三樹書房
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kataoka
第11回 マスタングという名の自動車
2012.9.27

 マスタングのことについてぜひ書きたいという気がしてきた。
 ぼくが気に入っているマスタングは、一九六五年から六九年までのファスト・バックのマスタングだ。この文章を書くためにいろんな写真を見なおしたのだが、ぼくの趣味では、六五年から六九年までが、いちばんマスタングらしくていい。町のなかを走ったり、ちょっと遠出をしてみたりという程度の、ちゃんと平らに舗装してある道路を普通に走るだけのパーソナルなランナバウトとしてなら、この年代のマスタングだ。程度のいいのをさがしてみようか、という気持すら、おこってきている。
 マスタングの大量市販車の最初のモデルが売り出されたのは、一九六四年のことだった。発表や発売前の、マス・メディアを巧みに使ったあおり立て作戦は大成功、そしてマスタング自体も非常によく売れ、フォードの大ヒットになったのだった。
 この時代のアメリカで、ひとつのマス・マーケットとしてようやく大きなかたちを持ちはじめた新しい購買者層の、新しい趣味や好みにぴったりと合わせたイメージのパーソナル・カーであったマスタングは、結局のところ、ボディワークが勝負の車だった。
 一九六〇年代なかばという時代になってやっと、自動車を大量に売る相手としてしっかり想定できるようになったマーケットが欲しがっていたイメージを、リー・アイアコッカーフォードは、提供したのだ。時代の流れが生み出した新しいマーケット。そのマーケットが求めていたイメージ。そのイメージを一台の新しい自動車に造型させていく作業。正確なマーケティング・リサーチによってマーケットをあぶり出していくプロセス。こういったことをマスタングにからめて勉強していくと、けっこうスリルがあって楽しい。参考書から得た知識を、もうすこし書いてみよう。
 マクナマラからフォードを引き継いだアイアコッカーがリサーチによってつかんだマーケットは、第二次大戦後のベビーブームに生まれた子供たちだった。彼らは、一九六〇年代に入って、自動車購買層としての年齢に達しはじめていた。
 この層を中心に、アメリカの年齢構成をしつこく追っていくと、一九六〇年から一九七〇年までの十年間に、十五歳から二十九歳までの人たちは四十パーセントも増加するのに、三十歳から三十九歳までのエイジ・ブラケットの人たちは、おなじ十年間に九パーセントの減少をみる、というような事実が判明した。この事実を自動車の売上げにからめて分析すると、六〇年から七〇年までの十年間に売れる自動車の総台数の半分以上が、十八歳から三十四歳くらいまでの人たちによって占められる、といったことがわかったりする。
 この若いエイジ・ブラケットにねらいを合わせた新しい自動車をつくり出さないことには、競争に勝てない。彼らがどんな自動車を好んでいるか、具体的なリサーチをする。そうすると、たとえば、フォア・オン・ザ・フロアが五十パーセント近くの支持を受けている、といったことがわかってくる。ギア・シフトなどしたくない、と思っているもっと年上の年代層と対立して、フロアの四速をシフトしたがっている若い層は、第二次大戦後のアメリカという途方もないオプティミズムのなかにどっぷりとつかって豊かに育ってきた新しいアメリカ人であり、自分はこんなふうでありたいといつも思っているようなイメージをさらにいちだんと拡大し増幅してくれるものがたとえば自動車というかたちをとって目の前に登場すれば、それに対しておかねを払う用意は充分にある、という豊かな人たちだった。彼らが望んでいた自動車は、簡単に言うなら、スポーティで軽快な、パーソナルな若い感じの車、であった。
 マクナマラの堅実経営に対して、もっと若い感じを出したいと思っていた三十代後半のアイアコッカーは、一九六一年、T-5というコード・ネームのもとに、その若い感じの新しい車の開発を進めることに決めた。そして三年後には、いまではコンテンポラリー・クラシックスのひとつとさえ呼ばれている、マスタングの初代が世に出たのだ。
 シャーシ、エンジン、サスペンション、ドライブ・トレインなどは、そのほとんどがフォード・ファルコンかフェアレーンからの流用となったから、さきにも書いたとおり、マスタングはボディのかたちで勝負する車だった。ボディのかたちの勝負とは、つまり、確実に浮かびあがりはじめていた新しい購買層が思い描いているイメージをいかに逆手にとってひっかけるか、ということなのだ。フォード・ファルコンのシャーシにあの新しいボディをパカンと乗っけただけの車がマスタングだ、という言い方がけっして極端ではないのだが、あのボディ・スタイルが持っていたイメージの造型力は、やはり強烈だった。マスタングが発売された一九六四年というと、前の年に大統領のJFKがじゃま者としてあからさまに暗殺され、以後の長い下り坂をアメリカが確実に滑り落ちはじめた年にあたる。新発売のアメリカン・カーが、ひとつの時代のなかで大きなスケールで輝きを持った最後の例が、このマスタングだったのではないだろうか。
 マスタング・ストーリーという伝説のはじまりは、一九六一年、アイアコッカーがT-5というコード・ネームでマスタングの開発プロジェクトをスタートさせたときからだとか、マスタングはオリジナル・サンダーバードに二座席つけ加えたよみがえりだから、シヴォレーのコルヴェットにフォードがマーケティング的に張り合おうと決めたときからマスタング・ストーリーははじまったとか、いろんなふうに言われている。
 どの説も部分的には正しいが、もっと正確には一九四六年までさかのぼる。
 第二次大戦を戦勝国としておえたアメリカは、四〇年代の終りから五〇年代をへて六〇年代の初頭まで、かつてなかった物質的な繁栄を土台とした、たいへんな楽観主義のなかに生きてきた。マスタングは、この時期のアメリカでの時代の流れのなかで、じわりじわりとしぼり出されるようにして生まれてきたものなのだ。
 戦争が終結すると、新しい自動車を買うというブームが、アメリカにおこった。新車はたくさん出たが実際には一九四二年ごろのものの流用がしばらくつづき、本来の意味での新車が登場したのは、一九四九年からだった。
 マスタングの基本路線である、スポーティで軽快な、ロー・プライスのコンパクト・カーを志向する流れは、一九四六年にはすでにはっきりとあった。クライスラーのタウン・アンド・カントリー、ナッシュのサバーバン、フォードのスポーツマンなど、ボディをウッドりにしたパーソナルな感じのリミテッド・エディションは、この流れに呼応してつくり出されたものだ。
 以後、一九六四年まで、ビッグ・スリーが中心になり、ああでもない、こうでもないという感じで、スポーティでパーソナルでありながらけっしてマニア的な本格スポーツカーではない、大衆廉価版のコンパクト・カーを、試行錯誤的にたくさん出していく。このへんは、詳しく書くときりがない。ヨーロッパから帰ってくるGIたちが持ってきたスポーツカーの影響なども、見のがせない。フォア・オン・ザ・フロアの志向は、この影響のなかから生まれてきている。
 二十年ちかい時代の流れのなかでマスタングが最終的に勝利をおさめたのだが、オプションの多さを別にすると、唯一のきめ手は、結局、ボディのかたちが持っているイメージの喚起力という、実体のあるようなないような、不思議なものであった。


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写真:片岡義男

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執筆者プロフィール

1940年(昭和15年)、東京都生まれ。早稲田大学在学中からエッセイ、コラム、翻訳などを「ミステリマガジン」などの雑誌に発表。評論の分野では、1971年に三一書房より『ぼくはプレスリーが大好き』、1973年に『10セントの意識革命』を刊行。また、植草甚一らと共に草創期の「宝島」編集長も務める。1974年『白い波の荒野へ』で小説家としてデビュー。翌年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。代表作である『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』などが映画化。近年は『日本語の外へ』などの著作で、英語を母語とする者から見た日本文化論や日本語についての考察を行っているほか、写真家としても活躍。著書に『木曜日を左に曲がる』『階段を駆け上がる』(ともに左右社)『白い指先の小説』(毎日新聞社)『青年の完璧な幸福』(スイッチパブリッシング)ほか多数。

関連書籍
『木曜日を左に曲がる』(左右社)
『階段を駆け上がる』(左右社)
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