ボタン(あるいは月夜の浜辺)

 小学校でも中学でも音楽と図工の時間があったのに、高校ではそのふたつ(音楽と美術)が芸術というのだったか、ひとつの単位にまとめられていて、どちらかを選択しなければならなかった。高校の先にひかえている大学受験のためのカリキュラムだったのだろうか。勉強しておりこうになれたらいいなと頭のどこかで願いつつ、結局どうやって勉強すればいいのやらわからないまま今日まで来てしまった。一週間に六日もまじめに学校に通っていたことが今となっては信じられない。
 音楽ならば歌う、美術ならば描く。得意とはいえないが、両方やりたいと思った。授業ではあっても「お勉強」でないところによりどころがあったのだ。あれこれ考えて、芸術では美術を選択して、クラブ活動で音楽部に入った。
 美術の時間にヒマなときはなかった。デッサンとか写生とか、いつだって自分ひとりで描かなくてはいけない。音楽の授業を窓の外から見ると、みんなヒマそうにしている。レコード鑑賞ならただ聞いていればいいのだし、教科書に載っている歌をみんなで歌うなら、歌わないでいたって目立つことはない。机につっぷして眠っている人も必ずいる。サボることができるのがうらやましかった。どこまでも向上心のないアウトな高校生でありました。
 部活の音楽部は合唱部といってよく、合唱ばかりをやっていた。合唱は美術とちがって、自分ひとりではなく、違う声の人たちといっしょでなければ成り立たない。自分が歌うのは混声合唱か女性合唱だ。男声合唱は聞くだけだったせいなのか、今も詩とメロディーとのセットでときどき一節を口ずさむ歌がある。コーラスという世界を知っている人ならきっと誰でも知っている歌だろう。それ以外の人は誰も知らない歌だと思う。

 歌ってみようか。「おだのうすらい、ふみーわり、ふみーわたる、おおおそどり、からす」というのは「鴉」。歌曲集『沙羅』のなかの一曲だ。1936年に信時潔が作曲。詩は清水重道。
 次は「つきよのばんーにぼたんがひとつー、なみうちーぎわにおちていた」中原中也の詩集『在りし日の歌』のなかの「月夜の浜辺」。作曲は石井歓。1959年の作曲とある。
 ふたつとも魅力ある曲だけれど、「鴉」は過去にひっぱられていて、「月夜の浜辺」のほうは未来を向いているように感じられる。ふたつの歌の間に第二次世界大戦があったことと無関係ではないだろう。
「月夜の浜辺」を続けて歌っていくと「それをひろってやくだてようと、わたしはおもったわけでもないが」となるのだが、青空文庫でこの詩を確認すると、「それを拾つて、役立てようと/僕は思つたわけでもないが」となっている。わたしとぼくとの関係はこれいかに? わたしの記憶違いだろうか。ともあれ、ボタンは捨てられない。


月夜の浜辺
中原中也

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。

それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
   月に向つてそれは抛(はふ)れず
   浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?


 そう、拾ったものでもボタンは捨てられないのだ。ボタンのついた服を買うとたいてい予備の替えボタンがついてくる。小さな紙やプラスチックの袋に入ってタグなどといっしょにこれ以上ない小さな安全ピンでとめられて、服からぶら下がっている。普段着用の木綿のシャツなら、前立ての下の裏側に縫い付けてあったりする。前をとめるのとそれよりひとまわりちいさい袖のカフス用のものと二種類だ。
 着ているあいだにボタンがとれてどこかに落としてしまうという経験はほとんどない。最近のボタンはめったにとれない。とれそうになっているボタンを見つけたときには、取って付け直す。
 だからほとんど必要はないのだが、替えのボタンはなぜだか捨てられない。予備としてついてくる替えのボタンはひとつかふたつだ。捨てられないので、それをそのままガラスの瓶にいれる。あまり鮮やかな色のものはないけれど、大きめのジャムの空き瓶のガラスを通して見るたくさんの小さなボタンの集積は愛らしい。
 十年くらい前までは裁縫や手芸に必要なものを売っている店がそこここにあり、店内にはかならずボタンのコーナーがあった。ボタンは5センチほどの高さの白い紙の箱に入っている。そして箱のひとつの側面には、外から見てわかるようにボタンの実物がとめてある。同じデザインでも最低大中小くらいのサイズがあり、サイズごとにみんなとめてある。それらすべてがひと目で特定できるのは買うほうにとっても売るほうの人にとっても便利だと思う。足もとから天井まで、何列もずらりと重ねられた、ボタンがとめてある箱をただ一望するのは楽しい。ボタンを探すのではなくただ鑑賞していると、人間の知恵にまで思いはいたる。
 ボタンの専門店というのも、まだ少しは存在している。私が実際に知っているボタン屋は海沿いの町にある。駅から海へ向かう大通りを歩いていくと、右側に小さな個人商店が密集しているところがあり、そのなかの一軒がボタン屋だ。間口が一間、奥行きは二間くらいの小さなスペースに、箱に入ったボタンがびっしりと詰まっていて壮観だ。気に入ったボタンを箱買いしてみたくなる。
 通りがかりに骨董市らしきものに遭遇すると、時間に余裕があれば見てみる。そこにボタンは必ずある。ガラス製のや動物の骨のや、材質だけでなくデザインも凝っているものが多い。ほしいなと思うけれど、使う目的がないので買わない。使う目的のないボタンは拾うか、あるいは替えとしてもたらされるものであり、買ってはいけないと思う。
 ボタンで好きなのは貝で出来ているもの。太陽の光を受けると、複雑系そのものの輝きを見せてくれる。厚めのものにはどこからも文句はつけられない。厚さそのものにも複雑系が宿っている。でも薄っぺらの貝ボタンのはかなさも好きだ。洗濯しているときに割れることがあるけれど、しっかりと縫い付けられていると、そのまま使い続けられる。はずすときに指先にちょっと違和感があるので、ますます気をつけてていねいに取り扱ってしまう。捨てられない、捨てられない。大きなものでもボタンは小さい。私のように、手に入ったものを一生捨てずにいても、段ボール箱ひとつを満杯にするまでにはいかないだろう。捨てなくてもいいのかもしれないな。