第130回 M項-21「マツダ・2(東洋工業)」(1968~ )

2024年4月27日

 2010 Mazda MX-5

(06)<コスモ・スポーツ/ロータリー・エンジン>

(写真06-0a) 1968(1964) NSU Wankel Spider (1967-11 東京オートショー/晴海)

(写真06-0b)1969(1967) NSU Ro80 4dr Limousine (1968-11 東京オートショー)

(参考06-0c)1969 Citroen M35

(参考06-0d)1973 Citroen GS Bitoror

1964年世界で最初の「ロータリー・エンジン」を搭載した車が誕生した。それはこのエンジンの実用化に成功したドイツの「NSU社」で、エンジンの開発者「フェリックス・ヴァンケル」の名前を取り「NSU Wankel  Spider」と名付けられた。エンジンそのものは1957年2月「試運転」に成功していたが、解決しなければならない問題点は多く、1959年「一応の完成」を見たが、「実用」までには7年を要している。ロータリーエンジンが発表された時に関心を示したメーカーは100社を超え、技術提携やライセンス契約を結んだ約20社の中でも形になったのは「トヨタ」「メルセデス・ベンツ」「ロールス・ロイス」「シボレー」のみで、車として完成させたのは本家「NSU」と「シトロエン・M35」(267台)、「GSビロトール」(847台)と、完全に完成させた「マツダ」の3社だけだった。(シトロエンの場合は特定顧客に対して問題点や耐久性のテスト・モニターとして提供されたが、量産して市販するまでには至らなかった。)本家も手こずった問題点を解決し、実用化・量産に成功したのは世界で唯一「東洋工業(マツダ)」だけだった。いまだ試作段階だった「ロータリー・エンジン」に目を付けた松田恒次社長は、1960年10月3日NSU社を視察、10月12日には仮調印を済ませ、1961年7月4日正式に「ライセンス契約」を締結した。エンジンは「楕円形のハウジング」の中を「おむすび型のローター」が回転して、その空間で「吸気」「圧縮」「爆発」「排気」を滑らかに行う仕組みだが、素人の僕はその仕組みについて上手く説明できないので割愛する。もっとも困難だったのは機密を保つための「アペックス・シール」の材質で、最終的には高強度カーボン材に特殊な方法でアルミをしみこませた素材の開発に成功した。開発時のエピソードで、ありとあらゆるものを試した中には「するめ」まであった、と聞いた記憶がある。

(参考06-1a)第1次試作車1963 Mazda 802(L402A)

「マツダ」の「コスモ・スポーツ」が市販に至るまでには多くの「プロトタイプ」が造られている。エンジンン単体では1963年のショーで一般に公開されたが、車両の展示はなかった。しかし第1次試作車「Mazda 802(L402A)」は既に2台完成しており、松田恒次社長が自らステアリングを握り広島から東京の自動車ショー会場に乗り付け話題をさらった。この車のワイパーは3連が特徴だ。

(写真06-1-2a)第2次試作車1964 Mazda Cosmo  (1964-09  東京モーターショー)

・第2次試作車「Mazda Cosmo」は1964年9月の自動車ショーに展示され、初めて一般人の前に現れた。ワイパーは2ブレードの対抗式となり、三角窓が追加された。この段階でエンジンは399cc×2ローターの「L8A型」が搭載されていた。

・第3次試作車「Mazda Cosmo」は1965年10月の自動車ショーに展示された。外見上ではルーフカバーが廃止され、ルーフとクオーターピラーが白に塗装された。フロント・フェンダーのスリットが「はめ込み式」から、ボディを直接打ち抜くよう作業の簡素化が図られている。エンジンは後年市販車に搭載される491cc×2ローター「10A型」に変わり、徐々に完成に近づいている。

(写真06-1-3a~e)第4次量産型試作車 1966 Mazda Cosmo Sports (2017-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

・第4次試作車(量産型試作車)「Mazda Cosmo Sports」 は1966年10月の自動車ショーに展示され、いよいよ来春発売予定と発表された。価格は未定とされていたが、翌年148万円で売り出された。「トヨタ2000GT」(238万円)、「いすゞ117」(172万円)、よりは安かったが、「フェアレディ2000」(88万円)、「スカイライン2000GT-B」(94万円)に較べれば遥かに高価だった。

(写真06-2abc)1967 Mazda Cosumo Sport (L10A)   (1967-12-09 銀座4丁目/都電最後の日)

昭和40年の初め頃までは東京の街には45系統の「都電」が網の目のように走っていた。自動車社会になると交通渋滞の元凶として次々と廃止されてしまったが、100米おき位に停留場があり、次から次と続いてくる便利な乗り物だった。銀座4丁目の交差点は中央通り4系統、晴海通り3系統、合計7つの路線が縦横に走っていた。しかし1962年12月9日を以て中央通りの4系統の廃止が決定した。最後の日2万人の人が集まったと記録されているが僕もその一人だった。その日、暗闇の中で見つけたのがこの車だ。

(写真06-3ab)1967 Mazda Cosmo Sport (L10A)  (1980-01 TACSミーティング/神宮絵画館前)

1968年から後期型になるので、この車は前期型最後の車だ。搭載されるロータリーエンジンは491cc×2ローター(2気筒相当) 10A型110ps/7000rpmだ。

(写真06-4ab)1969 Mazda Cosumo Sport (L10B)  (1978-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

後期型となり型式名は「L10A」から「L10B」と変わったが、チューンアップされたエンジンは「10A」のままだった。外見上ではエアインテークが拡大され、ブレーキ冷却口が新設された。

(写真06-5a~d)1969 Mazda Cosmo Sport (L10B)  (2015-10 東京モーターショー/ビッグサイト)

メーカーが保管している「後期型」(L10B)の車両で、完全にオリジナルを保っているので資料としては貴重なものだ。

(写真06-6a~e)1967 Mazda  Cosmo Sport 110S   (2017-08  オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

この車は前期型でモデル名「110S」は輸出車に付けられるネーミングだ。この車もメーカーによって完全にレストアされているが右ハンドルだ。コスモを最初に見たときから気になっていたが、特徴あるテールランプは、1960年型「フォード・フェアレーン」とよく似ている。

(写真06-7a~e)1967 Mazda Cosmo Sport 110S 2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

輸出モデルとしてイギリス国内で撮影したのがこの車だ。モデル名は「110S」で右ハンドルだが、アメリカ向けは左ハンドルだったのかは資料不足で確認出来なかった。

・「コスモ・スポーツ」は1,176台製造され1972年9月で生産を終了した。

(07)<ルーチェ>

「ルーチェ」は「キャロル」「ファミリア」と続く乗用車としては3代目にあたる。1963年秋の「モーターショー」でプロトタイプが発表され、1964年上半期中に発売予定とされていたが、実際に発売されたのは1966年8 月だった。

(写真07-1a)1963 Mazda Luce 1000/1500 prototype  (1963-10 東京モーターショー/晴海)

ショーに展示された「プロトタイプ」が写真の車で、ボディはイタリアのデザイナー「ベルトーネ」によるもので、当時としては垢ぬけていた。この車が実際にエンジンを積んでいたかは不明だが,エンジンは「993cc」と「1484cc」が用意されているとあった。

(写真07-2ab)1968 Mazda Luce 1500 Dx 4dr Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

ショーに展示された車はその後市販されることはなく、2年後の1965年ヘッドライトを四ツ目に改め、SOHC 1484ccのエンジンを積んだ姿で自動車ショーに再登場し、翌1966年からそのままの姿で市販に移された。マツダとしては最上位の「フラッグシップ」だが、まだこれ以上の排気量のエンジンは用意出来ていなかったのだろう。この車は小型車ながらフロントシートが3人掛で、定員6名だった。因みに小型車枠は1960年からは2000ccに引き上げられている。

(写真07-3ab)1969 Mazda Luce 1800 4dr Sedan (1969-10 東京モーターショー)

1968年12月、ストロークを延ばし1796ccと一回り大きくなったエンジンを載せた「ルーチェ・1800」が登場した。出力は「1500」の78hpから100hp迄強化された。ボディの基本スタイルには変りはなく、エンジンが大きくなったことを示すかのように、エアスクープが開けられボンネットが段付きとなった。リアフェンダーにはLuceの後に1800が追加された。 .

(写真07-4ab)1969 Mazda Luce Rotary Coupe Super Deluxe (1980-05 TACSミーティング/筑波―キット)

ロータリー・エンジンを搭載した車の第2弾は1968年の「ファミリア・ロータリー・クーペ」だが、1年後の1969年10月、第3弾となる「ルーチェ・ロータリー・クーペ」が発売された。1967年の自動車ショーに展示されていたプロトタイプ「RX87」を市販化したものだ。このシリーズはマツダとしては初の「前輪駆動」が採用され、この車専用に設計された655cc×2ローターのロータリー・エンジン「13A」型 (126ps) が搭載された。前輪駆動に対応してシャシーに横置きするためにエンジンの長さを短くする必要があり特製されたものだ。

(写真07-5abc)1970 Mazda Luce Rotary Coupe  (2016-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

「ルーチェ・シリーズ」は1966年から95年までの30年間フラッグシップとして、初代から5代目まで姿を変えながら頂点に立ち続けた。「ロータリークーペ」は1966~72年の初代に誕生している。新車の価格は175万円で、それだけ聞くと今の感覚では大した金額ではないように感じてしまうが、当時の大卒初任給約60か月分相当で、車が庶民にとっていかに高根の花だったかが判る。この車のドアの後には「RX87」と前身を示すバッジが見られる。

(08)<カペラ>

(写真08-1ab)1970 Mazda Capella RotaryCupe Grandsport  

1970年5月「ルーチェ」と「ファミリア」の間を埋める新シリーズ「カペラ」が誕生した。最初から「ロータリー・エンジン」を搭載する前提で設計されたのは、十分実績を積んだ自信の表れだろう。エンジンはこの車に合わせて設計されたもので、従来型のローターハウジングを10mm広げた(レシプロで言えばボアの拡張)573cc×2ローター 120hp/6500rpmの「12A」型となった。メーカーとしては自信を持ってきた「ロータリー・エンジン」だが、一般の購入者の多くはこの全く異次元のメカニズムにはまだためらいを感じていたから、同じボディにレシプロ・エンジンを積んだ「カペラ1600」も同時に発売された。

初代1970~74年、2代目1974~78年の9年間で「カペラ・ロータリー」は225,003台を販売したが、3代目以降にロータリー車は設定されなかった。

(09)<サバンナ/グランドファミリア> 

(写真09-1ab)1971 Mazda Savanna 4dr Sedan GR (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

(参考09-1cd)1971 Mazda Grand Familia GL

「コスモ」「ファミリア」「ルーチェ」「カペラ」と独自のロータリー・エンジンを搭載した車を次々と登場させてきた「マツダ」の第5弾は「サバンナ」だった。しかし、ロータリー・エンジンがすべての人に歓迎されるとは限らないから、メーカーとしては従来通り「レシプロ・エンジン」の車も用意した。「サバンナ」の場合はそれが「グランド・ファミリア」だった。角型2灯で一寸顔付きを変えたがボディは共通だった。

(写真09-2a~d)1972 Mazda Savannna Coupe GT  (2016-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

1972年9月573cc×2ローター(12A型)の強化エンジン+5速MTを持ったスポーツ・タイプの「クーペGT」が登場した。120PSのエンジンに885kgの軽量ボディの組み合わせは、加速性能に優れ、各地のレースで大活躍し若者の人気を集めた。価格は79.5万円だった。

(写真09-3abc)1976 Mzazdz Savanna AP・GT (RX-3)  (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

1973年6月からは「排出ガス規制適合車」「APシリーズ」となり、後期型と呼ばれる。このシリーズは1958年「サバンナRX-7」に後を譲り生産終了した。「RX-3」と言う呼び名は元々は輸出用のネーミングだったが、国内でも使われていたようだ。

(10-1)<サバンナRX-7

(写真10-1a~d)1978 Mazda Savanna RX-7(初代)(2017-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

1978年「サバンナ」の生産が終了し、「サバンナ・クーペ」の後継として誕生したのが「サバンナRX-7」(SA22C)だ。因みに「RX-7」の「R」はロータリーエンジンを表す。初代の「FB3S」は1978~85年に造られ、車名には「サバンナ」が付いたが、輸出モデルは「マツダRX-7」だった。スタート時のエンジンは自然吸気12A型 水冷573cc×2ローター130ps/7000rpmだったが、1983年ターボ付きが誕生している。乗車定員は基本的には2名だが、日本では法規上4名 (2+2) で登録されていた。

(写真10-2ab)1987 Mazda Savanna RX-7 (2018-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ)

2代目は1985年10月フルモデルチェンジし「FC3S」となった。

102)<アンフィニ RX-7 /マツダ RX-7>

(写真10-3ab)1991 Mazda Enfini RX-7 (FD3S) (2016-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

クレイ・モデル

(写真10-4a~d)1992 Mazdz Enfini RX-7 R  (20-17-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

フルモデルチェンジされた「3代目」(FD3F)は1991年12月発売された。これを機会に1971年から20年続いた「サバンナ」の名称が無くなり、代わって、販売系列の名前から「アンフィニ PX-7」となったが、販売系列の再編成で「アンフィニ系」が無くなったため、1996年10月以降は「マツダ RX-7」と変わった。このモデルを最後に2002年8月で「RX-7]は姿を消した。

・「アンフィニ」とはフランス語で「無限」という意味で「アンフィニ」のシンボルマークは「∞」を図案化したものだ。

(写真10-5ab)1999 Mazda RX-7 (FD3S)   (2020-01 東京オートサロン/幕張メッセ)

1997年販売体系が変わり「アンフィニ」系列が無くなったため、10月からは車名からも「アンフィニ」が消え、以後単純に「マツダRX-7」となった。このタイプの「RX-7」は「宮城」「新潟」「栃木」「群馬」「埼玉」「千葉」「京都」の各県警にパトロールカーとして1台ずつ納入されている。2003年で生産が終了した。

(11)<マツダRX-8> (2003~2013)   (ES3P)

(写真11-1abc) 2007 Mazda RX-8  (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

イギリスでのイベントで撮影した「RX-8」だ。この角度で見てもキャビンは形よく収まっておりスポーティさを失っていない。輸出モデルだがイギリスなので右ハンドルだ。フェンダーにも「KURO」のバッジがあり、この車のモデル名かもしれないが未確認だ。いずれにしてもこの車には「黒」が良く似合う。エンジンは「13B-MSP型」654cc×2ローター210ps/8500rpm で、他に215ps(Type-E)、250PS(Type-S)も用意されていた。軽量化のためスペアタイヤは搭載せず、パンク修理セットで代用していたそうだ。

(写真11-2abc)2007 Mazda RX-8  (2007-01 東京オートサロン/幕張メッセ

名前の通り「RX-7」の後継車として2003年5月誕生したのが「RX-8」だ。事実上2シータ-(2+2)だった「RX-7」は、主要輸出先アメリカの強い要請もあり、4人乗り4ドアに生まれ変わった。しかしスポーツカーとしてとしてのスタイリングを維持し、かつ重量軽減も期待できる面白い構造が採られた。ドアハンドルは1つしか見えないし、キャビンはこじんまりと纏められているから一見「クーペ」に見えるほどだ。しかし良く見ると把手は見えないが後ドアのラインが確認でき4シーターであることが判る。では後ろに乗るときはどうするか、これがこの車の最大の特徴で、ドアは観音開きなのでまず前ドアを開け、前席を倒してから内側にあるレバーをにたどり着きドアを開くことが出来る。閉めるときは前扉を閉めることで後扉はロックされる。

(写真11-3abc)2009 Mazda RX-8  (2009-11 東京モーターショー/幕張メッセ

この2枚は「RX-8」の4ドアの不思議な仕掛けをそっくり見る事が出来る。ドアを閉めていれば把手が1つしかないから、知らない人は2ドアかと思う。しかし後ドアのラインは見えている。ドアを開けるとこの通り。センターピラーはなく、観音開きだからフルオープンになる。後ドアの裏側に見えるのが問題の把手だ。後ろドアの幅は極端に狭いが、前ドアを開けてから乗るので楽々乗り込める。この変則的なレイアウトのお陰で、とても不便になったのが前席のシートベルトで、後ドアに固定されているため、後部座席へ乗り降りする際は、前席搭乗者はシートベルトを外す必要があった。

(12)<ユーノス・ロードスター>

(写真12-0a~e)1985 Mazda V705 Eunos Roadster Prototype  (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

 このシリーズの構想がスタートした1984年当時「マツダ」のスポーツカーは「RX-7」(2代目) のみで、「コスモ・スポーツ」は姿を消してから既に10年以上も経っていた。スタッフ数名が車中で雑談中「MGのようなライトウエイトカーが有れば」と話題になったのが発想の原点だったと言われている。これが具体化されることになり構想は纏まったが、当時のマツダにはそれを担当する人員が見当たらず、経験豊富な英国のI.A.D社にプロトタイプの制作を委託した。パワートレインは「ファミリア」、サスペンションは「RX-7」から流用された。1985年9月完成した車は開発番号の「V705」と呼ばれ、イギリスやアメリカで「走行試験」と、一般の人の反応を見る「市場調査」も兼ねて行われた。その結果は極めて好評で開発の続行が決定した。

(写真12-1a~d)1985 Mazda Eunos Roadster (初代) (2016-08 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

当時マツダの販売系列は5つあり、その中の「ユーノス店」が取り扱ったので、車名は「ユーノス・ロードスター」と命名された。1989年市販が開始されたが5月のアメリカが最初で、日本では9月から発売された。初代の販売台数は1989年(4ヶ月)日本国内で9,307台、翌1990年には全世界で93,626台と大ヒットし、世界中のメーカーに小型スポーツカーの市場価値を再認識させるきっかけを与えた功績は大きい。初代「NA系」は1989年9月から98年1月の約10年間で累計431,506台が製造された。エンジンは直列4気筒OHC 16バルブ1597cc 120ps/6500rpm、1993年以降1839cc 130ps/6500rpmで、ロータリーエンジンはなかった。

(写真12-2ab)1989 Mazda Eunos Roadster(初代) (2018-11 トヨタクラシックカーフェスタ/神宮絵画館前)

1989年は2代目が誕生する年だが、この車は初代最後の車だからまだ「ユーノス・ロードスタ」だ。DOHCのエンジンは1597cc仕様だ。

(写真12-3ab)1989 Mazda MX-5 Miata Club Racer(初代) (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

1989年デビューとあるがベースとなったのは初代「NA系」だ。米国のデザインセンターが手掛けたもので左ハンドル仕様だ。ヘッドライトが「リトラクタブル」ではなく、透明のカバーの固定式で、大型のスポイラーを持っている所が標準型とは異なる。「ブライト・イエロー」と説明されている塗装は鮮やかで印象的だ。 

(写真12-4a~d)1999 Mazda Roadster (2代目)(2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

1998年モデルチェンジが行われ「2代目」(NB系)となった。1996年6月「ユーノス系」の販売店は消滅していたが、車(初代)はそのまま「ユーノス・ロードスター」として売られていた。しかし2代目から「ユーノス」は外され「マツダ・ロードスター」となった。外見では「ヘッドライト」のデザインが大きく変わった。海外では初代と変わらず北米「Mazda MX-5 Miata」、ヨーロッパ、アジア「Mazda MX-5」の名前で販売された。2代目は1998年1月から2005年8月までに累計で290,123台が製造された。

(写真12-5a~e)2005 Mazda  Roadster Hardtop(3代目) (2009-08  ビバホーム駐車場/船橋)

3代目(NC系)はシリーズ初の「3ナンバー」となった。エンジンの排気量は1998cc だが、全幅が小型車の枠を超えた1720mmとなったためだ。外見で見分けるポイントは「3ナンバー」になったこと、フェンダーの張り出しが有ること、マフラーが2本出し、ボディ中央が細くなる「コークボトル」タイプが廃止され、楕円状の「オーバル」タイプに変更された、などだ。この車は名前は「ロードスター」だが、オプションの「ハードトップ」仕様だ。

(写真12-6a~d)2009 Mazda Roadster (3代目)  (2019-04 オートモビルカウンシル/幕張メッセ)

こちらは正真正銘「ロードスター」仕様だ。オープンなので新設された「シートバック・バー」がはっきりと確認できる。アルミホイールも純正だ。3代目は2005年8月スタートし2015年5月4代目にバトンタッチした。

(写真12-7a~d)2015 Mazda Roadster (4代目)(2017-01 東京オートサロン/幕張メッセ)

2015年5月誕生した4代目(ND系)はエンジンは依然として1 496ccのままだったが、ボディにはアルミや超高張力鋼板などを多用して軽量化図り、フロントのオーバーハングを短くし、エンジンをロント・ミッドシップに置くことで重量配分50%/50%を達成し操縦性の向上を図っている。写真の車はチューニングされた車で、フロント・スポイラー、サイドスカートなど空力パーツが追加されている。

(13)< MX-5 >(ユーノス・ロードスターの輸出名)

(写真13-1ab)1991 Mazda MX-5 LeMans (初代)  (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

(参考)1991年マツダは「ル・マン24時間レース」に3台のレースカーを送り込んだ。55番の「787B」が見事初優勝を遂げ、残る2台も6位、8位と上位で完走した。

写真の車はそれにあやかってオレンジと緑に塗分け、あちこちに「LeMans」と書き込まれている。文字がバッジではない所から正式なカタログモデルでは無いだろう。

(写真13-2ab)1992 Mazda MX-5 California (初代)(2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

車は初代モデルで、説明には300台限定で「5th Anniversary」として英国市場向けに用意された、とあったが、1989年発売だから5年は経っていないのに何故だろう。カリフォルニアはその独特なカラーのため最も人気のある限定車の一つだったとあった。イギリス人にとっても、「California」という言葉は憧れを感じる響きなんだろう。

(写真13-3ab)1998 Mazda MX-5(2代目)    (2007-06 ポーツマス(英)/1999-08カーメル(米) )

海外で街角に佇む2代目の「MX-5」2題。最初はイギリスのポーツマス市内、2枚目はアメリカ・カリフォルニアのカーメル市内。こちらはアメリカ仕様なので「MX-5 Miata」となる。

(写真13-4abc)2010-Mazda MX-5 Miyako(3代目)    (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

3代目のこの車には「MIYAKO」とニックネームが付いている。この名前「みやこ」は「都」ではなく「宮古島」に由来するとあった。沖縄の宮古島は日本でも人気のあるバケーションの目的地だと説明されてあったが、イギリス人にはどう理解されただろうか。

(写真13-5a~d)2010 Mazda MX-5 Endurance Race Car  (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

この車も3代目がベースとなっており、「MX-5」の20周年を記念して、2010年2月にイタリア北東部の「アドリア・インターナショナル・レースウエイ」で開催される「マツダMX-5オ-プン」に出場するために制作された。英国からエントリーした⑲番のこの車は優勝して表彰台のトップの座を獲得した。

                                         

(14)< コスモ>

(写真14-1ab)1977 Mazda Cosno L Limited  (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

この車は「2代目コスモ」である。実は「初代」はあの「コスモ・スポーツ」なのだ。「コスモ・スポーツ」の生産が終わって3年後「コスモ」の名前が復活したが、ロータリーエンジン搭載車と言う以外に共通点はない。「ルーチェ」のフロア・パネルを利用して豪華で高級感を持ったスペシャリティー・カーを目指した。この種の性格を持った車の誕生は北米市場からの要望が大きく影響しており、「コスモ」の名前も「コスモ・スポーツ」の革新的なイメージを利用したものだろう。1975年登場した「コスモAP」はファストバックだったが、その2年後追加された「コスモL」はノッチバックで、屋根の後半はレザー張りとなっていた。「L」は「ランドウトップ」の頭文字で、馬車時代のお洒落なタイプの一つだった。

(15)<ユーノス・コスモ>

(写真14-2ab)1990 Mazda Eunos Cosmo  (1995-05  千葉市稲毛区/稲毛パークハウス前)

写真の車は「4代目」のコスモだ。このシリーズはロータリーエンジン専用で、2ローターの「13B-REW型」と、市販車では世界初となる3ローターの「20B-REW型」の2種類のエンジンが用意された。3ロータの「20B-REW」は非常に高性能で、当初333馬力を予定していたが、運輸省の行政指導で280馬力にデチューンして市販された。排気量は3500cc 相当されているが、燃費は極端に悪くリッター2キロが精一杯と言われた。写真の車はテールパイプが4本有るので「3ローター」仕様だ。

1990年登場、8,842台販売して96年6月生産が終了したが、後継車はなく1972年から続いた「コスモ」の名前は消えた。

(16)<ロードペーサー>

(写真16-1ab)1975 Mazda Road Pacer AP  (2017-10 日本自動車博物館/小松市)

僕はこの車を街中では一度も見ていない。日本自動車博物館で初めて見たときの印象は「マツダでこんなアメ車っぽい車を造って居たんだ」と思った事だ。「ロードペーサー」は1975年から登場したが、当時国産車でいわゆる「社長・重役車」と呼べるのは「トヨタ・センチュリー」、「ニッサン・プレジデント」、と「三菱・デボネア」(系列会社向け?)くらいしかなく、「マツダ」でもこの層を狙ったものだった。しかし自社で開発するだけの力はまだ備えていなかったから、実績のある海外メーカーに頼るしかなく、日本と同じ右ハンドルのオーストラリアから「ホールデン」を選び「部品購入契約」を結んだ。ホールデンはアメリカのGM系列の会社だから、選んだ「ホールデン・プレミア」も本家「シボレー」のデザインを受け継いだものだった。しかも部品と言ってもボディはそっくり仕上がっているからアメリカ車のように見えるはずだ。それに自社製のロータリーエンジン「13B」(654ccX2)を搭載したのが「ロードペーサー」となるのだ。しかし価格はセンチュリーやプレジデントよりも高いが、性能は満足できるものではなく、大きく重い車体に対してあまりにも非力なエンジンは完全にミスマッチと言えた。本来は大排気量で大トルクのエンジンが欲しいところだが、当時の「マツダ」には4気筒2000ccしかなかった。見た目もアメリカの大衆車(シボレー)には高級車感が無いこと、燃費が著しく悪いこと、マツダの既存販売網とは別な顧客層へのアプローチ不足などマイナス要因が多く、結果は予想通り大失敗で、1979年までの4年間で799台しか売れなかった。

私事ですが、小生4月をもって満90歳となりました。このシリーズ最後の「Zundapp」はとても無理ですが、せめて「Porsche」、「Rolls Royce」など良い資料が一杯ある項目までは頑張りたいと思っています。

             ―― 次回は「ミニ」の予定です ――

^