三樹書房
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kataoka
第7回 お月さまはベルベット
2012.5.28

 五月のゴールデン・ウイークがはじまるまえの日に、友人が遊びにきた。友人は、オートバイで、やってきた。たまたま庭に出ていたぼくは、下の私道に入りこんでくる彼のオートバイの、排気音を聴いた。排気音は、ぼくの家の階段の下で、とまった。
 友人たちが乗っているオートバイの排気音は、みんな知っている。音を聴けば、誰が遊びにきたか、だいたいわかる。庭に出ていたぼくが聴いた排気音は、友人のオートバイとしては、はじめてのものだった。四サイクル二気筒を、おとなしくおさえた音だ。
 誰がきたのかと思って、ぼくは階段のうえに出てみた。ヘルメットを脱ぎながら階段のうえのぼくをふりあおいだ彼は、「おーす」といつもの調子で言い、「買ったよ」と、ピカピカの新品オートバイの後輪を、ブーツのつまさきで軽く蹴ってみせた。
 しばらくまえから、この友人は、アメリカン・スタイルの四サイクル二気筒のミドル・ランナーを買いたい、と言っていた。彼がついに買ったそのオートバイは、何種類かある国産のアメリカン・スタイルのオートバイのなかではもっともよくまとまったものだった。バランサー機構の組みこまれたオーバーヘッド・カムのツインで、パワーをひかえめにしたエンジンの特性は車体とうまくつりあっている。ただし、ぼく自身は、買いたいとまでは思わない。
 乗りたければ乗ってもいい、と友人は言ってくれた。よく晴れた春の日の午後、ちょうどいい時間だったので、ぼくは出かけることにした。友人は手間のかからない男で、ひとりでほったらかしにしておいても勝手にコーヒーをいれて飲んだりレコードを聴いたりしていてくれる。
 寒いあいだは徹底的にオートバイをさぼるぼくにとって、その日のオートバイは、久しぶりだった。ぜひこれも持っていけと友人がすすめたウォークマンに、FM番組のためにジャズのピアノ・トリオ演奏を選曲してならべてみたカセットを入れ、ぼくは出かけた。
 箱根はこねにむかった。横浜インターチェンジで東名とうめいにあがるまでは、日常がふっきれずにぎくしゃくしたが、東名に入ると、調子は良くなった。
 ウイーク・デーの午後、箱根の道路には思ったよりもはるかに自動車はすくなく、もとは火山の外輪山である道路を、狂ったように走りまわった。春の午後から夜まで、非常にいい気分で、オートバイで走ることをぼくは満喫した。
 夜になり、展望台の突端で休んでいたとき、オレンジ色の月がのぼった。持っていけ、と友人がすすめてくれたウォークマンを、ぼくは思い出した。そのウォークマンに入っているカセットの最初の曲が、こじつけるわけでもフィクションでもなく、トミー・フラナガン・トリオの『ベルベット・ムーン』だった。ぼくはウォークマンをとりだし、ヘッドフォーンで聴いてみた。
 曲の、まず最初の第一音から、ものすごい感激だった。いい曲だし、素晴らしい演奏だ。すでに充分に感激しているはずだったのだが、夜の箱根の展望台で聴いたこのときの感激には、かなわない。
 オートバイに乗るのは、緊張の連続だ。その緊張が自分なりに楽しめているときには、自分はいいぐあいにきっちりと凝縮されている。緊張と凝縮の内部で自分の感覚は鋭敏に研ぎすまされ、起爆力を存分にたたえて、静かに充満している。この、きわめて心地良い緊張と凝縮を、ある一点においてものの見事に解放してくれたのが、『ベルベット・ムーン』だった。解放の快感と、そのことの大前提となっている緊張と凝縮とを、こんなに素晴らしいかたちで体験するのは、しばらくぶりのことだった。


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写真:片岡義男

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執筆者プロフィール

1940年(昭和15年)、東京都生まれ。早稲田大学在学中からエッセイ、コラム、翻訳などを「ミステリマガジン」などの雑誌に発表。評論の分野では、1971年に三一書房より『ぼくはプレスリーが大好き』、1973年に『10セントの意識革命』を刊行。また、植草甚一らと共に草創期の「宝島」編集長も務める。1974年『白い波の荒野へ』で小説家としてデビュー。翌年には『スローなブギにしてくれ』で第2回野性時代新人文学賞を受賞し、直木賞候補となる。代表作である『スローなブギにしてくれ』、『彼のオートバイ、彼女の島』、『メイン・テーマ』などが映画化。近年は『日本語の外へ』などの著作で、英語を母語とする者から見た日本文化論や日本語についての考察を行っているほか、写真家としても活躍。著書に『木曜日を左に曲がる』『階段を駆け上がる』(ともに左右社)『白い指先の小説』(毎日新聞社)『青年の完璧な幸福』(スイッチパブリッシング)ほか多数。

関連書籍
『木曜日を左に曲がる』(左右社)
『階段を駆け上がる』(左右社)
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