第3回  「浮世四十八手 うわきにまよわせる手」溪斎英泉/「時世美女競 東都藝子」溪斎英泉 

20150302【第3回の1】浮世四拾八手太田記念美術館蔵.jpg
5、「浮世四十八手(うきよしじゅうはって)うわきにまよわせる手」溪斎英泉 文政4~5年頃(太田記念美術館蔵)
 遊女二人で、なにやら鏡に映りこんだ顔を見ている。上の遊女は、簪を前髪のところに左右各3本と、後ろの髷のところにも左右各4本挿し豪華さを演出している。櫛は2枚で、未婚女性の結う潰し島田髷を結い、唇には流行の笹色紅が見えている。まだ若い売れっ子の遊女であろう。豪華な衣装を着て、手に懐紙を持っている。
 下で眉を指で隠している遊女は、お歯黒に笹色紅をしている。上の遊女より少し年増かもしれないが、髪型はこちらも潰し島田髷である。指で眉を隠す様子を描いた浮世絵は時々見かける。江戸時代の女性たちは、結婚が決まるとお歯黒をして、子供が生まれると眉を剃ったが、遊女たちも一般女性のような普通の結婚生活に憧れたのかもしれない。
 ただ、高位の遊女たちは、お歯黒はしたが、眉を剃ると老けて見えるので剃らなかったのである。下の遊女は唐花に額縁模様の着物を着ているが、たぶん中着であろう。身支度の途中である。題名の「うわきにまよわせる手」というのは、客に身請けをさせ、子供などが出来た時、眉を剃ると、こんな風になるというところを見ているのだろうか。いろいろな手管を考え中かもしれない。

20150302【第3回の2】時世美女競 東都芸子 太田記念美術館蔵.jpg

6、「時世美女競(いまようみめくらべ) 東都藝子」溪斎英泉 文政8年(太田記念美術館蔵)
 黒い柄鏡を膝にあて、左手で抱えているのは、芸子とあるので、橘町(中央区日本橋橘町のこと)あたりの芸者であろう。大きな潰し島田髷を結い、下唇には流行の笹色紅が見えている。鏡に向かって一心不乱に眉を描いている。江戸時代もそうであるが、今でも眉の形ひとつで、表情が変わってくる。化粧の中でも重要なポイントである。
 江戸時代の眉化粧について、詳しく書かれた総合美容読本『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』(1813)には、「眉毛を作る伝―眉毛のつくりかた色々あれども、顔の恰好によりてつくりかたかわれり。短き顔、丸き顔には、ほそく三日月のごとくにし、長き顔、少し大顔のかたには、少しふとく作るべし。あまり太きは賤しく見えて見ぐるしけれども、その顔の恰好によれば、一概(いちがい)にもいいがたし。細き眉は可愛らしく、太き眉は少しこわみて見ゆるもの也。されども細すぐれば取りしまらざれば、その人の恰好によるべし。...」と書かれている。普通、細い眉は可愛く、太いのは怖く見えるが、顔の恰好によるので、一概には言えない、とある。その人の顔形による、ということである。とすると、この瓜実顔の芸者は、少し太めに書いた方が美人に見えるということだろうか。
 また、同じ『都風俗化粧伝』にある眉墨の作り方は、「眉を作る墨の伝―麦の黒穂(むぎの穂のくさりてくろくなりたる也)これを手にてもめば粉となるを、切れたる筆のさきにてこすり付くべし。また油煙の墨を用ゆるもよし。油煙のとりようは、つねの燈火(ともしび)の燈心を一筋か二筋にてともし、その火の上へ紙をあてて油煙をとるべし。燈心多く燈したる油煙は、あらくして宜しからず」と書かれている。つまり、江戸時代後期の眉墨は、麦の黒穂か、または油煙から作ったものだったことがわかる。眉墨専用の刷毛か、お習字に使うような筆に眉墨をつけて描いていた。
 縞模様に「上下対い蝶菱」が描かれた着物。そして紗綾形の襟のついた赤い絞りのような中着が、江戸芸者の粋で華やかな部分を演出している。これから、芸者としての勤めが始まるのか、鏡を見ている表情には、少し緊張感が窺える。


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