー『SUBARU VIZIV‐IIコンセプト』から、SUBARUのデザインフィロソフィ『DYNAMIC×SOLID(躍動感と塊感の融合)』を発表した。
三樹書房『SUBARU DESIGN』(著者:御堀直嗣)は、石井が御堀のインタビューを受けてまとめられたもので、本書に記載されている450点の写真については、石井が厳選して、それぞれの写真に自らコメントを書いている。

関連書籍
スバル デザイン
トップページヘ