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第2回 1950年代カワサキ製エンジンの系譜
2017.6.27

 カワサキ製4サイクルエンジンが1950年代に存在していたことを知る人は、極めて少数であろう。理由は「エンジン供給メーカー」に徹していたからである。生産母体になる明石工場は、戦時中は工場疎開などで関西圏各地に川崎重工の工場が分散、そして1945年(昭和20年)8月には戦後をむかえる。しばらくは占領軍の軍事事業の解体方針により「航空機が造れない」ことになり、社内には解散の声もあったという。
 だが一部従業員によって自主再建、残存資源による民需生産へ転換を進め、翌年5月には川崎産業となった。明石工場関連では播州歯車工場がオート三輪用変速機、高槻工場では紡糸関連事業をスタートさせた。
 1950年(昭和25年)5月には明石関連事業所が川崎機械工業として新規スタート、川崎産業は清算された。川崎機械では発動機生産設備を利用して、歯車関連、鋳鉄部品、繊維機械などに手を出す。そして朝鮮動乱に入り、米軍向けの爆弾用タンク受注で、黒字経営となる。2年後に航空機生産禁止令が解かれたが、世界に目を向ければ航空機の進化は著しく、やむなく明石では米国ベル・ヘリコプターのライセンス生産開始など実施した。

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 初期のカワサキ発動機部門は二輪車用エンジン供給メーカーとして生きることを決意、既に大阪の高槻工場で1950年(昭和25年)より4サイクルOHV単気筒のKE(カワサキ・エンジン)型、兵庫の播州歯車工場では2サイクルKB(カワサキ・バイク)型エンジンの開発に入った。試作を重ねて1953年(昭和28年)1月から光=ヒカリ号自転車の発売元である大日本機械から発売されたのが、旧川崎航空機製KB-I型エンジン搭載の電光号であった。画像は大日本機械がドイツ・クライドラーの輸入元になったものの、当初の販売価格が20万円以上と高額になり、実際に購入したのは金持ちの浮谷東次郎くらいのもので、このため大衆向けに価格3万円台のヒカリG型も揃えるが、エンジンはガスデン製になってしまった。

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 納入先の大日本機械工業では「自社製エンジン搭載」として、当初は川崎製とは唱っていなかったが、工場訪問記などでは「川崎から送られてきたエンジンを搭載」などという説明があった。工場は2万6千坪にもわたる広大な敷地にアッセンブルライン建屋を持ち、当時のトップレベルにあった。
 だが大日本自転車が富士自動車の敏腕、山本惣治氏(元日産自動車社長)に売却されると、同系列の富士自動車立川工場が日立航空機(それ以前は東京瓦斯電)のエンジン工場だったため、新たにガスデンエンジンを英ビリヤス型を参考に開発。1954年後半からは川崎製エンジンを購入しないことに決定。このため電光号を扱っていた一部スタッフ達が独立、「明石の発動機」ということで1953 年(昭和28年)12月に明発工業を設立し「明発」ブランドを立ち上げた。

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 2サイクルKB型エンジンは1.6~2.5psで最高速度45km/hの性能。エンジン単体で販売され、駆動方式はA=後輪下左側マウント、B=後輪上左マウント、C=車体中央マウントの3タイプがあり、それぞれにクランクケースなどが異なっていた。上左の図は1954年前期の電光号でKBのB型を搭載、右が電光号に変わって、新たなる納入先が名古屋の岡本自転車製ノーリツ号になったもの。ホンダC型にも似た自社製フレーム採用のため、左足動2段変速、左キック始動方式を採用した。まだバイク産業は地場的存在で、これは東海地域を主に販売された。
 他方で明石工場側でも「川崎バイクスクーター」を1954年(昭和29年)4月の第1回全日本自動車ショウに展示、販売を試みた。戦前から飛行機車体を手がけバスボディーなどで知られた川崎岐阜製作所で200台あまり生産されたが、価格が9万5000円とエンジン単体のおよそ3倍と高く、販売網も完備せずに発売したため、売れ行きはさっぱりだった。

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 2サイクルに対して4サイクルエンジンも当初は、大日本機械工業のみに納品していた。上左の図はヒカリ号H型でKE-I型4サイクルOHV単気筒148cc、5.5ps、車重120kg、右手動3速にて85km/hの性能で、1年後には右のKE-III型を搭載した光号L型に変わった。当初の川崎製エンジンはオイルラインや発電機位置を納入先に合わせるためにクランクケースなども数種あったが、コスト減とエンジンの完成度を高めるためKE-III型の1954年以降は統一規格式になった。ミッションも川崎製であった。

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 川崎側が最も期待していたのが、近隣の大阪にあった天野工業製RSY号で、これはKE-II型を搭載、RSY独自の「右Y字カバー」を追加してルックスを高めていた。供給先は関西圏主体であったが、輸出用には200ccモデルも造られ英文カタログも製作されている。おそらくは日本在留の米軍兵向けと思われるが、数台が北米に上陸、バイクコレクターの所有となっている。画像バックに洋館が映っているが、大阪市中央公会堂で、今も年数回のライトアップ時にマニアが訪れるおなじみの場所である。現在、バイクの置かれた場所は道路を挟んだ公園になっている。遠く後方の塔は大阪市役所だが、新庁舎への移行のために残念ながら壊されてしまった。

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 1953年(昭和28年)3月から、軽二輪車の排気量が4サイクル150ccから250ccに、2サイクル100ccから150ccに拡大されたため、川崎では新型250cc、KH-1型を生産、RSY号に搭載して1954年から発売。大型の車体、悪路の埃をよけるためのチェーンケースなどを搭載、期待されたが当時のバイクメーカーは数百社に及び、試乗記事などは皆無で、広告で販売店を募っていた。

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 浜松のクインロケット号は、RSY号とともに川崎製250ccエンジンを採用。搭載は1954年型のみで後に増井勇社長は「カワサキ製エンジンは価格が高かった」と述べている。ロケット商会は当初は三菱製農機用エンジンを流用したが、性能向上のため外注エンジンメーカーに「カワサキ型」と「ツュンダップ型」を製作させ、東京でラジオ番組を提供する等、成功した。しかしエンジンメーカーが次々に倒産して選択肢が消えて、最終的には富士自動車製のガスデンを搭載して終焉をむかえた。ロケット商会は、その後中古車販売店に転身して1970年代まで盛業だった。

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 戦後の国内不況は変わらず播州と高槻工場を合理化策で明石工場=神戸製作所に集約、それに付随して川崎のようなエンジン供給メーカーは納入先の倒産等で減少の一途にあった。名古屋港のそばにあった伊藤機関工業は「ハヤブサ号」のあとに「IMC号」となった。当初はトーハツからエンジンを購入していたが、トーハツ側が「完成車のほうが儲かる」と自社でバイク生産に着手。このためエンジンをみずほ自動車のキャブトンなどから購入して搭載する。
 みずほは当初、250cc以下は各社への供給用として業務的に競争はしない、としたが軽二輪の売れ行きの良さに1954年には、遂に軽二輪も自社生産開始して各社向けエンジン供給停止の手段に出る。このためIMCは川崎製エンジンに乗り換えることになった。だが1955年以降からは無免許許可証で運転できる原付バイク普及で125ccクラスの人気が出て、IMCはガスデン・エンジンも購入。ガスデンでも2サイクル2気筒250ccを製作、1957年から各社に供給したためIMCでも250ccはガスデン主体に。しかし4サイクルの川崎製エンジンも購入してストックして、1958年まで受注販売して業界的な礼儀を守った。

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 明発号の1955年4月の第2回全日本自動車ショウで配布されたモノクロのフルラインナップのチラシ=パンフレット。川崎の資本が入り「川崎明発工業」の社名になった。KB型60cc自転車用エンジンは公称1000型、80ccは83型、125ccは500型と命名された。
 この時代の川崎側の収入源は官庁などであったが、いわゆる「民需用」の収入を得るためのバイク進出であった。だが販売網などがホンダやトーハツなどのトップメーカー達に比較して、はるかに少なく業績は伸びなかった。

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 メイハツ500型の車体ベースになったのは小数輸入されたドイツのマイスターであった。フロントにテレスコピック、リアにプランジャー式サスペンションを持ち、東京周辺の車体部品メーカーに依頼して製作。当時はバイク各パーツの下請けメーカーが乱立して、資金力があれば誰でもバイクメーカーになれた時代だった。

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 参考にしたマイスターの搭載エンジンは大衆車にはJIO製、高級車はSACHS製だった。KB型設計に際しては整備性に配慮して分解が容易なように、セミカセット式ミッション、大型クラッチを組合せ1次減速には、4サイクルKE型エンジン同様に、ダブルローラーチェーン方式を採用して川崎KB-V(5A)型を完成。53×56mm、123.5cc、5.5ps/5500rpmと、当時としては平均的な性能であった。

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 実用車ということで、販売は東北地域などであったが時流に遅れまいと、ホンダが先鞭をつけた鋼板プレスバックボーンの車体を、パイプ製アンダーフレームに組み合せした合成タイプのフレーム方式を1957年の125スーパーから投入。さらにフロントフォークもプレス製にした、この125エースを加え、1958年10月の全日本自動車ショウには、格安な実用車の125ローズを加えてラインナップを充実した。

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 図は1959年から投入のKB-5ASエンジン。Sはセルダイナモ式始動を意味する。クランクケース類も一新、右クランク軸にダイナモを組み合わせていることがわかる。一次伝導方式でコストのかかるチェーン方式採用はめずらしい部類だった。

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 当時のカタログや広告に使われた最も美しいフォルムがこれ。まだ都内は砂利のバラス道が多く、サドルはショック吸収に有利な方法だった。前後サスペンションはこの当時オイルダンパーも良くなく、完璧なものは少なかった。

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 写真は1958年秋、後楽園競輪場のインフィールド=野外で開催された全日本自動車ショウの明発ブース。250cc新型車クラウンに注目が集った場面で手前がスタンダード、奥がアップマフラーのスポーツタイプ。明発の年間生産台数は1955年は816台、1956年5681台、1957年6693台、1958年7018台と微増、ホンダ、トーハツ、スズキ、ヤマハ、山口までが1万台超え、トヨモーターに続く125ccクラスで7位だった。

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 川崎製の250cc第二弾がKB-25ASことクラウン250だった。クランクケースは上下割構造を採用、足動レバー操作でニュートラルに戻る機構など凝っていた。機構的には125のエンジンを2連にしたもので、1958年~60年の全日本自動車ショウ(ショー)に毎回、展示されたものの、当時の生産実績には1台の計上もなく、量産試作車が主要販売店で試験されるにとどまり、実際の販売例はなかったと思われる。

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 1959年度の生産量が初めて1万台を超えて、1959年(昭和34年)12月、川崎航空機側は「単車準備室」を明石工場内に開設する。単車の生産で得た利益をガスタービンの研究にまわす、という遠大な計画があったためだ。単車開発にあたり研究所、生産工場、テストコース建設など数億円規模の投資が行なわれた。それに先立ちメイハツも鋼板バックボーン・フレームのみの新鋭車125-60型を投入して、業績向上を狙ったものの、あまりにも「斬新すぎたスタイル」に、ユーザー達の購入動機がわかず、年間生産台数は5000台ラインに半減してしまった。

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 KB-6ASエンジンは外観のリファインばかりでなく、ミッション系も一新のコンパクトエンジンになった。ミッションは3速から4速になったが1次伝導は湿式から乾式になったものの、チェーン駆動は変わっていない。出力は8ps/6500rpmにアップされ公称100km/hであるが、最高出力時の計算上では91km/hとされた。125-60型が不評のため1960年(昭和35年)8月には、新型ニューエースが一般型タンクで登場、明石工場から初出荷されてゆく。

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 1961年(昭和36年)1月、川崎航空機のデザイン室でリファインされたB7がデビューする。この頃には目黒製作所の一部スタッフも明石に移り、B7拡販に努めてゆき、手始めに朝霧のモトクロスレースに参戦して注目されたこともあった。エンジンはBE7型になったが、出力アップの弊害か、クレームが続出して川崎側ではエンジンを新設計することになる。

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 背水の陣にあった川崎では「これが売れなければ二輪事業撤退!」という条件のもと、エンジン設計の松本博之担当自らが、旧メイハツの主力地域のユーザー対面調査を敢行して、東北地域を1週間ほどまわったという。その結果、エンジンはボア・ストローク以外、すべて新規部品にした125-B8を生み出すわけである。
 エンジンおよび車体ともに「悪路を走ってもビクともしない」よう、再度合成フレームを採用、テレスコピック・フォークの見直し採用、エンジンは一次伝導にヘリカルギア採用でパワーロスを軽減、ダイナモ類は左に移してヤマハやスズキ同様の配置として部品共用化も狙った。その結果B-8は無類の耐久性を発揮、モトクロスレースで連戦連勝して、カワサキのバイク生産を存続させることになったのである。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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