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第14回 最後のメグロ車となった250SGTと250SG
2018.7. 2

 これまでの連載で、メグロのスタミナ500K1から、カワサキ650W1-W2-W3への変革をお伝えしてきたが、忘れてならないのがメグロそしてカワサキの軽二輪車の代表格となっていた250SGであろう。
 カワサキの軽二輪車は1956年の川崎明発工業時代に、川崎航空機製の4サイクルOHV単気筒エンジンを搭載した「明発250」試作車が、自動車ガイドブックに掲載されたことがあった。搭載エンジンはKH型で大阪のRSY号、名古屋のIMC号、浜松のクインロケット号などに搭載のものと同型だった。
 当時は「アッセンブルメーカー」としてエンジン、フレーム、サスペンション、燃料タンク、各種電装パーツがバラバラに購入できたため、資金があればバイクメーカーになることができたのであった。カワサキの前身メイハツも、そうした点ではアッセンブルメーカーであったわけで、当時の東京都内での部品調達も簡単にできた。だが当時のメイハツは50-80-125ccの販売で精一杯で、125ccのラインナップ拡大策(500、スーパー、ローズの価格別ラインナップの確立)が計画されたことで、250ccになるとサービス体制などの問題が生ずるために、残念ながら250の計画は見送られた。1958年には125ccを並列にしたメイハツクラウン250を発表したが、これも試作車のみに終わった。
 そうしたメイハツ時代を経て、1959年にバイク一貫製作方針が川崎航空機工業で決定され、名門メグロとの提携があったことになる。これにより125まではカワサキ、126cc以上はメグロがラインナップされ1960年代へのスタートを切ることになったのである。カワサキとの提携前の目黒製作所は業績好調で増資の一途にあった。だが空前のモペットブーム到来により、メグロの125や250の市場が脅かされてしまった。また会社の労働争議、創業者の村田延治社長の葬儀があるなど、紆余曲折の時代だった。
 業務提携によりカワサキ+メグロ時代になり、目黒製作所は東京の大崎本町から横浜の港北区の山の中に移転し、カワサキ資本のもと、新生カワサキメグロ製作所にて生産されることになる。
 だがメグロ車の性能は1950年代のままで、1960年代に世界GP挑戦を決めたスズキやヤマハなど他社製品より性能的に明らかに劣っていた。しかしメグロファンや販売店達にとっては「独立独歩」で、他社のマシンは関係なかったが、さすがに「125は他社50並み、250も他社125並み」という性能では拡販に結びつくわけもなく、カワサキメグロ製作所は倒産することになる。横浜工場ではどうにか国際レベルの性能を持たせたメグロ250SGTツーリングモデルを完成していた。すでにカワサキ側ではスタミナ500K2のリファインを実施しており、カワサキにはない軽二輪車としてSGTを明石工場に生産移管することになった。だがメグロ販売店側はジュニア250後継モデルとしてSGTをS8フォルムに変更した実用車を要求、SGの誕生に結びつくのであった。

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 第1及び4回でも触れているが、これは1954年度におけるメグロ東京都代理店の広告。赤坂の福田モーターはメグロをはじめ外国車BMWなど、バルコム貿易の卸売販売を一手に行なっていた。村山モータースはメグロの娘婿が手がけたモナーク、払い下げのハーレーなど販売。両店は親戚関係の店としても知られていた。

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 メグロジュニアは初の250ccでメグロ最多生産モデル。このJ型250ccは1950年12月から生産開始、くろがねの創業者かつ設計者であった蒔田鉄司に、村田社長自らがエンジン設計を依頼したものである。当時は軽二輪車規格が4サイクル150cc、2サイクル100ccの時代であり250ccでも自動二輪車であった。

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 第1回で述べた、岡山のメグロ代理店で外国車も扱っていた三好モータースから、東京の目黒製作所の村田社長を実際に訪ねた時のライダー、古城正雄(右)。歴代の愛車では、500ccZ5、ジレラ500cc、500ccZ7、650ccT2を経て10万km、現在のBMWR69Sのみでさらに30万km以上走破し、現在でもメグロの血を引くカワサキエストレアも所有している。三好のショールームをよく観ると、超高価なイタリアのモンディアル200が飾ってある。この頃のメグロ販売店はまさに二輪界のエリートであったことがわかる。

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 岩手県で毎夏開催される「みちのく旧車ミーティング」での、手前は1957年頃のメグロS3でS5のベースモデル。ホイールベースが長く、車格としては500cc並みの堂々としたメグロ軽二輪の人気車で、1956年4月から59年7月まで3万1370台が生産された。

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 1950年代、リアにプランジヤー式サスを持つ初期メグロフォルムの最終型が1958年全日本自動車ショウで発表された250ジュニアS5。それまでのS3のホイーベースを短くして軽快さを出したモデル。すでにホンダC71、ヤマハYDII、スズキコレダTTなどの2気筒車が同じ価格帯で販売されていた。しかしメグロのユーザー達は、スピード性よりもマシンの剛性や単気筒の乗り味を好んでいたため、小さくなった車格のため不人気に終わり、1959年4月から60年2月まで486台のみの生産に終わった。

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 メグロS5の後継モデルが、リアにスイングアーム方式のイタリアンフォルムを持たせた、1960年1月登場のS7=セルなしであった。その後、時代の要請により62年7月に全車セル付きのS7Aになった。セルモーターがエンジン前部にとってつけたように斜めに突き刺さった、大胆な設計だった。始動性が向上して評判となり、63年2月までに1万8126台が生産される人気車となった。

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 カワサキメグロ製作所になってS7とともに、1962年12月から並行生産されたのがS8であった。外装を希望の多かったS3フォルムに戻してサドル装備、フレーム後部も旧車的イメージにしたもので最高速度は250ccで105km/h。その後1963年7月、自動二輪で288ccの自動二輪車アーガスJ8の登場後、型式は同じであるもののエンジン全面変更を実施して、剛性が高まり最高速度は110km/hとなった。

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 S7のエンジン図、エンジン上部に排気バルブ側の圧縮を抜くデコンプ装置が組み込まれているのが特徴で、これはその後のS8はじめSGTやSGに継承されてゆく。250ccもセル始動が当たり前の時代が1960年代であった。

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 メグロに入社したばかりの林政康が手がけたSOHC125ccのE3型は、由良令吉のイタリアンスタイルとともに1958年8月発売。メグロとしては「飛びすぎたデザイン」に人気はさっぱりで、エンジンも回せば速いが、普通に乗るとトルク感がなく荷物車には不向きとされた。そのため急遽OHV化して1960年1月に発売したのがキャデットCAだった。画像上のレンジャーDA170ccは60年7月発売、自衛隊用二輪試験用にアップマフラー車を試作の後に、通常のキャデットスタイルにして市販したモデルで、都会派のライダーに人気があった。

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 メグロのエンジン設計者としてE3以降のエンジンに関与した林政康によるキャデットCA及びレンジャーDAのOHVシングルの図面。本人はSOHC好きであったが、業務としてOHVや2サイクルのアミカ用なども設計した。この図面はメグロ時代のものであるが、SOHCとの並行設計であったため、いつでもSOHC化できる工夫がされていたが実現されず、このまま250ccSGTエンジンに発展した。

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 カワサキメグロ製作所時代に試作されたツーリングスポーツ車がSGTで、1950年代の高性能シングル車のNSU(現VWアウディ)マックス、BMWのR27同様の250ccで18psの出力、130km/hの最高速度が得られ、1963年の全日本自動車ショーで公開された。
 だがメグロは1964年2月にカワサキに吸収され横浜工場の生産停止、軽二輪クラス以上の250および500ccマシン存続のため生産はカワサキに移管されることになり、数名のメグロエンジニア達が明石入りして、カワサキ式図面に書き換えた。メグロの車体設計者の一部は明石に移りカワサキ入りしたが、エンジン担当の林は明石工場で図面を引くものの、カワサキ入りをしなかった。

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 SGTのエンジン機構部、ユニット構造のCAやDAの機構をそっくり受け継いでいることが分かろう。セルダイナモ始動、一次チェーン伝動方式などはほぼ同じである。できうる限り軽くコンパクトなエンジンを創ろうという姿勢が窺われた。

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 クランク支持は左右ともにボールベアリングを複列使用して耐久性を高めている。ダイナスターター側のベアリング径が驚くほどに大径であるが、クランクフライホイール並みの、トルクのある大径モーターに耐えられるように設計されていたことがわかる。コンロッド大胆部はニードルローラー支持で、いずれも当時の不純物混入オイルに対しての耐久性を持たせていた。

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 SGTのカタログ。当初はSGT、SGの同時発売だったが、カワサキ側もSGTとSG両車を生産ラインに流すのはコスト高に結びつくということになり、SGTは全国主要販売店に1−2台の配車と考えて限定50台のみとし、以降はSGのみの生産に集約することになった。後にSGTを探すメグロファンが多かったが、なんとも生産台数を聞いてビックリ! 中古がみつからなくても当たり前の希少車だったわけだ。

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 SGの潤滑系は1960年代の設計としては先進的であった。クランクケース下部にオイルパンを持たせ、金網式フィルター部から機械式オイルポンプで吸い上げ、円筒型オイルフィルターを介してエンジン各部に圧送する方式である。メンテナンス面での特徴は、エンジン下金網をドレンキャップ兼用とし、エンジン前部オイルフィルターとともに交換式でなくガソリン洗浄式とした点であろう。

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 当時、わずかしか販売されなかったSGTに乗るライダー。当時のファッションや乗り方がわかる。バックにカワサキオートバイ販売のトラックが見えるが、カワサキ90G1系が載せられ、SGTのマフラーがW1S系に交換され写っているところから1967年ごろと思われる。オーナーの阿部孝光は建築設計のかたわらメグロクラブを経て、「好きなバイクで生きよう」と愛媛県松山市でバイクショップを開設して現在に至っている。

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 カワサキで最初に作られたカワサキ250メグロSGの1枚モノカタログ。バイクは真横でなく、ヘッドライトが上を向く......などは広報写真も同様だったが、「これはオカシイ」と販売店などからクレームがつき、すぐに下のような体裁に変更された。

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 バルブ系はクランクシャフト真上のカムを介してタペット、プッシュロッドからロッカーアームを経る一般的な方式。1960年代にOHV方式を採用していた他社製品はスーパーカブ程度だが、耐久性の高いことは既存のメグロ車で実証済みだった。

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 エンジンの全体レイアウト的としては、従来のS8系の機構を左右入れ替えて、右から左足動変速にしたもの。従ってキックペダルも左側にあり、跨る前にキックする方式だが、セルダイナモ始動であるため、キックのための始動儀式は不要になり、誰でも乗ることができた。

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 メグロがS7でセルモーター始動を初採用した、電磁式デコンプ装置がSGにも採用。さらにレンジャーDA用で実績のあったセルダイナモも大型のものがSGでも採用された。
 それまでは4サイクルに2サイクル車でおなじみのセルダイナモが使えるのか? と注視されたが、12V300Wのモーター機能により実現できた。この後にホンダN360にもセルダイナモが採用されたが、その直径は20cm近くあり、これには驚かされた。

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 SGT及びSGのエンジンの性能曲線図。ボア×ストロークはスタミナK1/K2と同じでピストンなども共通にしていた。出力18ps/7000rpmで130km/hの性能で、1970年当時の高速道路をサイドカー付きで、BMWの500cc同様の100km/h連続全開走行で、東京-神戸間を走りきってノントラブルだったのにはビックリさせられた。ただし必要なメンテナンスをしていない場合は、この限りではない。

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 SGはそれまでのS8にSGTのエンジンを載せた、との印象が強いが、実際にはSGTのフレーム後部をS8風に改造して、S8風の外装部品を新規製作して完成させたもの、であった。エンジン、外装部品ともに明石工場からの新しい発注になるため、設計は新規となっている。

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 SGTおよびSGのフロントフォークは長さ509mm、メグロ伝統の32mm径インナーチューブで、これは500Z7、250S3~8、500K1まで共通、まさに生粋のメグロサイズといえた。リアのスイングアームのショック長は320mmでK1~W1まで同一、スプリングレートは2.62kg/mmで硬め。ブレーキ径前後180mmもK1と同じである。

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 パーツリスト比較で左:SGT、右:SG。タンクやサイドカバー類は当然だが、全くの別構成である。タンクもSGTは新設計、SGもS8とは関連のない独自設計で互換性はない。サドル下のアッパーカバーはバッテリーなどの電装部品を雨などから護るための、ユーザーに配慮したパーツであった。なおSGTの販売は1965年春までとなっているが、シングルシート+荷台付の設定がなかったため、注文時に荷物が積めないとSGに切り替える例が少なくなく、期待したほどの台数は出なかった。

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 車名がカワサキ250メグロSGであることから、タンクマークは「川」と「MEGURO」のウイングマークになっていることに注目。これはSGTも同様であるが、SGTの1963年全日本自動車ショー展示試作車はカワサキメグロの製品だったため、マークはMWのみのシンプルなものだったが、量産車についてはこのSGのウイングマークがレリーフされた豪華なものであった。

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 メグロ各車のタンクは水滴型=ティアドロップタイプの旧車感覚あふれるものであった。S3などは13リッター容量であったが、SGでは多少スリムになって12リッター、実際に乗ってみると「旧車感、単車感」があり、今でも若者の乗車対象になっていることが理解できる。

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 SGダブルシート仕様は実際に輸出されていて、欧州で見かけることがある。おそらくは伊藤忠商事経由だと思われる。W1なども欧州の一部マニア達に人気があり、ドイツ圏や旧共産圏のネットで、今日でも見かけることがある。

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 パーツリスト比較によるシート、フェンダー、チェーンケース類。SGTとSGの価格差は3000円ほどであったが、安価なSGの部品の方が凝った部品を使っていたが、数の出なかったSGTの部品はさぞかし原価は高額だったろう。

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 SGが商用バイクとして使われていた頃、ライバルといえばホンダCIII72、ヤマハYD3、ライラックLS18などがあった。SGTはホンダCM72、ヤマハYDT、スズキT10などであった。価格的には荷物を積んでもエンジンの実用トルクのあったSGが最も割高だったが、サドルや荷台もしっかりしていた。当時のカワサキは125ccB8も実用バイクとして定評があった。

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 SGのパーツを見ると、ヘッドライト、メーター、テールランプ、ブレーキ系などの部品は、ほぼ500K1レベルのものが使われていることがわかる。この時代の部品流用度は他社も同様で、50ccから自動二輪まで電装灯火類を共用化することも少なくなかった。各社とも輸出が盛んになり、スペア部品の共用化によりサービス面の向上に気がついてきた時代であった。外国ではBMW、トライアンフBSAなども、エンジン以外は部品の共用化がみられた。

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1960年代から70年代にかけて、日本各地で「メグロクラブ」が誕生、合同ミーティングなども実施された。そうした中でもメグロSGはビギナー達のマシンで、スタミナやセニアなどの1950年代モデルを修理してツーリングに使うことが流行した。画像はメグロ系ワッペンを製作した、クラブ名もエンジエル=RE-5、前出の四国松山の阿部さんのクラブで、こうした活動がバイクショップ開設に結びつき、現在では村山モータース系の四国トライアルクラブとなっている。

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これは車名から「メグロ」が消えた最終モデルのSGで、タンクマークもカワサキ車共通のものに変更された。そしてSGは消防用赤バイなどが作られたものの、1969年に終焉を迎える。
 二輪の実用車は1970年代には排気量50-90-125ccクラスが主体になり、二輪車の性能向上もあって細分化がはかられる。そして126cc以上のバイクはオンロード&オフロード用の各種スポーツ車に特化され、特に北米および欧州向け車主体になるカワサキ車では、そうしたバイク達にガラッと豹変を遂げるわけである。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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