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onebox
第7回 「ワンボックス」の名称が各社に普及してゆく
2022.3.16

「ワンボックス」という名称で、このMBASEを展開しているが、歴史的にみると日本の各メーカーの呼称が、すべてワンボックスではない。たとえばトヨタ=コーチ→ワゴン→新乗用車→サルーン、日産=コーチ→バニング→RV→Station Wagon(輸出車)、三菱=コーチ→スターワゴン→ツーリング、マツダ=コーチ→マルチワゴンと異なってきた経緯があるが、当初は各社ともに「コーチ」と命名していた。

 コーチの呼称は主には1800年代の鉄道用旅客車を意味し、後部車両には展望デッキを持っていたことが多かった。自動車の世界ではキャディラックのような高級車のホイールベースを伸ばしてバンタイプとして、内部には回転対座シートなど装備した「リムジンより大型な車輌」を意味するようで、救急車や霊柩車もフューネラルコーチとも呼ばれており、広くは同じジャンルのようだ。

 こうした事を知ってか知らずか……自動車専門誌は当初はキャブオーバーと表現していたが、1981年1月のマツダ・ボンゴがワンボックスカー、6月の日産がワンボックス…という表現をカタログに使いはじめたのを契機に独自に表現していった。自動車工業会の自動車ガイドブックでは1980年度版より車輌の増大に対応させて乗用車紹介の最終項に、乗用車(ワゴン・コーチタイプ)の分類をスタートさせた。ワンボックス車の生産需要の多くは、ベースになった商業車=ライトバンではあったが、乗用登録車として差別化するための策であった。

 黎明期では、乗用車ベースのボンネット型ワゴン・商用車併用ボディ車があたりまえのように設計生産されたが、ワンボックスが乗用にも商用にも使えることが判明してからは、カタログ類も乗用&商用兼用から、乗用と商用を分けてゆくことがあたりまえとなる。この結果、各社がエンジン、ミッション、サスペンション、インテリアのシートや内張り類の差別化はもとより、最高級グレード車にはオプション設定ながらもサンルーフ付き、後部対面シート、エアコン装着があたりまえとなってゆく。

 またボディサイズに関係なく小型乗用車ワゴン・コーチ系に、小型車枠フルサイズ車用の2000ccエンジンを搭載することもあたりまえとなり、時代は高出力エンジン・ワンボックス車の時代に突入するのであった。

 1980年12月に制作されたカタログ、実際には1980年8月デビューのキャラバン・ホーミー対策といえる角眼2灯へッドランプを、小型ワゴン車系のみ装備した改良型ハイエース。最高グレードのスーパーカスタムには対面シート、ディーゼル車の一部にオーバードライブ付4速オートマチックなどを採用して高級感を高めた設計にして登場した。

 スイングウェイ式と名付けた対面シートは、2番目のシートバックを前後に倒して行う方式。加えて背もたれは対面時にはリクライニングできず、座面も逆向きに座る関係からフラットな形状にならざるを得なかった。右のページでは前後室内をエアコンで冷却する方式を採用し、どうにかキャラバンに追いついたことになるが、電動サンルーフは見送られた。

 H20(ショートホイールベース9人乗り)—30(ロングホイールベース10人乗り)—40(スーパーロングホイールベース15人乗り)型と続いた第二世代ハイエース。この最終ラインナップは主力の20-30型のみとなり、スーパーロング車はマイクロバスカテゴリーなので従来モデルが販売された。スーパーカスタムサンルーフは174.86万円、カスタム151万円に設定されていた。

 1980年12月15日発表、翌年1月17日に発売されたいすゞの野心作がファーゴで「Far=遠く」+「go=行く」の造語が車名となる。ボディ全体を曲面構成としたため「カプセル・シェイプ」と命名、ボディ全周に配されたベルトラインがデザイン的な特徴であった。

 この頃のいすゞは、ヒルマン-ベレル-ベレット-フローリアン-117クーペ-ジェミニ-ピアッツァと1950年代から続く乗用車生産もしていたために、ファーゴのインテリアも工夫を凝らしたものになっていた。初代ジェミニと相通ずる大型メーターダッシュが特徴的といえた。

 ファーゴの設計開始時点にはなかったであろう……対座シートなどはまだ装備されず、2−3番シートのフラット化が採用できる程度であったといえる。いすゞの顧客層からも、乗用車ファーゴよりも商用バンはエルフ人気にあやかって好評だった。

 ボディ全体を丸みのある造形デザインを施したファーゴではあったが、いすゞの人気車ビッグホーンと共通した感じのホイールなどで人目を引いたものの、まだワンボックス車に4WDを考慮するまでには至らず、販売拠点の少なさもあって人気が出るのはだいぶ後になってからだった。

 バンの当初の搭載エンジンはガソリン1600と1800、ディーゼル1800と2000と選択肢があったが、ワゴンは新開発のOHCであるもののディーゼル2000cc、66psのみの設定で、いささかパワー不足は否めなかった。加えて当初はオートマの設定もなく他社に遅れをとっていた。

 ラインアップは9人乗りの豪華車LSに加え、中間モデルLTと廉価版LDそれぞれに9人乗りと10人乗りを揃えた合計5モデルを揃えた。ただ9人乗りの3列シート車の同じボディのまま、4列の10人乗りで設定しただけに「狭い」といわれたのも当然といえた。最高グレードLSはハロゲンヘッドライト、パワステ、AM/FMラジオ装備で181.6万円、中間グレードLTは168.8万円、廉価グレードLDは152.9万円に設定されていた。

 デビューから1年半後の1982年7月に、他車なみの装備をもたせて登場した改良型ファーゴ。まずは表紙でサンルーフをみせている。商用ファーゴにはガソリン1900cc、96psの高出力のロングボディー車があるのに、ワゴン系のエンジンやボディは旧来のままだった。

 いすゞも遂に「水着モデル」を起用して、他車を追従せざるを得なくなったことがわかる。「スポーツ&レジャー、思いのままに。」と、若者向けを狙い……サッカー、野球、フリスビー、自転車、ゴルフ、バーディング、フィッシング、サーフィン、ローラースケート、テニス、レーシングカート、ウインタースポーツなどに活用できることをアピールしていた。

「NEW AGE 1BOX」のタイトルを持たせ、対面シートの採用を強調したカタログ。当時流行の大型グライダーを持つ場面やシート後部にJAXSONミニバイクの姿が映し出され、マニア感を強調。ツインクーラー装着車には小さなクーラーボックスが設定されていた。

 ファーゴのユーザー層を考慮して、若者向けからいくぶんか家族向けに方向性を変えた、回転対座以外のシートアレンジを展開したカタログ中央部分。セカンド&サードシートのシートバックは右側1名分が分割してフラットにでき、長尺物が収納できる工夫がされていた。

 ファーゴはハイルーフ仕様でないのにガラスサンルーフが採用された。これには設計陣の苦労があったろう。登場時に「ザ・カプセルシェイプ」といわれたボディは、左右のウインドー面積も大きいために開放感にあふれていたが、やはりディーゼル66psエンジンはアンダーパワーだったろう。この後にターボエンジンが採用されるが、人気を盛り返すまでには至らず、バンの売れ行きの方が良かった。

 マツダ・ボンゴの第2代目は1981年1月にマイナーチェンジがされ、前部のベルトラインから下部をデザイン一新し、角2灯ヘッドランプが採用された。最高級グレードのウエストコーストの撮影には米国カリフォルニア州で行なわれたのだろうか……。40年以上経た現在は道路が整備され、海岸沿いを走る場所は極めて少ない。

 上が三輪トラック以来の商用車主体だったマツダ店向けのボンゴ、下がR360クーペ以降乗用車主体だったマツダオート(後にアンフィ二)店向けのボンゴ・ボンディで、いずれも1979 年7月より加えられた。1981年のカタログの両車はラジエータグリルが若干異なる程度で、両車のカタログ内容はまったく同じ構成であった。マツダの販売店は、地方ではマツダモータースなどがあり、さらにファミリア店なども加わり、まだ販売店の棲み分けや統合などは、今ほどは明確にされていなかった時代だった。

 回転対座シートの回すイメージを左に表現したカタログ内部。ただシート回転基部の上にある座位の前後変動ができないので、対面すると足元が狭くなるのは否めない。もっとも最高級グレードの販売台数は少ないと思われるが、ボンゴの受注台数は増加の一途で、マツダの救世主となったとされる。

 メーターパネルは二代目ボンゴの初期型とレイアウトはほぼ同じだが、マイナーチェンジ時にダッシュパネルを一体感あふれるものにして、乗用車感覚を増している。左ページのフレッシュエアーシステムはエアコンではなくてエアーインレットのみの組み合わせで、このクラスのエアコン設定車の普及は 1982年以降であった。

 マツダも他社に習ってサンルーフ越しに水着の美女を登場させた。シートサイドにはカリフォルニア州サンホセ産のポテトPik-nik缶を並ばせ、手には1978年刊行のノベルス、ゴッド・ファーザーを生んだアメリカ系イタリアン作家マリオ プーヅォの本を配した、ウエストコーストそのものの……マニアックな構成だった。

 燃料の安価だったディーゼルエンジン需要が高まり、マツダは1965年1月に 英国パーキンスサービス社とディーゼルエンジンに関し技術提携、三次工場でエンジン生産を開始した。1968年にキャブオーバー型中型トラックのボクサー用直列6気筒3783ccを皮切りに、小型車用4気筒2200cc、70ps、14.5kg-mのS2型エンジンを開発、コスモとボンゴに搭載。ガソリンは1800cc、95ps、15.2kg-mで、トルク特性を揃えているのが特徴だった。

 旧来の丸眼2灯式から角型2灯式になって、最も人気が出たのがボンゴワゴン・バン系といえるだろう。それまで人気トップとされる車種を生んでこなかったが、ボンゴは後部タイヤをダブルにしたフラットフロアが特徴で、ワゴンやバンともに評価を得てマツダ車ユーザーを確保してゆくことになる。9人乗りデラックスのディーゼル車が125.6万円、ハイルーフカスタムのディーゼル車が137万円、ハイルーフウエストコーストのディーゼル車が150.3万円で、ディーゼル主体で販売していた。

 パワー競争でトヨタのライトエースやタウンエースにかなわなかった日産のバネット系であったが、なんと小型車枠最大排気量のSOHC2000ccのZ20型105ps=キャラバン用を搭載してミドルクラス最強のマシンに仕上げられ登場。キャッチフレーズも「ワンボックスGT」として登場。このチェリーバネットの1981年6月発行カタログにより「ワンボックス車」という用語が広く知られるようになる。

 旧来のバネット系A15型ガソリンエンジン車は全高が低く前席3人掛けが可能だったが、新採用のZ20型ガソリンとLD20型ディーゼルエンジン車についてはエンジンが大きく補機類の関係で中央にコンソールを置いた左右2名乗車となった。高性能エンジンの搭載でクラス最速マシンとなった。

 スカイラインやローレル搭載のZ型エンジンゆえに、日産ならではのネーミング「GTメカニズム」が映えるカタログ、Z型SOHCガソリンエンジンには2000の下に1800ccがあるがクラス最高峰を狙っての2000cc、105psの搭載だった。ディーゼルも乗用車用のSOHCのLD20型、65psエンジンを搭載、バンにも搭載された。

 バネット系のラインナップ。主軸のGLハイルーフはA15型OHVガソリンエンジン車が、前席3人掛けシート+4速コラムシフト車で117.4万円。SGLサンルーフLD20型ディーゼルは前席2人掛けシート+5速フロアシフト車で146万円。最高峰SGXサンルーフはZ20型SOHCガソリンエンジン搭載、3速AT車が154.3万円、5速フロアシフト車151.7万円に設定していた。

 乗用車主体の日産店向けダットサンバネットの1981年8月発行のカタログ。一見してチェリーバネット系と変わりないように思えるが、ユーザー層の違いからか廉価グレードの1500ccにコラムATを装備したグレードをアピール。ボディサイズ的に小さいため高額車は売れないと判断しての結果と思われる。この時点で日産はワイドボディのラルゴの投入が決まっていた。

 アウトドアでの需要をあおっていたメカニズム解説部分。ガソリン1500および2000、ディーゼル2000それぞれにマニュアルとオーマチック車を揃え、さらに各車の燃料消費量を一堂に記載するなど……実際の販売セールス上で顧客にわかりやすいようにしたのが特徴といえよう。カタログ制作もイメージばかりでなく具体性を持たせることが重要であることを物語っていた。

 デリカも他社ワンボックスの装備アップに負けじと、1981年9月にマイナーチェンジしてサンルーフ、対座シート、オートマチック、サウンドコンポなどを装備できるようにして登場させた。カタログ撮影はオーストラリアのシドニーを選択、日本にはない風景をみせて新感覚をみせた。ただ実際には右画像の場所には車両を置くことは不可能なので、はめこみ制作であることがわかる。しかし当時はシドニー観光も少ない時代で、まだインターネットが登場しておらず、事実を確認できたのは現地にいった人のみだった。

 オートマチック+パワーステアリング+サンルーフ……とまずは走る機能のレベルアップをアピール。ギャラン、ランサーで成功した乗用車技術をいかんなく示したのが新型デリカのアピールポイントだった。ただ全車装備でなくXLスーパーの名がついたグレードのみで、フル装備するとかなりの金額になった。

 対座シートはトヨタと同じシートバックを倒す方式だが、トヨタのシート側面ラッチ式でなく、シート下部でラッチを変える方式を採用。オプションのオーディオコンポは三菱電機ではなく松下電器製で、最新式のドルビーカセットステレオを採用して計3名で聴ける方式だった。

 搭載エンジンはシリウス80の1800cc、100psを上位モデル、サターン80の1600cc、86psを下位モデルに搭載。いずれもサイレントシャフト=バランサー付きで「デリカは騒々しい」というイメージを払拭。サスペンション系もラバー類を多用して騒音を回避する努力がみられた。また走行シーンもオーストラリア大陸を想わせる背景を演出していた。

 ラインナップの一部、左から最高級グレードの1800ハイルーフXL-SUPERオートマ&パワステ&マルチサウンド装備車はサンルーフ付で155.5万円。中央の中級グレードの1800ハイルーフXL-SUPERパワステ装備車、右が商用バンに近い外観の最下位モデルの1600DXは4速コラムで104.1万円だったが5速になると120万円になる。ちなみに1600DXバンは86.3万円だった。

 1982年7月のダイハツデルタワイドワゴンのカタログ、前年型も同じような外観だが、新たに運転席側にムーンルーフが追加されたのが大きな変化。トヨタのタウンエースのダイハツ版だが開発、生産にはダイハツも関与している。他社の搭載エンジンがSOHC化しているのに対して依然OHVで対応していた。

 タウンエースとほとんど同じような運転席関係だが、3速オートマと5速マニュアルが、いずいれもフロアシフトというのが大きな変化といえよう。ただしダイハツ独自の超廉価版4速デラックス車はコラムシフトを採用して価格108.3万円を実現した。

 前側ムーンルーフ+後側サンルーフという新たなる名称の組み合わせを用いたダイハツに対してこの後、親会社のトヨタは新たに「ツインムーンルーフ」という名称を考えてワゴン系全車に採用する。空調システムの左側画像には「クールボックス」が設けられ、ドリンク類の小型クーラーが設置できた。現在では携行用の各種クーラーボックスを用いる例が多いが、この時代はクーラーの効きが不明瞭で……まさか「数時間しないと完全には冷えない」とは誰も考えなかった時代でもあり、ツインクーラーを装着するユーザーも少なく、こうした効果はわかりにくい時代であった。

 デルタワイドワゴンのフルラインナップ。7人乗りの最上級グレードを除き前席セパレート2+中央3+後部3名の8人乗りの設定であった。ワゴンのDXは4段コラムシフトでセパレートシートだが、バンの4段コラムシフト車はベンチシートの前席乗員3名に設定。バンでも5速フロアシフト車はセパレートシートで前席乗員2名に設定されていた。この時期はライバル達のマイナーチェンジが多く、ダイハツも半年毎にマイナーチェンジせざるを得なくなっていた。

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執筆者プロフィール

1947年(昭和22年)東京生まれ。1965年より工業デザイン、設計業務と共に自動車専門誌編集者を経て今日に至る。現在、自動車、サイドカー、二輪車部品用品を設計する「OZハウス」代表も務める。1970年には毎日工業デザイン賞受賞。フリーランスとなってからは、二輪、四輪各誌へ執筆。二輪・三輪・四輪の技術および歴史などが得意分野で、複数の雑誌創刊にもかかわる。著書に『単車』『単車ホンダ』『単車カワサキ』(池田書店)、『気になるバイク』『チューニング&カスタムバイク』(ナツメ社)『国産二輪車物語』『日本の軽自動車』『国産三輪自動車の記録』『日本のトラック・バス』『スズキストーリー』『カワサキモーターサイクルズストーリー』』『カワサキ マッハ』『国産オートバイの光芒』『二輪車1908-1960』(三樹書房)など多数。最新刊に『カタログでたどる 日本の小型商用車』(三樹書房)がある。

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