三樹書房
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kataoka
第5回 深夜の地獄めぐり
2012.3.27

 深夜の東京の、主として高速道路をオートバイで走りまわることを、彼は、地獄めぐりと呼んでいる。なぜ、深夜に、地獄をめぐるのか。
 彼の言い草は、こうだった。
 「夜中なら道路に車がつかえてないから、事故のとき救急車も早く来てくれるだろうと思って」
 深夜に自動車がすくないのは、たしかだ。車がすくなければ、オートバイで走りやすくもあるだろう。だが、彼の言い草の真意は、そこにはないはずだ。
 深夜は、照明とそれに対立する暗さだけの世界だ。この世界の中で、ひときわ、きわだってくるものがある。東京、オートバイ、そして、そのオートバイにまたがって走っている自分だ。
 車がすくなくなっていて、人も歩いてはいない深夜の東京。地面をいろんなかたちに埋めつくしている建物の中に、人々はひきこもって、おおむね寝ている。昼間、あんなに走りまわっていた自動車も、それぞれの駐車スペースに静止している。そこをオートバイで走れば、よけいなものがほとんど目に入らないだけに、地獄の様相が、くっきりとしぼりこまれて鮮明に、彼の全身に映じる。
 軽量級のものでも、オートバイは異常な機械だ。すくなくとも、普通ではない。重量級になってくると、そのあらゆる点が、とても地獄にふさわしい。
 またぐらの下に六十馬力からのエンジンをかかえ、二百五十キロもの重量をひきずりつつ、その気になれば、そのための道路さえあれば、メーターの針をふりきって時速二百キロ以上、軽々と出してしまう。
 四輪のように、どんなにドライバーが緊張を抜いても四つのタイアで踏んばって倒れないという、当然の横着が許されないだけ、ライダーの神経は、とぎすまされている。そのとぎすまされた突端がライダーにとっては快感となり、同時に、危険でもあり、異常でもあるのだ。
 深夜の地獄めぐりでは、ライダーである彼が体験する緊張も相当なものだ。そして、緊張しているというその一点をかいくぐって、地獄のはだざわりが彼に伝わってくる。
 「好きだから乗ってるだけだよ。言いたければどんなふうに言ってくれてもかまわないけれどさ」
 ライトを光らせた彼の黒いオートバイが、ビルとビルのあいだをうねる高速道路の直線をふっ飛んでくる。くだり坂になりつつカーブになっているところへ最低限の減速で突っこみ、肩から落として車体ごと倒しこみ、次の瞬間にはもうカーブのむこうに消えている。黒い皮つなぎに赤いヘルメットの彼はオートバイに上体を伏せ、突然、やみのかなたから飛んできて、むこうの闇へ吸いこまれていく。死者の使者のような四気筒の排気音を残し、地獄のサーキットをひとりでかけめぐる。彼がまたがっているフレームのすぐ下では、四本のピストンがシリンダーの中へ四つの気化器から猛然と混合気を吸いこんでいる。
 林立するビル群の背たけの、だいたいにおいて中間あたり、地平でもなければ空中でもないおかしなところを、何本ものコンクリートの柱に支えられ、高速道路は起伏し蛇行だこうし、分離し合流する。地獄サーキットだ。
 「サーキットだよ、たしかに。どのビルのどのネオンが見えたら、その位置にいるときの自分が何速でどのくらいのスピードで走ってるか、もうだいたいわかってるから。地獄の景色を、その瞬間瞬間にとらえて走るんだ。ほかに自動車がどのくらい走ってるかにもよるけれど。楽しんでるよ」
 言うまでもないけれど、ライダーの彼は、オートバイにまたがってむき出しだ。ヘルメットも皮つなぎもブーツも、コンクリートや鉄といったんからんだら、なんの役にも立たない。からまずにすむよう、細心の注意を払っていると彼は言うのだが。
 風圧や横風。オートバイ自身の振動。路面からのフィードバック。すべてをむき出しで夜にさらしている彼の体ひとつで、地獄を受けとめなくてはいけない。高速道路ののぼり坂をかけあがり、左にカーブしているその頂点で、路面はもっとも高くせりあがっている。ここを、左に倒れこみつつ通過する一瞬、地獄のすべてが見える。オートバイに普通の姿勢でまたがっていると、目の位置は、車の屋根とすれすれか、もうすこし高い。高速道路の両わきの防壁ごしに、左カーブを抜けながら、下界をのぞきこむことができる。目のすぐ下で高速道路が二重にも三重にも交差している。そのさらに下の、地面の白い矢印やじるしが見える。視線を転じると、ビルで埋まった地面が目のとどくかぎり広がっていて、明かりがめちゃくちゃにたくさんある。そのすべてが、夜空とともにうわっとかたむきつつ目にとびこんできたときの気味の悪さが、深夜に走る彼の相棒だ。
 空がうっすらと白っぽくなるまえに、彼は高速道路を降りる。
 「降りてきてさ、オートバイを歩道にあげ、ガードレールに腰かけてぼやっとしてると、ひとりでランニングをやってる人が走ってくるのさ。近くでとまって、ハアハア言いながら足踏みして、腰にるした万歩計を見てるんだよ。下界へ降りたな、という気がつくづくするよ。地獄から下界へね」


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写真:片岡義男

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執筆者プロフィール

1940年(昭和15年)、東京都生まれ。早稲田大学在学中からエッセイ、コラム、翻訳などを「ミステリマガジン」などの雑誌に発表。評論の分野では、1971年に三一書房より『ぼくはプレスリーが大好き』、1973年に『10セントの意識革命』を刊行。また、植草甚一らと共に草創期の「宝島」編集長も務める。1974年『白い波の荒野へ』で小説家としてデビュー。翌年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。代表作である『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』などが映画化。近年は『日本語の外へ』などの著作で、英語を母語とする者から見た日本文化論や日本語についての考察を行っているほか、写真家としても活躍。著書に『木曜日を左に曲がる』『階段を駆け上がる』(ともに左右社)『白い指先の小説』(毎日新聞社)『青年の完璧な幸福』(スイッチパブリッシング)ほか多数。

関連書籍
『木曜日を左に曲がる』(左右社)
『階段を駆け上がる』(左右社)
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