三樹書房
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第1回 目黒製作所&川崎航空機・戦前期
2017.5.27

 今もって多くのファンが存在するのがカワサキW系である。ここでは、その誕生記から生産、販売、終焉、その後まで、当時のオーナー、開発者、販売担当者達への取材をからめて、述べるものである。
 誕生の背景には第二次世界大戦前からの技術が少なからず関連しているので、まずは戦前の諸事情にからめて、進展を追ってゆくことにしよう。

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 カワサキのブランド名は、クルマやバイクメーカーのブランド同様に「創業者」から命名されたもので、川崎正蔵という人物に由来する。1837年(天保8年)生まれの正蔵は鹿児島の呉服商人の息子として生まれ、西洋文明の拠点だった長崎の出島で貿易を学び海運業に就いた。そして船に乗るが和船より安定して速い洋船の魅力を体験、自分で造りたいと41歳のときに1878(明治11)年東京・築地の隅田川沿いに、薩摩人の五代友厚や松方正義の援助により川崎築地造船所を設立、企業人としてのスタートを切った。
 7年後の日清戦争で沢山の修理依頼があったが、個人企業には限界があると株式化を決意、自分は隠居することになり後継者に同郷で世話になった松方正義の三男、松方幸次郎を後継者とした。
 1907年(明治20年)には兵庫分工場で機関車、客車、貨車、橋桁などの鉄道関連に進出、1911年に独マン社のヂーゼル機関の特許を得た。エンジン技術を習得して1918年には兵庫工場に飛行機科と自動車科を設置、自動車においては陸軍からの図面提供を受けて1919年に2台が製作・完成され運行テストに供され、高い評価を得た。車両を製作した造機部門は、川崎造船自動車部として独立、陸軍制式自動貨車に着手、米パッカード型トラックを範に4トン30psトラックを5台製造して陸軍に納入した。兵庫工場内に自動車・飛行機製作工場を建設稼動したが、軍より航空機の試作を命ぜられ自動車生産は一時的に中止された。
 昭和の年代に入って、1927年(昭和2年)に陸軍88式自動車に着手、川崎造船所兵庫工場車両部が担当、翌年に川崎車輛となる。1932年(昭和7年)に「六甲号」と命名、自動車3700台を生産した。
 広告は1933年型六甲号KP52乗用車で納入先は大阪近隣の軍関係施設で、代理店は大阪の興国自動車であった。

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 1934年KP52型、水冷8気筒5200cc、66馬力、軸距3.3m、車重2.35トンの大型乗用車で、行軍用オープンカーも製作された。当時はふそう、自動車工業(後のいすゞ)並びに瓦斯電(後の日野)、六甲の3銘柄のみ。トラック(KT、ST)やバス(KB)は6気筒4300cc、60馬力で各種タイプがシャシーのみで販売された。前年度広告の角張ったボディが丸みのある板金タイプになっている。

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 当時のカタログ表紙、アールデコ調で描かれているが、社長の松方幸次郎が絵画コレクター(松方コレクション)だったため、欧州調にデザインしたのであろう。しかし軍命により航空機に専念することになり4190台を生産した後に、残存部品と設備一式を自動車工業(後のいすゞ)に譲渡したのである。
 その後のカワサキは1937年(昭和12年)11月に飛行機部門分離、川崎航空機工業株式会社が設立され、1939年12月には航空機、造船、製鉄部門を統括する川崎重工業株式会社に社名変更。そして1940年9月、兵庫県明石郡林崎村和坂字大坪100番地に明石工場を航空機発動機工場として開設、これが後のカワサキの主力工場となってゆくのである。

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 またカワサキ650W1の源流である二輪車を製作したのが目黒製作所であり、その設立は1923年(大正13年)8月、創業者は2人、村田延治と鈴木高治だった。場所は東京府15区以外の農村部=東京府下とされた荏原郡大崎町桐ヶ谷で、鈴木が工場をみつけた。前年3月に目黒と蒲田の間に目黒蒲田電鉄が鉄道を開通させた頃で、目黒から左にカーブを描いて目黒川を渡り都道317号線(環状6号道路)を渡ると不動前駅であるが、目黒製作所はその線路ぎわにあった。
 もっとも創業当時には都道317号線はまだ開通しておらず、道路工事が始まるのは1935年(昭和10年)のことで、まったくの田舎だった。社長になる村田延治は栃木県足利郡富田村駒場部落の出身、部落というのは村より小さい集落のことで、昭和30年代まで日本の都市部以外はほとんど部落で占められた。東京で働いていた人の世話で、麻布広尾(現在の渋谷区広尾5丁目周辺)にあった友野鉄工所に入った。
 当時の広尾は1911年(明治44年)にダット自動車が創業した地であり1950年代まで外国車や外国製二輪車の販売店が多い場所だった。友野鉄工所は江戸時代、刀鍛冶であったため徳川家ともつながりがあり、理髪用はさみを手がけるのが本業であった。当時は徳川好敏大尉が飛行機の初飛行に日本で成功したばかりで、友野はガソリンエンジンの試作を開始し翌年にエンジンを完成、その時に村田が入所した。村田は昼は工場で働き、夜は芝浦工手学校(現芝浦工業大学の前身)に通い工業技術の習得に努めた。友野鉄工所に勤めて7年がたち、機械工として認められて結婚したが生活は苦しく、自分の工場で部品を造りたいと......独立することを考えた。
 そうした折に、第15代将軍慶喜の十男で勝海舟の家に養子に入り、海舟の孫である勝精(かつ・くわし)伯爵から自動車工場の計画が舞い込んだ。村田は勝家の広い敷地内の一角、赤坂氷川町(現在の氷川公園あたり)に設備資金一切、勝の出資ながら名は「村田鉄工所」を1922年(大正11年)に資金3万円(今日の3億円に相当)を投じて立ち上げた。そして工員=従業員を募集し、採用されたのが静岡県沼津生まれで、旋盤工ながら経理面にも詳しい鈴木高治だった。
 村田は東京の池袋にあった武蔵野工業からの依頼でムサシノ号向けの空冷2サイクル80㏄自転車用エンジンを製作、調子が良く100台ほどを納入。
 つぎに勝精の命令で1923年(大正12年)から大型二輪自動車を製作。ベースはハーレーダビッドソンのJD1200㏄で3台ほどが試作、だがエンジンは完調とはゆかず、試運転に出ても氷川町の坂では焼きついたりした。ジャイアント号と命名したが、価格的にハーレーより高額だった。その後は製品ができず生活も苦しく、村田と鈴木は遂に完全なる独立を決意する。いきなり2人がやめるわけにゆかず、まず鈴木が退職をして、半年後に村田が去ることにした。
 その後に勝も納得して2人の独立を祝った。勝は本業として日本最初の写真用感光剤メーカーで、国産フィルムで最初に映画製作に協力したオリエンタル写真工業や、浅野セメント(現太平洋セメント)東京工場などの経営に関与して余力もあった。
 先に出た鈴木がみつけた荏原郡大崎町桐ヶ谷の工場、機械設備購入などは、多くの知り合いに借金した。工場は目黒駅から下った場所に位置して、坂を登ると目黒競馬場といった立地、土地が低い場所にあり、台風がくると目黒川の氾濫で、あたり一面が水没する場所で、土地も安かったと思われる。
 村田と鈴木は自分達の工場名について、地名の荏原郡は「水道設備の荏原製作所」、「桐ヶ谷は桐ヶ谷斎場」が日本全国に知り渡っていて使えない。そこで近くにある目黒競馬場、目黒駅から命名して「目黒製作所」として1923年(大正13年)8月に開業。当初は仕事がこず、借入金の返済に追われたが、トライアンフの輸入元、丸石商会製エンジンのコンロッド加工が定期的にもらえるようになった。広告も「修繕は親切叮嚀(ていねい)、製品は正確敏速、自動自転車部分品専門製作之元祖、目黒製作所」と出した。

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 昭和の年代に入り、イギリス製ミッションを手本にモーター商会製「MSA号」用2段ミッションを試作納入したところ、ギア欠損などのトラブルがなく信頼を得る。これが縁で、当時無免許で運転できたために流行していた、三輪トラック用ミッションの注文が舞い込んだ。インディアンの輸入元、二葉屋の工場が信濃町に位置していたことで注文が多くあった。画像のMSA号をはじめ、いくつかの三輪トラックは発売元が赤坂溜池の日本自動車だった。仕様書説明の下部、伝動装置の機構説明に「チェンとシャフトの二種アリ」とあるが、村田はシャフト駆動の研究を続けて、技術力には自信があったそうだ。
 1931年(昭和6年)には隣接した電気部品工場火災で目黒製作所も全焼。幸いにも保険金が出たため再建、土地を拡大して広い工場と最新設備にすることができた。 だがミッション製造ばかりでは......と1932年からエンジンの試作に入る。ベースにしたのはスイスのモトサコシが手がけていたMAGエンジンで、当時の欧州のレースで活躍していた一流品だった。当時の英国車のようにヘッド部分の機械部分=ロッカーアームなどが露出してなく、日本のように未舗装道路がほとんどの国には、埃が付着しないので適している、と判断したと考えられる。

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 メグロ・エンジンの製造会社として敷地内に昭和機械製作所を設立、村田の弟である村田浅吉に運営をまかせた。エンジンはOHV単気筒500、600、650ccに加えてジャイアント号の経験から、神戸の兵庫モータース製HMCの大型三輪トラック用にV型2気筒650、750㏄にも着手、故障のないように水冷化して、高い技術力を示した。さらにはハーレーダビッドソンのファクトリーライダーで、川真田和汪(かわまた・かずお)が設計し、みづほ自動車(当時は高内製作所)で製作されていたローランド号が、東京自動車製造で「筑波号」として生産されることになり、搭載用の水冷V型4気筒エンジンも手がけた。

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 1935年型筑波号、機関部の製作は自社製(東京自動車製)で水冷V型4気筒750cc、12馬力/4500回転の性能はライバルのオースチンセブン、ダットサンに対抗したもの。日本初の前輪駆動車で4輪独立懸架サスペンションが川真田和汪の先進性を物語っている。3年間で130台ほどが生産され、トヨタ博物館に実車が存在する。川真田は戦後、愛知県刈谷市にトヨモータースを設立、自転車用エンジンから軽二輪車などを手がけ、日新(豊田)通商経由、トヨタ車の販売網を通じて販売した。

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 1935年(昭和10年)10月、エンジンやミッションなどの下請けばかりでは技術力をみせられない......と村田と鈴木は、この頃にレースに参戦することになる。戦前、戦後を通じて一流レーサーとして知られたモスマン選手の英国JAP製レーサーの車体をコピーしてマシンを製作、東京都下、井の頭公園のトラックで開催された全日本モーターサイクル選手権に出場、601㏄以上1級車、500cc2級車ともに優勝。翌年6月には350cc3級車も製作して3クラスを制覇。
 レースに勝ったため、市販型オートバイの設計を開始。問題になったのは車体であったが、マン島TTレースに出場した多田健蔵が持ち帰ったベロセットKTTレーサーを借りてトレース(複製)。1937年に完成したのがメグロの第一号車Z97型だった。
 型式は「全力投入」を意味するZ旗から、97は神武天皇即位紀元による皇紀年号の2597年型から命名。カタログも製作されレースでの記録を唄って華々しいデビューを飾った。1939年(昭和14年)2月には工場の前に広い環状道路が整備された。そしてわずか10台ではあるが白バイに登用された。
 メグロの工場から環状6号を数分南下すれば、日本ハーレーダビッドソンの工場が稼動したばかりで警察および陸軍向けのバイクを製作しており、そうした状況下で、東京製のメグロ号を白バイとして実験的に登用させたと思われる。
 上の戦後、1955年(昭和30年)のメグロの広告には、栃木県馬頭町で活躍するZ97が取り上げられ、エンジン刻印が「19371C1No.501」であることがあきらかにされた。

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 1939年(昭和16年)には正式に会社として登録されることになり「株式会社目黒製作所」となる。村田と鈴木が折半出資して双方とも代表取締役に、便宜的に社長には村田が就いた。これは1942年の広告であるが、時代は戦時下に突入して、街に木炭瓦斯自動車が走り出していた。

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 Z型はモデルチェンジしてZ98(500およびボア拡大した600cc)も加わるが、日本の米国への戦線布告によりメグロ号は生産中断して軍用部品の生産委託を受ける。やがて東京への空襲も実施されるようになり、村田は栃木県でも戦火の恐れのない山村、烏山(現在の那須烏山市)に設備の移動を行なった。

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 戦後になってメグロは工場焼失もあったが、Z型から再生産を開始、1950年(昭和25年)には、くろがね創業者の蒔田鉄司(まきた・てつじ)にエンジン設計を依頼して日本初の250ccをジュニアJ型をデビューさせ、メグロのシリーズ拡大化をはかった。だが当時の250は自動二輪扱いだったため、1952年には300ccにしたJ3型に進化させた。上は、その頃の広告であるが、当時のツーリングは未舗装、山岳地帯を縫って走り、峠で休息するイメージで造られていた。

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 当時のメグロZのオーナーが、岡山のメグロ代理店で外国車も扱っていた三好モータースから、東京の目黒製作所の村田社長を実際に訪ねた時の、途中の休息風景である。道路は未舗装土のままで道路にはガードレールもない時代であった。少年がはるばるメグロまで来てくれたことに感銘した村田は、1955年(昭和30年)の第1回浅間火山レースの選手に抜擢したが、少年は家族の大反対にあって、それは叶わなかったという。

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 1953年(昭和28年)3月から軽二輪の排気量が4サイクル250、2サイクル150ccまでに拡大されたため、メグロではジュニアS2を発売した。これは当時の東京地域代理店の広告。福田モーター商会は外車BMWなども扱い、メグロ製白バイの整備工場であった。村山モータースは神戸のマーチン号、米軍払い下げ車など扱った後にメグロも扱った。モナーク号は、村田の二女の夫である村田不二夫が目黒の大森工場跡敷地にモナーク工業を設立、メグロエンジン搭載のポニーモナークで成功。その後は自社製エンジンのスポーツモデルを送り込み、レースなどでは成功したが、まだ実用車の時代で商業的に成功はしなかった。

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 1954年(昭和29年)、川崎航空機の大阪・高槻工場で開発されたのが4サイクルOHV単気筒エンジンで、150-200-250ccと軽二輪の排気量拡大に沿って排気量アップされた。川崎航空機では車体造りのノウハウがなかったため、エンジンを各地のバイクメーカーに販売した。大阪のRSY、名古屋のIMC、浜松のロケット商会などだったが、エンジン単体として価格が高く、需要は少なかった。このRSY広告も専門誌の1P広告だったが、バイクそのものの価格が高くなって人気が出たとはいえなかった。このRSY号は1956年にメイハツ250として自動車ガイドブックに掲載されたが、未発売に終わった。IMCやロケット商会は、その後ガスデンや榎本製作所などの安価なエンジンに切り替えて行く。

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 1955年、川崎航空機工業自慢のエンジン125ccKB-5型が明石工場で完成した。明石工場では当初、東京の大日本機械工業の電光号、名古屋の岡本、ノーリツ号向けに50~80ccKB(カワサキ・バイク)型エンジンを生産したが、電光号はガスデンに、ノーリツ号は生産中止となり、結局残ったのが電光号の販売に関与した人達が独立したメイハツのみだった。明発=明石発動機の略で、1954年には川崎航空機から資本参加があり車名も川崎明発工業に。エンジンと車体はドイツ車マイスターを参考に製作されたのが、この明発125KB-5だった。あくまでも実用車であり、需要は地元の大口需要の他は、東北や北海道地域が多かった。

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 メグロも量産車は実用車であったが、浅間火山レースにワークスチームを送って各クラスともホンダやホスクなどと戦った。1957年(昭和32年)のワークスマシンも市販車とは別モノのSOHCやDOHCシングル搭載車を送り込んで、500ccクラスでは無敵だった。
 市販車ではホンダのSOHCツインの人気が高かったために、メグロもSOHCシングルの125と250ccを発売。しかしメグロのユーザー達はゆっくり味わいのあるOHVエンジンに固執したため人気はさっぱりで、仕方なく125、250ともにOHVエンジン搭載モデルに戻したのであった。
 しかし同時期に、ホンダの世界GPレース挑戦が始まり、高性能車が求められる時代に突入する。50ccモペットのクラブマンレースも始まって、メグロも50ccを発表せざるを得なくなっていた。そしてこの頃からバイク人気は高性能ムードでGPレース参戦メーカーであるホンダ、スズキ、ヤマハ各車に集中するようになり、メグロ車のラインナップで売れるモデルは旧態依然としたジュニアS系にみになった。(続く)

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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